相思相愛
「――はでねぇよ・・・」
テレビが騒々しい。
柔らかな衣擦れ。
皿を洗う音。
イヤホン越しに伝わる生活。
軽やかなその足音は、彼女の満ち足りた暮らしの象徴のようだ。
恋人どころか友人すら一人も居ない、ただ会社と自宅のPCの前をただ往復するだけの毎日。
不満や愚痴はあっても、そこから先に進まない。改善する気も発散させる相手もいない空虚な日々。
だらだらと人生の浪費を繰り返す。
そんな暮らしに刺激が欲しかったわけではない。ただ知りたかっただけだ。
女性と付き合った経験も、親密になる技術も、話しかける度胸すらない僕の、ささやかな彼女へのアプローチ。
食器を洗いながら彼女はリビングへ語りかける。
愛情を持って。自分へ向けられる事は決してない親密さを伴って。
「ねぇ、あなた」
盗聴器のスイッチを切り、イヤホンを耳から外した。
僕がアパートの隣人について知っていたのは、一人暮らしであること、姓が「矢車」であるということの二つだけ。
その「矢車」が女性である事を知ったのはごく最近、たった一週間ほど前だった。
仕事でトラブルが発生し、帰りが深夜になってしまった時。
眠い目を擦りながら自宅の鍵を開けた瞬間、隣の部屋のドアが開いた。
「あ・・・こんばんは」
可愛らしい人だった。
コンビニにでも行くつもりだったのか、上下ジャージではあったけれども。
会釈を返すと、彼女はそそくさとアパートを出て行った。
僕が生まれて初めて他人に興味を抱いたのは、その瞬間だった。
僕の住んでいるアパートは、その立地に反し家賃が安い。
その理由はおそらくそのボロさからだろう。
築何年かは明確な数字は忘れたが、それはもう相当な年数を経ていた。
床や柱は腐り、窓枠のサッシの汚れなどいくら掃除しても落ちない。
最も酷いのは壁だ。
すぐに穴が開く。中はスカスカ。
申し訳程度に残った断熱材が哀しい。
ボロを直す金が無いのか、直さないから安いのか、それはわからない。
だが、朽ちた壁をそのままにしておいてくれたおかげで、自分の部屋から出ることなく盗聴器を仕掛けることができた。
小心な僕に彼女の部屋に潜入するなんて大それた事は無理だ。
その点は大家に感謝せねばなるまい。
アパートは川沿いに立っており、部屋のベランダは川側にある。
そのためかジメジメしており、洗濯物の乾きは非常に悪い。
川側にあるメリットは洗濯物を道行く人から見られない、というその一点だけだろうか。
ベランダはほとんど一列なので隣家からは丸見えではあるのだが。
最も他人の洗濯物を視るという趣味はない。
だから気にする事もなかったし、気付く事もなかったが、なるほど、彼女の部屋のベランダには男物の下着がぶら下がっている。
女物の下着は見当たらない。
彼女のものは陰干しなのだろうか。
あったとしても盗んだりしないのに。
「――・・かな」
「――・・・だよー」
テレビのバラエティなのか彼女達なのか判然としない小さめの会話が流れている。
彼らの音からするとテレビの前辺りに居るのだろうか。
たまにカチャリとカップの立てる音が響く。
クスクスという笑い声は彼女のもの。
甘えるような、しなだれかかるような雰囲気が伝わってくる。
突如テレビの音声が絶え、彼女の吐息が徐々に荒く、激しくなっていく・・・
イヤホンを耳から外し、耳を塞いだ。
しばらく彼女の生活を覗いていて、気付いたことがひとつある。
彼女の愛を一身に受ける彼は―――とても無口だ、ということだ。
彼らが一緒にいるときは常にテレビが点いているため、単に彼の声が小さくて聴こえないだけなのかもしれない。
が、それにしたって喋らない。
そもそも彼がいつ部屋に来ているのか、いつ帰っているのかもわからない。
同棲しているのだとしたら、彼女としか顔を合わせたことがないと言うのはそれこそおかしい。
引きこもりだとしても全く音を出さずに暮らすなんて不可能だろう。
彼は、あまりにも静か過ぎるのだ。
目の前でぼんやり紅茶をかき混ぜている女性、矢車佳苗とは高校来の友人である。
きっかけが何であったかなど忘れたが、まぁそれなりに親しい仲ではある。
そんな彼女から相談があると言われればそりゃ喜んで乗ろうというものだが、内容を話してもらえなければ、乗りようが無い。
飲むでも砂糖をいれるでもなく、虚空を見つめながらカップの中身をただぐるぐるとかき回す。
自分がこの待ち合わせ場所の喫茶店に着いてから30分、黙ったままぐるぐる回し続けている。
さすがに温厚な私も痺れを切らし、話を切り出した。
「ねぇ、佳苗」
「えぁ・・美佐来てたんだ・・・」
まるでたった今私に気付いたかのようなリアクション。
さっき挨拶しただろうが。
「何なのよボーっとして。なんか相談あるから私を呼んだんじゃないの?しっかりしてよ」
それでも佳苗はソワソワしながら「あぁ」とか「うん」とか適当な返事を返すだけで肝心の内容を話さない。
前からぼんやりした娘ではあったが、ここまでではなかったような気がするのだが。
「いい加減にしてよ!私だって暇じゃないんだから!帰るよもう!」
「あぁ・・うん・・実はここじゃちょっと話し辛くて・・・」
「もっと早く言いなさいよ」
私のマンションに着き、ほんのり落ち着いた所で、佳苗はぽつぽつと話し始めた。
「実は・・私、ストーカーされてるみたいなの」
「ストーカー!?」
「うん・・・」
佳苗の話によると、最近誰かに見られているような気がしていたという。
部屋に侵入されたり、下着を盗まれたりといったような直接的な被害はなかったが、ふと後ろに視線を感じることが度々あったらしく、業者に依頼し部屋を調べたところ、盗聴器の反応が見つかった。
ただ、肝心の盗聴器はさっぱり見つからず、業者も首を捻っていたという。
「彼氏には言ったの?」
佳苗は黙って首を振った。
「何でよ?喧嘩でもしたの?」
「だって・・・心配かけるわけにいかないし・・」
「あんたね・・・そういう問題じゃないでしょ?なんかあってからじゃ遅いんだから」
悲しそうな、哀願するような顔で佳苗は言う。
「私・・・多分こんなに好きで居られる人、居ないと思う。こんな思いが通じ合える人、人生でもう会えないかもしれない。彼だけは失いたくないの。彼に迷惑とか心配とか絶対にかけたくないの」
「じゃあどうすんの?警察にでも相談する?」
「それは駄目」
ぴしゃりと拒絶された。
「え・・なんでよ」
「心配かけたくないの。警察沙汰にだけはしたくない。だから相談してるの。どうしたらいいかって」
「そんなこと言われても・・・」
佳苗はひどく思いつめた顔をしている。ここまで真剣な顔を見たのは、知り合ってから初めてかもしれない。
彼女は、ストーカーよりも、彼氏に心配をかける方が恐ろしいのだろう。
(そこまで彼のことが好きなのか・・なんかうらやましいな)
「美佐・・?」
「ああ・・ごめん。ボーっとしてた。そうだね・・近所の人とかには相談した?」
ふるふると首を振る。
「親しくしてる人とかいないの?」
またも首を振る。
「そっか・・じゃあとりあえず近所の人に怪しい人見なかったか、とか見かけたら教えてください、とか頼んどいたら?」
佳苗は少し虚空を見つめ、こくりと頷き、「相談に乗ってくれてありがとう」と礼を言った。
帰っていく佳苗の後ろ姿を観て、ふと思った。
(そういえば盗聴器見つからなかったって言ってたな・・・どうしてだろ)
彼女は後ろを気にするようになった。
まぁ、後ろと言うか、後ろから見ている僕を気にしているのだろうが。
盗聴器のイヤホンを弄びながら自室で一人苦笑する。
(これでは本格的にストーカーだな・・)
僕はストーカーではない。
ただ、興味があるだけ。
彼女の生を知りたいだけ。
本来なら盗聴だけで満足しているはずだった。
尾行なんてリスクのある行動なんて小心な僕には到底無理だ。
それもこれもただ、興味があったという一点に尽きる。
静か過ぎる彼女の恋人、彼の姿を一度でいいから見てみたい、それだけ。
しかし―――現れない。
恋人どころか、男性の影すら見えない。
3週間も観ているのに。
お陰で彼女のスケジュール・人間関係を完全に把握してしまった。
彼女は表情がころころ変わることも知った。
色んな顔を見れた。
楽しそうな顔。
つまらなさそうな顔。
気の抜けた顔
困惑した顔。
後ろに怯える顔。
彼女の様々な表情を思い出すたび、自然に笑みがこぼれてくる。
隠れて撮った彼女の写真を眺めながらイヤホンの音に耳を傾ける。
彼女はまだ帰ってきていない。
今日は仕事が立て込んでいて尾行に入れなかった。
早く彼女の音が聴きたい。
まだか。
まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。まだか。
ふと。
ドアがノックされた。
誰だ。こんな時に。
イラつきを抑えながら玄関に向かう。
「すいません・・金城さんいらっしゃいますか?」
聞き慣れた声。
待ち焦がれた声。
ドアを開けると、
そこに彼女がいた。
手が震える。
「あの・・・隣に住んでる矢車という者ですが・・」
彼女が僕に話しかけている。
「突然すいません・・伺いたいことがありまして・・」
溢れ出そうになる喜びを必死に抑える。
「最近このあたりで怪しい人を見かけませんでしたか?」
心臓が飛び出そうになる。
焦るな。顔に出すな。
彼女はじっとこちらを見つめている。
一瞬でも気取られたら、
終わる。
「いえ・・」
感情の波を押しとどめながらやっと一言だけ答えることが出来た。
「そうですか・・夜分遅くすいません」
ぺこりと一礼し、
「怪しい人見かけたら教えて頂けると助かります。それでは」
「あ・・あの・・・」
ドアを閉めようとする彼女につい声をかけてしまった。
何を言おうとしている?
下手に何か言えば・・
落ち着け。
「・・お気をつけて」
彼女は少し困惑した表情になった後、
「ありがとうございます」
と、にっこり微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、本気で彼女を自分のものにしたくなってしまった。
今日も彼女は彼と過ごしている。
甘い雰囲気がイヤホン越しに伝わってくる。
テレビの能天気な音声が癇に障る。
彼女の言動を逃さぬよう、意識を集中させる。
脇に置いた包丁の位置を確かめながら、
彼女の動きを耳で追う。
「ちょっと出かけるね」
と囁くような彼女の声。
彼女の部屋のドアが開く。
パタパタと駆ける彼女の足音。
ゆっくりと立ち上がり、僕は部屋から出た。
3週間の尾行の成果。
彼女には、手芸雑誌を毎週この時間帯に購入する習慣がある。
この時を待っていた。
確実に彼女は外出する。
部屋には彼一人となる。
ゴム手袋をはめ、彼の脳天に包丁を突き立てる。
計画を立てて幾日、何度も何度も繰り返したイメージ。
もうすぐ彼女は彼から自由になる。
愉悦に顔が歪み、戻らない。
部屋の鍵は開いていた。
彼が中に居るのだから当然と言えば当然か。
音がしないよう注意を払いながらドアを開ける。
彼女の香りがする。
玄関に揃えられた革靴を蹴り、部屋に入る。
居た。
リビングのソファーに体を沈め、テレビを眺めている。
こちらに気付いている様子は無い。
彼の背後に近寄り、一気に包丁を振り下ろそうとして、
―――止めた。
背後に立ったのにも関わらず彼は微動だにしない
そこでやっと気がついた。
「なんだ・・これ・・」
スーツに身を包み、ソファーに身を沈めているのは、人形だった。
一見すると生きている人間にしか見えないほど精巧なマネキンだった。
呆然とし、そして、
猛然と怒りがこみ上げた。
騙された。
盗聴を逆手に取り芝居を打ったのだろう。
まるで彼氏が居るかのように偽装し、ストーカーが迂闊に手を出せないように。
「・・・虚仮にしやがって」
マネキンの頭部に包丁を叩き込み、叩き割った。
胸部を踏み砕き、胴体を何度も何度も突き、砕く。
ご丁寧に下着まで着けている。
ビリビリとそれらを引き裂き、人形の元の形がわからなくなるまで粉々にした。
刺さった頭部(だったもの)とともに包丁をソファーに突き立てた。
殺してやった。
愉しみに顔が歪む。
彼女が帰って来る前に部屋を後にした。
あの人形を見て彼女は恐怖するだろう。
歪んだ笑みが顔にこびりつく。
10分後、彼女が帰ってきた。
「ただいま」と誰も居ない部屋に言う。
靴を脱ぐ音。
リビングのドアを開ける音。
そして、彼女は息を呑む。
いよいよだ。さて、どんな反応を
「あなた・・?」
「あなた・・何で?」
まだ芝居をしているのだろうか?少し呆れてしまう。
「あ・・あっアッアアああああああああああああああああああ
アアアあああああああああああああああああああああああああ
ああああああああああああああああああああっあっあっああああ」
絶叫。
膝を突く音、
慟哭。
もう盗聴器がいらないほど大きい泣き声。
「・・・誰が・・誰が・・誰が・・・・・・・・・・・・誰だ・・」
今度は盗聴器でないと聞き取れないほどの呟き。
「・・・し・・・・・っ・・・」
もはや盗聴器ですら聞き取れないほどの独り言。
ここまで感情を露にする彼女は初めてだ。
笑みがこぼれそうになった瞬間、
「お前だろう?」
「お前がころしたんだろう?」
はっきりと、確実に自分に向けた言葉。
・・いや、気付いている訳が無い。盗聴器は見つからなかった。
見つかるわけが無い。壁の中にあるのだから。
彼女は盗聴器の反応があった付近に向かって呟く。
「お前があの人を殺したんだろう?」
感じたことがない快感、言いようの無い悪寒に、鳥肌が止まらなくなった。
なぜ?というのが率直な感想である。
佳苗の彼氏に会うのはこれが初めてである。
不細工でもないが、特にハンサムという訳でもない、平凡な顔立ち。
何が面白いのか、ずっと目の前のコーヒーを眺めている。
正直言って不気味だ。
何故佳苗はこの男と付き合っているのだろう。
恋愛なんて当人同士でないと理解できないものではあるのだろうけど。
佳苗が無断欠勤しており、連絡がつかないと彼女の仕事仲間から聞かされたのが三日前。
まさかストーカーに何かされたのでは、とすぐさま彼女のアパートに向かった。
佳苗は留守だった。
携帯も繋がらない。
仕方ないので、部屋の前で佳苗を待つことにした。
小一時間ほど経った頃だろうか。
「美佐さん・・ですか?」
そこで、この男、―――佳苗の彼氏だと名乗る彼に話しかけられた。
私のことは佳苗から聞いていたという。
彼女に何があったのか、詳しく聞くため、先日佳苗と入った喫茶店に2人で入った。
「実は・・佳苗の部屋がストーカーに荒らされたらしくて・・」
「やっぱり・・・」
やはりストーカーか。
「佳苗は?無事なんですか?」
「ええ。今は僕の部屋に居ます。なんとか落ち着きはしたのですが・・・」
「ストーカーに・・何かされたんですか?」
「彼女はその時出かけていたらしくて無事でした。ただ・・」
「ただ?」
「彼女が大切にしていた人形が壊されたらしくて」
「人形?」
そんなの佳苗の部屋にあっただろうか?確かに手芸好きでよくぬいぐるみなどは作っていたようだが。
「それで・・無断欠勤してるんですか?」
「もちろん・・それだけが原因では無いようです。部屋を荒らされた・・というか侵入されたことがショックだったらしくて。今も怯えています」
「そうですか・・・ちょっと佳苗と話させてもらえますか?」
一瞬。
彼の顔つきが変わった
気のせいだろうか?
「ちょっと今は・・誰とも会いたくない、と本人が言ってるもので・・」
「佳苗がですか?」
「ええ」
自分で言うのもこそばゆいが、佳苗とは親友だ。
そんな自分にも会いたくないだなんて・・
少し腹が立った。
「とりあえず、立ち直ったら連絡させますので」
この男の態度も癪に障る。
まるで自分だけが佳苗の理解者だとでもいうような。
「わかりました。それでは・・・佳苗のこと、お願いします」
「はい」
彼の顔が歪んだ、様に見えた。
そこではたと思い出した。
「そういえば・・ストーカーのこと、いつ佳苗から聞いたんですか?」
「え?」
怪訝そうな顔でこちらを見た。
「佳苗、心配かけるのが嫌だから、ストーカーのことは絶対あなたには言わないって言ってましたけど」
彼の顔が蒼白になった。
「え・・・」
「どうか・・したんですか?」
「い・・いや・・そんな事を彼女は・・・」
目が泳いでいる。
「あの」
「多分・・そうだ。ほら・・・部屋に入られて余裕がなくなったんじゃないですかね?心配かけるとかそんなこと言ってられないでしょう。恐ろしくて・・・」
それはそうなのだろう。誰だってストーカーに部屋荒らされたら怯えるに決まっている。
それよりも・・何故この人はこんなに焦っているのだ?
そんなとんでもないことを訊いたつもりは無いのだが。
顔が引き攣り、声が震えている。
やはり不気味な男だ。
この人に佳苗を任せて大丈夫なのだろうか?
まぁ・・本人が会いたくないと言ってるのだから仕様がないだろうけど。
「それでは」
彼は逃げるように立ち去った。
彼女の友人、美佐と話したのは失敗だった。
間違いなく怪しまれただろう。
調子に乗っていた。完全に舞い上がっていた。
彼女が自分の部屋に居ると言うこの状況に。
あの後。
鳥肌を心地よく感じながら、僕は壁の間に仕込んだ盗聴器を回収し、
隣の、彼女の部屋のドアをノックした。
「大丈夫ですか?何かあったんですか?」
ゆっくりとドアが開き、顔面蒼白になり、幽鬼のようになった彼女が顔を出した。
「どうか・・したんですか?」
「彼が・・私の大事な人が・・」
錯乱した表情と声で彼女は答える。
そして。
「とりあえず、落ち着きましょう。状況を教えてください。その人は大丈夫ですか?」
部屋の中へ入ろうとする。
「ダメです・・」
中を見せまいとドアの隙間を狭めた。
そりゃそうだろう。人形の破片が散乱してる部屋など他人に見せられるわけが無い。
困惑した表情を作り
「でも・・・何かあったんでしょう?僕でよければ事情を聞かせてもらえませんか?」
ここで初めて彼女は顔を上げた。
虚空を見るような目。
「頼りなく見えるかもしれませんが。力になりますよ」
心神喪失している今なら、多少強引な言葉でも。
「とりあえず、僕の部屋で落ち着きませんか?」
ぼんやりとした表情で彼女は僕を見た。
「そこであなたの友達に会いました」
僕は慎重に言葉を選ぶ。
「美佐さん・・?でしたか?」
「美佐・・?」
彼女の瞳に多少の光が宿る
「彼女から多少の事情は聞きました。ストーカーに付き纏われていたとか」
彼女から表情がなくなる。
「立ち入った質問ですいません。今の悲鳴・・ストーカーに・・襲われたんですか?」
自分ながら白々しい。
「・・・」
無表情。ただ、首を振る。
「では・・」
「私の大事な人が・・ストーカーに殺されました」
驚いた表情を作る。
「そんな・・・」
「許せない・・・」
「では警察に届け」
「それは駄目です。ストーカーは私が殺します。警察には届けません」
どうしてそこまで意固地になるのだろう。
芝居がストーカーにばれただけなのに。
その芝居はもう意味が無いというのに。
まぁ、こっちとしては好都合なのだが。
「殺すだなんて・・・そんなことはいけません」
「でも・・・」
「何よりあなたはストーカーされている側なんです。あなた自身が危ない」
「・・・」
「僕がストーカーを探します。とりあえず、そいつをどうするかは見つけた後考えましょう」
理解できない、という表情で僕を見つめる。
「僕が・・・あなたを守ります」
本来僕は小心な人間だ。
だからこそ、目論見が成功した時反動で舞い上がってしまうのは仕方ない。
美佐と会い、調子に乗って嘘を吐き失敗した事は事実だ。
しかし、これはチャンスだ。
嘘を現実にすればいい。
彼女を本当に僕のものにしてしまえばいい。
彼女は動揺している。
多少強引でも。
―――何かひっかかる。
いや、大丈夫。
彼女は僕の掌中にある。
久しぶりに会った佳苗は思ったより元気そうだった。
というか、前の倍は元気になった気がする。
「もう、心配させないでよね!」
「ごめん。あの時はいっぱいいっぱいだったから・・・」
本当に良かった。
「ストーカーはもう大丈夫なんだよね?」
「うん。彼がなんとかしてくれた」
あの不審で頼りない男が・・?なんとも意外だ。
「最初から彼氏に相談すれば良かったんじゃない?」
少し表情が曇る。
「そうだね・・・」
「どうかしたの?」
ふるふると首を振り、また微笑んだ。
「ううん。何でもない」
「そう?でも、ほんとあの時は腹立ったよ。水臭いって言うかなんていうか」
「水臭い?」
「ほら、部屋荒らされた時!私には会いたくないとか言ってたのに、彼氏には頼りっきりっていうか。なんか仲間外れにされた気分だったよ」
怪訝そうな顔で首を傾ける。
「そんなことあったっけ?覚えてない」
「もう、とぼけて!まあしょうがないかな。もう半年前だもんね」
「うん。それにあんまり思い出したくないし」
まぁ、そうだろう。
そういえば、佳苗の彼氏と会ったのはあの一件のみで、それ以来一度も会っていない。
「今度彼氏に会わせてよ。まだちゃんと挨拶してないし。お礼も言ってないし」
「うーん・・どうだろ。彼忙しい人だから。都合付かないかも」
あの男が忙しい・・今ひとつ想像できない。
「でも、結構彼氏とも長いよね?何年くらい続いてる?」
「そんなの覚えてないよ・・うーん。半年以上であることは確かだけど」
「そりゃそうでしょ」
佳苗は照れたように笑う。
一時はどうなる事かと思ったが、なんとか丸く収まったようだ。
あの彼氏の評価は改めねばなるまい。
「そういえば私彼氏の名前まだ聞いてなかったよね?なんて名前?」
少しはにかみながら、
「金城さん」
と、幸せを噛み締めるように答えた。
彼女が僕の部屋に来て一ヶ月。
徐々に、ではあるが彼女は僕を信頼し始めている。
もう少しだ。
動揺が収まらないうちに。
彼女がつり橋を渡りきらないうちに。
彼女の内に僕を植え付けるのだ。
その日。
僕は遅めに家に帰った。
彼女は料理の支度を丁度終えたところだった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
少し照れくさい、自分にとっては無常の喜びであるやりとり。
今日だ。
今日こそ、
彼女を。
食事の後、話を切り出した。
「佳苗さん。お話があります」
真剣な表情を作り、彼女の名前を呼ぶ。
「なん・・ですか?」
「ストーカーを見つけました」
彼女はあまり反応を示さない。
「一ヶ月かかりましたが、何とか見つかりました。彼の居場所もわかっています」
「そうですか・・」
「彼をどうしますか?殺しますか?」
うつむき、黙ってしまった。
「警察に、突き出しますか?」
「実は私・・彼には悪いけれど・・もう吹っ切れたんです。もっと大事な人ができてしまったので」
心の底でほくそ笑む。
「大事な人?」
「はい。彼が居てくれれば、ストーカーが何回来ても、大丈夫。彼なら守ってくれるって思えるんです」
「それって・・」
「迷惑・・ですか?」
熱の篭った目で僕を見つめている。
溢れ出そうになる歓喜を内に留め、平静を装い、答える。
「そんな!・・嬉しいです」
「本当ですか?」
「ええ」
「本当ですね?」
「はい」
「本当に私の思いを受け止めてくれるんですね?」
「は・・はい」
ぞくりと、
何故か悪寒が走った。
「私を・・・愛して頂けるんですね?」
声が出ない。
彼女の目が見れない。
虚空を見つめる目。
「駄目・・なんですか?」
ハッと彼女を見る。
悲しみを湛えた瞳。
何をしているのだ。
もうすぐそこに、
自分が求めていたものが手に入るというのに。
「いえ・・駄目なんてことあるわけが・・」
「それじゃあ!」
彼女が僕の腕の中に飛び込んできた。
「嬉しい・・」
彼女を抱きしめようとした、その時。
ずぶり
嫌な音と共に、鈍い痛みが広がっていく。
彼女の握っている包丁から、赤い液体が滴り落ちる。
包丁から逃れようともがくものの、体に力が入らない。
「なん・・で・・・」
ばれていたのか?
どこで気付かれた?
抜け穴は・・なかったはずなのに。
彼女は、とても幸せそうな、満面の笑みを浮かべていた。
「嬉しい・・」
彼女は僕を抱きしめるように、より深く包丁を体に捻じ込んだ。
「これで・・・」
薄れ行く意識の中、
彼女の虚空を見つめる瞳を見て、やっと気付いた。
僕が、最初から思い違いをしていたということに。
「これで、相思相愛になれますね」
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