深夜、私は人気のない公園で立ち尽くしていた。たとえ昼間であっても子どものはしゃぎ声が響く様子は想像しがたい、遊具やベンチが錆ついた公園の、さらに奥まった場所にある小さな林には点滅する街灯の光も届かない。そのため、手に持った包丁が反射で輝くこともなかった。しかし、そこから滴る液体が赤色であることを私は知っている。
 私の前には、木にもたれ掛るようにして女が倒れている。暗くてよく見えないが、きっとその喉元と腹部が血に染まっていることだろう。出来損ないの叫び声のように耳障りな呼吸音もすでに消えかかり、顔を覗き込めば、見開かれた目はほとんど裏返っていた。死が近いことを、素人の私にも確信させてくれる表情だ。柔らかく長い髪が乱れ、口から溢れる唾液で頬に貼り付いている。
「よかったぁ、上手くできたみたい。初めてだから緊張したよ。ちょっとスマートじゃないけど、最初のうちは、念には念を入れるべきだよね」
 独り言を呟き、女の腹に再び包丁の刃先を捻じ込む。ワンピースの生地を突き抜けて刺さるそれを、ぐりぐり、ぐりぐりと、柄を持つ手が身体にぶつかるまで押し込むうちに、女の痙攣が止まった。
「おおー、死んだ?」
 当然、応えはない。非常に満足のいく結果だ。我ながら完璧な場所選びだったと思う。行き当たりばったりの点は多かったが、日付もとうに変わった時間に、か弱げな女がベンチにひとりで座っていたのだ、運が味方したと言えよう。力自慢でなくとも、林に引き摺りこむのは容易だった。まずは喉を一突き。それで充分に致命傷なのだろうけれど、念のために腹も刺した。さらに先ほどの駄目押しと、プロも顔負けの鮮やかな手際だ。いや、プロは一撃で確実に仕留めるのだろうか、私の知らない世界の話だ。
「どこの誰かは知らないけれど、私に貴重な体験をさせてくれてありがとう。でも、思ったより簡単でつまらなかったなぁ」
「ますみ……?」
 捨て台詞となるはずだった最後の独り言に、思いがけず言葉が続いた。後方から聴こえる声に振り向くと、長身の男が身を震わせながら立っていた。明かりにしていたのだろう、手にした携帯電話に照らされて、驚愕の表情が浮かび上がっている。そのままよろよろと近づいてきた男は、私の足元に跪いて女の肩に触れる。
「真澄、どうしてこんなところに……。なあ、真澄!」
 縋りついて喚く男と、転がり落ちた携帯電話を眺めながら、私は急速に興奮が冷めていくのを感じていた。他人が騒いでいる様子を見て、つられてパニックになる人間と、かえって冷静になる人間がいる。どうやら私は後者だったらしい。
「お兄さん、この人の彼氏? 待ち合わせでもしてたの?」
 話しかけても、引き攣った嗚咽が聞こえるばかりで返事がない。登場人物が増えたにもかかわらず、私の台詞はまだまだ独り言になるようだ。
「この人、ずうっとベンチに座ってたよ。キョロキョロしながら周りを見回して、すごく落ち着かない様子だった。私が近付いても、ちっとも気付かなかったしね」
 いい歳をした男の狼狽しきっている姿があまりに哀れだったので、事の経緯を説明してやることにした。包丁を地面に突き立て、作業しやすいようにシュシュで纏めていた髪をほどき、乱れを直してからもう一度しっかりと結び直す。
「ちょっとさぁ、通り魔的犯行ってやつを経験してみたかったんだよね。行きずりの犯行って、どうして逮捕されるのかよく分からないから。監視カメラに姿を映されるわけでもないし、いわゆる凶器っていうの? この包丁だって慌てて最近買ったものじゃない。この公園を選んだのだって気まぐれだから、近所の人に『近頃、夜に不審な女が徘徊していて……』なんて証言されることもない。これって完全犯罪じゃね、って感じ」
 言いながら、包丁を使って地面に穴を掘る。もちろん死体を埋めるための穴だが、スコップの類を持って来なかったのは最大の失策だ。人が踏み入らないために土自体は柔らかいのだが、そのぶん手入れもされていないため、のびのびと育った雑草が邪魔で仕方ない。イライラと地面にスニーカーの踵落としを食らわせて荒らしつつ、軍手をした掌と包丁で土を掬っていく。
「クソッ、面倒くさいなぁ。……まぁそういうわけで、たまたまこの時間、この公園を選んだら、たまたまこの女の人がいたってこと。真澄さんだっけ、不運だよ、本当に。可哀想だね。もちろん、あんたも可哀想といえばそうだけどさ、こんな夜遅くに女の人をひとりで待たせちゃ駄目だよ。紳士じゃないなぁ」
 こんなに話しかけてやっているのに、男は返事のひとつも寄こしはしない。しかし、狼狽した様子は呆然自失へと変化しているので、心の状態に何らかの動きはあるのだろう。
「こういう公園って、ホームレスが住みついたりしないのかな? 完全に屋外だけど、汚い路地裏なんかに住むよりはマシな気がする。寂れているように見えて、やっぱり地方自治体が管理してたりするのかな。管理っていっても何するのって感じだけどさ、埋めた死体、そういう人に見つけられたら嫌だな。あ、それより、散歩に連れて来られた犬が掘り返したりするかも? くんくん、お肉発見! わんわん、ご主人様、ご馳走ですよ! ってさ」
 おどけて犬の真似をして見せても、無反応。作業にも疲れて、息が切れてきた。ぼーっとそこに項垂れているくらいなら、手伝ってくれればいいのにと思う。それを口に出すほど無神経ではないが。
 さすがに私も飽きてきて、黙って穴を掘る作業に集中する。深くなれば深くなるほど、土も重たくなってきてつらい。穴の大きさが、身を丸めた人間を埋めることができるほどになるまでに1時間近くを要した。
「ちょっと彼女さん、お借りしますねぇ」
 一応断りを入れて、男が取り縋ったせいで地面に横たわっている女を引き摺り、適当に姿勢を整えて穴に招待する。土をかけ直せば、多少の盛り上がりはあるものの、暗く視界が悪いせいもあって人ひとりが埋まっているようには見えなかった。私は達成感に大きな息を吐き、伸びをしたところで、言葉を発することなくしゃがみ込んでいる男に勢いよく振り返った。
「ヤバい、目撃者じゃん!」
 あまりにも空気のような存在になっていたため、今の今まで失念していた。冷静になっていたつもりが、どうやら浮き足立った気分は収まっていなかったらしい。そもそも包丁しか持って来なかった時点で、人を殺した後のことはろくに考えられていなかったのだ。何が完全犯罪だ、己の愚かさに呆れを通り越して笑いが起こる。もちろん、笑っている場合ではないのだが。
「どうしよう、こういうときはあんたも口封じに殺すべき? でも今さら不意を突くなんてできないし、死体を埋める穴をもうひとつ掘るのも嫌。脅して口止めしたって、いつあんたが警察に通報するか怯えて暮さなきゃいけないのも嫌。ああ、どうしよう、どうしよう」
 包丁を掴みながら両手で頬を挟み、慌てふためく。心底困ったときに、臨機応変な対応ができないという自分の弱点を思い知らされた。21歳にもなってこれでは、社会でやっていけない。ぎゅっと目を瞑り、必死で考えを巡らせる。
 まず、脅すという方法は使えないだろう。そもそも脅迫する材料がないし、『警察に話せば殺すぞ』と約束させたところで、帰宅後に安全を確保してから通報されれば、私が男を殺す前に捜査の手が及ぶだろう。一方で、抜け殻状態の男を殺すのはそう難しいことではないかもしれない。男は長身ではあるものの、屈強そうには見えなかった。まともな表情は目にしていないが、おそらくは優男の部類だ。
 きっと殺せる、後のことは殺してから考えよう。そう結論を出して瞼を持ち上げると、そこに男の姿はなかった。驚いて首を巡らせれば、男は私のすぐ横まで近づき、触れそうな位置に立っていた。ぎょっとする間もなく腕を捻り上げられ、包丁が奪われる。
「痛い、痛い!」
 身を離そうと相手の足を蹴りつけても、ふらつきはするものの、きつく掴まれた両手首は解けず逆に包丁を後頭部から突き付けられた。一歩でも下がれば、首が切れる。痛いことは断じて御免なので、私は全身の力を抜き、抵抗の意志がないことを示した。すぐに刺してこないのだから、殺されることはないだろうという計算もある。
「動くな」
「動いてませんけどぉ」
 下らない挑発にも乗らない。乗ってもらったところで、自分の命が危うくなるだけなのだが。歪んだ唇の向こうに食いしばった歯の見える凶相で、男が押し潰したような声で囁く。
「……僕と一緒に来てもらう」
「どこへ?」
「黙れ」
 包丁の刃先が首筋に触れ、どきりとする。大人しく従ったほうがいいと判断するには、充分な感触だった。腕を掴まれ、男が歩き出すのに任せる。
「ケーサツ行くの? こういうときって、交番と警察署、どっちに行くべきなんだろうねぇ。近いほうが良い気もするし、立派なほうに行くべきって気もする」
「黙れ」
 一見すれば、手を繋いだ微笑ましいカップルに見えたかもしれない。けれど実態は、そのカップルを引き裂いた人殺しと可哀想な生き残りであり、懲りない軽口を叩くたびに包丁が向けられた。もっとも、じきに朝日が昇ろうという時間のこと、擦れ違う人もなく、奇妙な二人組の姿を目撃されることはなかった。
 半ば引き摺られながら連れられた先は、公園からそう遠くないアパートの2階にある一室だった。当然のように鍵を開けた様子を見るには、男が生活している部屋なのだろう。室内の様子を眺める暇もなく背を突き飛ばされ、乱暴に中へと押し込まれる。膝をつくほどの強さで押された背中の向こうで、がちゃりがちゃがちゃ、施錠とチェーンロックの音が鳴る。不満を述べようと振り向いたときには、すでに男は奥の部屋へと進んでいた。2LDKという間取りと、綺麗に掃除された室内から判断するに、もしかしたら男は恋人……真澄といったか、その女と同棲しているのかもしれない。よくよく観察すれば、可愛らしいぬいぐるみや花が所々に飾られている。
 男はすぐに戻ってきた。その手には包丁と荷造り用のビニール紐、紙ガムテープがある。
「ケーサツに突き出すとき、そんなに厳重に拘束する人はいないと思うよぉ? なんか、私のほうが被害者っぽく見えちゃうし、そこまでしなくても暴れたりしないし」
「警察に引き渡すつもりはない」
 低く呟いて、男は私の身体を何重にも縛っていく。まずは両腕と身体をひとまとめに、次は両手首、そして両足首、おまけに膝もビニール紐が通される。どう頑張っても自力では歩けそうになかった。
「靴、履いたままなんですけど」
「どうでもいい」
 黙れという言葉の代わりに、ガムテープで口が塞がれた。さすがに息苦しく、鼻で荒く呼吸する滑稽な様を晒すしかない。さらに、ビニール紐にガムテープが重ねて巻かれる。入念すぎて気味が悪い。
 出来損ないのミノムシのような姿にされた後は、肩に担ぎあげられ、浴室に運ばれた。バストイレ別なんて素敵ですね、などと感想を述べることもできず、固い浴室に身体を納められた。背中でくくられた両手首が下敷きになり、涙がにじむほど痛かった。
 ドラマや漫画で、浴室が殺害現場に選ばれる話は何度も見たことがある。血を洗い流しやすいためだろうが、実際は科学捜査の餌食になるはずだ。もちろん、一見したときの血痕などは処理しやすいので、まったく愚かな場所選びというわけでもないのだろうが。
 いよいよもって殺される恐怖に身を固めたところで、男は浴室から出て行ってしまった。暗い浴室の冷たい浴槽の中に、ひとり取り残される。目や耳は塞がれていないので、暗いながらも浴室の中を見回したり、室外の音に聞き耳を立てたりすることはできた。とはいっても、まともに身動きができないのではどうしようもない。浴室に鍵はかかっていないが、渾身の努力で外に出られたとしても、この2LDKの部屋そのものから脱出することはできないのだから意味がない。溜め息を吐こうとして呼気が逆流し、慌てて鼻から逃がす。大人しく、姿勢を整えて身体の痛みを減らすことに専念した。ガムテープに巻き込まれて頬に貼りついた髪が気持ち悪い。
 耳を澄ませてみると、時折、犬の鳴き声が聞こえた。拘束劇が繰り広げられている間は奥に隠れていたのだろうか、控え目な、小型犬らしき声。愛し合う男女に犬とは、なんとも幸せそうな組み合わせだ。二人とも若そうだったので恋人同士かと思ったが、もしかしたら既に結婚しているのかもしれない。
 幸せな恋人、幸せな家庭、幸せな人生。白々しくて、私には縁のない言葉だ。人肌に温まってきた浴槽の中で、私はそっと目を閉じた。





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