赤い糸オフライン

赤い糸オフライン

 切っても切れない仲という言葉が昔から好きになれなかった。
 切ったら切れるじゃん、そうツッコミを入れたくなってしまう。
 そうだよ、切ったら切れちゃうんだよ。

「あそこのつけ麺屋、挑戦しよっか」
「え~、けっこうガッツリ系だよ。まったく、これだから運動部は……」
「ほら、女は度胸、男は度胸だよ」
「愛嬌のある人間はいないのか。わかった、度胸のある運動部についていきますよ」
 リッカは文句を言いつつも来てくれる。土曜日、補習が中途半端に終わった私たちは中途半端に街に繰り出し、新しいつけ麺屋を発見する。制服の女子高性二人はカウンター席の店内ではちょっと浮いていたけど、その程度の覚悟は入店前からできている。糸が引っかからないように、気をつけて椅子に座る。
 整理券方式の店なので食券を買って、店員さんに渡す。店員さんは「大盛り無料ですけど、どうします?」と誰にでも必ず聞く一言を私たちにも言う。
「大盛りでお願いします」と私は決然と宣言する。
「ウソ? 由理(ゆり)、本気なの?」
「挑戦したい年頃なの」
「わかったよ、きつかったら食べてあげるよ。挑戦しなさい。店員さん、わたしは普通ので」
 リッカもダイエットにさほどのこだわりがあるわけでもないし、食べようと思えばそこそこ食べられる。でも、大盛りを頼むほどの勇気まではない。なので少し残して、リッカに食べさせるとちょうどいい。私の中で、この行為を「餌付け」と呼んでいる。ばかにしているわけではない。あくまでもフレンドリーで気さくな二人だから使える言葉だ。実際に言ったら、たぶん怒るだろうけど。
 でも、二人揃って補習に呼ばれる程度の学力の私たちなんて、動物みたいなものなんじゃないのか? もちろんそんなことも言いはしないけど。
「あ~あ、補習やるならさ、半日とかじゃなくて一度にまとめてやってほしいよね。小出しにしていくのとか、気分滅入ると思わない?」
「そしたら、由理は土曜が一日中勉強でつぶれてもいいと、そう言いたいわけね」
「ごめん、やっぱり、無理です。精神崩壊するわ」
「その程度で崩壊しないでよ、心弱すぎるよ~」
 つけ麺ができるのを待つ間、そんなたわいないトークをしていると、イヤガラセみたいにノイズが頭に入ってきた。
<うわ、女子の制服、かなり汗ですけてる>
 何を考えてるんだ、あのばか野郎は……。
 私は酒に酔ったサラリーマンみたいにテーブルにがっくりと突っ伏した。
「どうしたの、由理? 補習したから知恵熱?」
「赤い糸から、しょうもなさすぎるメッセージが来ましてね……」
 しょうもない話をリッカに説明したら、元がしょうもないので、やっぱりしょうもなかった。
「大久保君はムッツリというよりポジティブそうだもんね、そういうとこ。ほら、前にわたしも一緒にカラオケ行った時、あったよね。あの時もちょくちょく下ネタ飛ばしてたし」
「はあ……どうしてあんなのとつながってるかな……。白馬に乗ったなんとやらまでは望みませんけど、もうちょっとほかにおらんかったんか……」
 落ちこみながら右手を見る。
、私たちの右手人差し指(たまに左手の人もいるけど)には、一本の赤い糸が結びつけられている。
 まあ、糸といっても、それは比喩であって、材質はいまだによくわかってない。伸縮自在で、どっちかが地球の裏側にいっても切れないらしい。結んでいるといっても、それも比喩で指からほどけることも絶対ない。
 私たち人類は、物心つくと赤い糸が指から伸びて、知らないうちに誰かほかの異性の糸と結びつくようになっている。
 俗に、赤い糸という。
 簡単に言うと感情の糸電話。
 糸が結びついてる相手が強く何かを思うとその考えがもう一方に伝えられる、というわけだ。「強く」というのが大事で、何から何まで届くわけではない。そうでないと、大変だ。「今のうちにトイレ行っておこう」とか「日焼け止め塗り忘れた」とかそんなことまで聞こえてきてもうるさいだけだ。旅先で「今のうちにトイレに行っておこう」って恋人にメールする人はいないだろう。
 おそらく、中途半端に自意識を持った太古の人類は結婚相手をなかなか見つけられなくなったんだろう。それで確実に相手をキープするためにこんな糸を伸ばす進化をしたのではないだろうか。
 国によっては、糸がつながってる者同士でしか結婚できないという悪夢のようなルールのところもあるが、日本は民主主義的にそういうことはないから、まだマシだ。
 そして、私の赤い糸は隣町の大久保光平(こうへい)という同学年の高校生と結びついている。
「でもさあ、大久保君って、そこそこかっこいいんじゃないかな。サッカー部でさ」
「補欠だけどね。さほど上手くもないから、後輩にも舐められるタイプ」
「カラオケの時、けっこう歌は上手だったよね」
「ああ、あれはね、練習してる特定の曲だけ披露して誤魔化してるだけ。冷静に考えてみ? どうして高校生が尾崎豊ばっかり歌うかね? 最近の曲知らないから、親の持ち歌の一部をそのままパクってるの」
「由理、もう少し、評価しようよ。糸つながってるんだし……」
 こっちの辛口トークにリッカは若干引いていたが、不当に低い評価をしたわけではない。厳正な審査のうえでの発言です。
「やっぱり、糸から何も聞こえてこないとプラスの補正がかかるのかな。そんなにいいもんじゃないよ、あいつ」
 リッカも光平のことには詳しい。一対一で会うのが嫌だから、よく同席いただいていた。光平も女子が多いほうがいいだろう。それに運動部同士というのはよくないのだ。お互いの自我が強くて、相手をコントロールできない。
「むしろ、赤い糸のせいで、大久保君のいいところが由理にわからなくなってきてるんじゃないかな」
「リッカは天使だね。ほんとにリッカが天使すぎて怖い」
 そんなことを話していたらつけ麺が来た。
 思ったよりも海鮮スープが口に合って、リッカのために置いておいてやろうと考えていたのも忘れて、完食してしまった。私って人のことを考えるのが下手だ。
 そのあと、リッカと映画を見にいった。
 評価が高くて、まず確実に外さないだろうという鉄板のチョイスだった。映画代ってけっこうばかにならないから、面白くないのを見てしまうと、かなり後悔するのだ。お金が減るのはまだいいけど、あの後悔を味わいたくないので無難なところを狙いたくなる。
 なのに、また赤い糸からのメッセージが一番感動的なシーンのところでやってきた。
<相手チームのマネージャー、超きれいじゃね? あれはずるいだろ。あんなんだったら、そりゃ、みんな自動的にやる気出て頑張るしさ>
 お前は何を言っているんだ……。
 というか、気持ちが飛んでくるのがそんなことばかりということは、その程度しか意識が向いてないということだ。サッカーに関することをもうちょっと考えろよ。
 あのね、こっちは映画を見てるのね、そこでマネージャーがどうか、マジでウザいんだけど。映画代請求するぞ……。
 殺意に近い思念を頭に浮かべてやった。たぶん、光平に届くだろう。
<悪い、悪い! 男ってしょせんこんな生き物なんで諦めてくれ……>
 いやいやいや、その論理はおかしいでしょ? なんでこっちが諦める流れなのよ。光平が謝るターンでしょうが。自分に罪がないようにさりげなく仕向けようとするな!
<すまん! ほんとにすまん! 許して!>
 次はないと思いなさい。雑念ばっかり飛ばしてこないように。
 映画に意識を向けたら、シーンが変わっていた。
 言いようのない敗北感があった。

「もう、光平の奴、ほんとに信じられない……」
 映画館の近所のマックで、ヤケ酒のようにシェイクを飲んだ。酒の味はいまだ知らないけれど、値段からしてシェイクより数倍おいしいはずだ。そうでなきゃ、大人はばかだ。
「まあ、まあ。よくある話だからさ、そんなにいらいらしなくてもさ」
 両手を広げるしぐさでリッカは私をなだめる。リッカはボディアクションが派手だ。リッカは体をあまり動かさないから、効率のいい体の使い方がわかってない。だから、そうやって無駄ができる。こういうタイプほど本当は怒らせてはいけない。
 その指に赤い糸がきらめいた。
「リッカの赤い糸の相手って、そういえばどんな人?」
 光平の話はよくグチで出てくるが、その逆は全然聞かない。
「電車で十分ぐらいのところの専門学校生。どっちかというと、静かな感じかな。いかにも世間が考えてる今時の若者って感じの人」
「え~、いいな~、トレードしてよ~!」
「そんないいことばかりじゃないよ。歳が二つ離れてると、いろいろと面倒くさいこととか多いしさ。絶対、赤い糸は同い年のほうがいいよ」
「でもさ、年上だったら何かとリードしてくれるわけでしょ。こっちはそういうのまったく期待できないから。ほんとに犬の散歩的感覚で……」
 糸がつながってるからということで、二週間に一回ぐらいはいまだに会っているけど、惰性もいいところだと思う。
「そういえば、由理は明日は大久保君とは会わないの?」
「あ~、もう二週間経つのか。でも、いいよ。何してるかは糸のほうから、たまに伝わってくるしさ。正直、どうでもいいかなって」
 苦笑しながら私は言った。
「ほら、赤い糸が運命だなんて、すごく古風な発想だしさ。今時はやらないしさ。私も光平も、とっとと、お互い、ちゃんとした恋人を見つけたほうがいいと思うんだよね。友達とも恋人ととも違うビミョウな関係だし」
「うわ、どうでもいいとか大久保君に気持ちが届いたら泣いちゃうよ。もう少しオブラートに包もうよ」
 慎重派のリッカにたしなめられた。リッカはいつも私を上手くコントロールしてくれる。おかげで、私はついつい甘えて、きつい言葉を使ってしまうところがある。
「むしろ、どうでもいいって思念で伝えたほうがいいのかな。だって、どうでもいいんだし」
 それから、リッカの目を見て、こう言った。
「リッカと遊んでるほうが百五十倍楽しいよ」

 日が暮れてきて、私たちは家路につく。
 でも、まず目指すのは駅から少し離れた人気のない、だだっ広いだけの公園だ。そこに自転車を停めてある。公園の駐輪スペースなら、お金もかからないし、撤去されることもない。わざわざ駅から離れたところまで来て盗んでいく奴もいない。割と完璧なチョイスだと思う。
 その時も、はるかかなたで犬の散歩をしてる人が見えた以外は、公園には人の気配がなかった。哀愁すら漂うぐらいだ。公園だって人に遊んでもらえないと存在意義がなくなって困るだろう。
「いやー、補習はだるかったけど、映画も面白かったし、いい一日だった。ありがとう、リッカ!」
「別にわたしのおかげじゃないよ。主に映画の功績だし」
「その映画だって、リッカがいなかったら行けなかったし。一人で見るのは寒いしさ」
「それこそ、大久保君と見に行ったらいいんじゃない?」
 あきれた声でリッカが言った。
「光平となんて行っても、せいぜい映画館で昼寝されるのがオチだって。そういう芸術的なことを分かち合えるレベルじゃないから」
「そっか、大久保君のことはどうでもいいんだったね」
「そういうこと~」
 自転車は風のせいか私のほうだけ倒れていた。起こしてやらないと。あとはのんびり家のほうまで走らせるだけだ。
「あのさ、由理、さっきいい一日だって言ってたよね」
「うん。そうだけど。何かあった?」
「わたしはちっとも楽しくなかった。最悪だった」
 いつもどおりの声の調子だったから、危うく聞き逃しそうになった。
「えっ、どういうこと……? もしかして、あの映画、面白くなかった……? 私、リッカの趣味、勘違いしてたかな……?」
 あわてて、リッカの顔を見た。リッカは私をにらんでいた。まるで、この世の悪意そのものを見ているように。
「違うよ。そんなしょうもない理由じゃないよ。由理が、大久保君のこと、どうでもいいとか言うから」
「どういうことかな……? 人のグチとか聞くのは、最悪ってことかな……?」
「わたし、大久保君のこと、好きなの」
 告白のはずなのに、それは愛情のこもったような声とは、あまりにかけ離れていた。
「なのに、糸は由理とつながってるし、由理は大久保君のことで悪口ばっかり言うし! 何が『どうでもいい』なの! どうでもよくなんてないよ! 本当に糸の相手、替わってほしいと思ったよ!」
 リッカは少しむせそうになっていた。こんなふうに叫ぶことなんて、きっと慣れてないに違いない。そんなことを私はさせてしまっていた。
「ごめん、私、ばかだから、なんて答えればいいのかわからない。どうすればいいのかな? リッカの気持ちがわからなくてごめんって言えばいいのかな?」
「そういうことじゃないんだよ、由理。わたしに謝っても何も生まれないよ。わたしが可哀想に見えるのかもしれないけど、そんなの本当にどうでもいいんだよ。問題なのはね、大久保君のことがどうでもいい、どうでもいいって言ってたことなんだって」
 リッカの顔には諦めが張りついていて、醜さと美しさが入り混じっていた。マーブルの渦のように、相反する二つのものが交互にやってくるようだった。
「だから、そんなにどうでもいいのなら、こうしてあげるよ」
 リッカの右手が一瞬、きらめいた。
 ステンレスのハサミだ。
 もしかして刺されるの? そんなのはニュースとか遠く離れた世界の出来事で実感がもてなくて、私は逃げようとすることもできなかった。
 でも、そのハサミは私ではなく――私の糸を切った。
 パチン。
 かわいた音とともに、糸が地面に落ちた。
「これで、余計な雑音も聞こえてこないはずだよ、永久にね。よかったね」
「え、え、え……。切ったの……? 本当に切ったの……?」
 私は視線を力なく垂れている糸に向けていた。一度自分の体から離れてしまうと、それはとても汚いもののように見えた。
「そうだよ。運命の人じゃないんだから、かまわないよね」
「かっ、かまわなくなんてないよ! 赤い糸は一度切れたらおしまいなんだよ! そんなの、ほかの人間が勝手に切っていいわけないでしょうが!」
「好きでもなんでもないんだったら、困らないはずだよ!」
「困るよ! そりゃ、恋人じゃないかもしれないけど、光平だって大切な友達なんだからっ!」
「やっぱり、ウソだったんだ」
 くすくすとリッカは悲しげに笑った。
「大久保君の悪口も許せなかったけど、もっと許せなかったのは、由理がウソをついてたこと」
「ウソって何を?」
「大久保君のことが『どうでもいい』わけなんてないのに! いつも、大久保君のこと話してるし、大切な人だってわかってるはずなのに!」
 言われて、私も気づいた。
 というか、今、まさに私はこう評していたのだ――大切な友達だと。
「大切な友達」と「どうでもいい」、それはどちらも私の口から出た言葉だ。その二つは矛盾している。
 答えは単純だ。
 私の「どうでもいい」は誤り、間違い、ウソ。
 つまり、私はリッカが絶対に手に入れられない光平の気持ちを知っていて、それを大事にしながら、リッカの前で、くだらないものだと始終話していたわけだ。
 最悪だ。
 そりゃ、ムカついてムカついてたまらないだろう。それだけのことを私はしたんだ。
「人間はね、どうでもいい人のことをね、あんなに楽しそうに話したりなんてしないんだよ。大久保君は由理の大切な一部分で、それはね、ほかの誰かじゃ代用できないんだよ。それで、きっと由理も大久保君の大切な一部分なんだ」
「ごめん、リッカ」
 謝らないといけない。
「どうして謝るの。ここは怒るところだよ」
「ううん、リッカがいないと私、一生間違えたままだったと思うから。大切なものを、死ぬまでどうでもいいものだと扱い続けていたかもしれないから……」
 変な話だけど、糸を切られて、心なんて通じなくなって、これまでで一番光平のことをいとおしいと思っていた。
 すごくばかみたいだけど、私たちは失わないと価値を理解できないんだ。
 光平と心が通じることなんて、あまりにも当たり前でその意義なんて考えたこともなかった。
「私は頭悪いからさ、きっと口で何を言われてもわからなかったんだ。こんな実力行使がないと無理だった」
「無理してわたしを許さなくていいよ。わたしのやったことは傷害罪だから」
「いいよ。私と光平の間は何も変わらないと思うから」
 その一言を笑って言えたのだから、上出来だろう。
「大久保君のことを大切だとわかったんなら……」
 リッカはハサミを地面に投げつけた。怒りを投げ捨てようとしてるみたいに。
「早く、大久保君のところに行ってあげて! それで糸が切れた理由を話してあげて! わたしをおもいっきり悪者にして! そしたら、きっと上手くいくから」
「携帯じゃダメなのかな……?」
「大切なことは直接伝えないといけないんだよ!」
「わかった!」
 私は自転車にまたがる。
 道はわかる。赤い糸をたよりにしていけばいいから。
「また、ムカついたら叩いてくれてもいいから」
 出かける前にリッカがそんなことを言った。
「上手くいったら、なでなでしてあげるよ」
「余計に屈辱だよ」
「そしたら、行ってくる。女は度胸だからね!」

 足もとを見ながら走ってみて、初めて気づいた。地面は大量の赤い糸。この世は赤い糸だらけだ。この世界は赤い糸でぎっしりつながれているんだ。
 でも、私の赤い糸は切れても、少しだけ違って見える。一本だけ輝きを放っている。だから迷うことはなかった。
 今頃、光平はどうしてるだろうか。急に気持ちが聞こえてこなくなったことに気づいているだろうか。何かトラブルがあったのかと驚いているだろうか。
 私は、体のある部分をきれいにくりぬかれたような、すごく変な気持ちだ。心臓がないのに生きているような、そんな矛盾した感じで、自転車をこいでいる。
 この、何もないところに、早く何かを入れないと機能停止してしまいそうだ。それは愛でも夢でも欲望でも勇気でも、とりあえず何でもいい。私を動かす電池がほしい。ほしいから走る。
 といっても、焦る気持ちも赤信号には勝てなくて、私は自転車を止める。自転車が回転しなくなると、心もしぜんと醒める。これまでより一歩、二歩先のことを考えるようになる。
 光平に会って、何を伝えようか。
 そういえば、確固とした答えなんて持ってなかったや。糸を友達に切られました、その報告に自転車で来ました、おしまい――それじゃダメなんだと思う。
 だけど、好きです、愛してます、結婚して下さい――というのも違うと思う。私は光平のことを好きとは言いきれないし愛してるとも言いきれないし今のところ結婚したいとも思ってない。だから、言えない。
 いっそ、リッカがあなたのことを好きだと言ってたよと教えてやろうか。それは、ないな。いい人のふりをして、一番リッカに失礼なことをしている。今度はハサミで胸を刺されるぞ。
 自分が入れないと思ったから、リッカは私に行けと言った。そうじゃなかったら、リッカは私にとってかわろうとしただろう。
「あれ、あの制服の子、切れてるんじゃない?」
 そういう声って、耳にクリアに届くものだ。他校の女子生徒が私のことを話していた。
「ほんとだ、糸、切れてるね」
「何かあったのかな、修羅場?」
 ある意味、正解だよ。でも、人の修羅場を想像して楽しそうにするのはよくないと思うよ。もし、そんな思念があなたの赤い糸の人に聞こえたらどうするの? 届いちゃうほど強い気持ちは隠しようがないんだよ。
 信号が青になった。神様がお逃げなさいと言ってるのだろうか。
 でも、その前に、
「大丈夫です! 糸が切れても、心はつながってますから!」
 その連中に思い切り声をかけてから、走り去った。自分たちの行為を恥じ入れ。むしろ、私のほうが恥ずかしい気がするけど、かまいはしない。私だってあの連中と大差なかった。
 今、ほんの少し、ヒロイックなことができてるとしても、何もかも、リッカのおかげだ。
 ああ、あいつらのおかげで心の整理がついてきた。何が幸いするかわからない。一級河川の長い橋を渡る。渡った先が隣町だ。渡った先の駅前のにぎわってないほうに光平の高校がある。まさか、もう帰ってないよね? 家まで行くのはさすがに恥ずかしいし、高校で決着をつけたいんだけど。
 そして、高校まで残り一キロというところだった。
 向こうから光平が走ってきた!
 あんた、そんな真剣な顔、サッカーで見せたことないんじゃないのかってぐらいに気合を入れて。ずっと糸の垂れている足もとを見ていたから私のほうにもなかなか気づかなかった。
「おい、由理、何があったんだ! 糸が変なんだけど!」
「ごめん、切れちゃった。それの報告で来た!」
「切れたって、それだけか?」
 よほどの全力疾走だったのか、光平はぜえぜえ息を吐いていた。珍しく深刻そうな顔をしている。
「それだけって、ほかにどれだけがあるのよ?」
「ほら、ケガしたとか病気したとか、そういうのはないんだよな?」
「何もないよ。ぴんぴんしてる」
 深刻そうな光平の顔がまたいつもの、しまらないものに変わった。
「な~んだ。じゃあ、どうでもいいな。そういうのはメールで教えてくれよ」
「いや、メールしようかと思ったけど、大切なことだから会って話そうかなと」
「ケガでも病気でもないんだったら、大切なことじゃないだろ」
 どうして、光平と話す時はケンカのようになってしまうんだろう。
「でも、気持ちとか伝わらなくなったじゃん! それ、けっこう大きなことじゃないの?」
「由理、こんな糸なんかに頼っても仕方ないだろ。こんなの、ただの糸だ」
 赤い糸を、光平はただの糸だと言った。
 暴言のようだけど、なぜだか説得力があった。
「俺の気持ちが知りたかったら、俺がいくらでも教えてやる。それでいいだろ? 由理も伝えたいことがあったら、俺に教えてくれ」
「そうだね」
「むしろ、お互い、教えたくもないことなんて教えたって迷惑なだけだ。そんなのコミュニケーションじゃない」
 もっともだ。
 ぽかぽか。私は二回、光平の胸を軽く叩いた。
「急いでここまで来て、損した」
「なんで、俺、叩かれたの……?」
「心労代だ」
 糸の役目はつながりのない二人につながりを作ってあげることだ。最初のセッティングのためのものだ。
 だから、私たちにとって糸はとっくに役目を終えていた。
 なかば強がりで、リッカの前で「私と光平の間は何も変わらないと思う」と言った。でも、それが当然だった。糸の使用期限はとっくに過ぎていた。
 そんな過去の遺物を絆だとか運命だとか、うさんくさい言葉で飾り立てて、意味があるように見せていた。そんな世間一般でありふれているフィクションに私ものっかっていた。
 自分自身にウソをついて私は何をやってきていたんだ。こんな糸、とっとと自分で切っておけばよかったかもしれない。そしたら、リッカもあんなに苦しまずにすんだのに。なんて茶番だろう。私たちはそんな再確認のためだけに、泣いたり、走ったり、叫んだりしてたのか。高校生って面倒くさいや。
「今度、映画見にいこっか」
「そんなことより、サッカーの試合見にこいよ」
「光平、試合に出てないじゃん」
「おい、それは言ってはいけないとこだぞ……。カラオケは?」
「いいけど、尾崎豊禁止だからね」
「長渕は」
「高校生らしい歌にしろ! 親の持ち歌ばっかり使うな!」
 私たちはなんとなく駅の方向を目指して歩きだした。その間、光平のほうは赤い糸を引きずっていく。
「もう、切ったら?」
「そうだな。カッター、筆箱に入ってたし」
 何の未練もなく、光平は赤い糸を指の近くで切った。
「生まれ変わった気になった?」
「なるわけないだろ」
 もっともだ。
 あとでリッカには「ごめん」と「ありがとう」をあらためて言っておかなければ。
 私はもう少し、隣町の見慣れない道を光平と歩く。
 見慣れない道も、よく見ると赤い糸であふれている。あらゆる道にレッドカーペットが敷き詰められているみたいだ。ここに私たちの糸も混じっていたのか。なんだか、感慨深いや。でも、そんな気分になれるのは糸と卒業できたからだろうな。オフラインで初めてありがたみがわかるだなんて、インターネットみたいだ。
 信号を渡ったところに自販機があった。
「ノドかわいたから、ジュースおごってよ」
「俺も炎天下の観戦でノドかわいてるんだ。じゃんけんで決めようぜ」
「「じゃんけん、ほい」」
 お互いに、ちょき。その次は、お互いに、ぱー。今度は、またちょき。
 なかなか、決着がつかず、私たちはやけに必死にじゃんけんをしていた。
「あら、気が合いますね、意外と」
「意外とか言うなよな」
 じゃんけんほい、じゃんけんほい。
 切っても切れない仲って、いいかも。

終わり
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