君に話した物語


えっ、そうだよ、うん。ぼくのことわかるの?
ぼくに話しかけてくれるなんてめずらしいね。何か聞きたいことがあるの? それなら嬉しいな。
ただのひとり言だったっていう答えは無しだよ。ちゃんとぼくのほうを見て言ってくれたんだから。
でも意外って顔だね。驚いてぶつけちゃったひじはちゃんとさすったほうがいいよ。少しでも痛みがやわらぐからね。
あっそうそう、大きな声は出しちゃだめだよ。いくら人が少ないからっていっても、ここはそういう決まりなんだから。それに、人影が見えなくても、みんなには聞こえてるからね。
そんなにじろじろ見ないでよ。どうしてそんなにくたびれた格好なのかって? 変かな? あんまり気にしたことなかったなあ。ずっとこれ着てるし、あったかみがあって、なじんでるから平気だよ。
話しかけてくれたってことは、ぼくのこと知りたいの? こんなぼくがどうしてここにいるのかってこと?
着てるこれに何て書いてあるかって? 外見だけじゃなくて、もっと中身のこと聞いてくれてもいいのに。
あっ、ごめんね。ちょっと興奮しちゃってたよ。だからそんな怪訝な顔しないで。
嬉しかったんだ。ぼくに語りかけてくれる人なんて、おじいちゃんくらいのものだったからさ。おじいちゃんはおじいちゃんだよ。ぼくはおじいちゃんと一緒に住んでいたんだ。もうずいぶん昔のことだけどね。
海辺の白い家だったんだ。潮風に吹かれて漂白してしまったみたいにね。窓から見えるのはほとんど空と海、小さい砂浜、そこに続く小道くらいで、あとは裏手に木の生い茂った小高い山があるくらいだったかな。海にはかもめが飛んでて、たまに船が見えるくらいで、いつも穏やかだった。そう、毎日何事もなく、それはそれは穏やかだったんだ。
窓辺には小鳥を飼っていたっけ。小鳥は青い色をしていて、かごの中で毎日美しいさえずりを聴かせてくれていたんだ。
だからおじいちゃんはもうすでに過去に幸せを見つけていたんだね。幸せっていうのが大げさなら、心の平穏とか、居場所を見つけたとかでもいいよ。
幸せってのは古いお話では身近なところにあるって言うじゃないか。でもいっときはそれで満足できても、人ってやっぱり次の何かを求めたがるんだ。かごの中の鳥でいることに少し飽きてきたんだろうね。その証拠にほら、鳥もなんだかくたびれて、羽が毛羽立ったりして、色もくすんできてるでしょ。だからこそおじいちゃんはそれをぼくに託したんじゃないかな。何をって? まあそう焦らないでよ。

大きくてのっぽな、ずいぶんと古い時計があったのも憶えてるよ。ときどきボーンボーンと鳴って時間を知らせてくれてた。おじいちゃんが生まれたときからあったらしいんだ。
でもだんだん時間が合わなくなって、おじいちゃんが自分の手で何度も修理したんだけど、それでも駄目で。その頃おじいちゃん、足を悪くしちゃって、そう何度も手をかけてられなくてさ。
ついに時計を買い換えちゃったんだ。そしたら足の具合も良くなって、古い時計が質屋で思いのほか高く値がついたのもあって嬉しそうだった。
あの時計はその後、売られた先で職人さんに修理されてちゃんと動くようになったみたいだけど、おじいちゃんは新しく手に入れたモダンな時計のほうが気に入っちゃったから、もうこの家でボーンボーンって音が響くことはなくなったんだ。それでもあの古い時計のことを思い出すと、今でもどこからか聴こえてくるんだ。
女房と時計は新しいのに限るなんて冗談めかして言っちゃうくらいだったけど、まあそんな強気なこと言っても内心ではどうだったか、奥さんと別れても長いことずっと一人を貫いてたわけだしね。
家族の写真も、見えるところに飾ってはいなかったけど大切にしまっておいてたみたいだし、何かのときにこっそり取り出しては、じっと眺めてたの知ってるんだ。奥さんと娘さん、それに一匹の大きな犬と一緒に、そろって額縁におさまってた。見慣れない場所だったから、きっとここに来る前の、もっと都会に住んでた頃のものなんだろうね。
部屋の隅にじっとたたずんでるのは、娘さんに渡せなかったうさぎのぬいぐるみだよ。もうあの子もぬいぐるみって歳ではないだろうに、お誕生日だとかに買ってきてはプレゼントしてたみたいなんだ。お別れの前にも買ってあったんだけど、結局渡せなかったんだね。
他にも娘さんが残していったものもある。くまのぬいぐるみや人形なんかがね。ぼくは写真でしか彼女のことを知らないし、写真もちゃんと見たとは言えないんだけど、彼女は小さい頃、そのぬいぐるみや人形で遊ぶのが好きだったんだ。まるで生きてるかのようにあやつって、口調や声色も巧みに使い分けてた。
夜寝るときもその子たちをベッドに並べて一緒に寝るくらいだった。ここじゃない昔の家でのことなんだけどね。そこと比べてここは居間と寝室とキッチンだけだから、ずいぶんせまく感じるけど、おじいちゃんにはそれで充分だったんだ。静かでいいところさ。波や木々や虫の音は心を落ち着けてくれるしね。
夜になると山の向こうがぼうっと明るくなる。家の灯りを消すと本当に真っ暗になるんだ。でもだんだん目が慣れてくると、月の光が海に反射して、それが思ったより明るいのがわかるんだ。光が波に揺れてて、そこに人影みたいなのが見えると、それが人魚だ、っておじいちゃんの釣り仲間の人が言ってたけど本当なのかな。
おじいちゃんが寝静まる頃になると、よく耳を澄ますといいよ。誰かが話しかけてくるんだ。
「おいお前、お話が好きなんだってな。いいこと聞かせてやるよ」
棚の上から聞こえる声の主はくまのぬいぐるみだね。ちょっと高いところにいるからって偉そうな口ぶりなんだ。するとドレスを着た人形が目をきらきらさせながら言ってくる。といっても近頃は愚痴ばかりだけど。
「またあの話なの? もう聞き飽きたわよ。よして頂戴」
「違うよ。あの子から聞いたんだけどさ、お母さんが第二子を身ごもったそうじゃないか。名前は……」
すかさず向こうからうさぎのぬいぐるみが言うんだ。
「それいつの話だよ。まったく、幸せなやつだなあ」
くまさんももうろくしてしまってて、今は暗くてよく見えないけど、もう白熊だとは呼べないくらい色がすすけてたんだ。それを言っちゃうと、お人形さんのほうもほこりをかぶって老けたように見えるし、うさぎさんもあんまりひとのこと言えないんじゃないかな。

彼らの言うことも興味深いけど、ぼくはね、おじいちゃんが語ってくれるお話が大好きだったんだ。今でもいろいろ憶えてるよ。
昔の大変だったことやつらかったこと、家族ができてすごく幸せだったときのこと、そして一人になった今も、ちょっと寂しくはあっても穏やかな暮らしの中で起こった出来事なんかを熱心に語って聞かせてくれたんだ。
その手に持つペンがふるえて文字が読みづらかったりはしたけど、ぼくに語って聞かせてくれるときは、いつも懐かしそうに遠い目をして窓の向こうを眺めたりしながら、おもむろにぼくのほうを向いて、言葉ひとつひとつ大切に語ってくれるんだ。浮かんでくる言葉を吟味しながら、行きつ戻りつして、やっと少し進んだところで陽が暮れてしまう。そんなことをもう何年も続けていたんだ。
語っているときのおじいちゃんは、そのときのお話によって楽しそうだったり、たまに笑ったり、反対に深刻そうな表情のときもあったけれど、それだけ気持ちがこもってるんだ。語りながら昔のことをもう一度体験していたんだね。思い出と寄り添いながら、自分の記憶をもう一度たどり直していくのは、ただ楽しいだけじゃなく、ときどきつらくもあり、苦しいことも多かったと思う。昔のことを思い出すのって大変なんだ。正確に記憶が再現してくれるわけでもないし、いつの間にか美化されたり、忘れてしまっていたりもするだろうからね。矛盾や記憶違いだらけの中から、ひとつひとつねじれた糸をほどいていって、きれいな一本の線にしていく。でもそれが正確なのかはおじいちゃんにもわからない。どっちの手か忘れたけど小さなほくろみたいなのが小指の爪にあってそれが変な模様に見えるんだけど、それを反対の手でこするのがおじいちゃんの癖で、何か思い出したり考えてるときは気づくとその仕草をしていたの、今でも憶えてるよ。
それに、思い出すことだけじゃなくて、そこから語るまでの間には大きな壁があったんだ。記憶を言葉にするうえでもちろん形を変えて、何度も言い換えたり、省略したり、やっぱり無しにしたり、言葉で言いあらわせなくて悩んだりの繰り返しなんだ。そうしている間にも時はどんどん過ぎていく。残された時間がどれくらいあるのかわからないけど、限られているってことはおじいちゃんも充分わかってた。
そして、言葉を受け取ったぼくがそれをどう記憶に残すのかでもまた変わってくる。そんな何もかもがあやふやな中を手探りで進んでいくんだから、思い出だとか目に見えないものを形にするのは大変なことなんだね。どんなふうに言いあらわすか、どうすればうまく伝わるのかっていうのでおじいちゃんは常に悩んでた。
そういうときおじいちゃんは、よくオルガンを弾くんだ。椅子に座ってふたをあけ、しばらくオルガンの前で目を閉じてじっとしてる。それからようやく膝の上に置いた手を、鍵盤のほうにゆっくりと持っていくんだ。ほら、聴こえてこない? 最初はぎこちないけど、しばらく弾いてると指がなめらかに動くようになって、流れるような音の連なりが音符になって目に見えてくるでしょ?
おじいちゃんの耳にはそのうちオーケストラの演奏も聴こえてくるんだ。弦楽器の重厚な旋律の重なりと、管楽器の華やかに響き渡る音、そして打楽器がドラマチックに盛り上げ、オルガンもいつの間にかグランドピアノになって、合唱さえ響いている。そこはもう大きなコンサートホールなんだ。
歌詞のない、鼻歌みたいな歌が聴こえるときは、きっと気持ちが乗っているんだ。閉じられたまぶたの裏側には、きっと昔の楽しい思い出が映し出されている。それが楽しそうだから、ぼくもそっと心の中でその音楽にのせて一緒に歌うんだ。邪魔しちゃ悪いから声に出さないようにね。窓から入ってくる風にひらひら吹かれるのが気持ちいいんだ。そうしてできた、思い出をのせた歌詞も聞かせてくれたよ。そんなふうにお話を歌にして形にできたら本当はもっと伝わりやすいんだろうけど、ここには音を残しておく装置もないし、思い出全部となると、それは語る以上に時間がかかってしまう。
でも短いフレーズなら、聞いた人はすぐに憶えられるね。昔、幼い頃の娘さんに歌って聞かせていた歌があるんだ。それは一曲の歌とも言えないような、短いワンフレーズだけのものだったけど、おじいちゃんが鼻歌に言葉をのせてつくったものだった。
そういえば最近おじいちゃんがたまにかけるレコードがあって、遠い国から取り寄せたものなんだけど、すごく気に入っているみたいだった。それはいい歌声だからってだけじゃなくて、なんだか懐かしい気持ちにさせてくれるからだろうね。
レコードをかけていると、キッチンからお湯の沸く音がして、おじいちゃんは席を立つ。戻ってくると、まだ流れているその歌とともにコーヒーカップがソーサーに置かれて立てる音も聴こえるんだ。口の中にほろ苦い甘みと香りが広がって、それが再び記憶を刺激する。レコードのスリーブを飾る写真をじっと見つめたりして、それからもう一度目を閉じて、頭の中に浮かぶいろんなシーンに向き合うんだ。そこから言葉をつむぎ、より合わせて、ひと続きの文章にしていく。
そんなことをもう何日も、何ヶ月も、何年も続けて、そして話は今朝のことまでたどり着いた。昔の話だったのがとうとう今日に追いついて、もう語ることがなくなっちゃったんだ。長かったけど、それでもきっとあちこち端折ったんだと思う。ぼくが小さいからわからないだろうって、かみ砕いて言ってくれたり、ところどころ省略して、わかりやすくまとめてくれたから憶えられたのかもしれない。
おじいちゃんはこうして長い長い時間のお話を、それでもぼくが憶えられるように語って聞かせてくれた。でも、ぼくの役目はおじいちゃんの話を聞くだけじゃなかった。
お別れの時が来たんだ。ある日、おじいちゃんはぼくを海辺に連れて行って、用意していた小さな乗り物に乗せてくれた。ぼく一人しか乗れないくらい小さな乗り物だったけど、おじいちゃんの気持ちがこめられたものだったからすごく安心できたんだ。
見つけてもらうんだよ、という声とともに、ぼくを乗せたそれはゆっくり岸を離れ、波に乗って進みはじめた。おじいちゃんの姿がみるみる小さくなっていく。砂浜と丘の間に白い家も見えた。慣れ親しんだ土地がずいぶん遠くなってやがて見えなくなった頃、ぼくは目を閉じた。

ねえ、立ったままじゃあくたびれない? ごめんね、ちょっとのつもりだっただろうけど話が長くて。いつもおじいちゃんのことを語りかけるだけで、話しかけてきてくれるなんてそうないことだから、つい嬉しくなっちゃってさ。向こうの椅子のあるところに行こうよ。それとももう座っているのかな。腰を落ち着けて聞くことをお勧めするよ。満員電車の中とか駅のホームとか、歩きながらっていうのは危ないし、できるだけリラックスした状態のほうが、実は効率的にもいいはずだよ。何度も聞き返したりしなくていいしね。手の届くところに飲み物なんかあるともっといいかもね。トイレは済ませておいて、BGMはお好みで。ないほうがいいとは思うけど、聴きながらのほうが集中しやすいって人もなかにはいるからね。ぼくとしては、適度に自然の音が耳に入って心地よく感じるくらいの環境が理想かなとは思うけど、ここみたいに。それに、物語から音楽が聴こえてくることもあるし。
じゃあ話を続けるよ。あ、飲み物は気をつけて、あんまり近くに置かないで少し離しておいたほうがいいよ。ひじでぶつけてこぼしたりしたら大変だからさ。
さて、ぼくは目を覚ましてもまだ海の上。照りつける太陽。自分がどこにいるのかもわからないまんま、遠く遠く流されていく。
自分が何者で、どこから来たのかもわからなくなるくらい、いくつもの太陽が昇り、陽が暮れて、真っ暗な夜を、ただ波の音だけを聴きながら、目を閉じるとおじいちゃんの話だけがあったんだ。もうすっかり憶えてしまったその話は、どこからでも思い出せて、自分のことのように再現されるんだ。
ある日目を覚ますと、子供の頃暮らしていた家で朝を迎えたり、目をあけると酔いつぶれたのか道路脇のゴミ捨て場だったり、娘の呼ぶ声で目が覚めたり、同じような海の、船の上だったり……。
そしてまたある日、目が覚めると、薄暗い建物の中だったんだ。せまくて埃っぽい。光の差しこむ扉から誰かが出て行くと、同時に扉は閉じられてしまった。天井近くの高いところに光を入れる小さな窓があって、その明かりでなんとか目を凝らしてみると、棚にいくつか道具が置いてあるのが見える。魚を獲る網なんかがあるところからすると、ここは漁師の納屋なんだとわかった。きっと海辺に住む漁師に拾われたぼくはとりあえずこのここに連れてこられたんだろうね。
でも一日過ぎても二日過ぎても誰もやって来ないんだ。もしかすると棚の道具がほとんど空っぽなところからして、あの人は次の漁に出てしまったんじゃないかって思ってると、三日目に扉をあける者がいた。光を背にして立っていたのは思ったより背が低かった。子供だったんだ。
その子は遊んでいるうちにぼくを見つけた。最初は見慣れない顔だろうから不思議そうな表情でじっと見てたけど、ぼくが語りかけようとする前にぼくの手をつかみ、お母さんのところに連れて行って、納屋にぼくが隠れていたことを言っちゃったんだ。お母さんは背中にもっと幼い子をおぶってて、なんだか忙しそうだった。ぼくの顔を見るやいなや、見たこともない顔立ちだったせいか、気味が悪いと言って、包丁を持ったまま、その子に捨ててきなさいと言って、再びジャガイモの皮を剥きはじめた。
はーい、と返事をしたものの、その子はすぐにぼくを手放そうとはしなかった。でも、この家にいさせておけないことはなんとなく察していたんだろうね。ぼくはおじいちゃんの話をしたくてうずうずしていたんだけど、彼は遊びに夢中でなかなか語りかけるチャンスがなくて、ただ様子を眺めているしかなかった。ぼくの新しい隠れ場所を探してたみたいだった。でも納屋にいたことは言っちゃったし、家もそんなに大きくなかったから、しばらくするとあきらめてしまったようだった。
そんなことをしているときに、彼の友達が遊びに来ると、すっかり忘れて一緒に遊びはじめたんだ。でもしばらくして思い出したようにぼくのほうを振り返ると、ぼくをその友達に見せた。無事にもらい手が見つかって、その友達の家に連れて帰られることになったんだ。
その子は女の子だったんだけど、正直ぼくみたいな知らないやつをもらっても困るというか、どうすればいいかわからなかったんだろう。家に帰ると彼女のお父さんに見せたんだ。するとお父さんは興味深くぼくを見て、二階の部屋に連れてって閉じこもっちゃった。
その人は時計職人だったんだけど、本業もそっちのけでぼくの語ることに耳を傾けてくれて、といってもなかなか言葉が通じないので、彼はいろんな書物を出してきては何か調べているようだった。ぼくは同じところを何度も何度も繰り返し語っては、また戻ったり、逆に話を飛ばして先のことを語ったりしてた。仕事のほうは大丈夫なのかなって気になってたけど、陽の出ている間もずっと部屋にいて、ぼくの話とたくさんの書物の間を行ったり来たりしていたんだ。
そんな日が続いて、あるとき彼がちょっと出かけている隙に奥さんがやって来て、ぼくを連れ出した。旦那さんが閉じこもっていることに業を煮やしたのか、結構怒ってるみたいだった。
「お前がいるからあの人は……仕事もほったらかして」
とうとう捨てられる覚悟をしたけど、階段のほうじゃなく、つきあたりの部屋へ連れて行かれたんだ。そこはせまい収納部屋みたいで、外から鍵をかけられ、ぼくは閉じこめられてしまった。
ぼくのせいでなんだかひどいことをしちゃったなあと思って落ちこんでいたんだ。するとどこからか風が吹いてくるのを感じて見渡すと、窓があって、少しあいた隙間から吹きこんでいたんだよ。
そこからこの家を出て、またどこかへ行くのも悪くないかなって思ったんだ。だってこのままこの家にいても迷惑かけるだけだし、旦那さんと奥さんの仲が悪くなってることもわかったからね。それに、ぼくの話を聞いてくれる人は他にもいるはずだって期待もあった。だから夕陽の差しこむその窓から出て行く誘惑に逆らえなかったんだ。そこが二階だということも忘れて……。
気づいたときにはぼくは宙に投げ出されていた。
そこへ一陣の風が吹き、ぼくは空中を落下しながら、体じゅうがばらばらになった気がした。屋根の上にいた猫がびっくりしたようにこっちを見ていたのを憶えてるよ。
庭の植木に引っかかったぼくは、今までのことも、おじいちゃんの話もほとんど忘れてしまっていたんだ。ほんの一部を残して、あとは風に吹かれたみたいにどこかへ飛んでいってしまった。高く舞い上がって遠く離れた隣町のほうへ。もしくは向かいの道路のポストの中へ。通りかかった車の荷台の、積み荷の隙間に。あるいはまさか、空を飛んでいた鳥にさらわれて。
家のほうから、帰ってきた旦那さんと奥さんが言い争いをしているのが聞こえてきた。このままだと見つかってしまうかもしれない。せっかく出て行こうと決めたんだから、と庭木の裏に隠れてやりすごした。そこでぼくは再び眠ってしまったんだろう。眠りに落ちる前に、さっき屋根にいた黒猫がこちらの様子をうかがっているのが見えた気がした。

目が覚めたときぼくは、どこかの街の商店街らしきところにいたんだ。
どうも大変な目に遭って気を失っていたみたいで、そのせいか、どうしてここにいるのかも思い出せない。あるのは断片的な記憶だけ……。しかもこれはぼくのものじゃないような気がする。わずか紙切れ一枚分程度のことしか思い出せないまま、どうやってこれからやっていけばいいんだろうと不安になっていたところだった。
商店街といっても、なんだかすっかり寂れた感じで、まだ昼過ぎなのに人通りは少なくて、街の中心地の目抜き通りらしき表示があるのに、通りに並ぶ店もほとんど閉まっている。そんな寂しい風景の中、何やら乾いた楽器の音がさっきから聴こえているのに気づいたんだ。
見ると通りの脇、閉まった店の石壁を背にしてその人はギターをかき鳴らしていた。近づいていくと、置かれたギターケースに投げ入れられたコインもわずかしかなく、たまに人が通っても、ちらりとこちらを見るだけで通り過ぎていく。
「なんだ、大金が舞いこんできたかと思ったじゃないか」
彼は自嘲気味に笑って、演奏を再開する。彼はギターを弾くだけじゃなかったんだ。、弾き語りとはまさにこれで、メロディに合わせて歌うのではなく、物語を語りはじめた。それはとても長くて、陽が暮れても続いた。彼自身の話なのか、聞いた話なのかはわからないけれど、なぜだかぼくが憶えているほんのわずかな思い出にも触れているような気がした。それ以外の部分も、もしかしたらぼくに関わることなのかもしれないと思ってずっと聞いていたんだけど、弾き語りは物語の途中で切り上げられてしまった。もう夜も遅い時間になっていた。この話は今日一日で語りつくせるようなものじゃないと、彼はもうずっと前から、そしてこれからも何日もかけて弾き語り続けるのだろう。今がいつなのか、どうしてぼくはここにいるのか、ここがどこなのかもわからないまま、何か大切なものをどこかに置き忘れたか吹き飛ばされたかして、ぼく自身も流されるようにして、この寂れた街の通りにいたんだ。
気がつくと彼の姿はすでになく、真っ暗になってしまった通りは本当に誰もいなくなった。

夢の中でぼくは、たくさんの紙束に埋もれて息苦しかった。突然明かりが見えると、足元がひっくり返って、紙束とともに流れ落ちて、大きな箱に次々と移し替えられていくんだ。閉じこめられたり流されたりを繰り返すうちにぼくは紙束にまぎれこんだ。せめて封筒のようなものに包まれて安心してここを抜け出したい、そう思ううちにまぶたがひらくと、光が差しこんだ。
ぼくの目に飛びこんできたのは、清楚な身なりをした女の人の顔だった。服装からしてしっかりした家のお嬢さんであることがわかった。確かに、次に目にしたその部屋が、立派な内装だったことからもそれがうかがえた。
でもどうしてぼくはこんなところに来たのだろう。夢の内容をぼんやり憶えているくらいで、自分のことがまるでわからない。なんとか少ない記憶を引っ張り出してみても、それはどこか知らない人のもののようだった。
お嬢さんはぼくを見て、どうしてここに来たのか不思議に思ったのだろうね、やっぱり怪訝な顔をしていた。そしてとりあえずぼくを傍らに置いたまま、文通相手でもいるのか、手紙を読んだり書いたりしている。ぼくは行く当てもないのでここにいさせてもらえないかと思っていると、いつの間にかここにいることが当たり前になっていた。家の人も許してくれているのか、ぼくを見てもなんとも思わないみたいで、自然に溶けこんでいたんだ。そんな状況に甘えて、ぼくはここでのんびり過ごしたり、たまにお嬢さんにお話を語っては、どうも何か足りない思いがして、しばらくして口をつぐんでしまった。
窓のカーテンを揺らす風を感じながら気持ちよく昼寝をしてて、なんだか熱いと感じて起きてみたら、虫眼鏡で光を当てて焦がそうといたずらをする手が見えた。一瞬、煙が上がりそうになったところで慌てて飛び起きると、その拍子に床に転げ落ちてしまった。その子は近所に住む、お嬢さんと仲のいい少年で、よく家に遊びに来ていたんだ。
そんなことをしているとお嬢さんが来て、その子をたっぷり叱ってくれたので気分がせいせいしたんだけど、その後またお嬢さんは優しくその子と一緒に遊んであげていた。ぼくとしてはもうそんな悪い子を家に上げてほしくなかった。部屋の紙という紙に落書きしては、折り曲げて飛ばしたり、破って丸めて放り投げたりするんだ。せめて大切なものには手を出さないでと思っていたら、案の定、お嬢さんの大切な手紙をハサミで切り刻んでは、ごちゃ混ぜにして糊でテーブルに貼り付けてしまった。さすがにこれにはお嬢さんも怒りを通り越しちゃって、泣いてしまったんだ。文通相手ともなんだか気持ちが通わなくて悩んでいる頃だっただけに、すごく落ちこんでしまったみたいだった。慰めてやりたかったけど、何て言っていいのかわからなかった。夕食も食べなかったお嬢さんは、窓辺に座って月の出ている夜空を見上げていたんだ。泣いた後の目が赤くなっているのがうっすら見えた。そしてもう一度、紙片が張り付いたままのテーブルに目をやった。月明かりに照らされた部分だけなんとか文字が見えるくらいの弱い光だった。そこに浮かぶ文字を目を凝らして見てみると、ちょっと険悪でさえあった元の手紙の言葉が順序を入れ替えられて、まるで幼い子供のつたないおしゃべりのようなぎこちない感じで、優しい言葉に変えられていたんだ。お嬢さんの表情がかすかに、笑顔になった。軽く吹き出しもして、声は出さないまでも、そっと笑っていたんだ。
翌日もう一度謝りに来た少年に、やっぱりお嬢さんは、もうこんなことしちゃだめだよ、と言ったものの、遊び疲れて眠ってしまったその子の隣で、新鮮な気持ちで手紙を書きはじめた彼女を、ぼくは見た。

ひどい揺れで目が覚めた。何か硬い物が押し当てられ、揺れるたびにぶつかっていたみたいで、そこが擦り傷になってしまってた。なんとか体をよじると視界がひらけてきた。目の前には夜空があり、満月に近い月が輝いてる。
どうやらぼくは乗り物に乗せられてどこかへ運ばれているようだった。それはわかったんだけど、自分がどうしてこれに乗っているのか、乗せられてしまったのかわからなかった。わからないものはしょうがないので、ただぼんやりと、やけに大きな月を眺めていた。視線を動かすと、暗い空には無数の星も散りばめられているのが見えてきた。小さい点ばかりの星たちを、線で結んで何かを描いてゆく。遥か遠い空に人々は、慣れ親しんだ空想のお話の登場人物や、身近な見慣れたものまでそこに見出し、できるだけ近づけようとした。
やがて端のほうから青みがかってきて、星たちはどこかへ行ってしまって、朝日が昇ってきた。すると車はどこかへたどり着いたようで、動きを止めたんだ。
そこは市場らしくて、朝早くから人々が威勢良く動き回ってた。目の前の荷物が次々と運ばれていって、身を隠すものがなくなって心細くなりながら、ただ身を潜めじっとしているしかなかったんだ。
すると足音とともに、チャリンチャリンという音が近づいてきた。ポケットに小銭でも入れているのか、歩くたびにそれが音を立てているんだ。でも音だけだと、まるで小銭だけが硬い地面を跳ねながら近づいてくるようにも思えたんだ。身を隠すために逃げてきたこんな辺境の地にも、マネーが音を立てて近づいてくる。
報酬、つまり労働や差し出す物の対価としては、別に友情でも信頼でも、何かを教えたり、あるいは代わりに同じくらいの価値の物でも、貝殻でも何でもよかったはずだった。ただ他より使い勝手が良かったというだけさ。これにしようと決められて、みんながそれを信じたからに他ならなかった。
でも彼はその音が好きだったんだよ。落ちた小銭の音で金額を当てられるくらいなんだ。物としては紙幣よりもこちらのほうが嬉しいくらいかもしれなかった。でも小銭というところがまだ可愛げがあるよね。
「何だお前……」
立ち止まったはずなのにまだチャリンチャリンと音が聴こえるのは、彼がポケットに手をつっこんで、わざわざ音を立てて楽しんでいるからだった。荷物の対価として得たそれは、音を立てることで初めて彼に喜びを与えた。
ともかく、このまま降ろされることも覚悟して身を縮こませていると、彼はぼくを助手席に乗せて車を発進させたんだ。
無言の時間が続くのが気まずいと感じたからか、彼はカーラジオをつけた。電波の調子が悪いのか、雑音混じりではあったけど、歌が流れているのはわかったよ。よく聴いてみると、どこか聞き憶えのある歌のようにも感じた。ここのワンフレーズ、どこかで……。でも思い出そうと記憶をさかのぼってみても、何もないことに気づいたのさ。ただ残されていたのはわずかな物語の断片だけだったんだ。
ラジオが雑音だけになってしまったので消すと、再び車内は静まりかえった。彼が何かを促している気がしたので、ぼくはその短い物語を語りはじめたんだ。
「そこで終わりなのか? それだけじゃ腹の足しにもならないよ」
いつの間にかぼくは車を降ろされていて、周りには荒野と岩山くらいしかない場所にただ一人、たたずんでいたんだ。
ここがどこなのかなんてもうどうでもいいと思うくらい、ただ人の姿や人のいそうな場所を求めて、風に吹かれながらぼくはさまよい続けた。陽が高く昇り、傾きはじめ、やがて沈みかけようとする頃、何か動くものの気配を感じて立ち止まったんだ。
すると向こうから、世にも恐ろしい山羊の群れが現れて、あろうことかこっちへ向かってきたんだ。ぼくは怖くなって動けないまま、周りを見渡しても隠れられるような場所なんて、いや、一本の木があるのが見えた。ぼくはふらふらとそっちへ逃げたけど、山羊たちはぼくを見つけたんだろう、こちらへ向かってくる。木に登ってやりすごそうとしたけど、もしかすると山羊って平気で木の上まで登ってくるんじゃないかって不安に駆られた。
そこへ一人の少年が姿を見せて、山羊たちの後ろから彼らの動きを制して、こちらの様子を見ているようだった。山羊たちが引き返していくのを見送って、ようやく降りてみると、その少年が興味深そうにぼくを見た。
「危ないところだったね」
彼はどうやら山羊を飼って生計を立てているようで、ぼくを連れて帰ると彼はぼくがどこから来たのか知りたがった。でもぼく自身がここまでどうやって来たのかわからないから、ぼくの語ることを聞きながら、それについて調べてくれたんだ。彼は昔から何かに熱中すると、周りのことに気を留めず集中して時間が経つのも忘れるくらいだったんだとわかった。家にある本や地図に一生懸命向かっていたけど、ぼくは彼の暮らしや過去のことが気になっていた。というのもこの家には一人で暮らしているみたいで、でも写真にはもっと明るい家の中で両親と妹と幼い頃の彼が仲良く笑顔で写っているのが見えたからだった。
気づくと彼は本の間に顔をうずめて寝息をたててた。左手にあるひとつの爪にはエメラルドのような色の痣があるのが見える。そんな彼の寝顔を見ていると、ぼくもつられるようにして眠りに落ちていったんだ。

鳥にでも連れてこられない限り、こんな高いところにいるなんてありえないはずだと、街を見下ろしながら思っていた。都会の真ん中の、ビルの屋上とも呼べない、人が来れるような場所ではないところで震えながら、どうやってこんなところに来たのか、それだけを考えていた。しかし記憶喪失にでもなったかのように何も思い出せない。こんなところにいるくらいだから、きっと頭に強いショックでも受けたに違いない。ビルの間を自由に飛び回る鳥たちがこんなにうらやましく思えたことはなかった。
ふと、人の話し声が聴こえてきた。幻聴かとも思ったが、やっぱり確かにどこからか声がする。ここから見えないほうにある、隣のビルからだろうか。とにかくその声だけを頼りに、せまく危険な足場を伝って壁を反対側のほうへ回りこむ。強い風を受けながらも壁に張り付くようにしてようやくたどり着いたそこから、向こうのビルの屋上が見えた。
そこには人の姿が見え、何やら楽しげな音楽さえ聴こえてきた。大小さまざまな鉢に植えられた植物が育ち、小さなテントみたいなものもあって、どうやら人が集まって楽しい宴がはじまっているようだった。
そこが楽園に見えたのも仕方なかった。飛ぶことしか考えられなかった。気づくとぼくの体は宙へ舞い上がり、ビルとビルの間の、下に何もない空間に身を投げ出していた。まさに、ここがとても高い場所だということを真下の直線距離を目にすることによって感じたが、それも一瞬だった。飛び移る先のビルのほうがわずかに低かったこともあって、なんとか足に確かな感触を得た。すぐに人々が集まるほうへ転がりこんで息を落ち着ける。
こうして安全なところにたどり着いて、地に足を付けてみると、さっきまで心を支配していた不安と心細さがどこかへ飛んで行き、目の前で行われている和やかな宴に誘われるようにしてふらふらとそちらへ近づいていった。
鉢植えやプランターに水をやっている人がいて、植物たちも水分を吸っていちだんと元気そうに見える。振舞われる食事に舌鼓を打ち、飲み物を酌み交わす人たちの姿も見えた。子供の姿もあって、いろんなめずらしい植物に夢中のようだ。楽器の演奏なんかもはじまって、楽しげにおしゃべりをする人たちもしばしそちらに耳を傾け、皆で時間を共有しているということが自然に意識されてくる。
あくまでこれは肩の力を抜いた自然志向の宴のようで、堅苦しい雰囲気を廃して、みんな気軽な服装で和気藹々とこの場の空気を楽しんでいた。夕暮れの涼しくなる頃、雲に赤みが差してきて、アルコールも入って人々の表情も朗らかに打ち解けてきていた。
そんなとき、誰かがぼくの手を引いた。こいつじゃないか? と声がして振り向くとサングラスをした長身の男がいた。サングラスをしていても着ているのはラフな、柄のあるシャツだ。さらに半ズボンでサンダルなんてはいている。聞かれたほうもこれまたサングラスをかけた、こちらは背の低い小太りな男で、なぜか冷や汗をかきながら、肩の荷をどっと下ろしたようにため息をついた。
「危なかった。ちょっと確認しようとあけてみたら手の間をすり抜けて行っちまうもんだから、まったく気が抜けないぜ」
こちらの顔もろくに見ず、ぼくの手は長身の男から小太りな男に受け渡された。
そんなこともこの宴の場では隅のほうのちょっとした出来事に過ぎず、やがて陽が暮れてくると、さまざまな趣向を凝らした照明が点りはじめる。そんな時間にようやく訪れる者もいたりして、少しずつ人は増えていった。
遅れて来たなかに、丸眼鏡の男がいた。宴の場なのに表情ひとつ変えずにしばらく様子を見た後、気づくともういなくなっていた。ここに来る人たちはどんな関係で、そもそもどんな趣旨の集まりなのか、誰でもふらっと立ち寄れるのかといったことを考えていると、ぼくを相変わらずつかんで離さない男が手を引いて歩き出した。扉のある屋上建屋の裏側の、ちょうど宴の場からは物陰になって見えないほうへ行くようだった。
そこにさっきの丸眼鏡の男がいた。こちらをじっと見ながらただ黙っている。手には頑丈そうなアタッシュケースを提げていて、言い知れない不吉な警鐘が頭の中で鳴り響いてきた。こちらはサングラスの男二人。向かって立つのは丸眼鏡の無表情。どちらもラフな格好だが、それのせいでさらに不思議な緊張感が漂う。ぼくが向かいの男の前に差し出される。これが裏取引というやつだろうか。
丸眼鏡が手に持つケースをこちらに差し出そうとしたそのとき、目の前を素早く横切った何者かにぼくは手を取られ、強く引っ張られた。そのまま建屋の表側へと走り抜けていく。
後ろ姿は長い髪を結んでいるが、手の感触から男だとわかった。彼はぼくを連れてあいたままの扉から建物に入り、階段をすばやく駆け下りる。胸騒ぎを通り越して、わけがわからないままぼくはもはや走るどころか彼に引っ張られて風になびく旗のようだった。階段の上のほうから後を追う足音がいくつか聴こえてくる。この人たちが何者なのか、ぼくは何に巻きこまれたのか、さっぱり見当もつかなかった。ただわかったのは、ぼくの知らないところで何かが動いてて、下手をすればぼくの身にも想像できない危険が差し迫っているということだった。
二階の窓から地面に飛び降り、すぐさま体勢を立て直してせまい路地を走り抜ける。しばらくしてどうやら追っ手を撒いたようだとわかると彼は走るのをやめ、物陰でカツラと上着を脱ぐと鞄に仕舞いこんだ。
「あいつらの手に渡りさえしなければそれでいいんだ」
そう言うと、ぼくまで鞄につっこもうというのか、こちらを見た。じっと眉をひそめて見つめるその表情がみるみる変わっていく。
「何だこいつは……」
こちらが聞き返したいという気持ちもあったが、彼が舌打ちして落胆しているように見えたのでそっとしておくことにした。
「どうかなさったんですか」
振り返ると、女の人が心配そうにこちらを見ていた。その視線の先には彼の左手があった。その表情はとても朗らかで、すべての不安がたちまち取り除かれてしまう気がするほどだった。でもぼくにはわかった。彼女はさっき屋上にいたうちの一人だということを。
いくら彼の見た目がさっきとは変わっていても、そこには変わることのない印が刻まれていた。彼女の一瞬の表情の変化を見て取った彼は、すぐさま後ろへ飛び退いた。女の人の手にする鋭いものが空を切っていた。それは反射して鈍く光っている。
再び男に手を引っ張られて、今度は階段を登っていく。廃ビルらしき建物の階段は割れたガラスや使われなくなったガラクタが散乱し、足をとられそうになる。追ってくるのは彼女だけじゃないようだ。
そんなに高くないビルなのもあって、あっという間に最上階に着いてしまった。屋上へ出る扉は鎖で取っ手がぐるぐる巻きに固定されていて簡単にあけられそうになかった。そんなことに怯まず彼は、窓から外壁を伝って屋上に出る。
追っ手は雑然とした階段を登るのに苦労しているようで、このぶんだと少し時間が稼げそうだった。しかし屋上に来てしまっては、ここから先どうやって逃げるのかと心配になって彼のほうを見た。彼は悠長にここからの景色なんか眺めたりしていて、あきらめてしまったかに見えた。追っ手が階段室の窓から顔を出し、いたぞ、などと声を掛け合っているのを見て、彼はぼくをつかんでいる手を引き寄せた。
ぼくはどういうわけか、彼の手によって形を変えられ、まるで鳥にでもなった気分だった。そのまま背中を押されると、空くらい飛べる気がしていた。扉があかないことを知ると窓から体を出してなんとかこちらへ来ようとするサングラスの男たちを尻目に、ぼくはそっと背中を押されて、彼らの目の前を横切って、空中へ飛び出したんだ。
体を風にあずけて、空中を滑るように、ぼくは飛んでいた。体が軽い。ぼくを連れてきた男の姿はもう屋上にはなかった。眼下にはいつもと違う街の景色が流れていく。横を並んで飛ぶ鳥が見えて、ぼくも彼らの仲間になったんだと思った。高いビルとビルの間を抜け、そのままできるだけ長く長く、空を飛び続けた。
どれだけの時間こうしていただろう。ぼくは目をつぶって風を感じながら、できるだけ楽しい場所にたどり着きたいと思った。ときおり風に煽られ舞い上がったりもしたけど、高度は緩やかに下がっていき、やがてゆっくりと、忍びこむように一軒の家の三階のあいた窓を通り抜け、部屋に滑りこんで床に着地した。
その立派な内装から、ここが高貴な家であることがわかった。さらに驚いたことに、部屋の隅には、もう一人のぼくがいたんだ。
あの男がここに姿を現したのは、それから数日後のことだった。

黒猫はあきれた口調で言った。
「無茶をして大変な目に遭うなんて愚か者のすることよ。窓から飛んだだけでばらばらになるようなあなたが、この先どうやって収拾をつけるつもり? 自分をわきまえなさいな」
猫は猫なりの人生観というものを持っているようだった。でもぼくはその冷たい目で見てくる彼女に逆らいたかった。
「あきらめて人の手にゆだねることもひとつの手なのよ」
そう言い残すと、彼女はぼくをある建物の前に置き去りにして消えてしまった。どういうつもりかわからなかったけど、仕方なく様子を見てみることにした。
そこは真夜中なのにも関わらず物音が響いている。いくつもの機械が無機的なリズムで動いているような音だった。どうやら街の印刷物を一手に引き受ける町工場といったところだろう。そこで情報を仕入れるなり、何か頼みこんで言葉を発信すればいいという、黒猫なりの優しさなのかもしれない。しかしそううまくいくものなのか。
扉の隙間から滑りこんで入ってみると、機械の間で職工たちが一心不乱に手を動かしていた。あちこちに印刷されたチラシやらポスターやら冊子がひしめいている。
突然、首根っこをつかまれて、ぎょろりとした目が顔を覗きこんだ。
「何だっけこいつは」
しばらくぼくをなめるように見回して、後ろを振り向かされたりした。ルーペみたいなものでぼくの目を覗いたり、髪や手足を触って調べ出した。そうやっているうちに、ぼくがかろうじて残していたもうひとつのぼくのかけらが切り離され、もう一人の男に手渡されてしまった。
物事はどんどん悪いほうへ、散り散りになってしまうほうへと向かっていくのが予感された。それが宇宙の法則であるかのように。そうして離れ離れになったぼくらは別々の場所へと連れて行かれる。悪い夢を見ているような、次に何が起こるかわからない言いようのない不安だけが心を支配する。
そんなとき、目に入ったのは劇場で何かが公演されることを報せるチラシだった。少しだけあらすじが書いてある。せめて失った物語を取り戻したいという思いから、そのチラシの山に潜りこもうと試みた。しかしいざそれを読んでみると、お話としては単純明快な人形劇だった。人形のお話なんてごめんだと思い直して引き返そうとしたけど、もはや片足が束の間に挟まってしまっていて、機械が立てるわずかな振動のたびに徐々に引きこまれていって、チラシの山の中にまぎれてしまったんだ。

どうしたの? たまに雑音が気になるみたいだね。そんなときは思い切って耳を澄ましてみるのもいいさ。
音の出どころを想像してみるといいよ。そして、聴こえ方から、その間にあるいくつもの障害物、障壁、距離や反響の具合を感じてみるのもいいだろうね。
気が済んだらまたぼくの言葉に戻ってくるといいさ。ぼくは目の前にずっといるんだから。

音楽に合わせて、上から糸で吊るされた人形たちが奇妙に間接を曲げながら、劇のはじまりを告げる。下から棒であちこちを支えられて動く人形はさっきのより少しましだったけど、それにしたってその不自然さに目をつぶることはできない。口を大きくあけたり閉じたりする奇妙な生き物が、飛び跳ねながら短い手を上げたり下ろしたりしているのも、足は見当たらずそのまま人の手首につながっていた。
そういう者たちを先に見たおかげか、次に出てきた人形がまるで生きているかのように自然に見えた。ドレスで着飾ったその人形は透き通るように白くて、どう見ても二本足で歩いていて、口や手を動かして滑らかにしゃべっている。瞬きさえ当然のようにしていて、仕草に気品すら感じられたんだ。そこまでいってるのに惜しくも表情は変わらず固いままなのは、彼女がまだ感情というものを獲得していないからだろう。そしてまだ音楽は聴こえている。たまにノイズが入ることから、それがレコードだってのがわかった。
そんな舞台に突然何者かが飛び出してきた。そいつはぼくの一部をくわえていたんだ。なんだか見憶えのあるうさぎのぬいぐるみだった。ぬいぐるみのくせに生きているように動いてて、でも本物のうさぎは二本足で走ったりしないぞ、と観客気分で正直な感想を抱いたりしてる暇はなかった。そいつは舞台を横切るつもりで真ん中まで来て立ち止まると、ぼくのほうにちらりと何か言いたげな視線を寄越して、すぐにそのまま走り去っていこうとしていた。ぼくはおとなしい観客でいることをやめて、客席から舞台へ上がって、逃げたうさぎを追いかけた。ぼくが上がりこんだせいで舞台は急遽中断されて、幕が下ろされていくのはこの際どうでもよかった。音楽がまだ続いていたからね。
前を走って逃げていくうさぎの背中が見える。背中にチャックがあるってことは、中身はただの綿じゃなかったのか。そんなことを考えるともなしに無心で走って追いかけていると、うさぎは曲がり角を曲がっていった。数秒の差でぼくもその角を同じほうに曲がると、そこには壁が立ちはだかり、二つの扉があった。二分の一の確率に賭けるしかない状況のようにも見えたけど、ここではそんな迷いはいらなかった。左の扉が閉まりきる瞬間を目にしていたからだ。そのままの勢いで扉をあけて中へ入る。音楽は遠くになってしまったけど、それでもまだわずかに聴こえていた。
薄暗い直線の通路をひたすら走っていく。壁にはポスターやチラシの類が貼ってあり、さらにわざわざ走りながらでもわかる横長の大きな文字で「ひきかえせ」と書かれている。さっきより足が速くなったと感じるのは、気づかない程度の下り坂になっているからだろう。けど、通路の幅さえもどんどんせまくなっていってるのには正直気づかなかった。そこを抜けた瞬間、すべてのものが大きく見えたんだ。目の前がひらけ、気づくとぼくは宙を舞っていた。床がいつの間にかなくなっていて、自分が落下していることを感じはじめた次の瞬間にはもう着地していたから、高さはそんなでもなかったようだった。
でも問題はそこじゃなかった。目の前にたくさんの障害物がひしめいていたんだ。こんなことなら引き返すべきだったと後悔して振り返っても、いつの間にか乗せられたコースの入り口は、上下に鋭い歯を光らせながら閉じられていく。知らないうちにぼくは怪物の体内に飲みこまれてしまったんだ。
生理的に受け付けないぞっとする音を立てながら決まった周期で迫ってくる裁断機の歯の間を通り抜け、回転する歯車に絡め取られそうになりながらもなんとか隙間をぬって、巨大なスタンプが打ち付ける合間をくぐっては、火を噴くライターがガス欠になるのを待ってみたり、インクの噴出し口をゴミで詰まらせて事なきを得たりして、ぼくはくたびれ果てて、もう何を追っているのか、逃げているのかもわからなくなっていた。
一羽のカラスがぼくのそばにとまり、何か言いたげに横歩きで近づいてきた。
「お前さんも大変そうだな」
くちばしを上下させ、器用にしゃべっていたんだ。
「何があったか知らないし、知るつもりもないけど、獲物を狙うときはもうちょっと頭を使ったほうがいいぜ。ただ闇雲にそいつを追い掛け回していたんでは、永遠にそいつの後ろ姿しか見ることはかなわないだろうな。ちょっと脇道にそれたり、周りに目を配って別の道を探してみたりするのはどうだ。そいつの行った道はあそこにつながってて、それならこっちのほうが近道だ、と気づくこともあるだろうさ」
カラスは真顔で正面からこちらを見ている。こちらもじっと見返していると、風に吹かれて震えるようになびく黒い羽毛に包まれたその顔の、やけに離れたつぶらな瞳も同じ黒で、体も微妙に揺れていて、こんな間近でじっくり見たことがないせいか、不気味に思えてくる。しばらく見つめ合った後、彼はカァーとカラスらしく鳴くと、飛び去ってしまった。
見たことのある扉をあけると、振り出しに戻ったのか、あの走り抜けた通路があった。さっきより音楽がよく聴こえてきて、いつの間にかそれに歌声ものっていた。再び同じ道をたどることになって、やがて自分が何をしているのかわからなくなる頃に、つい扉の取っ手に手を伸ばしてしまうと、また振り出しに戻ってしまった。そのことに気づいて目的を忘れないままそこを過ぎさらに先へ行くと、ようやく見つけたと思ったらうさぎじゃなくてリスだったなんてこともあったりして、人違いでしたと素直に謝った。罰として最初の通路に戻されて、ここはひとつ、ちょっと落ち着こうと考え直して、今度はじっくり様子を見ることにしたんだ。
透き通った歌声が響きわたるなか、何度も走り抜けた通路も、よく見るとここが閉ざされた通路ではなく石壁に挟まれた裏路地だとわかった。壁にはいたるところに心無い落書きがされていて、ここが建設された頃からすると見る影もないありさまになってしまったと嘆かわしく思えてきた。無数のチラシがべたべたと貼られて、それをまた雑にはがした痕も残っていた。
破れかけた一枚のポスターに何か違和感があって、興味本位でめくってみた。するとそこに穴があいてて、うさぎが落としていったらしきニンジンの食べかすも落ちていたことから彼はここを通ったに違いないと断定された。
抜け穴はあっさりと外へつながっていた。何の外かと思ったら、劇場のホールの外だった。建物の外に出るには正面玄関のほうへ回らなければいけない。足音さえ吸収する絨毯の上を歩いて玄関まで行ってみれば、もう閉館してしまっていて、それは無理もなく、急遽公演中止となったからだった。歌声はまだ聴こえているのに。しょうがないので反対側へ回ってみることにした。
扉から明かりが漏れている部屋が見えた。そっと覗いてみると、そこは楽屋で、ぼくのために花束が用意されていたんだ。やけにまぶしいその部屋に足を踏み入れると、花束に添えられた書置きには「おめでとう」の文字があり、ようやくたどり着いたという実感が湧き起こってくる。どこからか歓声と拍手が聴こえてくるようだった。
視界の隅であのうさぎらしき影が動いたように感じて、ぼくは振り向いた。そこには大きな鏡があった。楽屋だから当然だけど、ぼくはそれを見てはならなかったんだ。ここへ来てはいけなかった。こんなこと知りたくなかった。
そこに映っていたぼくは……。

眠そうな顔してるね。問題はこのお話が人ごとみたいに思えてどうでもよくなってきたからじゃない? 君に関係ないことだから?
その話で言えば、たいていのお話は君に関係ないさ。確かにゲームみたいに登場人物を操ったり助けたりしたくても、ここでは君は何もできない。君も登場人物の一人だ、と言ってやりたいところだけど、残念ながらそうじゃない。感情移入できるような人物なんて一人もいない。
ぼくの語っているのはただの言葉で、ちゃんとした物語なんかひとつもないんだ。それを聞いて君は自分の望むように受け取ってしまうのさ。君の知識や体験をもとにして、イメージを組み立てているんじゃないか。ぼくの言ってないはずのことまで君が勝手に補ったりもしてさ。それだけじゃなく、イメージに合うように言葉の意味を吟味して選び取ったり、合わないところは無視したり、読むそばから忘れたりもする。
お話はばらばらなのに、あたかもつながりがあるんじゃないかって勘繰ったり、たとえば山羊飼いの少年が子供の頃のおじいちゃんだったりとか、ぼくをビルの上から飛ばした男もおじいちゃんの若い頃で、その後お嬢さんと出会ったとこまでは言ったけど、身分違いの恋の末に結ばれたのかもなんて考えたりね。わりと都合のいいようにできてるのさ。君の豊かな想像力の賜物だと賞賛せずにはいられないよ。
目の前のぼくでさえ、ちゃんとここにいるはずなのに、なんだか人間のように思えなくて、あまつさえぼくを本とか紙切れとか物語そのものみたいに感じたりしてないかい? ぼくはご覧の通り、ちゃんとした人間だよ。手も足もあるし、見てよ、こんなに飛び跳ねたりもできるんだ。癖っ毛なのがちょっと悩みだけど、それは今まで触れてなかったかな。
改めて言うと、君は物語の中には一度も出てきてはいないけど、言ってみればすでに受け手として巻きこまれてるんだ。ぼくに語りかけたのが運の尽きだと思ってあきらめてよ。こんなにわざわざ当たり前のことに触れてくるお節介なやつなんてそんなにいないだろうけどね。

で、そんな事態が起こってしまって、ミサイルが発射されれば世界は第三次世界大戦どころか、一瞬にして核ミサイルが飛び交い、人類滅亡の可能性もあったんだ。とくに一瞬で判断を下さなければならないとき、決定の根拠などあってないようなもので、賭けや衝動に左右された。その決定をできる立場や状況にたまたまいたということの重みは計り知れないよ。それだけでなく、命を失った側に身近な人物がいたということを事前に知っていたとしても、彼はその決断をしたんだ。
寿命が縮んだだろうね。実際、その選択は彼の寿命を縮めてしまった。いや、むしろ何もしなかったらもっと寿命が短かった可能性が高いんだけど、その行動の結果、確実に命を狙われることになってしまったんだ。
テレビに映ってまで彼が道化を演じたことで、危機は骨抜きになり解消されたんだけど、代わりに彼が目をつけられ手配までされて、隠れ住むことになった。妻と娘は一時的に離れるつもりだったけど、二度と会えなくなってしまった。
やがて追っ手の手は伸びてきて、そのときもうぼくはそこを離れてしまっていたんだけど、そのリアルタイムの中継映像が、大統領邸の危機管理室の画面に届けられていた。真実は伏せられたままでね。

とにかく、探していたのはぼく自身のことじゃなかった。忘れかけていたけど、ぼくの目的は、ばらばらになった記憶を取り戻して、おじいちゃんの話を誰かに伝えることだったんだ。
女の子が家の前でじっとうずくまっている。夕暮れのこの時間からしてきっと鍵がなくて家に入れないんだろう。闇雲に鍵を探すより、このまま誰かの帰りを待つほうが確実だった。ぼくは女の子にお話を聞かせた。まだ小さい子だったから、ぼくが憶えている程度の短いものでも、ゆっくり時間をかけて話していれば、暇をつぶすのには充分だった。
でもいつの間にか家には明かりが点っていて、明るい窓の向こうでは幸せそうな父母弟らしき人たちが笑顔で夕食を囲んでいる。写真立てに見えるのは、家族四人の笑顔のはずなのに。
やっぱり鍵を探さないほうがよかったんだ。お嬢ちゃん、外で探し物をしているときは車に気をつけて。
そうやってぼくはおじいちゃんの話だけだったはずの記憶に、見ず知らずの、でもきっとおじいちゃんの人生に関わりのある人たちのお話も混ざりこんでいったんだ。

ぼくの友達にこういう話をしてる子がいた。
ある島の小さな港に、不法投棄されたものが流れ着いて、人々は頭を悩ませていたって。桟橋の周りを埋め尽くす大量のボトルメールは、ただゴミとして中身を目にすることなく廃棄されていくんだ。
清掃業者で働く一人の少年が、そんな仕事の合間に瓶詰めの手紙をいくつかこっそり持ち帰ってあけてみたんだ。中が濡れてしまっているのもあって、ところどころ読めないものもあった。そもそもその言語を知らないので彼には読めなかった。でもね、色とりどりの言葉の連なりや奇妙な形をした文字がめずらしくて、それらをコラージュするようにして、壁一面を飾っていったんだ。ちょっと懐かしかったんじゃないかな、彼にとっては。
やがて島は過疎化し、人々が住まない島となってしまった。少年もどこへ行ったのかわからない。
久しぶりにその島へ足を踏み入れた者のなかに、面影のある顔があった。彼らが目にしたのは、壁一面に広がる、手紙をコラージュして作られた模様というか、一言では言いあらわせない何かだった。風雨にも晒されていて、手紙の文章はその意味を無くして、ただ文字の形や色の美しさとしてそこにあった。
彼は今ではその言語を解し、再び目にしたそれは、単語の意味がばらばらで結びつかないものとして目に入ってくる。やがて彼は詩人になった。
なんていうファンタジーめいた、まるで絵本にでも描かれたようなお話だけど、うがった見方をすれば、結局ちゃんと届けるべきところに届けないと、今や誰の目にも触れずに廃棄されるんだってこともありうるし、勝手にリサイクルされても文句は言えないってことなのかな。まあ想像していた通りの結果にはならなくても、まったく意外なところに働きかけるってのは、日常的にある話だね。桶屋が儲かるって言葉みたいにさ。

取り戻したぼくの記憶は一度散乱しちゃったから、ページが入れ替わったりして話が前後していることもあるかもしれない。それに弾き語りの彼がまだ見つけていないいくつかの部分には、きっと重要な真実の告白も書かれていたみたいで、それがあるのとないのでは大きく違ったものになるんだと思う。
今のところは結果的に、真実の告発ではなく、証言でもなく、おじいちゃんの自伝になりかかっている。自己の生きた証とか、大切な人へのメッセージをこめたものになろうとしているんだ。それは別れてしまった奥さんと子供たちに宛てたものとして。あるいはまだ見ぬ誰かへ向けて……。
娘さんが新しく出したレコード、君も聴いただろう? メッセージがちゃんと届いたってことが、その歌詞にこめられていたことを君も気づいたんじゃないかな。おじいちゃんがどこにいるのかもわからない妻と子供に宛てた物語だった。幸せな三人の暮らしと、孤独に満たされたその後の生活。その切断点は残りの発見を待たなければいけないけど、このまま語られることなく、何かあったってことだけがわかっていればいいかもしれない。ぼくたちが知らないまま、でもそれは確かにどこかに書かれて存在するんだ。見つけられないうちは、その部分のいろんな可能性がありうる。
遠い国で生まれたであろう第二子の性別がどっちかわからないまま離れてしまい、おじいちゃんになった彼は、男女両方の名前をその子のために考えていたから、ぼくにとっても二つの名前がつけられたままの子供としていつづけるんだ。

ほら、そこにいる子も何か言いたそうな顔でこっちのこと見てるよ。あの子、みんながひそひそおしゃべりしてるときも、ずっと黙って何かを考えてるふうなんだ。もうずいぶん長いこと口をひらいてないみたい。そっと声をかければきっと返事してくれるよ。
「……聞こえてるわよ。何度も呼ばないで。わかったから。それで? 私の話が聞きたいの? でも残念ね。閉館時間が近づいてるわ。今日はもう帰ったら? もし次に来ることがあって……ここにたどり着けたらの話だけど。そして、まだ私のことを憶えていたら……私の話を聞きたいとまだ思ってくれてたら、退屈なお話でもしてあげていいわ。言っとくけど私、あなたが思ってるようなものよりきれいな過去じゃないわよ。見た目にだまされて痛い目を見る覚悟があなたにあるのかしら」
あら、残念。結局今日は駄目だったか。でも彼女が少しでも話をするなんて、ぼくからしてみればそれだけで驚きだよ。まあそういう設定だからしょうがないとも言えるけど。便宜上、「彼女」とか「ぼく」とか言ってても、君からするとどっちでもいいだろうし。そういうのが館長の好みなんだ。もう自分で弾き語れなくなっても、こうしてぼくたちが「語る」ことにこだわったんだ。彼は昔から自分の物語ではなくても、人のお話を集めて、混ぜたり好きなように並べたりするのが好きなのは君もよくわかっただろう?
こんな話はどうかな。おじいちゃんというのは実はぼくで、君に語って聞かせていたのが、ずいぶん端折ったけど、このぼくの話というわけなんだ。文字で語ってたから、わしの声が年寄りのものだとはわからんかったじゃろう。まあ年寄りだからといってこんな話し方をする人もそういないじゃろうが、全部お芝居だったんじゃ。それだけじゃなくてな、わしも年じゃから語り疲れて途中で休憩させてもらってる間、入れ替わりで別の者が語ってくれてたりもしたんじゃ。それにも気づかなかったじゃろう。
おじいちゃんはそう言って、長い長い話を語り終えたんだ。こんな話になったけど、誰かに見つけられて、この話を語って聞かせるまで忘れないでくれ、と……。

もっと言うとね、こんなこと言っても意味がないかもしれないけど、そもそもぼくなんていないんだ。嘘ついててごめんね。君の頭の中に浮かんでる少年みたいなぼくらしき子供は、君が勝手に思い浮かべただけさ。そうなるのもしょうがないような話し方だったんだけどね。
亡くなったおじいちゃんも、彼の妻になったお嬢さんも、詩人になった少年も、歌手になって彼と結婚したおじいちゃんの娘さんも、彼女のために詩人の彼に集められて記憶をほとんど取り戻したぼくも、隣にいる無口な女の子も、他のたくさんの人や動物も、全部嘘だし、登場人物はどこにもいないんだ。
そして全部ぼくなんだ。
そう、全部わしのつくりものなんじゃ。
そして全部わたしの演技なの。
君に話したこの物語も、おじいちゃんが語った話も、ぼくの存在も、全部嘘さ。
でもそんなこと、もうどうでもいいよね。わかりきっていたことだし。嘘でもここまで来たなら……ね。
ひとつだけ本当のことを言うなら、あんなに長い年月をかけてつむがれたようなこのお話は、たった三日間でしつらえられたものなんだ。別のあるお話に上書きして塗りつぶすためにね。でももう狼少年の言うことは信じてもらえないかな。
物語なんてつくりものの嘘っぱち。でも嘘や演技することでしか言えないことも、たまにはあるのかもね。
何を言いたかったのかって? 別に何もないよ。ただ今の今まで過ごしたこの短い時間、その間に君の中で動いたいろんなこと。貴重な時間を削って経験したそれそのもの。自分じゃない別の何かに成り代わる気分を味わったり、味わわなかったり。知らない世界に身を置いたり、何も変わらなかったり。普段見るものや見たことのあるものが違うふうに見えたり、見えなかったり。何かを思ったり、思わなかったり。苦痛や退屈や眠気も含めて。
後に残るかどうかもわからないような、そんな果敢(はか)無いもののためにぼくは語っていたんだ。
今、せめて言いたいことがあるとするなら、一緒に過ごしてくれてありがとう、ってことくらいさ。じゃあね。
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