僕が涙を拭いて、制服のパンツをあげる頃には、どしゃ降りの雨も止むところだった。
 去り際の彼女の顔が頭の中をぐるぐるとしている。

「…そうだよね。私も無理かな。でも、ありがとう。好きだよ。ごめんね。愛してる」

 彼女はまた泣きそうだった。僕は泣いた。情けなくて、申し訳なくて泣いた。
 僕は好きだった。彼女と居る時間が好きだった。

 あの娘のことが、
 あの娘との関係が、
 共に過ごした空間が、二人の間に流れる空気が。
 これを守るためなら、出来る限りのことはしたかった。
 なのに、何故、出来なかったのだろう。
 僕は、彼女のことが、好きだったのに。

 僕は自問自答しながら、身支度も忘れて泣いていた。
 そろそろ6時限目も終わろうというところ、僕は涙を拭いてため息をついた。何もかも剥き出しで情けない。ここに鏡が無くて良かった、と、ぼんやり思った。
 僕らはもうだめだ。大好きな空間も消えてしまう。
 それがやたらと悲しかった。
 あんなに緩くて気持ちの良い時間、この先だって出逢えるか解らない。
 あんなに心地の良い女の子にも。ああ、あの娘と結婚できたら、それはもう幸せだったろうな。
 解らない。まだ18歳になったばかりの僕が、そんなことを思うのはまだ早いのかもしれない。
 これからの人生で、もっと素敵な女の子に出逢えるのかもしれない。…でも、
 あの娘は一人しかいない。
 いや、
 あんなに面白い娘、他にいるもんか。
 だからきっとしばらくは、彼女の面影を追い続けてしまうのだろう。
 …そう、きっと、しばらく、は。

 6時限目を終えるチャイムが鳴り響く。
 既に身なりをきちんと整えた僕は、水飲み場で顔を洗っていた。体育倉庫前、いちいち出来すぎた思い出だ。30歳になったら思い出してまた泣こう。
 あと10分もしたら、陸上部辺りがハードルやら何やらを取りにここに来る。その前に退散したい。
 何もかも吹っ切りたくて、出来るだけ乱暴に顔を洗った。
 何かを跡に残したくて、着ているシャツで出来るだけ乱暴に顔を拭った。
 ボタンで頬を擦りむいて、その跡が一生残ってしまえば良いとさえ思った。

 まるで、
 なんてことはない。そんな顔で廊下を歩き、僕は自販機でペットボトルのウーロン茶を買って、教室に向かった。
 暑い振りをして時々ペットボトルを瞼にあてた。
 部活も始まった頃だろう。教室に誰も残っていないことに期待をしている。
 しかし残念。女子が数人、何やら本を囲んで楽しそうに話し込んでいた。
『さっきの時間、何でいなかったの?保健室でも行ってたの?先生気にしてたよ。君が休むの珍しいから』
『大丈夫?顔色おかしくない?まだ調子悪いんだったら、先生呼んでくるけど』
 なんとも気遣わし気な声だった。本当に心配してくれているのだろう。僕が授業をサボることなんてまあ、今まで無かった。『保健室に行っていた』と言っても誰も疑うまい…保健の先生以外は。
 僕はそれらを無視した。汚れた瞼を見られないようにするのに必死だった。
 自分の荷物を肩に掛けて教室を出る。
『無理しないようにねー』、ドアを閉めながらそんな優しい声を聞いた。君を好きになれば良かった。そんなことは思わない。

 昇降口。ここに来るまでに誰とも擦れ違わなかったことは奇跡に近い。
 ぱたん、と音を立ててスニーカーを床に落とす。
 外に出ればやたらと暑かった。
 一時間前とはまるで違う、快晴。憎たらしいほどに雲も美しい。あのどしゃ降りが夢のようだ。
 太陽は夕日に色を変えようというところ。水たまりに映る自分の顔、特に瞼のあたりは赤とも青とも付かぬ、不思議な色に染まっていた。
 僕はまた瞼を擦る。瞼を擦った指を見る。指の先がほんの少し茶色くなっていた。
 ペットボトルで瞼を冷やしながら、ゆっくりと校門に向かって歩を進める。
 今度は着ているシャツの袖で瞼を拭った。その袖にはもう何も付いてこなかった。
 ぬかるんだグラウンドの横を通りかかる。陸上部はとっくに練習を始めている。
 いちについて。よーい、
 すぱぁん!

 僕はそこで始まりの合図を聞いた。
 何かが終わって、何かが始まるのだ。僕の意志の届かない、心の深いところでぼんやりと思った。

 校門を左足から過ぎる。
 その頃には不思議と、僕の心も晴れやかだった。

 なんてことはない。僕にとって5月31日は月曜日だった。



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