protected function finally return 0


 リョウからケータイにメールが来た。
『今から行っていいですか?』
 休日、土曜日の真夜中だった。会社で担当しているプロジェクトで、ようやく納品物を客に査収してもらうところまで漕ぎつけ、久しぶりに休むことのできた週末だ。
 友人たちと予定していた日帰り旅行も終わり、残った日曜日は、どうせだらだらと、布団の上に寝転がりながら、無為に過ごすのだろうと思っていた、まさにその時のことだった。
 どうせ無為に過ごすなら、一人より二人だ。俺はリョウに『いいよ』とメールを打ち、返信ボタンを押した。
 それからすぐ、俺がまだケータイの画面を見て、メールが送信完了したのを確かめているうちに、インターホンが鳴った。
 まさか?
「はい」
「こんばんは。ボクです。実はもう下まで来てました」
「……そうか」
 俺はオートロックの解除ボタンを押し、インターホンをオフにした。
 珍しいことだった。
 こういう時間を問わない訪問自体は、俺とリョウの間ではよくあることだった。方角が正反対ではあるものの、最寄り駅が共通しているぐらいの距離なので、行き来がしやすいのだ。
 俺もリョウも、マンション住まいの一人暮らしではあるが、……いや、だからこそ、互いの個人的な時間を尊重するために、そういう約束事を取り決めているのである。
 他に、自分の都合が悪かったり、気分が向かない時は、忌憚なくその旨を伝える、というルールもある。
 これは、『気の合う者同士が集まってぐだぐだすることは貴重なことだが、24時間/365日を通して、それよりも優先すべきことが存在しないやつなどいない』という命題と、『気分が乗らないという現象は、遊びの世界においては、理由を問わず、最も致命的かつ重要なことである』というもう一つの命題が、共に真であると、俺とリョウの間で共有されているために生まれたルールだ。
 このおかげで、たまたま立て続けに誘いを断ったとしても、何か悪いことをしただろうか、というような、面倒な思慮が省略されるため、関係がとても気楽で助かっている。
 ただし、その気楽さを守るため、ルールはむしろ厳格に運用されているのである。
 今回、リョウはそのルールを破ったわけでは全くない。アポイントをとり、了承を受けてから相手を訪ねる。何の問題もない。
 ただ、無駄足になるかもしれないのに、俺の確認をとる前に、もうエントランスまで来ていたことなんて、一度もない。
 珍しいことなのだ。
 どういうわけか、一瞬だけ、不安な気持ちが胸をよぎった。
 いや、単に連休が半分終わってしまったことで、アンニュイになっただけだろう。そう思い直した。
 ピンポーン、と、今度は玄関先の呼び出し音が鳴った。



「こんばんは~」
 リョウは、夜中には似つかわしくないニコニコした顔をして現れた。左手にはノートパソコン、右手にはシュガーレスのレッドブルを持っているところまで、いつもどおりのリョウだった。
「おう。入れよ」
 俺はリョウをワンルームの部屋に招き入れ、ちょうど真ん中に置いてあるローテーブルを挟んで座った。
「旅行明けから帰ったばかりのところ、すみません。楽しんできました?」
「なんだ、知ってたのか」
「いやいや、知ってたも何も、直也さんが自分で Twitter に写真やら音声やら、アップロードしまくってたじゃないですか」
 リョウは苦笑して、ぐいとレッドブルの缶をあおった。
「……そうだっけ?」
「そうですよ。今日は一日、ボクの TimeLine で、他の人のつぶやきの間に、いちいち直也さんの楽しそうなつぶやきが挟まってましたよ。ハンバーガーの具みたいに。位置情報も付いてたから、いつどこに行ったのかも全部バレバレですし。ボク、直也さんたちが回った観光ルートを地図にして遊んでましたよ」
 言い終わるや否や、リョウは笑みを消し、訝るような表情をした。
「直也さん。まさか、自覚なしでそういうことをしてたんじゃないでしょうね。もしそうなら、今のお仕事は辞めるか、降格してもらった方がいいですよ。でないと、そのうちにとんでもない情報漏洩をしでかして、賠償金を取られかねませんよ」
 おっと。これはまずい。リョウの職業倫理に火をつけてしまったかもしれない。
 俺とリョウは、コンピュータに関する職業についている。といっても、俺がもう三十路を過ぎて、いよいよ管理職にギアチェンジかという年齢なのに対して、リョウはまだ二十歳そこそこと年若く、仕事のしかたも個人事業主、いわゆるフリーランスだ。世にあるあまたの企業が抱えている案件を請け負ったり、手伝ったりして生計を立てている。
 だからこそ、リョウは自律的にリスクを管理しなければならないという感覚が強い。俺のようなサラリーマンは、最終的な責任はあくまでも上にあるよね、という意識がどこかにあるので、よくリョウに怒られてしまうのだ。
「これからは気をつけるよ。ああ、そうだ。土産のオンドリまんじゅうがあるんだった。ほうじ茶もあるぞ。どうだ。一つ」
「それも既に写真で見ましたよ。ま、後でいただきます。それよりも、用件なんですが」
 すげなくあしらわれてしまったが、話題が変わったので、とりあえずよしとする。
「直也さん。ボク、すごいことを見つけてしまいました」
「何だ?」
「いいですか。見ていてください」
 リョウは飲み終わった缶をテーブルの真ん中に置き、ノートパソコンを開いた。
「今から、これを消します」
 そう言って、今置いたレッドブルの空き缶を指した。
「はあ?」
 俺の声を無視して、リョウはキーボードのキーを叩く。

 その瞬間、音もなく、缶が消えた。
 まるで、初めからそんなものは、なかったかのように。

「え、何だ、今の」
「さっき言ったとおり、空き缶を消しました」
「そんなバカな」
 空き缶があったはずの場所に手をやり、左右に振ってみる。何もない。
「今の空き缶は、もうここにはありません。消えました。透明になったとか、そういうことでもありません。なくなりました。我々風に言えば、destruct されました」
「何だって?」
「今、レッドブルの缶 class の instance として生成された object であった空き缶を、強制的に destruct したんです。この言い方で、直也さんならわかりますよね?」
「…………」
 リョウが言う destruct とは、プログラミング用語だ。簡単に言えば、“実体を消す”。
「手品だろ?」
「手品……という言葉が、厳密にはどう定義されているのか、ボクはよく知らないので、答えられませんね」
「通俗的な意味において、でいい」
「でしたら、手品じゃありません。本当に消えました。疑ってるんなら、他にも何か消しましょうか?」
 リョウは少し得意げな顔をして、何でも構いませんよ、と言う。
 当然、俺は疑っている。物を突然、跡形もなく消すなんて、できるはずがない。
 だが、俺が見張っていた目の前で忽然と消えたのだ。しかも、リョウがしたことといえば、キーボードを一回叩いただけ。
 そんなことが起こるわけがないという常識と、自身の目の認識の確からしさ。その二つの間で板挟みにされて、苦しんだ俺が出した結論は、やはり、何かのトリックに違いない、というものだった。
 事前に細工をしておいたのかもしれない。いったいどんな細工をすれば、あんな芸当ができるのかはとりあえずさておき……それさえわかれば、あの缶はリョウが持ってきたものなのだから、仕込んでおくことは容易い。
 ならば、もともとこの家にあったものなら、どうか? ふっかけてみる価値はあるだろう。
 俺は部屋を見回し、なるべく重要ではなさそうなものを探した。
「じゃあ、これだ」
 俺が指さしたのは、部屋の隅に置いてあった、ゴミ袋だ。容量は約45リットル。中にはゴミが満杯に入っている。月曜に出勤するついでに捨てようと思っていたものだ。
「できるか?」
「そういうのは、けっこう難しいんですが……」
 リョウは困惑した顔をしてみせた。こちらの要求で困るということは、やっぱり仕掛けがあるんだな。これはトリックを暴くチャンスかもしれない。俺は色々な可能性を検討し始めた。
「でも、やってみますよ」
 それでもリョウは、ノートパソコンのキーをスタタタと打ち始めた。
「いや、意外と難しくはないですね。すぐに実現できそうです。……準備できました」
 ひとしきりタイプして、リョウが顔を上げた。
「じゃあ、消しますよ?」
「あ、ああ」
 リョウの自信のありそうな様子に、たじろいで返事をすると、間を置かずに、リョウはキーをタンッと叩く。
 すると、さっきの缶と同じように、ゴミ袋が音もなく消えた。
「マジかよ」
 俺は悲鳴のような叫び声を上げた。
「ゴミ袋の instance は、内容物が hash になっていたので、難しいと思ったんですが。foreach をかけて、すべての要素を destruct して、最後に自分自身を destruct してやれば、簡単でした」
 リョウは勝ち誇ったようにニンマリしているが、俺はそれどころではなく、顔から血の気が引いていくのを感じていた。
「おい、マジか。リョウ」
「ですから、マジですよ」
 本当にそんなことがあるのか。俺は興奮してしまった。
「なんてことだ。この世に魔法は存在したのか。お前は魔法使いになったのか。嘘だろ!? 今までの人類の歴史を通じて、そんなものの存在が証明されたことなんか、なかったのに。お前が世紀の大発見の当事者になっちまったのか? お前がその人だっていうのか? どうなんだ!」
「プッ、落ち着いてください。直也さん」
 リョウが一瞬、吹き出して笑うのを見て、俺はその進言どおり、少し冷静になる。
「やっぱり、俺を担いでるのか?」
 一度は信じかけたものの、今の“吹き”は、なんというか、ドッキリの可能性を示唆していた。俺が信じ込んだその時に『実はこういう仕掛けでした~』とタネを明かして、一笑い。その未来に耐えるには少々きつい魔法観を、さっき俺は口走ったような気がする。
「いえ、担いでなんかないです。マジです」
「信じられなくなった」
「すみません。今のは、直也さんがボクに騙されている可笑しさに耐えられなったという類いの笑いではないです。単純に、直也さんの狼狽ぶりが、滑稽だと思っただけです。今日、ボクが説明したり披露したりしたことに、嘘はありません。ボクと直也さんの関係性を懸けて、誓えますよ」
 それはそれで、滑稽だと思ったことに腹が立つ。
「さっき直也さんが言った“魔法”という言葉。実際のところ、この現象は、魔法みたいなものだとボクは思ってます」
「どういうことだ?」
「これを見てください」
 そう言って、リョウはノートパソコンを俺に向けた。
 その画面には、何かのエディタが最大表示してあって、以下のような文字が入力されていた。




using System.*;
using World;
//using World.Analyse;

require_once 'define.h';

World world = new World();

world.transaction();

try {
  WorldObject wobj = world.getObjectByWorldId(GOMIBUKURO);

  foreach(superlongint i in wobj){
      wobj.i.destruct(BACKUP);
  }
  wobj.destruct(BACKUP);

  world.commit();

} catch (WorldException e) {
  world.rollback();
  System.out.println(e.getMessage());
} finally {
  return 0;
}





「何だこれ?」
「これは、ボクがさっき書いて実行したプログラムのソースです。ゴミ袋を消す時に、実行したプログラムです。その『World』『Analysis』というのは、ボクが作ったライブラリですので、わかりにくいと思いますが……。要は、さっきの直也さんのゴミ袋の世界IDを取得し、その中に入っているものとゴミ袋自体を destruct したんです」
「世界ID?」
世界のすべての object についているIDです。それをもとにして、プログラムで扱う物体を取得することができます」
「まさかとは思うが……」
「はい。この世界は、プログラムなんですよ」
 きっぱりとリョウは言った。
「この世のすべての物体は object です。そしてそのもとになった class も存在する。class というのは、もちろん object の設計図のことです。“ジュースの缶”という class、“ゴミ袋”という class があって、それを実体化したのが、instance です。さっきこの家で消したレッドブルの缶もゴミ袋も、それぞれ設計図である class の instance です。そしてすべての class は destructer を持っているので、その instance の destructer を実行すると、その instance は消滅します。ボクがやったのは、消したい object の destructer を実行することだったんです」
 俺は呆気にとられていた。
「さっき直也さんも言ってましたが、こんなことを実際に行なえた人間は、たぶん、ボク以外にいないです。人類の歴史を振り返っても。今までに起こったことのない現象ですよ! それはもはや“魔法”と呼んでいいように思います」
 熱っぽく語るリョウは、何かに取り憑かれてしまったかのように偏執的に見えた。目が充血して真っ赤なのもその一因だ。
 ろくに寝ていないのだろう。興味があることになら、一度や二度の徹夜など全く厭わないやつなのだ。
 青年と中年の端境にいる俺には、そろそろ利かなくなっている無理を、平然とやってのける。若さとは、そういうものなんだな。
「どうして、そんなことができるようになったんだ?」
「最近、都市シミュレータを趣味で作っていたんですよ。最初はシムシティぐらいのものだったんですが、だんだん凝ってきて、色んなパタメータを追加して、リアルさを追求しようとしていたんです。そのパラメータの一つを格納している変数に、いきなり、変な object が入ってることに気づいたんです。検証してみた結果、それは、この世界でした」
「世界……」
「解析に膨大な時間を費やしましたが、世界はプログラムに非常によく似た体系で構築されていることがわかりました。むしろ、プログラムが、世界に似せて設計されているのかもしれません。さっきも言いましたが、この世にあるすべてのものには設計図があって、それを実体化したものだけが、世界に存在しています。だから、設計図の種類は無限に近いほどありますし、その設計図は、こうしている間にも、似たものが統廃合されながら、無数に増えていっています。宇宙が膨張しているっていうのは、そういうことなんでしょうね」
「スケールがでけえなあ」
 俺は感心していた。
「面白いな。一つのでっかいメモリがあって、そこに展開しているプログラムが、この世界。そのプログラムの中で一つ一つ動いている object が、俺やリョウみたいな人間であったり、ゴミ袋だったりする、と。本来なら、俺たち object が他の object を操作するには、直接触れるとか、あらかじめ用意された interface を介して行なうしかない。でも、リョウのノートパソコンの都市シミュレータの中で、 なんでか知らんが、世界の object を操作できるようになってしまった」
「そうです。早い話が、世界のバグですね。他のマシンにボクのこのプログラムを配置して動かしても、同じようには動かなかったんです。OS や CPU のアーキテクチャが違うから、動作自体が異なっているのかもしれません。でも、ボクは、このノートパソコンが世界にとって特別なんだと考えています。普通は禁止され制御されているアクセスを、なぜかこのノートパソコンだけ、通過してしまう」
「なんでだろうな」
「ほら、例えば、数字αを入力させて、『100÷α』の答えを出力するソフトを想像してみてください」
「あー。『0』って入れると、強制終了するやつな」
「そうです。0で除算しちゃダメ問題は、割と初心者泣かせですよね。普通は、αが0の時だけ場合分けして『割れません』って出すとか、対処をするんですが」
「え、じゃあ、世界にそんなレベルのバグが……」
「あったんですよ。それがたまたまボクのノートで突ける。すごくないですか?」
「すげえというか、こええよ」
 そんな欠陥のある世界で生きてるんだからなあ。
「それが本当だったら、俺とかお前とかも、ひょいっと消したりできちゃうんじゃねえのか?」
「できます」
「げええ。つうか、さっきのお前のプログラムさ、真ん中らへんの『world.getObjectByUniqueId(GOMIBUKURO);』ってやつ。これでゴミ袋の、なんだっけ」
「世界IDですね」
「それを取ってきて、消してるわけだよな」
「厳密には、その『GOMIBUKURO』は定数なので、ヘッダファイルで定義してある世界IDが入ります。IDとはいっても、実際は一億ケタぐらいある数値なんですけどね。それで、別のプログラムでこの部屋にあるものをリストで取ってきて、中身の様子から『多分これがゴミ袋だろう』ってやつを選んで、あらかじめ定義してあるんですよ」
「選ぶって、どうやって?」
「ボクが目視でやってます。そしてそれを、console からコピペしてます」
「たぶんこれだ、って選ぶの?」
「そうですよ。だって、名前がついてるわけじゃないですからね。すべてのものは、ただの object です」
「取り違えることもあるんじゃねえか?」
「まあ、あるでしょうね。そんなミスはしませんが」
「危ねええええ!」
 ゴミ袋だと思って消したら、残念、直也くんでした! ってこともあるんじゃねえか!
「世界にアクセスするためのライブラリは、ボクが死ぬ気で作って整備したんで、間違いはないと思いますけど。まあ、いくら世界がプログラムっぽいといっても、それはボクがそういう世界観で見て、そう捉えられる部分を、コンピュータのアーキテクチャと結びつけただけですからね。思いもよらない誤動作も、あるかもしれません。缶とか袋とか、直也さんに信じてもらうためにホイホイ消してましたが、軽率だったかも」
「軽率すぎる。もう destruct 禁止な」
「でも一応バックアップは取ってるんで、大丈夫ですよ」
 『wobj.destruct(BACKUP);』←これか。バックアップなんてこともできるのか。
「なんで、このことを俺に教えに来たんだ?」
 俺は素朴な疑問をぶつけた。
「細かいつくりはよくわからんが、実際に世界を操作するプログラムのソースを見るに、お前のライブラリは、有効に機能しているみたいじゃないか。問題点、今後の課題も自分で把握しているように思える」
 リョウは頷いた。
「これ、お前が言ったことが本当だとしたら、とてつもないぞ。なんだってできるじゃねえか。そのノートパソコンを奪い取って、お前の object を destruct することだってできるぞ」
 リョウはハッとしたような顔をする。
「おいおい、マジか。そんなことにも気づいてなかったのか?」
「アハハ……。そう言われれば、確かにそうですね。Twitter がうんぬんで、直也さんに怒ってる場合じゃありませんでした」
「そうだろ」
「これをどう使うかについては、恥ずかしながら、ほとんど考えてなかったです。ただ、自分のアプローチが、他の技術者から見ても正しいかどうか確かめたかった。あと、自分以外の人なら、どういうアプローチをするのかを知りたかった。それが本音です」
 好奇心のせいで、他のことに気が回らないのは、世の中の Geek の宿命といってもいい。
「迂闊だったな。でもまあ、今のところ、俺にその気はないよ。お前の説明することが、すべて事実だとも限らないしな。俺はもうほとんど、その“世界のバグ”について信じ始めているが、今の話を全面的に受け容れたわけじゃない。お前が嘘をついていなくても、専門的な勘違いということもある。そんな状況で、ライブラリの作者の解説なしに操作して、間違って自分を destruct なんかしたら、バカみたいだろ」
 俺もまた、本音で答えたつもりだった。
「わかりました。ねえ、直也さん。ボクと一緒に開発しませんか? 世界のセキュリティホールを突くソフトウェアを」
「もちろん、やるよ。そんな面白そうな話、乗らないわけがない」
「直也さんなら、そう言ってくれると思ってました」
 リョウはいつものニコニコ顔に戻っていた。



 寿司詰めの満員電車の中で、俺はゴトゴトと揺られていた。
 あの後、俺はリョウからレクチャーを受けていた。“世界” object のしくみについて。それを操作するためにリョウが作ったライブラリについて。
 夢中になっていると、なんと日曜は瞬く間に過ぎ去っていて、もう月曜の朝だったのだ
 我に返った俺は、襲いかかってくる現実に戦慄しながら朝陽を浴び、有給休暇に思いを馳せた。確か、日数にはまだ余裕があるはずだったのだが……。
 結局、それでも出勤しちまうのが、サラリーマンの悲しき性というものだった。

 ほとんど徹夜、それも土曜の朝から今まで、二徹しているわけなのだが、不思議と意識はクリアだった。俺も、まだまだ若いのかもしれないな。
 リョウがもたらしたあの発見は、あまりにも刺激的だった。

 あれから、リョウの話を聞きながら理解を深めていく中で、わかってきたことがある。
 リョウは『世界はプログラムだった』という言い方をしていたが、もちろん、疑いの余地なくそうだというわけではないのだ。
 世界のコンピュータのほとんどは、ノイマン型というアーキテクチャによって成り立っていて、あらゆる処理を“0”と“1”の二つで行なっている。人間の目に触れる段階で、例えばモニタに“2”という数字が映っているように見えても、それはコンピュータ内部では“10”という二進数で扱われているのだ。画像ファイルも、原始的な表現方法でいえば、まず一番左上の画素の赤色成分がいくつで、青色成分がいくつで……というような数字の集合になっているし、その数字もまた二進数であり、無論、すべて“0”と“1”で構成される。そしてそれは、コンピュータ上で動作するプログラム自体も例外ではない。
 じゃあ、プログラムを作る時に、俺たちプログラマはいちいち“0”や“1”を延々と打ち込みまくっているのかといえば、そうではない。……中にはそういう人もいるが、一般的には、人間にも意味がわかる“プログラミング言語”を使うのだ。その言語の法則に従って書かれた文書は、“コンパイラ”というソフトウェアを使うことで、機械が解釈できる“0”と“1”に変換するのだ。
 特別なことをしているのではない限り、実際にその“0”と“1”の状態を目にする機会は、ほとんどないと言っていいだろう。
 しかし、世界 object の中身は、ただただ“0”と“1”の集合――何を意味しているとも知れない塊だったという。
 いや、本当はそんな状態さえをも超越していて、とにかく“よくわからないもの”だったらしい。それを、“0”と“1”という、ノイマン型コンピュータによって捉えられる状態にまで、リョウが強引に落とし込んだというのだ。
 いかに“よくわからない”とは言っても、すべてはパソコン内での出来事、つまりノイマン型というアーキテクチャの支配下に存在しているものなのだから、“0”か“1”でしかあり得ないはずなのだが……。
 リョウはこんな喩えをしていた。林檎をそのままコンピュータの中に入れることはできないが、林檎の写真を撮って、それをスキャンすることはできる。そういうデジタル化作業をどんどん精緻化していき、対象を様々な視点から“0”と“1”で記述することで、“実質的に林檎がコンピュータに入った”状態に限りなく近づけるような作業。それが、リョウのした仕事の大部分だったという。
 そんなことが可能なのか、はなはだ疑問ではあるが、この辺りのことは、まだリョウもよくわかっていないらしい。ただ、リョウはその謎に対して、一つの仮説を立てていた。
 それはこういう話だ。『この世は一つの巨大なメモリである。それは無数の領域に区切られていて、絶対に境界を越えることはできないが、あのノートパソコンだけが、それを超えてしまった』。
 つまり、俺たちが普段使っているコンピュータが色んな計算をして、ゲームの画面を表示したり、音を鳴らしたりしているのと同様に、世界もまたでっかいコンピュータのようなもので、この世の森羅万象を計算し続けていて、その計算結果の一部が、生きている俺たちだというのだ。
 そしてその森羅万象それぞれの object たちは、定められた手続きでしか、他の object に干渉できない、というルールが敷かれている。
 例えば、俺が会社に行くためには、歩いて行くか、電車で行くか、タクシーで行くか。何らかの移動をしなければ、それを実現することはできない。ベッドの中で寝転んでいるだけでは、絶対、会社に着くことはない。
 極めて当たり前のことだが、これは、制約があるせいなのだ。
 そのすべてのルールを超越して、何をどうすることもできるのが、“世界のバグ”に引っかかったあのノートパソコンだという。

 そんな素晴らしいアイテムがあり、しかも俺にそれが使える状況なのだから、銀行にある俺の口座の金を一億円ぐらいにすれば、会社になんか行かなくていいのになあ。
 でも、書き込みはヤバい。
 昨日、リョウが試しにやってみせた、空き缶とゴミ袋の destruct だって、危なかったんだ。
 あれは、リョウが世界を検索して、『これが目の前にある空き缶のことだよね』と思われる object を探し出し、その ID をconsole に出力し、それをトラックパッドで範囲選択し、コピペして、消したのだ。
 空き缶と思われる object って。何を根拠に判断してるんだ。あと、仮にその判断が正しくても、IDのコピペをミスったらどうするんだ。
 その説明は一応受けたが、あまりにも操作方法がアナログすぎて、実用に耐えないレベルだ。前回はたまたまうまくいったが、今後もそれを繰り返していくとなれば、必ずヒューマンエラーが生まれる。
 リョウは、ちゃんと destruct するものはバックアップを取っていると言っていたが、そういう問題ではない。
 例えば、もし高層ビルを誤って desctruct したらどうなるか。その中にいた人々は、いきなり足場を失って、空中に放り出されることになり、すぐさま落下して死ぬだろう。そのビルの周囲にいた人にもぶつかるかもしれない。そうなってから、慌ててビルを元に戻したって、遅い。そのビル以外のバックアップは取っていないから、復元しようがないのだ。
 もっと研究を進めた上で、失敗しても致命的なことにはならないようなケースを慎重に選ばなければ、実験はできない。
 だから、研究を進めることが急務だが、その人員は俺とリョウしかいない。あの膨大なシステムを解析するには、いくら労力をかけても足りないぐらいなのだが、いかんせん、俺には仕事がある。
 書き込みができない以上、生活するためには仕事に行かなくてはならんのだ。
 でも、それだと研究ができない。
 なんというジレンマ。
 ちなみに、リョウの方は、すべての仕事をそっちのけにし、自宅で研究に没頭しているようだ。元々、『家でやれる仕事しかしない』という信条で生きてきているやつだから、少しぐらい音信不通になったところで、大丈夫なんだろうが……。
 俺には真似できん。
 奴に頑張ってもらうしかあるまい。


 そんなことを考えながら、ようやっと会社に着いた。
 それにしても、眠気がとてつもない。こういう時、俺はもっぱらコーヒーでしのいでいる。リョウはレッドブルを愛飲しているようだが、それは煙草を吸わないせいだろう。コーヒーと煙草のコンボは、かなり効く。身体にものすごく悪そうなところがポイントだ。
 さっそく給湯室で一杯淹れたいところだが、その前にタイムカードをつけねばならない。判で押したような生活の始まりに、まさに判を押すのが、サラリーマンの義務なのだ。
 もっとも、うちの会社では、タイムカードは自分のパソコンからつけることになっているので、実際に判を押すわけではない。社内ネットワークのグループウェアに、そういう機能があるのだ。
 この制度、会社にとっては集計の面倒が省けて、いいのかもしれないが、パソコンが起動しきるまで待たなければならず、出勤と打刻に数分間のラグが生じるのである。遅刻スレスレの時間に来ている社員にとっては、憎らしいシステムに違いない。
 俺は割と時間に余裕をもたせているから、特に支障はないのだが、それでも、うっかり打ち忘れるということもある。余計な凡ミスで、総務と無用な問答をする羽目になるとバカバカしいので、さっさと済ませておくに越したことはない。
 そんなわけで、いつものように自分の机に直行し、マシンの電源ボタンに手を伸ばしたのだが……。
 既に電源は入っており、画面にはスクリーンセーバーが映っていた。
 あちゃあ、金曜に切り忘れたまま帰ったか。
 ロックを解除しようと机の上のキーボードを見ると、その脇に、コーヒーが入った俺のマグカップがあった。
 これも片付けてなかったのか、我ながらだらしねえなあ。と思ったが、それでは辻褄の合わないことがあった。
 コーヒーは、湯気を立てていたのだ。
 金曜の飲み残しであれば、あり得ないことだった。
 誰かが淹れておいてくれたのだろうか?
 確かに、俺はほぼ毎日、始業の十五分前ぐらいに出勤する。俺の部署の同僚や部下ならば、そのことは知っているだろう。そのうちの誰かが、気を利かせて淹れておいてくれたのかもしれない。
 しかし、だからといって、普通、そんなことをするものだろうか?
 もしかしたら、俺の乗る電車が遅れるかもしれない。そんなことは、ままある。そうでなくとも、午前半休をとって、歯医者に行ってから来るかもしれない。
 コーヒーなんて、少し時間が経てば、たちまちに冷めてしまう。冷めたコーヒーなど、世界で十指に入るぐらい不味い。しかも、俺がいつも洗って使っているマグカップに淹れているのだ。そいつが親切のつもりでやったとしても、俺は不快に思うだろう。
 その人物は、その可能性を考慮しなかったのだろうか?
「あれ、五十嵐さん。ずいぶん早いですね」
 恐らくムスッとした顔で、そんなことを考えていると、女子社員が話しかけてきた。彼女は俺の部下で、明るいがおしゃべりなのが玉に瑕だ。
 しかし、『ずいぶん早い』? 俺はいつもどおりの時間に来たんだけどなあ。
 もしかして、このコーヒーは彼女が? 世話焼きなところがあるから、やりかねないが……。
 でも、それはおかしい。彼女が思うよりも早く俺が到着したのなら、既にコーヒーを用意している意味がわからんもんな。
 率直に訊いてみることにした。
「早いって、何が?」
 女子社員は、キョトンとした顔をする。
「何って、社長ですよ。やっぱり、昇進ですよね? あのプロジェクト、お客さんにすっごく評価されてましたもんね」
 社長? 昇進? 何のことだ? 
「話が見えないんだが」
「やだなあ、隠さなくたっていいじゃないですか。社長が呼んでるって、五十嵐さんに伝言したのは私なんですよ? 叱られたんなら、こんなに早く戻ってくるわけないですし。となれば、むしろ褒める方、つまり昇進とかボーナスとか、そういう話に決まってます。どうですか、五十嵐さん。大当たりでしょ?」
 なんかカチカチカチ、とオイル切れのライターで無理やり点火しようとするような音が、頭の中で聞こえた。これは、パズルのピーズがハマっていくという形容で表現される、アレだ。こういう音なのか。どういうタイプのパズルなんだろう。いや、そんなことはどうでもいい。
「ああ、まあ、また後で話すよ。ちょっと、また出てくる」
「えー、なんですか、もう異動ですか?」
 俺は鞄を引っつかんで素早くオフィスを出て、そのまま会社を飛び出した。そして走って隣駅まで行き、駅前の個室ビデオ屋に入った。
 やべえやべえ、これはやべえ。俺の clone が、俺より先に出勤してきてる。



「ボクじゃないですよ」
「本当か?」
「はい。あれ以来、“書き込み”は一回もしてません。そう決めたじゃないですか」
「むう……。じゃあ、何が原因だ?」
 うーん、と電話の向こうでリョウは唸った。
「思い当たるところはないか?」
「わからないです。ボク自身の手でやったのは、ボクの家の物を消したり増やしたりしたのが数回と、直也さんの家でやったのが二回だけです」
「お前の家でやったケースでは、何も異常はなかったのか? 例えば、増やす操作をしたのに増えなかったとか」
 その時に、間違って俺が増えたのかもしれん。
「いえ、なかったです。ちゃんとボクの意図どおりに増減しました」
「それが、単一の object に対する操作になっていなかったとか」
「何かを増やした時に、直也さんも一緒に増やしてしまったってことですか? そこまでいくと、ボクにはわかりません。しかし、確実にこのバグ関連でしょうね。このバグを突いたことは、関係していると思います」
「そうだよなあ」
 参ったな。
「あっ」
「どうした?」
「ボク、重大なことを見落としていたんですが」
「何だ? 早く言ってくれ」
「もし本当に直也さんの clone が生成されてしまったのだとしたら、今、ボクとこうして電話している直也さんが、オリジナルなのかどうか、判断ができなくないですか?」
「え……」
 マジで?
「いや、俺は昨日、お前と一緒に勉強した五十嵐直也だぞ」
「そのことを知っていることが、オリジナルの直也さんだという証明になるかどうかは、いつ clone されたのか、に依存しますよ。会社に着く直前の段階で、clone されたのかもしれません。そしてたまたま、こうしてボクと話している方の直也さんが、遅れて会社に到着した。その順序が入れ違っていたら、今、会社にいる方の直也さんがボクに電話してきて、同じようなことを話していたのかもしれません」
「なんだと……」
 眩暈がする。
「一度、会ってみればよかったんじゃないですか? ドッペルゲンガーじゃないんですから、会っても死にはしませんよ」
「バカ。人前でそんなことしたら、大騒ぎになるだろうが」
「それもそうですね……」
「お前が俺を clone したんじゃないとすれば、勝手にされたってことだろ。やばくないか?」
「やばいですね。世界バグは元々存在したんでしょうし、このタイミングでそれが起こったってことは、やっぱりボクの端末でそれを叩いたせいですよね。制御が不完全だったんだ」
「だったんだ、じゃねえよ! どうすんだよ。やべえよ」
「どっちかを destruct しないとまずいですね。いえ、よく考えると、直也さんが二人だけだとも限りませんね。世界中に何人も生まれてる、生まれ続けてる可能性だってあります。どうやって検索したらいいんだろう。順番に destruct していくしか……」
「destruct って、お前」
「いい方法が思いつかないです。今さら、あのバグを知らなかったことにして、プログラムを廃棄したって、clone が止まるわけじゃないでしょうし」
「異常が、俺の増殖だけとも限らんしな……。なんだよ、増殖って」
 言ってみてから、なぜか嘔吐感が込み上がってきた。
「……ボクも増殖してるかもしれませんね。直也さん。もう、心を鬼にしましょう。今、こうして会話しているボクたちだけが、本物です。そういうことにしましょう。この社会に身を置いている以上、自分との共存はできません」
「……」
「こうなってしまった以上、もう腹をくくるしかないですよ。行動しましょう。生き残らなきゃ」



 俺のマンションのすぐ近くには、バス停がある。徒歩にして十五秒ぐらいだ。
 といっても、ほとんど乗ったことはない。電車に比べると運賃が高いし、俺にとっては区役所に行く時ぐらいしか用途がないのだ。
 しかし、俺はそこにある乗客用ベンチに腰を下ろしていた。
 これから乗ろうとしているわけではない。ここが一番、拠点として都合がよかったのだ。
 かれこれ、どれくらいこうしているのだろうか。
 手に持ったスマートフォンの時計をチラッと見ると、既に二時間が経っていた。もうすぐ昼時だ。
「あ」
 目を逸らした隙に、誰かがマンションへ入っていこうとしていた。危ねえ、見逃すところだった。
 あれは、だ。
「リョウ、また来たぞ。恐らく、エレベーターに乗り込んだ」
「はい。わかりました」
 スマホは Skype を介してリョウと繋がっている。イヤホン型のヘッドセットを使っているので、わざわざ耳に当てなくても会話できて便利なのだが、傍からは、独りで喋っている危ない人に見えることが難点だ。
「オッケーです。消しました
「サンキュー」
 もうこれで三人目だ。
 俺とリョウが出した結論は、俺たち以外の俺たちを、なるべく destruct していくということだった。
 自分と全く同じ形貌をして、いつまでかの自分と全く同じ経験をした人間が複数存在しているという状況。そんなことが露見したら、社会はその“種族”をどう扱うのか、見当もつかなかった。
 ただ、少なくとも、『個性的ですね~』などと穏便に済ませてもらえることはないだろうというのが、俺たち二人に共通した見解だ。
 物珍しがられるのか、迫害されるのか、身体中に電極をつけられて研究されるのか、解剖されるのか。
 そんなのはご免だ。
 リョウが言った、俺たちだけが本物、という意味はそこにある。
 俺たち以外の俺たちは、消す。
 これはオリジナル闘争なのだ。

 clone たちが俺やリョウと同じような経験、記憶を持つというのなら、いつかは自分の家に帰ってくるだろう。そこを狙って、消していく。それが俺たちの作戦だった。もし大量発生しているのだとしたら、焼け石に水かもしれないが、やれることはやっておきたい。
「直也さん。うちには、ボクはまだ一人も帰ってきてません。が、なぜか直也さんがさっき一人、帰って来ました」
「え」
「普通に鍵を開けてましたし、帰ってきて、すぐトイレに入っていたので、あの中身はボクなんじゃないかと思います。お恥ずかしながら、ボクの習慣なんです」
「トイレに? トイレなら、そうは限らないんじゃないか?」
「いえ、証拠があるんです。ボクは、トイレの中で DS をやってるんです。中に入っているソフトが“ラブプラス”というのも一致しています。一応、中のデータも検めてみましたが、間違いなくボクです」
「そうかよ」
 どうでもいいわ。
「しかし、そんなパターンもあるのかよ。参ったな」
「今のところ、姿は直也さんというケースしか確認できてませんが、中身が全然関係ない赤の他人になっているケースがあってもおかしくないですね。そうなったら、手の打ちようがないです……」
「いや、もうそれは前提なんだよ。今の俺たちのやり方が、完全な解決策だという保証は元々ねえんだ。粛々とできることをやるしかない」
「そうですけど……。でも、どうせなら、ボクたち以外のボクたちを検索する方法を探すのに時間をさいた方がよくないですか? それを一括して destruct すれば、完全な解決ですよ。batch にして定期的に走らせれば、変なのが生まれても、生まれた途端に消せるので、ボクたちの生活は守られます」
「そんなの無理に決まってる。お前もさっき言ってただろ。手の打ちようがないと。もう、純粋に clone されるってパターンばかりじゃねえんだぞ。顔だけ俺、頭の中だけ俺、手だけ俺、身長だけ俺、性別だけ俺。その他、想像できないような形で俺になってるやつがいるかもしれん」
「外面だけ直也さんになっている人なら、探せるんじゃないですか? 身長や性別なら、直也さんと同じ人間なんて、元からいくらでもいます。そんな項目がコピーされるのは、全然構わない。問題は、ボクたちに干渉してくる類いのコピーですよ。外見がボク、あるいは、頭の中がボク。外見なら、それが同じだという理由で、このボクも比べられることになります。具体的には、そいつが何か事件を起こして警察の厄介になる→ボクの顔から身元を調べ上げる→この家にやってきて clone 生まれまくりが露見する→ボクも含めて珍現象解明のモルモットになる。頭の中なら、そいつが生活する→今みたいに直也さんとかボクの生活圏内で競合してくる→騒ぎになる→モルモットになる」
「外見を検索するなんて相当無理だろ? どうやるんだ? 顔の造形をモデリングするのか? そっくりさんも destruct しちまうぞ」
「もうその場合は、しょうがないと諦めるしかないでしょう。もう既にボクは何人も手にかけてる。直也さんの見た目をした clone をです。本当は、直也さんのそっくりさんが、間違えてボクの家のドアを解錠して、たまたまトイレで DS をしてただけかもしれないのに」
「そんな偶然があってたまるか。確実に clone だよ」
「でも、今言ったボクの説を否定する根拠はないですよね? 『そんなわけはない』っていうのは、恣意的判断でしかない。そんな判断で人を消して、大丈夫って言っていられるなら、そっくりさんを消したって、もう誤差の範囲じゃないですか!」
 リョウの声はだんだんヒートアップしてきている。
「おい、リョウ、落ち着いて……」
「危ないからバグは叩かないでおこうって言ってた舌の根も乾かないうちに、もうバンバン叩いて destruct しちゃってます。元々、destruct が原因でこんな異常事態が起こってしまったわけでしょう? 今回だって、副作用がないはずがない。すべての異常事態に自動的に対処できるようなシステム、もはやそれは、この世界を完全に制御できるぐらいのシステムですが、それを構築していくぐらいでしか、解決できないですよ」
「でもそっくりさんを検索する叩き方だって、危ないかもしれない。書き込みをしないからといって、安全だとはいえないだろ? 思いもよらない干渉が起こる可能性がある」
「そんなのは destruct してる時点で何回もやってるんですよ! 直也さんから偽者の連絡があったからって、ボクがその偽者の ID を自動的に、エスパーみたいに把握してると思ってますか? そんなわけないでしょう! がっつり検索してるんですよ! どの辺にいるかで絞り込んで、候補の object の property を走査して……検索で異常が起こるんだったら、destruct だってできませんよ、あうっ」
 興奮してまくし立てていたリョウが、情けない叫び声を上げた。
 そして通話は途切れてしまう。
 かけ直そうと思ったが、リョウはオフラインになってしまった。
 電話の方にかけても、コール音がするだけで出ない。
 ……このまま見張っていても、リョウに destruct するように頼めなければ、何の意味もない。
 少し悩んだが、俺はリョウのマンションに行くことにした。



 リョウのマンションまで来たはいいが、オートロックに阻まれて、入れない。そりゃそうだ。俺はここの住民ではない。仮に、住民が入っていくところに便乗して入り込んだとしても、リョウの部屋の玄関が開いてないだろう。
 いや、リョウに何か異常が起こったのだとすれば、それは玄関から何者かが忍び込んでいて、リョウを襲ったのではないか? そうだとすると、もしかしたら開いたままかもしれない。
 希望はあるが……このオートロックを何とか乗り越えねば。
 どこか適当な部屋をコールして、部屋に鍵を置いたまま煙草でも買いに行った住民を装って、開けてもらえばいいんじゃないか?
 運を天に任せて、誰かが通りかかるのを待つよりはいいだろう。
 よし、やるか。と思った矢先に、後ろから誰かやって来た。
 出鼻をくじかれて士気が下がる思いだが、この人に頼もう。
 それは、腰まで届く長い黒髪をした女の子だった。麦わら帽子をかぶって、真っ白なワンピースを着ており、小さな鞄を提げている。東京のど真ん中には似合わない、爽やかな格好だった。
 まさか、荷物を届けに来た宅配業者じゃなかろう。ここの住民か、それを訪ねてきた客に違いない。
 どう声をかけたものか、慌てて思案していると、なんと女の子が話しかけてきた。
「直也さん、ここで何してるんですか?」
「は?」
 これは、もしや? まさか?
「お前、リョウか?」
「当たり前じゃないですか。何を言ってるんです? そんなことより、ボクの家に遊びに来る時は、連絡してくださいよ。そういう決まりじゃないですか」
 当たり前なものかよ。完全に女になってるじゃねえか。と言いたい気持ちをグッと抑えて、俺は頭の中を懸命に整理した。
 これは、リョウの clone なのだろう。俺との訪問ルールを自分で言い出したから、少なくとも、頭の中はリョウと思っていい。
 しかし外見は完全に女、しかもけっこう可愛い、声も女、これもけっこう可愛い、仕草もたぶん女だった。
 この女の子がリョウだと、どうしても思えない。人と接する時、その見た目というものがどれほど重要であるか、強く実感させられた。
「お前、歳はいくつだ?」
「えっ? なんですか、急に」
「いいから教えてくれ」
「はぁ。ボクは18ですよ」
「仕事は何をしてる?」
「仕事? 変なことを言いますね。まだ大学生になったばかりですよ。入学前に、直也さんもお祝いしてくれたじゃないですか」
 どうやらそういうステータスは、元のリョウと違うようだ。記憶も微妙に違う。俺はリョウの入学を祝ったことなどない。
 たぶん、この女の外見には元ネタがあって、どこかの可愛い女子大生なのだろう。そしてその娘の設定が、ないまぜに引き継がれてるんじゃないかと思う。
 これはいよいよ、まずい。どんな clone も俺の外見にしかならない法則があるのではないかと微かに信じていたが、とんでもない例外が現れてしまった。しかも、外見と中身どころか、中身でさえ完全にはリョウじゃない。キメラのように、色んな人格が継ぎはぎになっている。
 色々と問い詰めたいところだが、それどころではない。俺は単刀直入に言った。
「すまん。緊急事態だから、直接、ここまで来てしまったんだ。重大な話がある。部屋に入れてくれないか?」
 三十路そこそこのオッサンが、女子大生の家にあがり込むというのは、どうなんだろう……。
「はぁ。今日は暇ですから、別に構いませんけど」
 いいのかよ。こんな青春が俺にもあれば、人生も変わったんだろうな。
 そんな愚かな感想が浮かんだが、思い直す。
 リョウの家自体は、俺のよく知る男のリョウのものと、何も変わっていないはずなのだ。だから、この娘がこのまま家の中に入ったら、その設定との齟齬に、むしろ戸惑ったはずだ。
 そして、家の中に入って、トイレに入るかどうかして、リョウに消されるんだ。俺たちが、そう決めた。
 本当にそれが正しい判断なんだろうか。俺たちはただ単に、不思議なツールを使って、人を殺しまくってるだけなんじゃないか。
 ああ、今となっては、俺や、この女の子のリョウだって、いつ消されてもおかしくないんだ。通話していない俺は、もうリョウにとって、本物の俺ではないのだ。
「どうしたんですか?」
 そんな事情はつゆ知らず、女の子のリョウは、心配そうな表情をして、俺の顔をのぞき込んでいる。
「いや、問題ない。行こう」
 行くしかない。俺は決意した。
 このまま待っていても、キメラ clone は増えていくだけで、その先にあるものは、破滅だ。
 申し訳ないが、この女の子のリョウに事情を説明し、覚悟を待つような暇はない。



 エレベーターで15階まで上がり、リョウの部屋の前にやってきた。女の子のリョウは、何の戸惑いもなく、ドアの鍵穴に自分の持つ鍵を差し込もうとしている。
 ここまでは、彼女の記憶と何も食い違っていないのだろう。もしかしたら、家の中に入ってさえ、そうなのかもしれない。
「あれれ?」
 女の子のリョウは、素っ頓狂な声を出して、自分の手元を見つめている。ああ、恐らく鍵が開いたままだったんだな。ちゃんと施錠して出たのに、とでも思っているのだろう。そういう記憶になっているのだ。
「ちょっとどいてくれ」
 俺は女の子のリョウを押しのけて、ドアノブを掴んだ。
「お邪魔するぜ」
 ドアを開け、サッと中に入って、靴を履いたまま奥へと進んだ。
 リョウの家は、典型的な独身者向けマンションで、廊下、大きなダイニングルーム、洋室が縦に並ぶ構成だ。リョウは一番奥の洋室をコンピュータルームにしていたから、そこにいるはずだ。
 あまり音を立てないように気をつけたつもりだったが、廊下は薄暗いし、段ボール箱のようなものが置いてあったりしたのが引っかかって、ガサゴソと騒がしくなってしまった。
 こうしている間にも、消されたっておかしくない。動悸がする。吐き気もしてきた。それをごまかすように、奥の部屋へと急いだ。
 たどり着けるだろうか、今にフッと意識を失ってそれっきりなんじゃないか、というようなことだけを考えてながら走っていたが、何事もなく、部屋のドアの前まで来た。時間にして、5秒もかからないほどのはずが、とても長く感じられた。
 弱気にならないよう、勢いよくドアを開けて、飛び込むように中へ入った。
 部屋の中にいたのは、俺が知っているリョウだった。他には誰の姿も見えない。
「リョウ、大丈夫か」
 どうやら無事らしい、と俺は少し安堵したが、何か様子がおかしいことに気づいた。
 リョウは腕組みをしながら、俺を睨みつけている。
「貴様は誰だ?」
 そしていつもと変わらない声で、そう言った。俺はすぐに、あり得るパターンをいくつか検討し、リョウに何が起こったかを予想した。
「ふむ。五十嵐直也か。どうやら、オリジナルらしいな」
 誰何の言葉に俺は返事をしていないのに、どういうわけか、名前を知られている。いや、リョウが俺の名前を知っているのは、むしろ正常なのだが……。“オリジナル”?
「お前、中身はリョウじゃないな?」
 俺の問いに、ふん、と偽リョウは鼻を鳴らした。
「お前は誰だ?」
「いいだろう。答えてやろう。私は……いや、名前など意味を持たないな。貴様らの概念でいうと、そうだな。私は patch だ」
「は?」
「貴様らは、ずいぶんと好き勝手に world object をいじってくれたらしい。この辺りの物理空間に属する object が、memory hack 的に書き換えられている。それは world object では許容されていない行為だ。world object に、validation の不備があったのだな。その bug fix も私がやる。そして貴様ら virus を remove する。一つ残らずな。まずはこの、リョウ、だったか? ああ、リョウだな。貴様の目の前にいる、この object は、私で override している。今、こうして貴様と無意味な会話をしているのも、override が完全には済んでいないからだ。さっさと貴様らを消してしまいたいのだが。それには、しばらく時間を要する。こいつは、貴様に事の次第を伝えたくてしかたがないようだ。わずらわしい」
 リョウは、今まさに、消されている最中らしい。このリョウの姿をしたリョウは、徐々に patch によって置き換えられているということか。悲しい、と思うのを待たず、自浄するかのように、目に涙がたまっていくのを感じた。
「しかし、どのような経緯でこの incident が発生したか、こいつはよく知っている。だから、こいつを拠点に recovery を行なうことにする。ふむ。override の進捗は、30%といったところか」
 ゴホッ、とリョウは咳き込んだ。
「ボクはバカでしたよ、直也さん」
 リョウが俺の名を呼ぶ。それはいつもの、耳慣れた口調だった。
「お前は……リョウなのか?」
 声が震えてしまった。
「はい。今は、そうです。patch のやつと、意識の主導権を争奪してるような状況なんです。こんなの、稀有な体験ですよ。もうすぐ消えてなくなっちゃうみたいですけど」
「もう、どうにもならないのか」
「はい。直也さん、ボクたちはもうおしまいです。ボクたちは、clone も含めて、世界の修正パッチに、これから軒並み消されます。圧倒的ですよ。もうボクは半分ぐらいボクじゃないけど、そのおかげで、色んなことが理解できました。この世界の構造は、すごいですよ。とても口では言い表せませんが、ボクが世界に対してしてきたアプローチは、あまりにも稚拙でバカだったということだけは確かです。あんなやり方でバグを叩いたら、そりゃ歪みも生じます。ねえ、すごいですよ。今まで知らなかったような事実が、次々と頭に流れ込んでくるんです。不思議な感覚ですよ。ああ、こんな形で、すべてを知ることになるなんて……。できれば、自分の手で解明したかったです。もう遅いですけどね。自業自得でした。すみません。直也さんを巻き込んでしまって」
「…………」
「ボクたち、ウイルス扱いですよ。みんな駆除されます。このボクだけ、override です。こうやって喋ったりできる自我みたいな部分はカットされますけど、記憶は残す方針みたいです。そんなの、意味ないですけど。あうっ」
 時間を惜しむように早口で話していたリョウが、苦悶するような声を上げて、その場に崩れ落ちる。ここに乗り込む直前に聞いた最後のリョウの声と同じだ。恐らく、リョウを侵食している patch が、意識の主導権を奪った時に生じる反応なのだろう。
 倒れたきり、リョウは動かない。苦しげな表情のまま、死体のように横たわっている。
 さっき自分で言っていたように、もう自我がカットされてしまったのだろうか。
 本当に、死んじまったのか。
「直也さん」
 不意に、後ろから声が聞こえた。聞き覚えがある。女の子のリョウだ。振り向いて確かめたかったが、身体が縫いつけられたように動かなくなっていた。
「直也さん。聞こえてますか?」
 返事をしようとしても、声が出ない。俺の行動に制限がかけられたようだ。あるいは、身体を動かす method が消されてしまったのか。もう destruct が始まっているのか。
 女の子のリョウが、俺の正面に回り込む。そのおかげで彼女の姿が視界に入った。眼をじっと見つめられるが、俺には見つめ返すことしかできない。
「さっき、ボクも理解しました。きっと、patch がボクにも侵入してきたんですね。……直也さんには、本当にご迷惑をかけました。記憶にはないですけど、ボクのオリジナルがしたことですから、ボクの責任でもありますよね。本当に、ごめんなさい」
 女の子のリョウは、泣きそうな顔をして、そう言った。
 こんな状況で言うのもなんだが、やっぱりすごく可愛いな。
「ねえ、直也さん。このボクの姿って、確か、直也さんの好みのタイプですよね」
 心を読んだかのようなリョウの言葉に、電流のような驚きが身体中を走った。しかし、相変わらず身体の自由が利かないので、表には出ていない。はずだ。
「こんな形でしか、お詫びできませんが、許してくださいね」
 そう言って、女の子のリョウは目を閉じ、顔を俺に寄せてきた。
 え? これってもしかして?
 おい、ちょっと待て。お前、姿は確かに美少女で、しかも、どストライクではあるが、中身はリョウだろ?
 ダメだろ、それは。
 やめさせなければならないが、俺の身体は全く言うことを聞かない。
 え、これ、マジで?
 どんどん迫ってくる女の子のリョウの顔。
 やっぱ可愛いよなあ。
 そういうことじゃねえだろ。
 うわ、これまずいって。マジマジマジ! いかんって!
 唇に何かが触れるような感じがしたような、同時に、高いところから飛び降りるような感覚。





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