晴れないのは


 絶え間なく雨が降り注いで、レンガ造りの道路に音を立てて落ちる。他に何も聞こえさせないように、耳も目も塞いでいった。自転車がその中を通っていく。回転する車輪が飛沫を上げた。足に水が掛かる。濡れすぎて冷たいとも感じられない。ヒールをペダルからはみ出させて、つま先だけで漕いでいる。パンプスの中は蒸れていた。湿気で暑いはずなのに、降りかかる雨で身体は冷えている。肌にぶつかる雨粒が大きい。当たるたびに少し痛かった。ワイシャツが張り付いて身体の線を露にする。皺が血管のようにくっきりと浮かび上がっていた。汗を掻いているのか、雨が染み込んできているのかもうわからない。べたつく感触が気持ち悪かった。髪も纏まって、首へ背中へ滴を垂らしていく。前髪から瞼へ水滴が落ちて、片目を瞑った。自転車を止めて目を拭くこともできず、ただひらすらに漕いでいく。
 家へ付くと、リビンクから男の子が泣いている声が聞こえてきた。玄関で水滴をしたたらせながら声を聞き流す。びしょ濡れになった鞄から湿ったタオルを出して身体を拭いた。水滴は吸い込まれても、湿り気は取れない。靴を脱ぐと温まってきた身体がストッキングを蒸れさせた。玄関のすぐそばにある洗面所へ入る。お風呂に入ろうと服を脱いだ。お腹に当たった手が思ったより冷めたくて身震いをする。上半身を脱いでから着替えが無いことに気が付いた。泣き声はまだ家中に響いている。
「ねぇ、着替え持ってきて」
 負けないように大きな声をリビングに向かって出す。泣き声はぴたりと止まって、フローリングを踏む音が聞こえた。スカートを脱ぎながら、今箪笥から着替えを取っているところだと耳を澄ませる。
「はい、着替え」
 服を全部脱いだとき、クウはやってきた。水色の半透明な肌を持つ小学五年生くらいの男の子だ。身体はパジャマを着ているけれど、頭を通して向こう側にある廊下の壁が見える。私は裸を隠すことなく着替えを受け取って、洗濯機の上に置いた。クウは瞬きをしながら私を見つめる。
「今日傘持っていってなかったの?」
「持っていってたよ」
 クウの頭の位置が少し高くなった。
「何で? 今日晴れだって、天気予報一緒に見たよね?」
「見てないよ」
 水が震えるように広がって、身体はまた一回り大きくなる。
「何かあった?」
 心配そうに見え上げてくる顔は、もう少し近くなるだろう。
「何でもないよ」
 言いながら、洗面所のドアを閉めた。閉まる間際、また身長が伸びていた。


 その日も大雨で、ホームから駅の自転車置き場へ向かっていると、小さな鳴き声が聞こえてきた。猫が鳴いているのだと、声のする方に近付いていく。水溜りに雨の落ちる音がより鳴き声を悲しそうに聞こえさせた。もしも猫だったらどうやって連れ帰ろうか悩む。濡れそぼって震えている姿を想像すると、歩くのが速くなった。
 声は自転車置き場に充満している。屋根の下なので濡れている心配はなさそうだ。安心して耳を澄ませていると、管理人室の前で一際大きく聞こえてきた。周辺にそれらしい姿は見当たらない。隙間に入り込んでいないか覗き込んでも何も無かった。裏へ回ろうと足を踏み出す。
「待って!」
 男の子の声が聞こえた。立ち止まって振り向いて見たけれど誰もいない。蛍光灯で照らされた大量の自転車があるだけだ。気のせいとも思えない大きさだったので、顔を元の場所に戻しながら、恐怖を感じていく。気を取り直して猫を探そうとするが、いつの間にか鳴き声は止んでいた。同じように鳴っていた雨の音もしなくなっている。余計不気味になって探すのを止めようか悩み出す。気の早い心臓が先に早足で歩き出していた。だけど、身体は一歩も動かない。下を向いてしばらく考える。
 事務所の裏に猫がいないかだけを確認して帰ろうと顔を上げたら、目の前に小さな水色の物体が浮かんでいた。無意識に悲鳴が上がる。避けるのと同時に右手がそれを叩き落として、水のような冷たい感触が手に纏わり付いた。びしゃ、と落ちた音が耳に残る。恐る恐る地面に目を向けた。小指の先ほどしかない小さな人が、うつ伏せから起き上がろうとしている。
「え」
 声を出していないと驚きに呑まれてしまいそうだった。
「なに」
 後退りながら問いかけともわからない声を出す。小さな人は起き上がって、私を睨んだ。
「何するの!」
 さっきの男の子の声だった。浮かび上がって私の目の前までやってくる。目と目の間にいて、輪郭がぼやけてよく見えない。ただ必死で顔を後ろに引く。引いたおかげで男の子が半透明だとわかった。小さいから後ろの景色が見えていたのではなく、身体が透けているのだ。幽霊だと息を飲む。男の子は少し上の目線から、怯えている私を観察した。
「ねぇ、困ってないって言って」
 少し離れた男の子は腰に手を当てて自慢げにする。
「困ってないって言って」
 戸惑っていると、前のめりに顔を近づけてきた。叩き落とそうと振り上げると、反らしていた身体がバランスを崩す。
「わ」
 隙を見せた恐怖に小さな声が上がって、慌てて体勢を戻した。
「ねぇってば!」
「困ってない!」
 そこから離れたい一心で叫んでしまった。しまった、と口をつぐんだ瞬間、男の子は水が広がるように一回り大きくなる。私は身体を引いた。足を徐々に後ろへ動かしていく。男の子は嬉しそうに大きくなった身体を眺めていた。
「もう一回! もう一回言って!」
 目を輝かせている男の子から全速力で逃げる。自転車まで走って、鍵を焦りながら取り出した。なかなか穴に入らなかったが、男の子が追いかけてくる様子は無い。小さすぎて見えないだけかもしれなかった。考える余裕も無くスタンドを蹴って走り出す。自転車置き場の屋根が無くなった途端、滝のような雨が落ちてきた。頭からつま先まで容赦無くずぶ濡れにされる。雨が重たくて頭を上げられない。何が起こったのか困惑していると、あの鳴き声が雨音に混じって聞こえてきた。だんだんと近付いてきて、耳元までやってくる。それはあの男の子の泣き声だった。顔を上げると、大きな口を開けて、涙なのか雨なのかわからない水滴を目から流している。雨と泣き声に耳を塞がれて頭が痛くなっていった。いつまで経っても男の子は泣き止まない。雨のおかげか鈍感になった恐怖が苛立ちに変わっていく。
「うるさい!」
 自分でも信じられないくらいの大声が出た。男の子は驚いて涙を引っ込める。同時に雨も止んだ。やっぱり男の子が降らせていた。濡れた身体が空気に触れて冷えていく。身震いが止まらなくなって、大きなくしゃみが出た。
「大丈夫?」
 男の子は自転車のかご辺りまで降りてくる。音が止んだとはいえ私はまだ不機嫌だった。
「大丈夫じゃない」
 言うと、男の子が最初見た大きさまで縮んだ。男の子は自分の身体を振り返る。
「待って、本当のこと言わないで!」
 慌てている様子に私も慌ててしまった。もう一度言ってやろうといたずら心が湧いたけれど、怯えているような目がそれを止めさせる。
「どうして?」
「本当のこと言われると、小さくなって消えちゃうんだ!」
 縮んだ様子を目の当たりにして本当じゃないとは思わなかった。消えて何か悪いことがあるのかはわからない。けれど、必死に訴えかける姿が可哀想で、苛立ちはどんどん無くなっていった。
「ねぇ、お願い!」
「大変そう、じゃないね」
 戸惑いながら、咄嗟に付け加える。すると、男の子は一回り大きくなった。本当のことを言われたと、絶望に変わっていきそうだった顔が途端に笑顔になる。
「ありがとう!」
 心底安心している様子が、言って良かったと安心した。
「よ、くなかったね」
 調子に乗ってもう一度言ってあげる。男の子は小指よりも少し大きくなった。無邪気に喜んでいる姿が悪いものではないと思わせる。男の子は喜ぶのを止めて、恥ずかしそうに自転車のかごを掴んだ。
「ねぇ、一緒に帰っても良いかな」
「え」
「もっと大きくなりたいんだ」
 見上げてくる視線から目を逸らす。電線から滴が水溜りに落ちた。厄介だと思う気持ちと、可哀想だと思う気持ちがぶつかっている。水溜りに映っている私の足が、波紋で見えなくなった。男の子はじっと私の返事を待っている。目を合わせてしばらく見詰めた。
「だめだよ」
 男の子はまた大きくなった。

 クウは天気予報を聞くと、その反対を起こす。晴れなら泣いて、雨なら泣かない。そうしないと、予報が本当になって縮んでしまうからだ。いろんな言葉に反応してしまう。鞄に入れて一緒に買い物に行くと、スーパーのおばさんたちが「奥さんお綺麗ですね」と会話しただけでも大きくなっった。鞄から飛び出そうになるのを慌てて押し込んだ。
 一度会社に連れて行ったことがある。忙しくて鞄に入れたまま構って上げられなかった。私はパソコンに向かって書類を作成する。特に周りと話すこともなく、たまに鳴る電話を受け取って、指定の人に報告するくらいだった。
 お昼休憩で、近くのカフェへ同僚と昼食を取りに行った。
「お腹空いたね」
「そうだねー」
 私は答えながら、クウが縮んでいく不安に駆られる。
「私いっぱい頼まれてできる気がしないの」
 料理を待ちながら同僚がぼやき出した。
「出来ない人がいてね、いつも部長に怒られてるのに全然直らないの。その書類が全部私に回ってくるんだよ」
「大変だね」
 私はおしぼりで手を拭く。
「なのにへらへら笑ってさ、自分ができないことわかってないの」
「あー、大変だね」
 水を飲みながら苦笑を返した。隣に置いてある鞄に目線を移しても、クウがどうなっているのかわからない。
「あの子まだ学生気分なんだよ。返事も『はい』しか言わないし」
「それは、話すの苦手なんじゃないのかな」
 頼んだパスタがやってきた。同僚はジェノベーゼで私はカルボナーラだ。
「違うよ。この間一緒にご飯食べたらぺらぺらしゃべってたもの」
「そっか」
 カルボナーラを上手くベーコンと挟みながら巻いていく。
「『できます、できます』ばっかり言って結局怒られるなら、最初からやらなきゃ良いのに」
 同僚は目いっぱい溜息を吐いた。
「仕事なんだし、それはできないんじゃない?」
 話を聞いているとなかなか口にカルボナーラを運べない。
「迷惑掛けないのも仕事の内よ」
「そっか」
 同僚がジェノベーゼを食べる。それに合わせて私も口に入れた。少し重たいクリームの味が広がっていく。
「何で受かったんだろうね」
「んー、何でだろう」
 おもむろに首を傾げてあげた。
「きっと運だけで来たんだろうね」
「ああ、そっか」
 言いたいことが終わったのか、同僚はジェノベーゼを食べていった。私もカルボナーラを無言で食べていく。
 仕事が終わって鞄を手に取った。持ち上がらないくらい重たい。鞄が妙に膨らんでいる。中を覗くと、収まっているのが不思議なくらいクウは大きくなっていた。
「どうしたの? 今日そんなに誰かしゃべった?」
 クウは泣きそうな顔をして首を振る。
「大丈夫?」
 頷こうとしたクウの目から大粒の涙が流れた。蛇口をひねるようにクウの声は徐々に大きくなって、誰も居ない社内にゆっくりと響き出す。開いていない窓から雨の音は聞こえてこないけれど、きっともう降り始めているだろう。今日は天気予報を見てきていない。今日クウが泣くとは思っていなかった。気まぐれに泣いているわけじゃないのはわかる。慰めの言葉もクウがどう受け取るかわからなくて何も言えない。ただひんやりとした震える頭を、大きく波立たせないように優しく撫でるだけだった。

「溜め込んだものは出さなくちゃいけないんだ」
 クウはまだ少し残る涙をそのままにして言う。
「本当と違うことを聞くと、ぼくは大きくなるけど、代わりに何かが溜まるんだ。吐き出したくて、泣き出したくて、本当はこっちが言いたいのにって」
 鞄から出てきて、私の椅子に座りながら足をぷらぷらと揺らした。
「聞いてるだけなのに?」
「うん」
 俯いたままクウは頷く。私は書類を鞄に直しながら、自分がクウと話しているときを思い出した。意識して本当のことを言わないようにしている。大きくなっていく様子が楽しく思うときもあった。
「私が泣かせたの?」
 私を見上げて頷く。
「でも、本当のことを言うと消えちゃうんでしょ?」
 鞄のチャックを閉めた。
「でも、無理してるの見たくないよ」
「無理って?」
「お昼ご飯」
 悲しそうな顔で、私の見ないようにしていたものを気付かせた。


 お風呂から上がるとクウはご飯をよそってくれていた。テーブルの上で白いご飯が温かそうに湯気を出している。今日はトンカツと味噌汁だ。地面に立つようになってから、クウが作ってくれている。一日中家に居て暇だからだ。水色の身体は外に出ると目立って恥ずかしいらしい。
「今日も遅くまでお疲れ様だね」
 クウは私の食べる姿を見つめる。トンカツを口に運んで厚い肉を食い千切った。ちょうどよく塩コショウの利いた、やわらかい肉を噛み締めていく。おいしくて、箸で掬ったご飯の量が多くなった。中がいっぱいで口を開くことができない。
「何かあった?」
 私はご飯を飲み込みながら目を向ける。
「傘持っていってないの、変だもん」
 何も答えなかった。味噌汁を飲んで、衣でべたついた口を洗い流していく。ご飯を食べると、淡白な味に寂しくなって、またトンカツを食べた。
「何か言ってよ」
 クウは悲しそうな顔をする。また雨が降ってこないか、窓を見た。カーテンが閉まっていて何も見えない。
「ねぇってば」
 キャベツをトンカツに載せて食べる。新鮮な噛み応えのある食感だ。
「本当のこと言ってよ」
 無意識に口が止まる。気が付いて、また口を動かした。
「今なら縮んでも消えないから」
 クウは今にも泣き出しそうな顔になっているのに、一向に涙を流そうとしない。ご飯を飲み込んだのに、そこからまた食べようとする気が起きなかった。お茶碗もテーブルに置いて、いつ泣き出すのか眺める。視線に気付いてクウは俯き加減だった顔を上げた。
「何も出ないんだ」
 顔を歪ませたまま言う。
「さっきので終わったんだ」
 曲がっていた口が元に戻っていった。
「何も言ってくれないから」
 声だけは泣いているように震えている。
「もう雨、降らないの?」
 自分でも、見当はずれなことを言っている気がした。
「たぶん」
 まだ残っているご飯を見詰める。何を言えば良いのかわからない。
「ねぇ、お願い」
 懇願している目に弱い。無理矢理ご飯を食べて噛んでいく。唾液がご飯に纏わりつくのに集中しながら、ぼんやりと映るクウを見た。黙って、私の返事を待っている。飲み込んで、もう一度ご飯を食べようとしたけれど、身体が動いてくれなかった。
「何が本当じゃないのか、わからなく、なってないよ」
 ご飯の味が残る口を開けると、クウは大きくなりながら一粒だけ涙を流す。目線も高くなった。
「クウを会社に連れて行ってから、私、自分がどんなことを言ってるか、意識してみてない」
 否定しながら話すのが恥ずかしくて、クウを見るのを止めた。お箸を何度も握り締めながら話していく。
「私もできないのに『できます』ばかり言ったり、思っても無いのに、『そうだね』って言ったり、してない」
「いいよ。本当の言葉で」
 声は少し上から降ってきていた。頷くことも、首を振ることもできない。
「でも、『できない』って失望させたくないし、『そうじゃない』って言って反感買いたく、ある」
 わざわざ言い換える自分が面白くなって笑おうとしたら、代わりに涙が出そうになった。唇を引き締めて堪える。涙が引っ込むまで黙っていると、クウも何も言ってこなかった。
「降っている雨が全部溜め込んだものだと思ったら、傘を差したくなくなっ、てない」
 声は微かに震え出している。
「だから!」
 大きな声を出されて、咄嗟に顔を上げた。クウはいつの間にか見上げる高さまで成長している。
「クウが縮むの、みたく、ある」
 さらに上がった位置に合わせて首を向けた。雨の音が微かに聞こえてくる。
「ぼくはもう、大きくなりたくない」
 搾り出すように目を瞑って泣き出す。引っ込んだと思った涙がまた出てきそうになった。口が我慢しようと何度も震える。歯を噛み締めると、涙がこぼれた。そんなつもりで食い縛ったわけじゃないのに。雨の音が強くなっていく。クウが声を上げて泣いているのに、ただ涙しか流していない私が雨を降らせているような気分になった。雨は拍手のように早く地面に落ちていく。
 泣き止むと、クウは私を抱きしめた。腕の冷たい感触に身震いする。振動は伝わっているのに、クウはそのまま抱きしめ続けた。頭一つ分大きくて、首元に置いた頭から冷えた空気が目を冷ましていく。
「こんなに大きくなれるなんて思わなかった」
 背中に手を回すと、服の下で触れたところから波打つのがわかった。
「嬉しかったけど、本当は何を考えてるのか知りたくなっていったんだ」
 クウは私の頭を撫でる。
「どっちでも良いんだ。言いたいことを言ってくれれば。ぼくは鞄の中も、料理を作るのも、泣くのも好きだから」
 抱きしめが強くなった。
「消えるの、嫌だな」
 つい、服を掴む手が強くなる。クウは少しだけ縮んだ。
「消えないよ。いつだって大きくしてくれるから」
 顔を上げると、クウの頭は半分くらい近くなっていた。
「しないよ」
 意地悪そうに言ってやろうと思ったのに、上手く笑えないまま口から出る。それでもまたクウは大きくなった。本当のことじゃないのに嬉しそうにしている。
「クウの前では、言いたいこと言うよ」
 口が目の前にやってきた。
「もっと小さくしていいよ」
「いや」
 また背が高くなっていく。窓に張り付いた雨粒は乾いていこうとしていた。でもまたすぐ濡れることになるだろう。

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