遙かなる昨日へ



果たされなかった約束に何処か行き先があるとしたならば、それは温かい場所であってほしい。
告げられなかった想いに何処か行き先があるとしたならば、それは優しい場所であってほしい。
もしそうならば、誰でももっと気軽に胸に秘めた言葉を口に出来るようになるはずだから。
暗闇の中で言葉を発した後、静寂の中ではもう祈ることしかできない。
どうかあなたに、私の声が届いてください。
そして出来れば、私に返事をください。





 その絵を初めて見たのは、もうどれぐらい前になるだろう?それがいつだったのかは驚くほどすっぽりと記憶から欠落している。明るすぎる恒星が周囲の星の光を見えなくしてしまうように、その強烈な体験は前後の記憶を消してしまっているのだろう。たった一度の出会いが、それまでの人生を全く無意味なものにしてしまう瞬間を、初めて目の当たりにした。もう、その絵を見る前の自分が同じ自分であるという自覚が持てなかった。あの時、あの絵を見なければ、あの絵を知らない自分が同時刻に存在していたのだ。それは狂おしいほどの恐怖だった。あの絵を見て、初めて、感動で胸が高鳴る感覚を知ったのだ。あの絵を想うたび、私が胸に抱いているこの感激への感謝が生まれた。『遥かなる昨日へ』。そういう題の絵だった。モニタやデバイスの介在なしで、絵画を見たのはそれが初めてだった。気が遠くなるような遥か昔に描かれた「本物の」絵画。素晴らしかった。美しかった。いや、こんな言葉を並べるのが恥ずかしい。それぐらい圧倒的な強度でその絵はそこに存在した。優しく、慈しむような感情。胸の奥を甘く引掻かれるような感情。包み込まれるような暖かい感情。心の奥の、今まで血が通わなかった部分に、血が流れ込んだような感触。「絵画」とは―こんなにも人間の心を解き放ってくれるものだったのか。
 あらゆるものがそうなるように、「芸術」と呼ばれたひとつのレジームにも失効時期が訪れた。理由は様々。ひとつは創作物のコピーライトが徹底されたこと。不断に著作権期間が更新される暗黒時代の到来。ふたつは芸術の自動生成機械が発明されたこと。新たな芸術の担い手となった彼らは、文学も、音楽も、絵画も絶えず生成した。みんな何の疑問もなくそれらを鑑賞し、驚き、笑い、時に涙した。その頃になると、もはや人類自身に創造的な作業は不可能になっていた。「誰か」に「何か」を伝えたい「感情」が麻痺した。それに気付くための眼も次第に失われた。そんな時。さる個人が所蔵していた、とある画家の作品が公開された。『絵画』を単なる画像情報として処理することに慣れた私たちの目に、それは奇異に映った。データベース化が完了すれば、絵そのものはあってもなくても構わなかったからだ。一人の作家の作品がまとまった形で現存してる例は殆ど無かった。美術館に足を運んで絵を見るという慣習など絶えて久しかった。物珍しさが手伝い、人々はこぞって「美術館」へと足を運んだ。そこで、まだ幼なかった頃の私は『遙かなる昨日へ』を見た。そして気付けた。私たちはどうしようもなく欠落していると。この絵が描かれた時代の人間と私たちは違ってしまっているのだと。もう私たちには、こんな絵を描くことは出来ないだろう。この絵の作者はどんな人間なのだろうか。「セナ・エリセ」。あなたはどんな人間だったのか。どんな気持ちでこの絵を描いたのか。あなたにわたしは会ってみたい。
 セナ・エリセは21世紀に生きた画家だった。10代にして既に、私たちの時代まで残る第一級の絵を生み出した閨秀の天才画家。彼女の後、何人もの若き芸術家が彼女の絵を模倣した。彼女への賛辞は22世紀になっても、23世紀になっても絶えなかった。惜しむらくはセナ・エリセ自身がその賛辞の声を聴くことなく鬼籍に入ってしまったことだ。その絵の先進性に世界が驚愕したのは、彼女が死んだ後だった。優れた芸術家の常で、同時代の無理解にさらされたのだ。しかし、生前のセナ・エリセは不屈の精神で創作を断念しなかった。誰に認められなくても。誰に絵を見てもらえなくても。なにがそこまで彼女を創作へと駆り立てたのか?芸術が失われた現在を生きる私たちには理解できない情熱だった。「彼女に会いたい」。私の気持ちは日を追うごとに強くなっていった。
 セナ・エリセに合う方法は皆無ではなかった。彼女が生きた時代から多くのものを失った私たちだが、得てきたものもそれなりにあった。時空間移動もその一つだ。もっとも、時空間移動はこの時間軸の技術ではなかった。もっと発達した技術を持つ未来の技術。もしかしたら人類ではない別の生命体が管理しているかもしれない技術。それは一種のオーバーテクノロジーだった。私たち現在の地球人類にはその技術の自由な使用は許可されていなかった。数少ない時空間移動の許可される事例の一つが「留学」。つまり時の流れの中で失われた学問を、選別された優秀な人材が学習する目的での利用であった。私は「絵画」を学ぶために時間留学の申請を出した。その選定に際して、一切の審査基準は公開されていなかった。訝しむ感情もあったが、私は漸増する衝動に突き動かされていた。その衝動の発火点は『遙かなる昨日へ』だった。そして作者のセナ・エリセだった。私は、彼女に会うためだったらなんでもできるような気がした。
 留学規定の年齢に満ちると、私はすぐに留学の申請をした。時空間移動は、申請も含めて一人の人間に一回以上は許可されないらしかった。審査は実にあっけないものだった。私は時間留学の許可を得た。受けた説明によると、期間は現地時間で約二年間。留学時期は21世紀初頭。私の希望と、選定した何者かの判断でそれらは決定された。それはセナ・エリセが最高傑作『遙かなる昨日へ』を描いた時期。天才の爛熟期だった。許可の知らせから間もなく、私は留学のために呼び出された。与えられたキーコードで、指定の建物のエントランスホールから個別の部屋に移動する。その間にアンドロイドかレプリカントのように人間味の欠けた男が私に留学の説明をした。無機質な白い壁とベッドのある部屋に招き入れられた。私の胸にはその部屋の白さには不釣り合いな、インクの染みのような不安が拭い難く存在した。もしかしたら、巧妙に偽装された反体制分子の洗い出し作業ではないか。もしかしたら、臓器か、遺伝子密売業者の罠ではないか。不安は三文小説の筋のような空想を私にさせた。これは偶然なのか、だれかが仕組んだ巧妙な罠なのか。不安の中、私の意識は途絶えた。眠りから覚めると、時空間移動は完了していた。私は自分の時代から遥か過去、21世紀初頭の日本に居た。





 21世紀の日本の高校生の習俗はどれも私には珍しいものばかりだった。留学先では、私は高校生として振る舞うことになった。私の白皙の容貌や、碧眼の瞳はこの時代日本の高校生に相応しくなかったので、私は外国人留学生であるという設定を用いることにした。取るに足らない、後世に残らなかった一つ一つの習慣や文化が新鮮だった。私は深い紺色の「制服」の「スカート」から覗く、二本の脚の無防備さに戸惑う。「教室」に集められると「名前の順」に並べられる。「担任の教師」の手で、「新年度の配布物」がすべて配られると、「体育館」でテキストの販売が行われる。「教科書」と「資料集」と「辞書」は呆れるほどに重かった。未来では書籍は全部電子化されるのになあ、と考えていたが、後で電子辞書というデバイスがこの時代にも存在していることを知った。ただ、「定期考査」への持ち込みは禁止されているので皆、紙の辞書を買い求めるらしかった。ある生徒は教科書を二組買って、一組を教室の「ロッカー」に、一組を自宅に置くという。一週間は「時間割表」に沿って授業を行う。今日は月曜日なので「オーラルB」、「現国」、「数学Ⅰ」、「化学B」、「LHR」だった。皆は「水曜日」の時間割が特に好きだと言った。「体育」が一時間と「美術」が二時間あるからだ。私は配られた美術の教科書を隅から隅まで読んだ。早く実技に移りたかった。放課後には「クラブ活動」が薦められた。「交換留学生」である私に、クラスの皆は様々なクラブに私を引っ張っていった。だが、私が入るクラブは決まっていた。美術部。そこに、セナ・エリセも在籍しているはずなのだ。いよいよセナ・エリセに逢える。私は放課後の時間が待ち遠しかった。LHRで担任の教師が「貴重品袋」の説明とクラスの「係決め」をしていたが、私はほとんど上の空だった。放課後がやってきた。私はL字形にカーブする渡り廊下を抜けて、美術室のある教科棟に向かった。美術室は教科棟の二階にあった。
 美術室には20人ほどの美術部員が活動をしていた。突然顔を出した交換留学生(ガイジン)に、皆戸惑いの混じった曖昧な笑みを作る。私は「顧問」の教師に「セナ・エリセ」という名前部員はこの中の誰かを尋ねた。しかし、顧問は怪訝な表情をすると、「セナ・エリセ」という名前の部員は美術部には居ないということだった。私の時間留学は、いきなり暗礁に乗りあげてしまった。





 曙色の桜が終って、黄金色の銀杏が葉を散らす頃。私はすっかりこの時代の雰囲気に適応してしまっていた。セナ・エリセは見つからなかったが、この学校の美術部は全国でも有名な部らしく、OBには芸術方面で就職した人が大勢いるらしかった。美術が失われた時代から来た私は、この時代では初心者以下だったが、顧問の先生や部員たちの指導もあって徐々に実力をつけることができた。
「よし、じゃあ今日はこの課題で静物画を描いてもらう。リンゴとレモンと花瓶、配置はお前らでやってくれ」
「ちょっとこれだけじゃ画面さみしくない?水差し入れよーよ」
「反射するもん入れんなマジで、水彩なんだしポットか何かでよくねー?」
「ちょっと!このリンゴ、欠けてる!誰か食べたでしょ!」
「あーどーせ田中か後藤じゃねーのー?こないだも準備室のリンゴ食ってたし」
「リンゴもうないから、いいじゃん口つけるわけじゃないし、そのまま描いちゃえば?」
「歯型ついたリンゴなんか絵になんねーよ。つか後藤歯並び悪すぎじゃね?」
「俺じゃねーよー俺じゃよー田中だろー?」
「じゃ、どーする?リンゴ形整える?」
「もうレモンも食っちゃばいいじゃん」
 いまではこういう高校生的な賑々しさにもすいすいついて行けてしまう。その日も部活で絵を書いたあと、片付けをサボってカラオケに行く。私はどんどん「高校生」に作り変えられていると感じる。セナ・エリセのことは気になっていたが、この頃は、セナ・エリセに会えずとも、この恵まれた環境で絵画を学べるだけで幸せという心境になっていた。
 翌日。一限の古典の授業の前に、私は忘れものを取りに行くために美術室に入った。そこには昨日のままの静物があり、それを片付ける。教室の一隅には昨日部員たちが描いた絵が立てかけられている。私は何の気なしにそれらの絵に目を通す。ある一枚の絵に目が留まった。その絵を見た瞬間、私に稲妻が走った。それは未来で『遥かなる昨日へ』を見た時の衝撃に似ていた。
「まさか、この絵……」
絵は、昨日の部活動で描いた静物画の水彩画だ。だが筆の運び、描き方が、私の探し求めている、セナ・エリセのものと酷似している。いや、そのままだったのだ。
「じゃあ、やっぱり……」
私は20人ほどの美術部員たちの顔を頭に浮かべる。
「居るんだ。やっぱり、美術部員の中に、私の探していたセナ・エリセが」
 しかし、その喜びはすぐに失望に変わった。絵には名前が書いていない。放課後の部活の時間を待って、部員たちに聞いてもその絵の作者がわからなかった。ただ、その絵の巧さから、「先生が描いたのではないか」「OBが残していった絵ではないか」と皆が言った。デッサンも着彩の技術も、同世代の誰よりも優れていたのだ。こんな絵を日常的に描く人間が身の回り居れば、私でなくともすぐに気付くはずだった。私は落胆してその絵を見つめる。見れば見るほど、その絵はセナ・エリセの筆致だった。未来で私が焦がれた「絵」が、そこにあるのだ。しかし、何かがひっかかった。ひどく微細な違和感。
「……これって。もしかして?」



 

 完全下校時刻を過ぎた美術室。人影はない。だがそこに、一人の少女が現れた。少女の制服はこの学校のものではなかった。ビロードのように濃い黑で胸元のスカーフはだけは荒地の初雪のように白い。髪の毛も制服と同じように黒いが、時折艶めくのでそこだけは夜空に星屑をちりばめたようだ。
「あ…」
 誰も居ないはずの美術室にゆくりなく立つ私の姿を見て、一瞬たじろいだ。冬眠に失敗した獣のような、警戒した表情をしている。その手には細身の体躯に不釣り合いな鞄が下げられていた。
「待っていたわ。その鞄の中身は、画材でしょう?どうして皆と一緒に描かないで、こんな時間に?あなた、いったい誰?」
 少女は私の誰何の声に答えなかった。
「……どうして私がこの時間に美術室にいるって?」
「理由は簡単。一昨日、私たちは部活動で静物画を描いた。課題はリンゴ、レモン、花瓶に入ったガーベラ、金属製のポット、の四つ。でも、一人の上級生が、戯れにリンゴを囓ってしまった。だから一昨日はやむなく包丁でリンゴを半分に切って描いたの。課題は水彩画だったから、皆、二時間かそこらで描き終るわね。そして静物をそのままにして下校した。あなたがあの絵を描いたのはその後。なぜならば、翌朝その絵を見た時、放課後の部活の時間に描いた私達の絵のリンゴは切り口が白色だったのに、あなたが描いた絵だけは、リンゴの切り口が茶色になっていた」
「まさか……」
「半分に切ったリンゴを長時間空気に晒していたから、酸化してしまったのよ」
「でも、それは単に色を間違えたり……リンゴの断面を塗っている時に、机の茶色がリンゴの断面にうっかり混じってしまったから、誤魔化そうとして、そうしたかもしれないでしょう?水彩画なら、よくあることよ」
「水彩画なので色が他の色と混じって、濁ってしまった可能性も当然ある。でも、あなたに関してそれは当てはまらない。あなたの絵、この学校の美術部の中で一番デッサンが正確だった。そんな人が水彩画で色を濁らせてしまうなんて初歩的なミスをするかしら?それにその失敗が有り得ない根拠がもう一つある。それは、あなたが一番良くわかっているんじゃない?」
「色の順番でしょう?」
「そう。「明るい箇所から塗り進めてゆく」という水彩画の基本中の基本を無視して描かない限り、この絵の中で一番暗い机の色と、一番明るいリンゴの断面が連続して着彩されることはない。透明水彩は、下の色が透けるからね。ちなみに下に塗った色に関係なく上に色が重ねられる油絵なら、この順番は逆になるわ。だからあなたほどの画力の人がそんなミスをするはずがない、というわけ」
「なるほどね。それで、探偵さん。私を待ち伏せしてどうしようと言うの?」
「何もしない。ただ、あなたの絵とあなた自身に興味が湧いただけ。私は交換留学生のルキノ。あなたの名前を、教えてほしいの」
「言いたくない。私はただ絵を描いていただけで、誰にも迷惑かけていないんだから。私に関わろうとしないで」
 それだけ言い置くと、少女は踵を返して美術室を出ていった。点々と光る非常灯の灯が、女の子の後ろ姿を間欠的に照らしだした。少女は何者だったのだろうか。現れた時のように突然消えた少女の横顔が、固着したゲシュタルトのように、脳裏にいつまでも残っていた。





 翌日、その少女について聞いてみた。完全下校時刻を過ぎてから現れる、黒服の他校の生徒。わかっていたが、誰もそのことは知らなかった。様々な推論が飛び交い、結局のところその話はルキノの見間違いか、放課後に美術室に現れる美少女(←ここ重要)の幽霊というあたりで落ち着いた。美術室を探すとあちらこちらで、あの夜の少女の作ものと思しき絵が見つかった。それらの絵を見るにつけ、私は彼女こそセナ・エリセだという確信を持った。何度か放課後の美術室で待ったが、彼女には会えなかった。そうするうちに、定期試験が始まった。定期試験の一週間前は特別活動が禁止となる。完全下校時刻が早められ、
職員室へは入室禁止。定期試験が終わると学期末の成績処理と、通知表が帰ってくるまでひとときの弛緩した空気が満ちる。試験勉強のため、帰路につく同級生たちを尻目に、私は美術準備室で夜を待った。
 まだ夕方だが校内に人影はない。臆病な足取りの少女は室内に誰も居ないことを確認する。美術室に入るとイーゼルを立て、静かにデッサンを始めた。明るいところで少女を見るのは初めてだったが、私よりも頭一つ分身長が低くかった。何処と無くコケティッシュな印象を受ける。その様子を隠れて見ていた私は、その背中に声をかけた。
「あなた、セナ・エリセって名前でしょう?なんで、こんな時間に美術部で?」
 少女は一瞬鉛筆を休めると、深い嘆息をして、私の方に向き直る。
「またあなたですか……苗字が違います。名前は、確かに瑛里瀬、ですけど。何処で調べたんですか?正直、いい気分じゃないんですけど」
 木で鼻をくくったような態度で少女は自ら瑛里瀬と名乗った。正体を知ればなんということもない。瑛里瀬はこの学校の夜間部の学生で、夜間部唯一の美術部員だった。
「事情があって、家では絵が、描けないから。ここで、この時間描いているんです。これでいいですか?ルキノさん?」
「ルキノでいいよ。私も瑛里瀬、って呼ぶね? 瑛里瀬はあまり人に知られていない時間に絵を描いていた。私が美術部に半年居ながら気付かなかったぐらい、徹底的に。そんなあなたが一般生徒がクラブ活動が禁止される定期考査の期間中どうするだろうって、考えた。多分、我慢出来ないんじゃないかなって。いつもより長い時間、美術室が使えるのだから。そしたら本当に現れた。すぐに話しかけようと思ってたんだけど、あなたのその絵、とても素敵。描いている姿が見たくて、声がかけられなかった。ねえ、あなたがよければ、部活だけでも昼間部の皆と一緒に参加しない?あなたみたいな部員がいることは、きっと他の部員にとっても刺激になる。あなたももっと長い時間、絵が描ける。私、先生に頼んでみるから。一緒に、絵を描こう?」
 しかし瑛里瀬が返した言葉は意外なものだった。
「ううん。私、絵は、もう描くのをやめようと思っているの」
「この絵は、これで完成ってこと?」
「違う、そうじゃなくて―もう絵筆を握るのをやめるつもりなの。私が描いているのは私の絵じゃない。偽物なの。それに目をつぶって今まで描いてきたけど、もう、描くのをやめようと思うの」
「どうして?瑛里瀬には才能があるのに?」
「そうかもしれない。いえ、たぶんそうなんでしょうね。私は絵が好きで、そのことに小さい頃は疑問も持たなかった。そうして私が絵を大好きでいれば、絵も、私のことを大好きでいてくれると思っていた。でも、違った。叶わない夢のための才能なんて、持っていても辛いだけ。いっそ才能なんて無ければ幸せだったのに。最近私は、よく夢を見るの。自分が昨日とは全く別の人間になっている夢。夢から覚めるまでは、たまらなく嬉しかった。私はそれしか望んでいなかったから。夢のなかで歌を歌った。世界と神様に感謝した。 私を別人にしてくれてありがとう。 私を消してくれてありがとうって」
「どうしてそんなことを言うの? 私、冗談で言っているんじゃないよ。瑛里瀬の才能は本物なの。瑛里瀬のような人が、本当に絵を描くべき人間なの。絵が好きな人はいっぱいいる。でも瑛里瀬は違う。絵が瑛里瀬のことを愛している。普通の人が望んでも叶わない場所に瑛里瀬はいる。瑛里瀬はそういう選ばれた人間なの」
私は瑛里瀬の肩を自然に掴んでいた。細い肩は微か熱を帯びていた。
「選ばれた?あなたに私の何が? 見てよ私を。流行りの服を買うこともできない。皆と同じ昼間に学校に行く事もできない。制服だって中学のまま。修学旅行だって、お金がなくて行けなかったの、私の家だけ。家族も、世界も、みんな私に興味が無い。絵だけは別だって、信じていたのに、それも違った。もう、何をすればいいのかわからない。何を信じればいいかわからない。そもそも、最初からずっと、わからなかったから」
「わからない? 何がわからなかったの?」
「私―、色がわからないの」
 瑛里瀬の言葉の意味がわからなかった。だがそれは比喩ではなく文字通りの意味だった。瑛里瀬の目は先天的に色を認識できなかったのだ。現実の世界の色を、絵の具の色から選び取ることが出来ない。典型的な色弱者の特徴だった。
「でも、あなたが描いた水彩絵―あれはどうやって描いたの?」
瑛里瀬の水彩画の色彩はとても豊かだった。だから、私は瑛里瀬の言葉が信じられなかった。
「絵の具には―」
瑛里瀬は鞄の中に手を入れた。
「―これがあるでしょう?」
 瑛里瀬がそういって私の前にさしだしたチューブ絵の具にはこう書かれていた。(コバルトバイオレット)。瑛里瀬は全ての色の名前とそれを使うべき場所を暗記していたのだ。空を塗る時、他人は「ブルー」と書かれた絵の具を使う。森を塗る時、他人は「グリーン」と書かれた絵の具を使う。そうやって気の遠くなる時間かけて、世界に色の名前を当て嵌めていったのだ。色相環を暗記し、膨大な補色と退色の組み合わせを暗記し……。瑛里瀬は努力を放棄などしていなかった。自分の宿命に抗い、どこまでもどこまでも闘っていた。誰よりも恵まれた才能を持っていると思った。だがそうではなかった。瑛里瀬は血の滲むような努力で他の人間を圧倒していたのだ。私は絵里瀬の前で口にした言葉を悔やんだ。
「そんな…まさか…」
 自分のものとは思えない声。瑛里瀬の苦悩や絶望を逆なでするような言葉を口にした、自己嫌悪で頭がいっぱいになった。でも、納得をしたのも確かだった。瑛里瀬の絵は素晴らしい。だがその絵と未来のセナ・エリセの絵がどうしても完全な等号で結ばれなかった。なにか決定的な要素がそこには欠けているように思えたのだ。それがなんであるのかはわからなかった。だが、瑛里瀬の告白を聞いて理解した。それは世界を醒めた統覚で見極めたような色彩。「セナ・エリセの」としか形容できない、あの鮮やかで眩くような色彩だった。
「そんなこと言わないでよ、なんだか惨めじゃない。でもありがとう。何も言わないでくれて。実を言うと、私何度かこの眼の相談を人にしたの。でも、その度に失望していた。皆言うの「人生は絵が全てじゃない」って。嘘よ。だって私には絵しかないの。本当にそれしかないの。友達もいない。家は貧しくてお金がない。温かい家庭もない。私に優しいのは絵だけだった。絵以外に大切な物がある世界なんて。私には想像もできない。それっていったい何処の宇宙の話? だから神様は私に才能をくれたんだと信じていた。寂しすぎる私の人生に、ひとつだけ輝くものを贈ってくれたんだと。それさえあれば生きていける、大切な物を最初からくれたんだと。でも神様は残酷だった。奪うつもりで与えてたなんて。この眼のおかげで、私は絵で奨学金を得ることも出来ない。私の見ている世界と、他人が見ている世界が違っていたなんて、耐えられない。だからもう、絵は描かないって、絵には関わらないって決めたから―もう決めたから」
私は瑛里瀬の悲痛な独白に世界への悪意を感じ取った。好きで好きでたまらないものが、自分を素通りしてしまう悲しみ。世界が自分を省みてくれない絶望。なら捨ててしまえばいい。世界が自分を拒絶するなら、先に自分が世界を拒絶してしまえばいい。そんな風に瑛里瀬の眼は語っていた。
「―帰ります。たぶんもう、ここには来ないと思うんで。私の絵の道具、あなたに全部あげる。私がいままで描いた絵は、まだ美術室にあるから処分して。あなたは下手くそだけど、私みたいに絵に見放されてはいないみたいだから。それに、なんて言うか、あなた赤ん坊みたい。「絵」というものを全く知らない子供みたい。スポンジが水を吸うみたいで、あなたと絵の話をするのは少し楽しかった。あなた、私より見所あると思うよ」
瑛里瀬はそう言って、笑って、美術室を後にしようとする。
「待って!」
「……」
「わたし、待ってるから」
「……」
「あなたがもう一度、ここに来てくれるまで」
「……来ないよ。もう絵は描かない。絵まで私を裏切るってわかっていて、どうしてまた私が絵を描くと思うの?」
「それでも、待つから」
「来ないって!」
 初めて瑛里瀬は大声で言った。
「それでも待つ!私は……私はあなたを信じてる!」
 去ってゆく瑛里瀬の背中に私はそう告げた。追い縋るような私の声を振り切って、瑛里瀬の姿は見えなくなった。虚脱感が体を支配した。大きな獣が半身を噛みとっていったような感覚。夜の闇が支配する廊下に、女の子の足跡がひとつ、私の自責の想いのように消え残っていた。もうここには来ない、と強く言い放った彼女の言葉が、始末の悪い調度品のように胸の奥に残っていた。





 それから瑛里瀬は美術室に顔を出すことはなかった。瑛里瀬は家で絵が描けないと言った。美術室に来なくなったということは、本当に絵を描くことを辞めてしまったのだ。私は、何をすればいいのか、瑛里瀬に何がしてやれるのかを考えた。考えて、考えながら瑛里瀬が美術室に残した作品をひたすらに模写した。それが彼女を理解する為に必要な行動のように感じられた。そして瑛里瀬の画力が、物を見る力がどれだけ並外れていたかが解ってきた。少しでも近づくこうとする度に、追いつけぬほど遠くに去ってゆく目標。私は憑かれたようにその作業に没頭した。美術部で一番絵が下手だった私だが、飛躍的に画力が向上したのもその時期だった。描き写す度に見慣れたはずの瑛里瀬の絵から、新たな発見があった。だが、どれだけ瑛里瀬の絵を模倣しても、未来で見た、あの色彩だけはキャンバスの上に呼びおこす事ができなかった。あの色彩を瑛里瀬は人生のどの時点で学んだのだろうか。それはわからない。だが、あの色彩が今の瑛里瀬に必要だと思った。私が瑛里瀬の絵で救われたように、瑛里瀬もまた瑛里瀬自身の絵で救われるべきなのだ。それがハッピーエンドの条件のような気がした。その為には、彼女の色覚異常が治療される必要があるのかもしれなかった。季節が巡り、瑛里瀬と最後に会ってから、もうすぐ一年が過ぎようとしていた。それでも、私は瑛里瀬の絵を模写する以外にするべきことはないような気がしていた。既に、私の生活は瑛里瀬の絵の模写が中心になっていた。朝は誰よりも早く、夜は誰よりも遅くまで絵を描いた。時間の感覚は無く、睡眠欲も食欲も感じられなかった。美術部で行われる課題作品の講評で、ついに私の絵が部内で最高得点を得た。だが部員たちの祝福と賛辞すら私に何の感興をもよおさなかった。まだ足りない。そう思った。瑛里瀬を理解するには。瑛里瀬の立っている場所に私も立つ為には。もっと、もっと、絵に没入する必要があった。時節は流れ、私の時間留学の期間が終了するときがやってきた。それは留学期間の終了ということで校内に知らされた。親しくなった部員たちやクラスメートは涙と共に送別会を催してくれた。送別会を終えた私は、夕暮れの美術室に立っていた。今夜12時、私は未来へと還らなければならなかった。完全下校時刻を告げるベルが校内に鳴り響き、校舎に闇が侵入してきた。薄暮ゲームに興じる野球部員たちの喚声が次第に遠のく。やがて、時計の針が7時を指した頃。美術室の扉が開いた。最初に会った夜と同じ、夜をそのまま身に纏ったような格好の女の子が息せき切って現れた。
「今日、あなたの送別会があったことを知って、そして……」
「ありがとう。来てくれて」
「あなたは、私を待っていたの?」
「うん、そう」
「あのとき、初めて会った時、あなたは私のことをセナ・エリセって呼んだよね?」
「うん」
「両親が離婚したらしいの。……どちらも私を育てたくはなかったみたい。私を置いて二人共出ていった。離婚を知ったのもつい最近。教えてくれたのは今まで会ったこともない人たち、母親の実家の人たちだった。その家「瀬名」っていう苗字だった。私、本当に「瀬名瑛里瀬」になったの。昨日から。これは偶然?」
「偶然じゃないよ」
「あなたは何で私の苗字が瀬名に変わることを知っていたの?これも推理?私ですら知らない親戚だったのに?」
「知っていた。昔からね」
「それに、あなたはずっとここで、私を待っていた」
「それも知っていた。瑛里瀬はきっとまた絵を描くって。絵をやめてしまうなんてないって」
「それは―何故?」
「だからそれは、私が瑛里瀬を知っていたから。私が―未来から来たから」
「あなた面白い。初めて会ったときは探偵で今度は未来人?外人なのに、涼宮ハルヒでも読むの?」
「信じてないの?私は本当のことを言っている。私は瑛里瀬に嘘をつかないよ」
「……そうでしょうね」
「信じるの?」
「絵を見れば、その人となりがわかる。未来人っていうのは論外だけど、あなたは悪い人じゃないみたい。じゃあ、あなたのいた未来では地球はどうなっているの?」
「私、地球に行ったことないの。生まれてから、ずっとステーション……いえ、宇宙船、みたいなところに居たから」
「ふ~ん……じゃあ、あなたは未来から来たんでしょう?タイムマシンってどんな形をしているの?」
「タイムマシン……という物体はないの。時空間移動って呼んでいる技術なんだけど。今の私の体はこの時代の素粒子で仮構された容れ物で、そこに未来の私の記憶情報をタキオン化してインストールしている。それを便宜上、時空間移動と呼んでいるだけ。この体は未来の時点の私の体を正確に構成しているはずだから、タイムマシンに乗って来たのと同じことだよね。未来に帰る時が来たら、この体は人間の形をとるのを止めて、元通りの素粒子に還る」
「ん~っと……難しくてよくわからない」
「そう……その時が来たら、わたしの肉体は消滅するの。そして……えっと、言葉にするのが難しいけど。この時代で得た思い出だけが私に残るの。あなたにも」
「それならわかる。でもそれって、人間の死と同じ気がする」
「そうかもしれない。人間は未来へと進むタイムマシンの中にいる。体が残らなくても「想い」を遺すことができる。芸術っていうのは、たぶんその為に出来たんだよ。もし時間が、その人や大切な人を失わせてしまっても、「想い」は残る。誰かに何かを伝えたい心が。それを形にして、永遠に残しておきたいと思うのが、人間の本能。そして、私が絵を学ぼうと思った理由。……なんだと思う」
「わかるよ」
「え?」
「あなたの言いたいこと。あなたの絵が、そう言っていたもの。私、見ていたから。あなたの絵を。あなたが美術室にいない時に、観たの。最初は本当にひどい絵を描くと思った。私の絵を模写しているのに気付いて、馬鹿だと思った。でも、だんだんとあなたはあなたの絵を描くようになっていった。あなたが絵を通して、私を理解しようとしていることが伝わっていきた。それで私、ルキノの絵が好きになっていた」
「瑛里瀬、いま私のこと、名前で呼んだ」
「い、いいでしょ。それとも……やっぱり嫌?名前で呼ばれるの?」
 瑛里瀬は少し面映い表情を浮かべ、笑った。私も笑った。二年前に二回会っただけのだったが、瑛里瀬との距離はすぐに縮まった。その二年には私たちにしかわからない、絵を通じた交歓があった。重ねた絵筆の回数だけ、二人は強く結びついた。私は絵を通じて瑛里瀬をもっと理解したいと願い、おそらく瑛里瀬も私に似た感情を持ってくれていた。それが嬉しかった。
「ねえ、瑛里瀬?今日は結構暑いんじゃない?その格好、冬服よね、せめて上着だけでも脱いだら?」
 そう言って、瑛里瀬の肩に手が触れた。その瞬間だった。
「いやっ!」
 叫ぶと同時に瑛里瀬は私の腕を振りほどいた。二人の間に一瞬流れた弛緩した空気が一転、張り詰めたような緊張に替わった。
「ご、ごめんなさい」
 私は咄嗟に謝る。瑛里瀬は答えない。微かに手が震えている。私は瑛里瀬と会った時のことを思い出す。瑛里瀬は何時見ても冬服で、スカートも長いままだった。家が貧しくて、中学の制服のままだと瑛里瀬は言っていたが、そうであったも、夏服か中間服の用意ぐらいはありそうなものだ。何か理由があるはずだった。冬服を着なければいけない理由が。
「瑛里瀬、あなたもしかして」
「やめて、言わないで。お願いだから」
「ご両親は本当に離婚したの?」
「お願い、それ以上言わないで」
「瑛里瀬。これは大事なことなんだよ。身体を見せて?お願いだから」
「だめ。きっとルキノは私を軽蔑する」
「しない。絶対にしない。瑛里瀬、間違ってたらごめん。あなたは、両親から暴力を受けていたのね?」
 瑛里瀬は須臾の間の沈黙を挟んで、微かに首肯した。そしてスカートの裾ををゆっくりとからげた。私は思わず息を呑んだ。そこに残る傷痕のあまりの生々しさ。色白の肌目細かい肌に刻まれた深い青。青あざが治りきる前に、また新しい青あざが加えられ、刺青のようになっている。ところどころに火ぶくれや条痕もあった。それらの傷は肌の露出する場所を巧妙に避けられていた。その傷を付けた人間の、残虐さと、卑怯さに、胸の奥が怒りで溶岩のように沸き立つのを感じた。
「醜いでしょう? ただそこにいるというだけで、いつもぶたれてた。お母さんは知っていても何もしてくれない。見ているだけ。おかげで夏服が着られないの。みんな痕に残っちゃたから。私が泣くと、父親……いえ、あいつは笑うの。だから私はいつも黙った。あいつを喜ばせないように。私の右腕を掴んでこう言うの。「こんな腕簡単に折るぞ」って。私は泣きもせず、許しも請わなかった。「絵が描けなくなるから右腕はやめて、左腕にして」って。あいつは笑ってそうした。痛くなかった。ただ灼けるように熱かった。床を這って苦しむ私にあいつはこうささやいた「お前がいくら絵に好かれようとしても、絵はお前を好きになったりはしない。そんな簡単に救われるように、世界はできていない」って。そう囁く時だけ、あいつは悲しそうな眼をするの。夢に裏切られた眼。汚れた脂のように濁った敗残者の眼。その眼を見るときだけ、私の胸に優越感があった。私はこいつとは違う。私とこいつは同じ人間ではない、って。悔しいけど、あいつのほうが正しかった。知ってたんだ。あいつもね、昔は画家になりたかったんだって。でも、なれなかった。理由はやっぱりこの眼のせいだった。遺伝なんだ、この眼は。いくら私があいつを否定したって、あいつの悪い血は私の体を半分流れている。絵を描かない、ってルキノに言ったよね。あの後から、私は鏡を見れなくなった。私の眼が、あの時、私の腕を折ったあいつの瞳のように濁ってゆくのが怖かったから。私もあいつのように自分の運命を呪ってた。自分より遥かに乏しい才能が花咲くのを羨んでばかり。自分が弱いことを知っているから、さらに弱いものを虐げる。そんな人間になりたくなかった。でも……私は誰かの住んでいる家が羨ましい。私は誰かの着ているものが羨ましい。私は誰かの食べているものが羨ましい。私は誰かの吸っている空気が羨ましい。私は私が関わる全てが嫉ましい。私は、そういう下劣な人間なんだ。絵に愛されないのも、人に愛されないのも、全部、私のせいなんだ」
 瑛里瀬の愁訴はそこで終わった。悪血を出し尽くしたように、消耗していた。
「……泣いてくれるの?」
「え?」
 気付かなかった。私は泣いていた。瑛里瀬の苦悩が、瑛里瀬の痛みが、瑛里瀬の絶望が、今の私にはありありと自分のものとして感じられたからだ。
「こんなこと言うつもりじゃなかった。両親は離婚したんじゃなくて、親権を剥奪されたの。……ありがとう。涙、拭いて。ルキノが私の苦痛を理解してくれた。同じように苦しんでくれた。それだけで、嬉しい。それだけで、私は心底から救われたような気がするよ」
 そう言うと、瑛里瀬は私の胸に体を預ける。私は瑛里瀬をそっと抱きしめる。私の胸にある決意が芽生えた。
「せめて、私にこれだけはさせてほしい」
 そう言って、身体を離すと、私は瑛里瀬の手をとって祈るような姿勢をとった。私の手は輝きだし、その光は徐々に瑛里瀬の体を包んでいく。
「何?!」
「落ち着いて、瑛里瀬。大丈夫、私を信じて」
 次第に光は収束し、瑛里瀬は自分の体に起こった変化に気づいた。
「嘘……夢よこんなの……」
「免疫機能を一時的に亢進させたの。今の私は半分有機体だけれども半分は量子化された情報集合体でもあるから、有機体が欠損したときに備えて、多少はこうしたことも……」
 瑛里瀬はかすかに震えながら、肌理の細かい腕をさする。その腕、身体には先程までの痛々しい傷痕はない。白磁のような、瑛里瀬本来の美しい肌だった。
「じゃあ、ルキノは本当に未来人なの?未来で私のことを知ったの?未来でも私の絵は残っているの?」
「あなたの才能は本物って、言ったでしょう? 気の遠くなる月日が、絵画とか芸術っていう概念をなくしてしまっても、あなたの遺した作品は、いいえ、あなたが作品を通じて遺した「想い」は、私たちにも届いたの」
「信じられない、そんな―」
「そんな、何?」
「それじゃまるで、奇跡じゃない」
「奇跡じゃないよ。それが瑛里瀬の持っている力なの。そして、私は私の持っている力で―」
 私は瑛里瀬の、瞳の前に手をかざす。
「―瑛里瀬の眼を、治してあげる」
 それは事実簡単なことだった。遺伝子の染色体を操作して、遺伝性の疾患を改善する医療も、私のいた未来ではごく当たり前に行われている。しかし私は悩んでいた。それはこの一年間ずっと悩んできたことだった。ほんの数秒、数瞬の遺伝子治療。そうすれば、瑛里瀬の眼は、健常者のそれと変わらぬ色彩を取り戻す。瑛里瀬は人生と、自分の眼を憎むことがなくなる。そうすればまた、絵を描いてくれる。私の中には奇妙な確信があった。なぜ私が―ルキノという人間がこの時代に来ることが許されたのか。私の留学を選定した何者かは知っていたのではないか。私が瑛里瀬の眼を治してしまうだろうということを。そしてそれが後の歴史にとって重要であるから、私はいまここに居られるのだと。瑛里瀬の絵は素晴らしい。だが、未来で見た瑛里瀬の絵に宿っていたあの、統覚を喪わせるような色彩感覚は、今の瑛里瀬の絵には宿っていない。そうだ、あの色を得るためには、瑛里瀬の眼は治療されねばならないはずだ。だが、しかし―それでいいのか?私の中にはそう呟く声があった。瑛里瀬の眼を治すことに私は何を躊躇うのだろう。躊躇うことなどなにもないはずだ。ないはずなのに―
「……ルキノ?」
 私の逡巡を感じ取ったかのように眼を閉じた瑛里瀬が心配そうに声をかけた。
「えっ、ああ、ごめん」
 私はこれが正しいんだと言い聞かせながら、掌を彼女の瞳の前にかざした。
「……目を開けて」
「治療は終わったの?」
「終わった、もう大丈夫。これで、瑛里瀬の眼は他の人と何も変わらない」
「怖い。世界が、今まで見ていたものと違ってしまうなんて」
 そう言って少し黙った後、瑛里瀬は小さく、言葉を継ぐ。
「本当の世界が、もっとずっと醜かったらどうしよう?」
 教室の窓から見える満月には、刷毛で引いたような黒い雲がかかり、静かに月暈を遮った。大丈夫。私に出来ることはこれだけだ。私はこれをするためにこの時代に来たのだ。
「大丈夫。約束する。不安なんてない。世界は醜くなんてない」
「あなたは……ルキノは」
「何?」
「そこにいてくれている?前とかわらないままで、いてくれている?」
「私は何も変わっていない。世界はもっと変わっていない。だから心配することない。来て。瞼の向こう、あなたの世界へ」
 静かに応諾して、瑛里瀬は目を開いた。
「……どう?」
「……わからない、夜で暗いから。でもよかった。あまり変わっていないみたい」
私は、思い切って切り出してみた。
「描いてみて」
「……えっ?」
「新しくなったあなたの眼で、あなたの世界を、私に教えて」
「ムリだよ。私、あの日から、ルキノと別れた日から絵を描いてなかったんだよ」
 知っている。瑛里瀬は描かなかったはずだ。それがどんなに辛いことだったか。この二年で私も絵を描く喜びを、作品に感情を込める愉しさを知った。だから描かずにいられない人間が、描かないでいることがどれだけ辛いかが判った。
「だから、今、描くの。今じゃなきゃダメなの、そうでないと―」
 そうでないと、私は一番大事なことを確かめないまま未来に戻ってしまうことになる。そして、時空間移動は一人の人間に一回以上は許可されない。
「―わかった」
 そう言って瑛里瀬は一年ぶりにキャンバスの前に立った。
「もし―。もし、もう一度絵を描くとしたら。描こうって決めていた人がいるの」
 知っていた、それは。
「それは私を信じると言ってくれた人。私を初めて必要としてくれた人。ルキノ。私の絵のモデルになって?」
 瑛里瀬の筆は一年間のブランクを感じさせないほど滑らかにキャンバスの上を走る。瑛里瀬の目線がキャンバスを這う。その眼は次に私を見る。まるで無痛のナイフのように鋭い。そして瑛里瀬は清潔なキャンバスの上に自分の世界を構成させる。瞬く間に下絵が終わり、着彩に移る。その時、瑛里瀬の表情に不安がよぎった。見逃さず、私は言った。
「色の名前を見ないで。あなたの眼は正しく世界を認識している。私を信じて、あなたの世界を、あなたの感じたまま描けばいいの」
 私の言葉に、瑛里瀬は無言で首肯する。パレットの上に絵の具を無造作に盛ると、躊躇わずにキャンバスナイフで混ぜあわせ、色を作る。そして下絵の上に絵の具を乗せ始めた。私たちは無言だった。深夜の美術室にはただテレピン油の匂いと、絵筆の擦過音があった。だがそれは気まずい沈黙ではなかった。このうえなく暖かい時間が流れていった。そして、絵は完成した。
 その絵は完璧だった。完成までおよそ4時間。油絵という媒体においては、問題外と言ってよい短時間で描かれた絵だった。完成度は十分ではなかった。しかし、それは完璧だった。どうしようもなく完成されていた。この部屋の情報の全てを圧縮して再現したようだった。雄渾な筆致から、冴え冴えとした夜の空気まで感じ取れた。脳髄が過剰に情報をインストールしたときのようにくるめいた。この絵だ、これこそが瀬名瑛里瀬の世界だ。未来で見たセナ・エリセの作品に溢れていた、あの色彩が絵に宿っていた。この絵は17歳の女の子が描いたものなのだ。17年、無窮の宇宙に比べれば誤差として処理されてもよい一刹那。それなのに、なんでこんなにも完璧でいられるのだろうか。たぶんそれが、それが瑛里瀬の絵という魔術なのだ。あらゆる技術を格納した自動生成機械でもこの絵を作り出すことは出来ない。何故ならそれらは全て巧妙に芸術に偽装した、単なる工業製品だから。今ならそれがはっきりと言える。絵を介して、瑛里瀬の世界が自分を通り過ぎてゆく歓喜が湧き上がった。
「……出来たね、瑛里瀬。すごいよ。これがあなたの見ている世界なんだ。敵わないな……悔しさも起こらないよ」
「……うん、出来た。そう、これが私の見ている世界。そう、私の……私の世界。なんだろう、あれだけの時間、あれだけの枚数の絵を描いていたのに……」
振り向いた瑛里瀬の眼には美しい光が宿っていた。
「……ルキノ、私、今、生まれて初めて「絵」が描けたような気がするよ」
 その絵は、私が未来で見た絵。私に「絵」を教えてくれた絵。私に人間らしい感情を宿してくれた絵。タイトルは『遙かなる昨日へ』。その時、私のからだを優しく光が包んだ。別れの時がやってきたのだ。
「ごめん、瑛里瀬。時間が来た。未来に戻らなくてはいけない時が」
「ねえ……もうお別れなの? わたし知らなかった、今日でさよならなんて」絵里瀬は私の腕に縋った「わたし、まだルキノと話したい!伝えたいことがいっぱいあるの!言いたいことがいっぱいあるの!」
普段寡黙な瑛里瀬はほとんど叫ぶような声だった。私の体は徐々に感覚を失ってゆく。
「また会えるよね?これで一生のお別れじゃないよね? わたし……………………」
瑛里瀬の最後の言葉は、すでに傍白のように聞き取れなくなっている。聴覚がすでにあやふやになっているのだ。私の体は炭酸水の泡のように少しずつ崩れてゆく。体は少しずつ死へと近づき、意識は遠く未来へと飛翔を始める。私はあなたに会いたかった。それだけで私はこの時代に来たのだ。私達のいた未来には忘れ去られた感情の導くままに。あなたがどんなに否定されても絵を求め続けたように。わたしはあなたに会うことを求め続けた。そして、わたしは知ることができた。あなたがどれだけの強さと弱さを内に秘めた存在かを。あなたが誰にも知られることのないまま続けていた武装を。泣かないで。そんなに哀しい顔をしないで。私まで悲しくなってしまうから。泣き濡つ瑛里瀬を見て私は言った。
「泣かないで。大丈夫だから」
私は優しく彼女を抱きしめた。
「約束する。きっと…………きっとまた会えるから」
そして、時計の針が12時を指した。




 そして、私は未来へと戻った。時空間移動する前と同じ、無機質な白い壁とベッドが私の目の前にあった。記憶の同期の確認がすむと、最初に私を案内した無表情の大男が私を出迎えた。
「すんなり家に返してはくれないのね。私を逮捕するの?」
「いいえ」
「時空間移動者が、自分以外の人間に情報治療を行うのは、重罪。死刑もありうる。最初にそう説明したよね?私は、過去の世界で一人の女の子の傷を情報治療で癒した。知らないはずはないよね?」
「知っています。ですが、オブザーバーからの通達で、その件は不問になっています」
「不問に?」
「そうです。だからあなたはこのままお帰りいただいて結構です」
 私は建物から外に出た。街を模したステーションという名の宇宙に浮かぶ函。天蓋の広大なガラスから外には果てしなく続く宇宙の暗闇があった。私の足はある場所へと向かっていた。導かれるように、半ば無意識で。
 私が子供の時に瑛里瀬の絵を見た、ステーションで唯一の美術館。そこには今日もセナ・エリセの絵を観たさに多くの人が訪れていた。人並みに沿って受付を通り、小暗いファサードからのびるスロープを抜ける。そして私は瑛里瀬の絵と再開した。そこは留学前と変わらない空間で、あの日のままだった。『遥かなる昨日へ』もあの日のままそこにあった。絵を見て、私の頬を熱いしずくが伝った。『遥かなる昨日へ』を見て、感動のあまり涙を流したことは初めてではなかった。だが、今流した涙はそれまでの涙とは全く別の感情から生じたものだった。子供の時に初めて見たときは気付けなかったが、『遥かなる昨日へ』のモデルは成長した今の私だった。私は、この絵の誕生の瞬間に立ち会っていたのだ。目の前の壁に飾られた『遥かなる昨日へ』は、さっきまで美術室で見たものに幾重にも手が加えられ、彫琢されていた。絵画を学んだ今ならばその筆致が手に取るように判る。それは丹念に。丹念に。何年もかけて。何十年もかけて描き足されていた。筆を重ねる瑛里瀬の姿がオーバーラップした。時間留学する以前は読み取れなかった瑛里瀬の想いが、ハレーションを起こしたように私に押し寄せた。そうだ。瑛里瀬は待ったのだ。この絵を描きながら。私と再び遭う日を。何年も。何十年も。たぶん死ぬまで。去り際の私の一言を信じて。「きっとまた、会えるから」。その一言を、ただ。彼女の優しい想いが胸をうつ。ごめんなさい。私は嘘をつきました。決して守れない約束をしました。破るとわかっている約束をしました。最初にこの絵を見た時から。瑛里瀬、あなたは最初から私に。私に、そう言ってくれていたのに。

(遥かなルキノへ)




果たされなかった約束に何処か行き先があるとしたならば、それは温かい場所であってほしい。
告げられなかった想いに何処か行き先があるとしたならば、それは優しい場所であってほしい。
もしそうならば、誰でももっと気軽に胸に秘めた言葉を口に出来るようになるはずだから。
暗闇の中で言葉を発した後、静寂の中ではもう祈ることしかできない。
どうかあなたに、私の声が届いてください。
そして出来れば、私に返事をください。

 ルキノ。ありがとう。あなたは私に嘘をつきましたね。私の眼を治したと。あの絵を描いて私は知りました。私の絵に足りなかったのは、正しい色覚ではなかった。自分の世界を迷いなく信じる心だったのですね。あなたはそれを私に伝えてくれた。ありがとうルキノ。あの時、言えなかった言葉も、伝えなれなかった想いも、みんな私の絵に託すつもりです。ルキノ。あなたは私の友達です。私の最初の友達。そして最高の友達。この絵が未来に残る、とあなたは言いましたね。だから、わたしはもう迷いません。私の絵が、たとえ誰にも褒められなくてもいい。私の絵が、たとえ誰の目に留まらなくてもいい。あなたに。だたあなたに届くことだけを信じて。私は絵を描き続けます。死ぬまで描き続けます。遥かな未来にいるあなたへ向けて。―ルキノ。私の声は、あなたに届いたでしょうか?
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