アメ女とムチ女


#1『このトイレに住み始めてどのくらいですか?』

「うっ、うっ、うっ……うううぅ……ううええぇっ」
 二つ隣の個室から、むせび泣きが聞こえ始めてもう十分は経つだろう。
 なぜ彼女は駆け込み先に、離れ校舎にあるこのトイレをわざわざ選んだのか。考えるまでもなく、本校舎のそれに比べて利用者が極端に少ないからだ。泣くならこっそり人知れず、という心がけは中々殊勝だと思う。でも先客の存在に気付かなかったのはいただけない。
「ふぐううぅ……むうぅぅん…………ぐすっ、んぐぅぅ」
 “ここに居ない振り”を決め込もうと思ったのは、どうせすぐに出ていくと踏んでいたからだ。決して出歯亀根性ではない。
 でもその予想は甘かった。さっきからビタイチ泣き止んでくれる気配が無い。出て行くにしても今更すぎるし、まず間違いなく存在を気取られるだろう。ロックを外せば音が鳴る、ドアが軋む、上履きが床を鳴らす。
 息を浅くし、上体をかがめて静止する。耐え忍ぶ戦いの覚悟を決める。あとは彼女が出ていくときに、二つ隣の閉ざされたドアをスルーしてくれるのを祈るだけ。位置が出口に対し奥側なのがせめてもの救いだ。
 ただこの時私はある一つの致命的な爆弾を見落としていた。すでに五月も半ば、さすがにピークは過ぎていたが、この春とうとう発症してしまったアレである。
 痛んだ背筋を伸ばすため天井を仰いだ時、通風用の小窓からさわやかな風が吹き込んだ。
「びえええっくしょぉーーーーーーーーーーーぃ!!!」
「だっ・だっ・だっ・だれかいるんですかあぁぁぁ!!?」
 空気読めよ花粉!

「ズズッ、あんたが来る前からここにいたんだ」
「ヒィ! そっ、それって……」
「悪いけどずっと聞いてた、十分くらい」
「うあぁぁぁぁん! もうやだああ!」
 しかし何度聞いても本当に特徴的な声をしている。こうして二枚の仕切りを挟んでいても“例のあの声だな”と瞭然にわかるほど。
 この中学に通う生徒で彼女の声を知らぬ者はいない。さる事情により放送部を辞めてしまうまで、彼女は学園のアイドル的存在として一部男子の間で大いにもてはやされていた。その声は女の私が聞いても相当にかわいらしく、反面滑舌はあまり良くない。舌っ足らずで、甘ったるい。
 確かにこの声質と喋り方を魅力的に感じる異性は少なくないだろう。
 そしてそれ以上に同性の不興を買うことだろう。
「ぜったいにぜぇったいにこの事はだれにも言わないでくださいぃ!」
「安心しろ、誰にも言いふらしたりしない」
「ぐすっ……ほ、ほんとうに?」
「誓うよ。だからあんたも私の頼みをひとつ聞いてくれ」
「ありがとうですっ、できることなら何でもするです」
「なに簡単だ、私のプライベートをこれ以上荒らさないでほしいんだ」
「はい……ええとそれは、つまりどういうことでしょうか」
「“泣くならよそで泣いてくれ”ってこと。ここは私の居場所なんだ」
「え、あの、ここは学校のトイレなのですけど」
「そうだよ」
「はあ……えっと、いつからここにお住まいなのですか?」
「は?」
「このトイレに住み始めてどのくらいですか?」
「住んでねえよ!」
「えっ!? 住んでないんですか?」
「住んでねえよ!!」
「でもさっきそう言ったですよ?」
「言ってねえよ! お前何をどう解釈したらそういう結論に至るんだよ! 私がここに来るのは昼休みだけだ!」
「ごっ、ごめんなさいです、早とちりです……。この前読んだマンガに、“世の中にはトイレで生活している人もいる”とあったので、てっきり……」
「どんなマンガだ……。まあ実際そういう人もいるっちゃいるけど、さすがに学校のトイレには住み着かんだろ」
「あ、でも住んでるのじゃないなら、昼休みにこんな所で何をしているのですか?」
「あんたの知ったことじゃない。つーかうだうだ居座ってないで、さっさとここから出てけよ」
「あぅ……でも学校のトイレは……み、みんなのトイレ……」
 私は個室の仕切りを蹴った。「ゴメンねェ~、足癖ワリーんだわ」
「ヒィ……あああ、あのあの、あなたは上級生なのですか?」
「……だったら何?」
「中学に入ったら、上級生にさからうと“しめられる”ってマンガで読んだです」
「よくわかってるじゃないか、私は三年で、あんたは一年。上級生の命令は絶対ってのがルールなんだ」
「わ、わかったです」
「なら早いとこ出な」
「わかったです」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………オイ」
「うぅ、やっぱり、こんなに泣きはらした顔でおもてに出られないです。もうしばらく待って欲しいです」
「…………」
「“しめられる”ですか?」
「……今回だけ特別だぞ」
「あ……ありがとうです、やさしいです」
「あんだと」
「先輩はやさしいです、絶対のルールを曲げてくれたです、誰にも言いふらさないって誓ってもくれたです。……それに、えと、十分もじっと黙って居てくれたのは、わたしに気をつかってくれたですから、ですよね?」
 私は小さく舌打ちして、立ち上がり、鍵に指をかける。
「……次来たら本当にシメるから」
「あの、申しおくれました、わたし、多田睦実といいます。ムツミなのでムッチーと呼ぶ人もいるですけど、呼びやすいように呼んでください。先輩のお名前は?」
 私はなるだけ音を立てないようにゆっくりロックを外しドアを開け、するりと個室から抜け出す。そして多田睦実の居る個室のドア一枚を隔てて彼女の前に立つ。
「私の名前は知らなくていいよ。これ以上あんたと関わるつもりはないから」私はなるだけ冷淡な声色を造って言った。「あんたってさ、なんもわかってないから、無知だから、ムッチーなんじゃない?」
 私は返事を待たずにきびすを返し、足早にトイレから抜け出す。後ろから鍵が開く音が聞こえた気がして、慌てて小走りになる。

 トイレをあとにしたその足で私は再びトイレへと向かった、引き返すのではなく、今度は教室付近のトイレへ。
 私もあいつ同様、本来の用途であの場に居たわけではないとはいえ、一度トイレに足を踏み入れた以上、手洗いはきっちり済ませないと気分的にやはり落ち着かない。
 入り口で数人のクラスメイトとすれ違う。奴らは私に声をかけないし、目も合わせない。私も特にそれを気に留めない。それよりさっきからずっと、まだ使い慣れないらしいあのオカシな敬語が耳に残って離れない。
 手についた水分をエアータオルで飛ばしながら、最後のやり取りを思い返す。
 あの鈍すぎる無知女に、私の皮肉は通じただろうか。
 まあどうでもいいか。本当に、どうでもいいや。


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