夫が死んだ。2年と5ヶ月、短い結婚生活だった。


ろくでもない




 ショウノウのにおいとでもいうのだろうか。母の洋服ダンスに入っていたのを借りたせいか、ワタシまで年をとった気分になる。ただでさえ憂鬱だというのに。

 高校の頃の同級生が死んだという連絡が同窓会委員なるものからまわってきたのは、どちらかといえば晴れ晴れとした気持ちの、金曜の夜のことだった。
通夜には顔を出そうか。そんなふうに思ったのは、ついこの間彼氏と別れて暇を持て余していたせいだ。それに、高校の頃の友人たちと久しぶりに顔を合わせられる機会だと思えば、不謹慎ながらも少しありがたいような気がした。
 とはいうものの、当然のことながら通夜会場に着いてみればそんな気持ちは霧散した。やはり、そう、人の死とは重いのだなと思う。母のショウノウ臭い喪服のせいで、余計に。
「まさかこんなところで会うなんてね」
 いちばんとは言わないまでも、それなりに仲の良かった友人が帰り道にわざわざ声をかけてきたのは、たぶん彼女もワタシと同じような憂鬱さを感じていたせいなんだろう。彼女は、死んだ彼と高校の時に付き合っていた。羨むほど、お似合いの二人だった。
「ほんと。十年ぶりくらい?」
「だね。再会場所が通夜会場なんてあれだけど」
 暗い気持ちを隠すように、公園のベンチに腰を落ち着けて。こういう、長話をする体勢を自然ととってしまうあたり、年をとったのだなあと実感する。けれど、まあ、それはそれでいいのかもしれない。
「元気にしてた?」
 久しぶりの再会。お決まりの言葉から、近況報告へ。ワタシの近況は、ろくでもない彼氏と別れたところに行き着く。ほんと、ろくでもない男運だこと。


*****


 高校時代つきあっていた人が死んでしまった。連絡をもらって、そのことよりもまず、彼が結婚していたことに驚いた。驚いた自分にも驚いた。せわしなく過ごしていた日々の中の、何となく、心に揺蕩う穏やかさのような。わたしにとって彼との思い出は、そういうものだった。
 通夜に行こうと決めたのは、彼の奥さんを見たかったからだ。彼自身に未練があったわけではないけれど、彼がどういう人を伴侶に選んだのかには興味があった。わたしではなかったその人を、少しだけ見たかった。
 会場である地元のメモリアルホールに着くと見知った顔が存外に多くて、何となく、居心地の悪さを感じた。彼の死を悼むためではなくて、残された見知らぬ奥さんが見たくて来ただなんて、とても言えない雰囲気。
「まさかこんなところで会うなんてね」
 本当は、と少しだけ思ったのを彼女に言ってから自覚した。本当は同じ言葉を、別の人に。
 あっけないほど簡単に奥さんの顔を見て、礼儀通りの挨拶をして。その帰り道、高校時代の友人に会った。彼女も喪服に身を包んでいる。「母親のだから型が古い」とか何とか言いながら。
 久しぶりだからと、公園のベンチに腰を落ち着けて、息をつく。
「まさか木下くんが死ぬなんてね」
 彼女の言うのに、心から同意した。
「ほんとにね」
 それから、冗談めかして。
「結婚してたなんて知らなかったなあ」
「あら、元カノなのに?」
 彼女のことを友人として好ましいと思うのは、こういうときだ。冗談めかして言えば、ちゃんとその空気に沿ってくれる。10年前と少しも変わらない、それが今は何よりもありがたく思えた。
「いつの話よ。やめてよね、もう」
「学校で噂のベストカップルだったのに?」
「そんなんじゃないって。結局別れたんだし」
 別れて結婚して、死んだんだし。
「まあねえ」
 そういえば、付き合い始めたころに打ち明けられた彼の夢は、奥さんに叶えてもらえたのだろうか。


*****


「ほんと、ろくな男運じゃない」
 本当は今日、友人に会ったら聞いてほしいと思っていた。たぶん。だから不意に、そんなことばが口をついて出たのだ。
「何、急に」
「いや、今改めて考えてみたらさ、ワタシってろくな男にひっかかってないよなあって」
「…何かあったの?」
 話す相手が彼女でよかった。垂れた目で優しくこちらを向いた友人に、苦笑い。
「こないだ別れた男も含めて、今まで好きになったのってろくでもない人ばっかりだなって思ったんだよね」
 そう、中学のころ好きだった谷口くんも、大学入ってすぐ付き合った松林も、今思えばろくでもなかった。ろくでもないというのはつまり、結婚相手には向かないってこと。
「へえ」
「聞いてくれる? こないだ別れた奴は、ワタシが出会った人の中でいちばんろくでもなかった!」
 別れてまだそれほど経っていないせいか、細かいところまで思い出せてしまう。それがまた腹立たしくて腹立たしくてしようがない。久しぶりに会っていきなりこんな話をするのも申し訳ない気がするけれど、彼女は彼女で目を輝かせているし、まあ、よしとしよう。
「それは凄そう。どんな人だったの?」
「んー、どう話せばいいのか……なんか、やたらダウトって言う人だったんだけど」
 飲み込めていない表情。それはそうかと思うけれど、これ以外に言いようがない。別れた彼は、事あるごとに「ダウト」と言ってくるような人だった。こちらの遠慮とか配慮とか、そういうものを一切合切だいなしにするように、「ダウト」と。
「例えばね」


*****


「いらっしゃい、そこ座って。お茶でもいれるから」
「あ、お構いなく」
「ダウト」
「え?」
「本当は、外を歩いてきたから喉がかわいたなーお茶でも飲みたいなーと思ってるでしょ」
「……」
「素直に言えばいいのに。いれるからちょっと待って」
「あ、ありがとうございます」
「お待たせ、どうぞ」
「すみません」
「ああ、うち座布団一つしかないんだ。これ、どうぞ使って」
「いえ、そんな」
「ダウト」
「え」
「床に直接座るの、本当は嫌だなあと思ってるでしょ。どうぞ」
「あ……ありがとうございます」


*****


「それは、凄いね」
 何といえばいいのか、言葉がうまく見つからなくて。彼女による別れた彼の話はやけに臨場感があって、そのせいか余計に、「彼」のおかしさが伝わってきたような気がする。
「でしょ? ほんと、何で付き合おうと思ったのか謎だもん」
 あのときは頭がおかしかった、と彼女が言う。
「ほんとだよ。どこが好きだったわけ?」
 尋ねると、思い切り顔をしかめられた。そうして悔しそうに答える。
「何て言うか、変わってておもしろいなーって。遠慮とか打算とかなしで話してくれる感じが、新鮮で好きだったんだよね」
「ああ、なるほどね」
 確かにこの歳になると、新鮮さって大事な要素になるのかもしれない。自分が好みだと思っているタイプとは違う人とか、思いもしなかった反応をする人とか、今まで好きになったのとは別の。
 そう考えると、木下くんは新鮮でも何でもなかったなと、そんなことを思った。初めての彼氏だったから、その時点で新鮮だろうと言われればそう。けれど例えば、走るのが速いから好きとか、はきはき喋るから好きとか、そういう至極単純なことで恋をしていた小学生のころの基準から、何も変わっていなかったような。木下くんは、優しいから。優しかったから、好きだった。
「どうかした?」
 ふと蘇った思い出に俯くと、友人が首を傾げてこちらを向いた。
「ううん、何でも。木下くんは優しい人だったよなあって、なんかふと思い出しただけ」
「ああ、確かに。善良な人って感じだったよね。いつもにこにこしてさ」
正直に答えると、彼女は笑ってうんうんと頷いた。それから、続けた。
「そういう単純な恋愛のほうが、幸せになれる気がするよ」
「……そうかもね。でもまあ、わたしたちは別れたけどね」
 顔を見合わせて、二人で笑う。悲しいかな今はもう、いろいろな要素を総合して判断するしかなくなっているから。友人がダウト男にひっかかったのは、そういう恋愛に嫌気がさしていたからなのかもしれない。
「で、どうして目が覚めたわけ?」
 ろくでもない男の話に戻すと、彼女はまた顔をしかめた。よほど過去の自分に後悔しているようす。
「寝顔が、すっごく間抜けだったんだよね。それで冷めた」
「へえ。でも、そんなもんかもね。別れるときはすんなりいったの?」
「全然。大変だった!」
 

*****


 事故にあったという電話を受けてからの記憶が曖昧なまま、気がつくと通夜の席に座っていた。そばには母と義母がいて、鼻をすする音。それから、読経する声。花に囲まれた彼は満面の笑みを浮かべている。あの写真は、結婚することが決まってから出かけた海辺で撮ったものだった。私がお手洗いに行っている間に彼が砂浜に何かを書いて、それを私が読み取る前に、波に消されたときの。
 写真を撮るのも撮られるのも、特別好きなわけではなかったけれど、なぜだか彼と私の思い出は写真に残っていることが多かった。付き合い始めたころから、ずっと。そして、それらを整理してあれこれ言い合うのが、結婚してから休みの日の定番だった。ときには温かなコーヒーを飲みながら、あるいはジュースを飲みながら。
 遺影に使った写真のことも、たくさん話した。彼が何を書いていたのかは、結局教えてもらえなかったけれど。


*****


「とりあえずあがれば?」
「うん」
「びっくりしたよ、急に来るなんていうから」
「うん」
「お茶でもいれるよ、座って」
「いえ、お構いなく」
「ダウト。のど渇いてるでしょ。いれるよ」
「ううん、渇いてない。話があるんだけど」
「何?」
「別れよう、ワタシたち」
「……何で?」
「疲れたから」
「ダウト」
「疲れたから」
「ダウト」
「疑われ続けるのに、疲れたから」
「はあ? 疑うって」
「ダウトってそういうことでしょ。相手を疑って、自分が正しいってことを確かめて、相手に押し返す。そういうものでしょ。そういうの、疲れる」
「それは、あれだろ。お前が嘘をつくからだろ」
「あのね、人間関係とか日々の生活を円滑に進めるための手段なの」
「俺、そういうの嫌い」
「ワタシ、そういうの好き」
「ダウト」
「じゃあ、帰るね」
「ダウト」
「どうぞお元気で。さようなら」
「ダウト」
「……何が?」
「別れたくないくせに」


*****


「もうさ、何が!?って感じだよね。年上のはずが、子どもみたいにずーっとダウトダウト言ってるんだもん。最終的に、ワタシもダウトって叫び返しちゃった」
 絶対言わないでおこうと思っていたのに、と。オーバーなくらい頭を抱えてうなっている彼女の姿を見て、なぜだか、安心した。
「お疲れさま。別れられてよかったじゃない」
 心からそう声をかけると、頭を抱えたまま彼女はふっと息を吐いて、頷いた。
「そうだね、うん」
 顔をあげた彼女は目元まで丁寧に化粧をしていて、それがまた年月の隔たりを感じさせる。わたしも、いつもはあまり塗らないファンデーションを塗っていた。厚く、厚く。
「そういえば」
 彼女が言う。
「木下くんとの別れ話は、どういう感じだったの?」
 

*****


「え?」
 あ、困らせている、というのはすぐにわかった。けれど、彼女に会ってから、ワタシはずっとこれについて尋ねたいと思っていたのだった。タイミングは今までの中ではベストだろう。
 高校のころの二人は、このまま結婚するんじゃないかと噂されるくらい仲が良くて、揺らぐような出来事も諍いもないようすだったから。だから、別れたと聞いたとき、単純に、純粋に、疑問だった。一体あの二人の間に何があったんだろう、と。
 ワタシの困った問いに一度俯いた友人は、少しだけ笑ったようだった。
「ん、普通だったよ。別れようって言われて、うんって答えて、それでおしまい」
「あんなに仲良かったのに」
 自分以外の誰かがどうして別れを選ぶのか、不思議なくらい理解できないものだ。内心を知らないのだから当然だけれど、そうはわかっていてもやっぱり、意外だなといつも思う。木下くんは優しい人だったから、なんだか勝手にそういうものとは無縁だと。そんなふうに決めてしまっていたのかもしれない。
「仲は良かったけど、なんか違うって思ったんだろうね。ダウト男ほどじゃないけど、この人じゃないんだなって木下くんも……、わたしも、思ってた気がする」
 不思議だね、と今度ははっきり笑って。
「何で急にこんな話になったの?」
「え、別に。何となくだよ、何となく」
 何となく。木下くんのことを思い出して、友人に会って、ワタシの近況がろくでもなくて。そういう諸々のことが重なったせいだよ。それだけ。
 答えると、彼女はまた笑った。そして立ち上がって言った。
「じゃあ、とりあえず飲みにでもいかない?」
 ワタシはそのお誘いに、積もる話もあることだしね、と頷いた。ろくでもない男にひっかかった話はまだまだたくさんあった。それに、木下くんのことも。


*****


 海辺での話もそうだけれど、彼には決めるべきところで決められない、ちょっと抜けたところがあった。プロポーズだってそう。
付き合い始めてから1年半が経った日の夜のこと。夜景が綺麗だからと連れて行かれたレストランで、窓際ではない席に通されてぽかんとした表情の彼に私が笑って、そうして彼が「こんなはずじゃなかったんだけど」と差し出したのが小ぶりのダイヤをたたえた指輪だった。
 こういう、とてもベタなシチュエーションでかっこよくプロポーズするのが夢だったんだと。照れくさそうに言う彼の姿を見て、本当なら呆れるところなのかもしれなかった。けれど、私は彼のそういうところが大好きだったから。差し出された指輪を受け取って、よろしくおねがいしますと、笑ったのだった。私がフォローすればいいから。そうして二人が年をとるまで生きていくつもりだったから。
 けれど、その夢ももう終わったのだ。ホールに飾られた花を眺めながら、握りしめていた青いハンカチを目にあてがった。あの花がしおれるまでには。そんな決意を胸に秘めて。


*****


「そういえば、木下くんの奥さん綺麗な人だったね」
「そうだね、綺麗な人だった。木下くん、幸せだったんだろうね」
「あの遺影に使われてた写真、満面の笑みだったし?」
「うん、わたしも見たことないくらい」
「またまたー」
 友人と並んで歩きながら目線を落とした。夕焼けの色が、公園に貼られたタイルを染め上げていた。


*****









「ダウト」











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