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「時間を食べる化け物がいる。
 その時々、過ごしている時間を大切にしないと、その化け物が時間を食べてしまう。
 あっという間に食べてしまう。
 そしていつか、自分自身さえも食べられてしまう。
 だから私たちは、与えられた時間を、一生懸命、大切に生きていかなければならない」
 僕は手に持った招待状を眺めながら、何故か突然、脳裏に浮かんだその言葉を、指でなぞって読むようにして、口に出した。
「何? それ」
 机を挟んで正面に座っていた由香利は、身を乗り出して僕の手から招待状を奪い取り、その中身を確認した。
「どこに書いてあるの?」
 恐らく、さっき言った僕の言葉が、そこに記載されていると勘違いしたんだろう。
「違うよ。今のは親父の言葉。小学校へ上がる前に、親父が僕に言ったんだ。ほら、行儀良くしないとオバケに呪われるとか、片付けをしないとしまっちゃうよおじさんが来るとか、そういう類の脅しがあるじゃんか。その一種だよ、今のは」
「なつかしいねー、しまっちゃうよおじさん。でも、ええと、時間を食べる、化け物? それは聞いたこと無いね」
「あれ、お前に話したことないっけ?」
「うん。初耳」
 由香利は、カルピスの原液が二割ほど入ったコップに、ピッチャーで水を足しながら、招待状の内容を確認していた。
「そっか。誰かに話した気がするんだがな……。まぁ多分、この「時間を食べる化け物」ってのは、親父のオリジナルだろうな」
 彼女は「ふぅん」と短く答え、八分目のところで水を止め、バースプーンでかき混ぜ始めた。
「もう四年か。そっかぁ。四年も経つのかぁ。早いねぇ」
「そうだな」
 ベランダに下げた風鈴が鳴る。その音が僕の視線を外へと引っ張るが、外へ視線は抜けない。簾がかかっているからだ。
 僕らが住んでいるのは、マンションの十階だ。僕も由香利も定職には就いていないフリーターだけれど、ど田舎のここなら、そんな二人でもマンションが借りられる。田舎の素晴らしさとは、空気の美味さでも、澄んだ空の色でも、緑の豊かな風景でもなく、単純に、土地の安さだ。
 ここに住んでいるのは、由香利の意見を反映した結果だ。大学時代、僕たちは平屋を借りて住んでいた。その家は僕と由香利、そして友人である山本浩介と、岩佐美広の四人で借りていた。そこでの生活は楽しかったが、生活環境には不満があった。不満の列挙を始めればきりがないが、主立ったものは二つだけで、その二つとは、日光と、景色だ。
 平屋の周りに建っているのは、いずれも二階建ての一軒家で、日の入りは最悪といわざるを得なかた。また、住宅地であり、庭らしい庭もないために、窓の外に見えるのは、家と家を区切るコンクリートの塀のみだった。
 そしてその二つは、由香利にとって相当なストレスだったらしい。
――高い場所に住みたい――
 大学の卒業間近、就職の決まっていない僕たちがいかにして生きていくのかを話し合っている最中、突然由香利はそう言った。
――景色の良い、日の光が良くはいる、そんな場所に住みたい。そうしたら私、頑張れるかも――
 僕はその意見に賛同した。そしてその言葉が彼女の口から漏れた翌日から二週間、僕たちは家を探し続けた。それ以外に、することもなかった。ネットで探して、不動産屋を尋ねて、実物を見て回って、夜になったらお酒を飲んで、たまに喧嘩して、一緒に寝て、起きて…………。
 そんな二週間を経て得たのが、この部屋だった。
 ただ計算外だったのは、由香利が、そして実を言えば僕も望んでいた日光や景色の件だ。
 ほぼ四年間、閉鎖的なあの平屋に住んでいたせいで、僕らの目は、不本意ながらも平屋の環境に慣れてしまい、燦々と降り注ぐ日光や、地平線めがけて伸びていく景色は、僕らにとって刺激が強すぎ、ソワソワして落ち着かない体になってしまっていた。
 だから、朝や夕方などの、日差しが弱い時間帯以外は、こうして簾をかけている。
 不意に視線を感じて正面を向くと、招待状で口元を隠した由香利が、静かに僕を見つめていた。
「どうした?」
「それはこっちの台詞よ。一体、どうしたの? 亮君、何だか変だよ」
「そうかな?」
 といいつつ、僕はしっかりと分かっている。僕が変なのではなく、僕が包まれている感覚が、変であることに。妙、と言った方が正確か。
 そしてその「妙な感覚」の正体についても、僕はしっかりと分かっている。
 それは、時の経過の把握だ。
 僕は時の経過を、時計の針の進み具合や、カレンダーを捲った回数や、季節ごとに行われるイベントで確認するが、しっかりと把握するのは、例えば、小学校を卒業するときだったり、高校に入学するときだったり、大学生活を送っていて、中学の同級生に会ったときだったりする。そういったきっかけたちが、僕に時の経過を把握させる。
 そして今、僕は山本浩介と、岩佐美広から送られてきた、結婚式への招待状によって、それを把握させられている。僕たちが大学を卒業して、浩介や美広と別れて、由香利と二人きりで住むようになって、あの平屋を出て、四年が経過したことを。
「ねぇ、何考えてるの?」
「うーん……」
 僕が、心の中をどう言葉にすればいいか悩んでいると、テレビの脇に置いていた僕のケータイが鳴り始めた。メールでもなく、アラームでもない、電話の着信音だ。
 僕は由香利への答えを中断し、ケータイへと向かった。由香利は少し不満そうにため息をついて、ベランダへと向かう。僕がケータイへと辿り着いたとき、彼女は既にベランダへと辿り着き、簾をたたみ始めていた。壁に掛けてある時計を見る。もう午後五時になろうとしていた。
 ケータイの画面を確認して、誰からの着信かを確認する。
「おぉ」
 と、無意識に声が漏れる。
「誰から?」
 たたんだ簾を抱きしめるようにして抱えた由香利が尋ねる。
「浩介だよ」
 通話ボタンを押すと、四年前と何ら変わらない浩介の声が聞こえてきた。
『よう、久しぶり。元気?』
「おう、元気だよ」
 僕が答えながらソファに座ると、隣に由香利が座り、聞き耳を立てた。
「結婚するんだってな。おめでとう」
『ありがとう。ごめんな、報告が遅くなって。本当はもっと前に伝えたかったんだけど、最近、忙しくてさ』
「いいって。それで? 今日はどうしたんだ?」
『あぁ、あのさ、お前と由香利、来週の日曜日って空いてる?』
 僕が由香利に尋ねると、由香利は黙って首肯した。
「大丈夫だけど」
『そうか。よかった』
「なんだよ、よかったって」
『いや、美広と話しててさ、大学時代に住んでた平屋、あそこを見に行こうって話になったんだよ。なぁ、よかったら、みんなで見に行かないか?』
 僕が由香利へその内容を伝えると、由香利は「良いね」と短く答えた。
「オッケー、分かった。行こう」
『そうか、よかった。詳細はまた追って報告するよ。じゃ、またな』
「おう」
 僕が電話が切れるのを確認してから終話ボタンを押すと、思いついたように、由香利が話しかけてきた。
「ねぇ、さっき言ってた、時間を食べる、化け物の話さ」
「突然何だよ」
「どれくらいの頃まで信じてた? 小学校低学年?」
「うーん……」
 少し戸惑った後で、正直に答えた。
「僕は今でも、信じてるよ」



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