素敵な恋愛のきっかけ
とある小説を読んだ。
小説の内容はごくありふれた小説、とは少し違った趣向の変わった恋愛小説だった。
小松翔太は小説をよく読んでいた。だが、こんな趣向の変わった恋愛小説に出会ったのは初めてだった。
その中のひとつの物語を読んで初めて翔太は思った。素敵な恋愛をしたい、と。
翔太の趣味をひとことで言うと、オタク趣味だ。
ガチガチのオタクというわけではないが、オタクの趣味も持っている、と言う方が妥当だった。
だが翔太の周りには何故かオタクの友達が集まってくる。だから周りは自然と翔太を完全なるオタク認識していたのだ。
そのせいもあって、趣味をひとことで言うとオタク趣味なのだ。
「なぁ大学一年生になりたての翔太、何読んでるんだ?」
そう語りかけてきたのはオタク第一号の友人、勇人だ。この勇人から翔太のオタク街道が始まったと言っても間違いではない。だが古くからの友人なので親友であることも間違いない。
「小説。あと大学一年生になりたてなのはお前も一緒だ」
翔太が読んでいるのは例の趣向の変わった恋愛小説だ。一度は読んだはずなのだが、最近は常にこの小説を持ち歩き愛読している。それだけ飽きないのだ。
「この間もそれ読んでなかったか?」
「いいんだよ、おもしろいから」
「内容はなんなんだ? ジャンルとか」
「いわない」
翔太はこの本をあまり誰にもオススメしたり広めたりしたくはなかった。せっかく自分が見つけたいい本が無駄に広まって、評価されたりするのが嫌だったからだ。
「けち」
「けちで結構」
そんないつものような会話を繰り返していると一人の女子生徒が二人に声をかけてきた。
「ねぇ、次の時間教室移動するけどのんびりしてて大丈夫?」
女子生徒は本を読んでいた翔太の顔を覗き込んできた。
「おわっ」
翔太はびっくりして思わずイスから転げ落ちた。
――それと同時にちょっとした違和感に翔太は襲われた。どこかでこの風景を見た事あるような、そんな感覚。
「小松くん大丈夫!?」
「おいおい翔太大丈夫かよ。俺先に行くからな」
こういうとき親友は真っ先に消えて行くものである。
「ご、ごめん。覗き込まれたからちょっとびっくりしただけ。大丈夫だから。君も早く行かないと遅れるよ」
「あ、うん。じゃあ一緒に行こう。あと私たち二人だけみたいだから」
そう言って女子生徒は教室を見渡す。するとたしかに二人以外誰もいなかった。今まで側にいた勇人ももういない。
「そうか。今僕学校にいるんだった。忘れてた」
翔太は小説に夢中になると周りのことを忘れたり見えなくなったりしてしまう癖があった。よく言えば集中力がある。悪く言えば一つのことしかできない、だ。
「えーなにそれ。小松くんおもしろいね」
そう言いながら女子生徒は笑っていた。
女子生徒の名前は聞かなかった。とくに聞く必要がないと思ったからだ。大学は選ぶ授業によって会う人もだいぶ変わってくる。しかも翔太はあまり女子とは会話をしない方だ。だから自分からは名前を聞かなかった。
「せっかくだから聞いとけばよかったのに。リア充になれたかもしれないのにさ」
「別にいい。聞いてもすぐに忘れる。それに会う機会があるかもわからないし」
「なるほど。やっぱりお前は二次元がいいわけか。わかる、わかるぞ」
「分からなくていい」
オタク用語が一切わからないとおそらくこの会話には入れない、もしくは入りづらいだろう。
「それじゃあ今日はここらへんで帰るかな」
「勇人なにか用事でもあるのか」
「ちょっとね、イベントに向けて……」
そう言いつつ席を立って勇人は姿を消した。勇人のオタクへの情熱はすごいとしみじみ感じる翔太だった。
「さて。授業ももうないし勇人もいないし、今日は真っ直ぐ帰るか」
そう思ったときだった。翔太の前に誰かが立つ気配がした。
「小松くん帰るの?」
あの時の名前も聞かなかった女子生徒だった。
「あ、うん。今日はもう授業もないから。何か用ですか?」
「私も今日はもう授業終わりなんだ。それで帰ろうとしたら小松くんが一人でいるのが見えたから」
どうやら勇人が席を立ってから翔太に気づいたようだ。
「ねぇ――よかったらどこかに寄っていかない? せっかくだしさ」
翔太はオタク趣味だと周囲からは認識されていた。だから、女子生徒に話しかけられることはあったとしても、「どこかに寄っていかない?」などと聞かれることは大学生になってからは初めてだった。
だからだろう、翔太が固まってしまったのは。
「小松くん? 大丈夫?」
「え? あ、う、うん。大丈夫。でも僕とでいいの?」
女子生徒は不思議そうな顔をした。なぜそんなことを聞くのか、そんな顔を。
そうか、この女子生徒は僕がオタク趣味と言われてることを知らないんだ。翔太はそう悟った。
「僕は周りからもオタク趣味って言われてるんだけど。聞いたことない? だからあまり一緒にいないほうがいいと思うよ。同類と思われるから」
「あ、そんなの気にしないから。私は誘いたいから小松くんを誘ってるんだよ」
その返答も予想外だった。
「あ、うん」
だから翔太も返す言葉を失ってしまった。
「もしかしてこのあとなにか予定でもあった?」
「いや、とくにはないけど」
「じゃあ行こうよ」
そう言って女子生徒は翔太の手をとった。そんな行為を受けるのも、オタク趣味という言葉に反応しないのも、大学に入ってからは初めてだった。
高校の時は普通に女子生徒と遊ぶこともあった。だがあくまでオタクの友達だ。しかもその時は女子生徒も女子という目では見ていなかった。あくまで友達。さらに言うならオタクという言葉につられてきた仲間、といったところだ。
だから、女子と認識して外を出歩く、ましてや二人だけで出歩くのは初めてだった。
「ねえ、どこかカフェにでも行かない?」
「あ、うん。いいよ」
「いいカフェ知ってるんだー。こっち」
そしてまた女子生徒は翔太の手を取った。そしてどんどん翔太の手を引っ張り先導していく。
そして数分歩いたところで立ち止まった。
そこはごちゃごちゃした場所からは少し離れた、言わば穴場のような場所だった。
「へぇ、こんなところにカフェなんてあったんだ」
「うん、あったんだよー。私の秘密の場所。ナイショだよ?」
女子生徒のそんななんでもない笑顔に翔太はつい見惚れてしまっていた。いつもはなんでもないと思ってしまうような、そんな笑顔に。
――そのとき、また違和感に襲われる翔太がそこにいた。
「じゃあ入ろっか」
女子生徒のそんな言葉で入店すると店内では静かな癒される音楽が流れていた。まさに秘境の地に来たようだった。
「何名様ですか」
「二名です。あちらの窓際の席、いいですか」
「はい。ご案内します」
ウエイトレスは二人を席まで案内して去っていった。
「どうして席を指定したの?」
「それは、あとでの秘密」
翔太の目には女子生徒が少しウキウキしているように映っていた。
「何頼む?」
そう言われメニューとにらめっこしていた翔太だが、普段カフェになんてこないのでどれもが目新しく見えて何を頼むか決めあぐねていた。
そんな翔太の姿を女子生徒はただ見つめていた。それに気づいたのはメニューとのにらめっこを初めてから少し経ってからだった。
「あ、ごめん。僕決めるの遅いよね」
「ううん。ゆっくり決めていいよ。なんかここまで真剣にメニューとか見てもらえててなんかうれしいから」
女子生徒はニコッと笑った。曇のない笑顔とはこのことを言うのだろう。翔太は心のなかでそう思った。
それから翔太が何を頼むか決めるまでには数分の時間を有した。
注文を終えると沈黙が訪れた、ように思えたが女子生徒がすぐに口を開いた。
「さやか」
「え?」
「私の名前。小松くんたぶん知らなかったでしょ?」
さやか。それがこの女子生徒の名前のようだった。
「ごめん、知らなかった」
「いいよ。こうやってちゃんと話すのは初めてなんだから」
それが彼女の名前を知るきっかけだった。
それからまもなくして二人が注文したものがきた。
翔太が頼んだのは無難にコーヒーとチーズケーキのセットだった。
「小松くん甘いモノは大丈夫なの?」
「いや、そんなに得意じゃない。でもチーズケーキなら食べられる」
そんなさやかが頼んだのは紅茶とシフォンケーキのセットだった。紅茶にはレモンが添えてあるので、どうやらレモンティーのようだ。
「ここはね、紅茶とかコーヒーがすごくおいしいんだよ! 飲んでみて飲んでみて」
さやかは翔太がコーヒーを飲むのを興味津々で見つめていた。
それに答えるべく、ではないがおいしいのならということで真っ先にコーヒーに口をつけた。
「どう? おいしい?」
「あ、おいしい」
そう言いつつ二口目を口に含んだ。連続で口に含みたいほど味は最高なのだ。
「気に入ってもらえたなら良かった。でもブラックで飲むんだね。なんか大人だなー」
「砂糖とか入れるのめんどくさいし。それにブラックのほうが本来の風味とか楽しめるかなって思って……ってなにかおかしいかな」
あまりにもニコニコと話を聞いているさやかに翔太は少し不安を覚えていた。それは普段こんな普通の女子とは会話をしないからだ。
「そんなことないよ? ただね、小松くんの新しい一面を見たなーって思ったらうれしくなっちゃって」
「そ、そう? ならいいんだけど……」
続いて翔太はチーズケーキに手をつけようとした。するとそこでまたさやかの声が響いてきた。
「ここのケーキね、絶品だよ! なんか前に聞いたんだけど、パティシエさんがすごく素材にこだわってるんだって」
さやかもケーキに手を伸ばして頬張った。
「んーおいしい!ほっぺた落ちちゃいそう」
手を頬に当てて満面の笑みを浮かべてそういった。
「ほら小松くんも。絶対おいしいから」
そう言われそのまま手をつけた。
「あ、ほんとだ。おいしい。今までこんなケーキは食べたことないかも」
「でしょでしょ。小松くん連れてきてよかった」
その後二人の間には少しの沈黙が訪れた。二人ともケーキに夢中になってしまっていたからだ。
そして先に口を開いたのはさやかで、ケーキをすべて食べ終わってからだった。
「ごめんね。私ケーキ食べる時なんか無言になっちゃう癖があるらしくて」
「気にしなくていいよ。僕もおいしかったから無言で食べてたし。それに」
「それに?」
「ちょっと新鮮でさやかさんを見てるの楽しかった」
「わ、私変な食べ方してた!? もしかして顔にケーキついてたりする!?」
「両方大丈夫だよ。ただなんか、夢中で頬張ってる姿がハムスターみたいだった」
翔太がそう言うとさやかは顔を赤くして少しうつむいた。
「……友達にも同じこと言われた。あ、ウエイトレスさんコーヒーと紅茶のおかわりをお願いします!」
よほど恥ずかしかったのか、さやかは近くにいたウエイトレスに紅茶とコーヒーのおかわりを頼んで話を逸らした。
ここはどうやら飲み物はおかわり自由らしい。というのはこのカフェに入ったときにさやかからすでに聞かされていた。
紅茶とコーヒーのおかわりが到着するといい香りが席の周りを包んだ。
「この運ばれてきたときにふわって香るのが好きなんだ」
さやかは目を瞑って少しの間香りを楽しんでいた。
「そういえばさ」
おかわりの紅茶を一口飲んださやかがそう切り出した。
「なに?」
「大学でなにか本読んでたよね? 何読んでたの?」
それはあの趣向の変わった恋愛小説のことだった。
「これのこと?」
翔太はカバンから本を自然に取り出してさやかに見せた。
「そうそれ! さっき気になってたんだ。どんな小説なの?」
「あーこれはね――」
翔太の表情はとたんにパッと明るくなり、小説の内容を自然に話し始めていた。
全体的な内容としては極ありふれた恋愛小説と大差はなかった。
主人公とヒロインの出会いがあり、なんだかんだあって最終的にハッピーエンドで完結する。
趣向が変わっているのは内容である。
極ありふれた恋愛小説では、主人公がなにかすごかったり、逆にすごく存在感がなかったりと、強い印象を持たれがちだ。
だがこの恋愛小説に登場する主人公は強い印象を持つところはとくにない。
なぜなら、主人公が複数いるからだ。
「主人公がたくさん?」
「うん。主人公が複数いて立ち代り話が進んでいくんだ」
最初の主人公がいて、その主人公の話が終わると、その主人公の近くにいた人物が次の主人公になっていくのだ。
「つまり、最初の主人公を次に主人公になる人物が見てるんだ。それで違和感なく次の主人公の物語へと話が変わっていくんだ」
主人公が立ち代り登場するということは、その主人公、登場人物の数だけ恋愛のエピソードがあるということだ。
そのすべての恋愛それぞれが素敵なもので、でもそれぞれの恋愛が違っていて、色があって。いろいろな恋愛を知ることができるのだ。
「たしかにそんな趣向の変わった恋愛小説読んだことないかも。なんだかおもしろそう」
「でしょ。これは絶対にいいと思うよ。最近のオススメ」
翔太はこの小説を自然とさやかにオススメしていた。
――勇人にはなんの小説かさえ教えなかったのに。
「小松くんって自分の好きなことの話をするときすごく楽しそうに話すんだね」
「そ、そうかな――あ」
勇人には話さなかったのにさやかには自然と小説の話しをして、さらにオススメまでしたことを今更ながら気づいた。
だが自然とオススメすることに嫌な感じは覚えなかった。
「私がここに誘う前にさ、小松くんオタク趣味って言ってたけど、あれってきっとちょっと違うよね?」
翔太はきょとんとした目でさやかを見つめていた。
「……どうしてそう思ったの?」
「んー、小松くんを見てたらそう思った」
ざっくりした回答だったが、間違ってはいなかった。
「まぁそうだね。完全なオタク趣味ってわけじゃないかな。周りの友達がオタク趣味な奴らばっかだから同じふうに見られるけど。それにもだいぶなれたけどね」
本意だろうと不本意だろうと同じ環境に長くいれば当然その環境に慣れてくる。それが自然で当たり前になってくる。だから最近では周りからどう見られているかなどはあまり気にならなくなっていた。
「でもオタク趣味な面もあるよ? ゲームするし、アニメも見るし。だからオタク趣味って言っても間違いではないかな」
「私もゲームするよ。アニメはそんなに見ないけど。私もオタク趣味の仲間だね」
さやかはそんなことをさらりと言ってのけた。
――オタクという言葉だけで毛嫌いする人もいるというのに。
「オタク趣味ってそんな恥ずかしいことじゃないと思うよ」
「でもやっぱり毛嫌いする人って中にはいるでしょ。オタクって言うだけで離れていったりする人」
「私は小松くんを誘いたいなって思ったから誘ったんだよ。オタクとかそんなの関係ない。だからそんな言葉使うのはナシ」
さやかの指は翔太の口を抑えた。これ以上自分を批判するようなことを言うなという合図だ。
指が離れるとさかやは急に立ち上がった。
「ど、どうしたの?」
「小松くんあれあれ!」
そう言って窓の外を指さした。そこには。
「あ、ネコの親子だ」
一匹の親猫がいて、その後ろを数匹のネコが連なるように歩いているのだ。カルガモの親子のネコバージョンと言えば簡単にわかるだろう。
「すごくない? ネコさんだよ! あんなにたくさんのネコさんが一列に並んで歩いてるんだよ! かわいいねー」
キラキラした表情を浮かべたさやかの顔がそこにあった。
「もしかしてこの席を選んだ理由って」
「この日のちょうど今頃の時間にこの光景が見れるんだよ。それを小松くんにも見せたかった」
ネコたちが通りすぎるとさやかは翔太に向き直った。そして。
「もしよければ、私と付き合ってくれませんか」
その表情はとても柔らかいものだった。
「いつからだったか忘れたけど、好きになってました」
翔太は唖然としてしまっていた。
そしてそれと同時に――ある違和感に気づいた。
「――小説」
「うん。小松くんが読んでるの見かけて少し前に私も実は読んだんだ。それに勇気をもらった」
大学で小説を読んでる時に覗き込まれたときに感じた違和感、カフェについたときに感じた違和感、それはこの違和感だった。
「小説読んだこと、言ってくれればよかったのに」
「小松くんの話を聞きたかったの。小松くんが好きな小説の話」
そう言いながらさやかは自分のカバンの中から翔太が出した同じ小説を照れながら取り出した。
「これが私の勇気のきっかけ」
趣向の変わった恋愛小説の中にこんな物語があった――。
お互い大学生で、いつのまにか彼のことを好きになってしまっていた女子生徒の話。
女子生徒は普通の大学生。彼は毛嫌いをされる趣味を持った大学生。
女子生徒は告白する勇気が持てずにいた。でもとある小説がきっかけで物語は動き出す。
頑張って彼に声をかけ、彼をカフェへと誘い、そして告白へと踏み出す。
告白は見事成功。二人は付き合いだすという物語。
翔太がこの小説を読み始めた頃、素敵な恋愛をしたいと思ったきっかけを与えたのも、この物語だった――。
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