第三節 逃げ道泥棒

「ふぅ」
 大きく息をついた。
 俺は背中を壁に預け、疲労で震える足を投げ出して座っていた。どきどきと大きく音を鳴らしていた心臓もだんだんと静かになっていく。
 背中にひんやりした壁の感触が伝わって気持ちがいい。
「しっかし、我ながらよく逃げ切れたものだ」
 通信機が壊れていることが分かってから、心が砕けそうになるも身体が噛み砕かれるわけにはいくまいと、うろ覚えであったが屋敷のほうへと一直線に駆け抜けてきたのである。
 走り始めてしばらくすると、空が曇りだし、雨がぱらぱらと降ってきた。どうもこのおかげで犬たちの鼻が利きにくくなったらしく、なんとか振り切ることが出来たようだ。
 それでも数匹追ってきていたようだったが、屋敷付近には近づかないように訓練されているのか、ここに辿りつく頃には追っ手はすべていなくなっていた。
「さて、これからどうしたもんかね」
ゆっくりと立ち上がって緋色の廊下を眺め、首を回したり腕を伸ばしたりして身体をほぐす。
 連絡のつけようがなくなった以上、一人で考えてなんとか脱出するほかない。
 といっても外に出れば再び犬どもに遭わないとも限らない。ただでさえ分が悪いのに雨が降ってぬかるんだ地面では勝敗は目に見えている。
「とするとだ」
 最善の策として考えられるのは家宝とやらを盗りに来る黒服をどこかで待ち伏せして一緒に脱出を図るといったところだろう。それにはとりあえず家宝の場所を特定し、確実に会える場所にいなくてはいけない。
「しかししまったなあ。見取り図ももらっとくんだったな」
 そもそも囮のみで屋敷内に侵入するつもりが毛頭なかった俺は敷地の略図は持っているものの、屋敷の見取り図を持っていない。ただ、家宝のありそうな部屋、保管室と書斎という二つの部屋名しか知らない。
 屋敷中を駆け回って探索するには部屋の数が多すぎる。
「誰かからうまいこと聞き出すしかないか」
「誰から何を聞き出すんですか?」
 不意に後ろから声をかけられてぎょっとして振り返る。
「まあまあ、そんなに驚いて。私は幽霊でも妖怪でもないんですが」
 目の前にはメイド服をきちんと着込んだ女性が佇んでいた。茶色いストレートヘアでおっとりとした目をした優しそうな女性だ。美しいと可愛いの間の絶妙な顔立ち、淑やかな身振り、まさにメイドにうってつけ、メイドオブメイドといった感じだ。年齢は20代前半くらいだろうか。
「道にでもお迷いになったのですか?この屋敷広いですから」
 メイドさんは俺を疑う風もなく話しかけてくる。その優しげな笑顔に思わずドキッとする。
「ええ、留守中に保管室の物品を整備し直すよう言われていたのですが、迷ってしまいまして」
 こちらもできる限り愛想の良い笑顔でそれに応じる。
「ああ、そうなんですか。保管室までお送りしますよ」
 俺ににこっと笑顔を向けるとくるりと踵を返し歩き始める。
 これはついて来いという意味でいいんだよな。
 歩き始めたメイドさんの後をついていく。
 メイド服の背中の部分についた大きなリボンが歩くたびにぴょこぴょこと上下するさまがなんだか可愛らしくて思わず顔をほころばせてしまう。
「なにか背中についていますか?」
 前を向いたまま首をかしげて尋ねてくる。
「い、いえ。歩くたびにリボンがぴょこぴょこと動いて面白いなと思っていただけで」
 急な質問につい本音で答えてしまう。
 しかし、なぜ俺が見ているのが、分かったのか。後ろに目でもついているんだろうか。きっとできたメイドさんは気配やら何やらで人の欲するところを嗅ぎ分けるんだろうなあ。すごいなあ。
「メイド服は珍しいですからね」
 ああ、と納得したようなに漏らしてからそう言った。
 そうこうして歩いているうちに目的地に着いたのかメイドさんはふと足を止めた。
 俺は制止しきれずぶつかりそうになった身体をなんとか足を踏み込んで抑える。
「着きましたよ」
 メイドさんは振り返って俺にそう告げた。
「すみませんねえ、ほんとに」
 俺は横に移動したメイドさんの脇を通って部屋の扉を開く。良いメイドさんに案内してもらえて本当に良かった。
「いえいえ、こちらこそすみません」
 その声が届いたときには既に俺の脚は宙をかいていた。
 俺は暗闇の中へ落ちていく。
     *
「いまさらながら、執事長にしてやられたわね」 
 膝の高さほどある草を掻き分けながらぶつぶつと呟く。
 あれは無線の故障が分かったすぐ後のことだ。
 
「このままだと彼を回収できませんねえ。まあ、最悪の場合で彼が捕まっても、部外者ですからしらをきればなんとかなりますがね。ふむナルニア国物語は何度読んでも面白いですな」
 執事長はそんな事を言って平然とした様子でディスプレイに目も向けず本を読みふけっている。
 確かに執事長の言うとおり彼は部外者で、物もほかの者たちと違うものを渡してあるので知らないふりをすれば出来ないこともないだろう。
 この執事長は本当に彼を囮にしたのだ。あえて他の物と違う道具を持たせたり、無線に手を加えていたりと初めから救出する気などこれっぽちもなかったのだ。おそらく無線機も今はまだ信号を発信しているが、ばれないように自己解体する機能もついているのだろう。
「分かりました。私が行って回収しますのでサポートをお願いします」
 私は私たちが無理やり彼を巻き込んでしまったという負い目がある以上、彼を見捨ててしらっばっくれるなど御免だった。甘いと言われるかもしれないが、上に立つ以上、責任は取っていく。そうでなければ自分が納得できないし、周りもついて来てはくれないと思っていた。
 
 そういうわけで潜入したものの、運動はそれほど得意ではない。それに今考えるとやっぱりあれは執事長がわざと私をけしかけたように感じられるのだ。自分の意志で出てきたものの、はめられたと思うと気が進まなかった。
 先ほどまで雨が多少降っていたようで、地面がぬかるんで歩きにくいやら、草に水滴がついていて濡れるやらでとても動きにくい。
 ささっと見つけて、ぱぱっと回収して帰ろう。とりあえず館に向かえばよいということだったわね。
 本当は館付近に直接潜入したかったのだが、館に近すぎると視認される恐れがあるし、そもそも中央付近に館があるため少し離れた位置から侵入する形になっていた。
「館のどのあたりにいるのか分かります?」
 私は片手で草を掻き分けながら、もう片方の手で無線を繋いで通信士に連絡をとる。
「いえ、それが――」
 通信機から口ごもった声が返ってくる。
「どうかなさいました?」
 嫌な予感しかしない。
「彼の所在地信号がなくなりました」


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