しかし、人柄に関しては素晴らしく、誰にも分け隔てなく接するとてもやさしい心の持ち主でした。
男には好きな女性がいました。男の初めての恋でした。男が告白すると、女はあっさりと承諾しました。それは、男がとても心の優しい人間だと知っていたからでした。そして、すぐに二人は結婚することになりました。
これから新しい道を進む夫婦に与えられたものは、けっして良いものではありませんでした。結婚してすぐに妻は死の病を患ってしまいました。知識のない男には、妻の病がどれほど重いものかわかりませんでした。けれど男はこれまで以上に妻を大切にすることにしました。
妻が病に伏せてから数日が経ったある日、看病に疲れて隣で眠ってしまった男に妻は声をかけました。
「今までありがとう、あなた。もう私に来る使いのものは決まったみたい。子供を授からなかったのは残念だったけど、あなたと過ごした時間だけで十分私には幸せだったわ。」
そして、妻は動かなくなってしまいました。
「あぁ、どうして動かないんだ。どうして私の大切な人は私を置いて逝ってしまうんだ。」
男は動かなくなった妻の手を握りながら呟きました。
「私は最低な人間だ。あんなに大切でひと時も離れなかった弟の顔も、今は思い出せない。」
涙を湛えた瞳で死体の顔を見ながら続けました。
「私は初めて愛した人も忘れてしまうのだろうか。」
男は後を追おうとは思いませんでした。その代わりに忘れてしまう自分が許せませんでした。ふと、男は近くに何かの気配を感じました。しかし周りには何もありませんでした。男はゆっくりと口を開きました。
「悪魔でもいい。私に大切な人を忘れないようにしてくれ。」
今までいつも信心を忘れなかった男は、ついに悪魔に頼ってしまいました。すると、男のすぐ近くに悪魔が立っていました。今度は姿が見えました。
「その願いのために、お前は何を代償にする。」
悪魔のささやきに、男が答えます。
「私は忘れたくないだけだ。お前の好きなようにすればいい。」
力なく呟いた男に悪魔が告げます。
「お前には千年死ねない体と、忘れられない呪いをかけよう。万人が望む力がどのようなものか、その身で知るといい。」
この悪魔はとても意地悪だったので、普通の人間には苦しい条件を男に与えました。
それを聞いた男はとても喜びました。
「私は生きて覚えておくことができるのか!願ってもないことだ!もちろんそれでいい!」
そして、男は悪魔と契約しました。
悪魔は去り際にあることを男に伝えました。
「最後にもう一つ条件がある―――」
やさしい代行者
悪魔と契約してから、男は些細なことでもすべて覚えるようになっていました。悪魔の言っていたことは本当だったようでした。
そして、以前よりも仕事ができるようになりました。男は何不自由ない生活を送っていましたが、十年たったある日あることに気づきました。男の体は悪魔と契約したときから時が止まっていたのでした。
男がそれに気付いたのは些細な会話からでした。
「いつも元気でいいねぇ。お前が一番働きものだよ。」
ふと意識して見てみると、もう自分と同じ年に生まれた友人たちは、生え際が上がったり体の疲労の話をしたりと時間の経過に合わせて変化していっていました。
更に十年が経ちました。その時にはもう男を取り巻く環境は一世代変わっていました。自分と同じように働くのは、友人の子供たちでした。
この頃にはさすがに男のことをおかしいと思うものも増えていました。
そして更に十年が経ちました。もう人々の中に男の存在を知らないものはいませんでした。しかし、男はとても心のやさしい人物でしたので、嫌うものはいませんでした。ところがある日、男が友人の子供の子供たちに今までに経験した面白かったことや楽しかったことの話を聞かせていると、友人が首をかしげながら話を聞いていることに気づきました。
「私は何かおかしいことを言っただろうか。」
男は友人に尋ねてみました。
すると、友人はさっき話した内容に間違いがあると指摘しました。男は自分の記憶力には自信があったので、友人が間違っていることをこと細かにその時の状況をそえて話しました。
友人は唖然としていましたが、我に返ると男に今までにあった出来事を根掘り葉掘り聞きました。
男は当然のようにすべてに答えました。悪魔と契約した男にはとても簡単なことでした。
答え終わると、友人は子供を男に任せてどこかに行ってしまいました。
次の日になりました。男のところに友人が血相を変えて飛んできました。
「君は素晴らしい記憶力を持っているな!ほんとうに素晴らしい!」
咄嗟のことでしたので、男は何のことかと友人に尋ねました。
「昨日のことを皆に聞いてみたんだ。全部合っていたよ。」
そして、この日を境に人々の男を見る目は変わりました。それは不思議なものを見るようであったり尊敬するようであったり恐れるようでした。
男が休日に買い物をして広場にいると、あまり見かけない男が近寄ってきました。男はこの男を知っていました。男がいつまでも若く、皆に慕われていることを快く思っていない人物でした。
「この男は!」
突然の大声に広場の人の視線は怪しい男に集められました。
「悪魔だ!そうに違いない!皆知っているな!この男は歳も取らないし忘れることもない!人間ではない!」
男は慌てて弁解しました。
「何を言っている!人を悪魔などと、侮辱にもほどがある!」
男は怒ってその場を立ち去りましたが、人々は怪しい男を咎めることはありませんでした。間違っていないことは咎めることはできませんでした。
そして、これを火きりに町中に男に対する疑問が広がることになりました。
しばらく経ったある日、男の下に訪れるものがありました。それは男に不満を持つものたちでした。
「悪いがこの町を去ってもらうよ。君のような自然の流れに逆らうものがいれば、いつか町に不幸が来ると皆が噂している。」
男は町の人々をとても好いていたので、反対しようと思いましたが、異常だということは男自身が一番理解していたのでとやかく言うことはしませんでした。
男が町を去るときには男と仲のよかった友人たちが見送りにきました。
男は去り際に言いました。それは長いお別れの言葉になりました。
「―――今までありがとう。」
男は歩き続けました。しかしいつまでたっても目的地に着きません。男は自分の住んでいた町から離れることをしなかったので、手持ちの配分を大きく間違えていたのでした。
食料が尽きて一週間がたちました。この頃には男は死ねない体について理解し始めました。
死ねない男は飢えに飢えましたが、どんなに苦しんでもどれだけ飢えても死ねませんでした。しかし男の体はいたって健康でした。男はまるで自分の中にもう一人自分がいて、片方が全ての苦しみを背負っているような感覚になりました。二つの状態を体感している男は頭がおかしくなりそうでした。
男は疲れのあまり動くことをやめてしまいました。「死ねず動けずこれから私はどうなってしまうのか」と男は途方に暮れました。
しばらく男が休んでいると、一人の女性が男に気づいて声をかけてきました。
「どうかなさったんですか?」
男はゆっくりと口を開きました。
「ここ一週間何も食べてないんだ。私は国を出てきたんだが手持ちを誤ってしまってね。」
女にはとてもそうとは見えなかったので驚きました。女は医者でしたので、男の体を調べてみましたがやっぱりおかしいところはありませんでした。でも男は精神面でかなり弱っていたようだったので家まで連れて行くことにしました。
男は女の医者の住む国に着きました。この国はとても落ち着いた様子で、あらごととは遠そうな国でした。
男は女の医者の家でお世話になることになりました。そして、男はこの国では医者をやってみようと思いました。
いざ男が学びだすと、女の医者の知っていることは男も知っていました。男はあっという間に国で一番の医者になりました。男は誰よりも人を救い、誰よりも人の死に立ち会いました。自然と男は裕福になり、不便なく過ごしていました。
ところがある日、国王が急にこの世を去ってしまいました。国王には子供がいましたが、跡取りになる王子は早くに世を去っていたので王女しかいませんでした。国民は王女がこの国を治めるものと思っていましたが、王の家系では女性が王位を継ぐことが許されていなかったので、王の弟が国王の座につくことになりました。
国民は王をなくした悲しみから立ち直っていくはずでしたが、そうは行きませんでした。
亡き王に代わって王座に座った王の弟はとんだ暴君だったのでした。その行いのひどさといったらありませんでした。時には気に入らない家来を殴り殺したり、時には兄弟の妹と体の関係を持ったり、時には気に入った女性を襲うなど手のつけようがありませんでした。こうなっては国民も黙っておらず、国の中で争いが起こりました。多くの国民は傷つき、男の下を訪れるものもとても多くなりました。
男はやさしい心の持ち主なので、今の国の状況をとても悲しみました。そして、今の王に反対する指導者を六人集めて反対運動をすることにしました。
多くの支持者に後押しされていた男たちでしたが、活動が大きくなるにつれて国からの監視は強くなりました。そして、ついに男たちは王に呼び出されてしまいました。
王宮に行くと、そこには女の医者がいました。
「どうしてここに君がいるんだい。」
男は真っ当な疑問を投げかけました。そしてその質問には王が答えました。
「お前は国への反乱を首謀した重罪人である。」
王はそこで一度言葉を切り、笑顔で男に言葉を続けました。
「よって、首謀者の手助けをし、国への反乱を長期化した罪によりこの女の処刑を行う。」
男たちは王のあまりにひどい宣言にうろたえましたが、女の医者を妻にもつ男は大反対しました。
「私たち以外は関係ないはずだ!彼女を放せ!」
しかし、この王の目的は見せしめを作ることだったのでまったく相手にしませんでした。
「そしてお前たちは国外追放処分とする。もちろんお前達の財産は反乱資金とみなし国が回収する。」
こうして女の医者は処分され、七人の男たちは国から離れることになりました。
男は涙ながらに国にお別れの言葉を告げました。それはとても長いお別れの言葉になりました。
「――――――今までありがとう。」
何も持たされずに国を離れた男たちは死刑も同然でした。そして、仲間の死をすべて見届けて、やっぱり男だけが生き残りました。
男は次の国にたどり着きました。この国は隣国と戦争状態にあり、男が医者として使えるとわかるとさっそく戦場に送られました。悲惨な戦場の中に医者として送られた男でしたが、人の命を助けることはできませんでした。男が彼らの傷を癒しても、また戦場に出たときには皆死んでいました。しだいに男は自分が何をしているのか分からなくなりました。助けても助けなくても死んでいく仲間を見て、男は自分がとても無力に思えました。そして、皆が死ぬ戦場から離れて生き続けている自分に嫌気が差しました。
「もうこんな心の苦しみを味わうのはまっぴらだ。死なないとは言われたが、わたしが戦場にでたら死ねるのではないか。」
しばらく戦争は続きましたが男はのうのうと生きている自分が許せなくなり、とうとう兵として志願することにしました。
戦場に出た男は、この国では戦う術を覚えました。並々ならぬ成長を見せる男は仲間の兵に希望を与えました。さらに戦争は続き、ついに最後の大戦となるようでした。地面が見えなくなるほどに敷き詰められた人たちは、最後の戦いを始めました。互いの強さは同じくらいのはずでしたので、どちらが勝つのか両国の王はわかりませんでした。いざ決戦が始まると、相手の国は目を疑う光景を見ることになりました。一人の兵が突き進んだ道の後には山のように兵隊が積み重なりました。
国に帰った男は、国の人々から尊敬され称えられました。しかし男の心は冷めていました。
「一度の寿命を全うするまでに、ここまでの地獄を味わうとは。悪魔はたいしたことをしてくれたものだ。」
次の日には男は国を出て行くことを王に伝えました。自分のことを知るものがいるところに長くいると都合が悪くなることを男は知っていました。この知らせを聞いて、王はとても驚きました。今までに見たことも聞いたこともないほどの戦果を収めた英雄が国を出て行くなどと思っていなかったのでした。国のみんなは呼び止めましたが、男の決意は変わりませんでした。
そして、男は去り際にお別れの言葉を告げました。それはとてもとてもたいへん長いものでした。
「―――――――――今までありがとう。」
意気消沈した男は歩き続けました。だいぶ時がたち、男は一つの村を見つけました。
「誰か!医者を呼んでくれ!」
そこで誰か叫ぶものがありました。男が人の集まるところに行ってみると、人が倒れていました。村の医者らしき男がいましたが、彼の手にはあまる症状のように見えました。
男はあまり関心を持ちませんでしたが、自分なら助けられる人が死のうとしているのに動かない自分に疑問を持ちました。
「何を馬鹿なことを考えているんだ。助けられる人を見殺しにするなんて馬鹿げている!」
そして男は人混みをかき分けて倒れていた女に近づきました。
「私が診よう。」
村人が見守る中で、男はいともたやすくおよそ考えられる最高の処置をしました。このこと以来この村に留まることになった男は、三十年にわたって医者を続けました。そしてその間に、男は知っている知識を村の人々に教えました。
男が村に住んで三十年が経つ頃に、男は村を出ることを告げました。村人は彼を引き止めました。しかし男はこれ以上この村に居ればよくない別れになることを知っていたので、丁重に断りました。
そして男はいつも通りに別れの言葉を告げました。
「―――今までありがとう。」
長い言葉を言い終えて、男は去って行きました。
今まで苦しさばかりが目立った男でしたが、決してそうとも限りませんでした。このことで男はもう一度人を愛することができるようになりました。男はもうこのことを忘れませんでした。
男はそれからもいろいろな国や町を訪れました。いろいろな仕事をそれぞれの国でやっていきました。そして、ついに男は千年を迎える国に着きました。
もうこの頃には何でもできるようになっていた男は、最後は今までになかったことをしてみようと思いました。ちょうど国では王女の婿を決める腕試しをやっていました。国中から我こそはというつわものが集まり競い合っていました。男は気負って参加しましたが、男と並ぶものは一人としてありませんでした。
実は王女は、誰と結婚するかも知れないこの腕試しに乗り気ではなかったのですが、まわりの誰よりも優れる男に興味を持ちました。腕試しが終わり、男はまったく苦労することなく花婿になる条件を満たしました。
「あなたはどうしてそんなにつよいのですか。」
顔合わせに来た男に王女は聞いてみることにしました。男は答えました。
「私は強いのではありません。私にとって当たり前のことをしてここまで訪れたのです。」
王女は腕試しの内容を知っていたので、男が自信家だと思いました。
「お父様はあなたと結婚するようにおっしゃったけど、結婚するには私からもお願いがあります。」
そして王女は、この腕試しの催しの本当の目的を語り始めました。
「お父様は病に伏せっています。国の医者からは長くないと聞きました。そこで簡単に優秀なものを選ぶためにこの腕試しが行われたのです。」
そこでいちど言葉を区切り、懇願するように男に言いました。
「あなたにもお父様を診てもらいたいのです。あなたが国の医者よりも優れていたら結婚しようと思います。」
男は二つ返事でこのことを引き受けました。
実際に王に会ってみると、確かにひどく病んでいました。
「確かにこれはひどい。もうあまり長くは生きられないだろう。」
王女はこれを聞くとがっかりしました。しかしそれも仕方がないことなのは王女も理解していたので、男とはちゃんと結婚をしようと考えていました。そこに男が言葉を続けました。
「どうやら私では君の結婚相手は務まらないようだね。王様はあと持って三年だろう。」
これを聞くと、周りにいた家来や医者にどよめきが起こりました。王女は信じられないといった目で男を見ました。それもそのはずでした。国の医者は持って後一ヶ月だと言ったことを三年だと言ったからです。
「何を言っているのです。嘘をつくのはやめてください。国の医者は一ヶ月だと言ったんですよ。」
これを聞くと、今度は男が驚きました。
「この症状で一ヶ月なんてことがあるものか。」
そして、男は自分にとって当たり前のことを言いました。それは王の延命をする方法でした。王女にはちんぷんかんぷんな内容でしたが、国の医者には内容が伝わったようで、話が終わるころには放心したように立ち尽くしていました。
それから男は本当に三年間に渡って王の延命をしました。その間に男は王のするべきことを全て学びました。看病を受けていた王もそれを見ていた王女も、男の優しさを見て心から信用するようになりました。
王の死が間近に迫りました。
「今までよく私たちを支えてくれた。君以上に信頼できる男はいないだろう。君を迎えたことを誇りに思うよ。」
王の死により男は王位を継ぐことになりました。これは今までにないことでした。それからの国の繁栄は著しいものでした。辺りを治める国の中で、一番の国になるのにそう時間はかかりませんでした。何をやっても人より劣った結果しか出すことができなかった男は、何をやっても誰よりも優れた結果を出すようになりました。
自分の力に自信を持つようになった男でしたが、その矢先にしばらく訪れることのなかった足音が近づいていました。
ある日の朝、いつまでたっても妻は起きてきませんでした。男は気になって妻を見に行くことにしました。そこで、男はベッドで苦しんでいる妻を見つけてしまいました。
医者としても誰よりも優れている男は、すぐに妻を診ることにしました。知識のある男には、妻の病がどれほど重いものか分かりました。そして男はこれまで以上に妻を大切にすることにしました。
妻が病に伏せてから数日が経ったある日、看病に疲れて隣で眠ってしまった男に妻は声をかけました。
「今までありがとう、あなた。もう私に来る使いのものは決まったみたいだわ。子供を授からなかったのは残念だったけれど、あなたと過ごした時間だけで十分私には幸せでしたわ。」
そして妻は動かなくなってしまいました。
男は神に祈ることも悲観に暮れることもしませんでした。すぐに悪魔が近くにいることに気づいた男は、悪魔に頼みごとをしました。
「私は十分に生きすぎた。私にとってのわずかな時間も万人にとってはとても長いものだ。私はいついなくなっても構わないが、妻だけは助けてくれないか。」
男は悪魔相手に都合がよすぎることなのは十分に理解していましたが、頼りになるのは悪魔しかいませんでした。
「それでは今までおよそ千年も腐らずにいたお前に特別に免じてやろう。妻の病をお前が引き受ける代わりにお前の寿命を妻にやることにする。」
そういって悪魔は簡単にそれをやってのけました。部屋の中には倒れた男と寝ている妻が残されました。
男が死ぬ時がやってきました。お妃は悪魔から施しを受けた時に男が自分を救ってくれたことを知ってしまいました。男が死ぬことを知ると、城中のものを呼んで男の看病をすることにしました。
次の日の朝になりました。お妃は一睡もせずに男に付き添っていました。日が昇ってくると、男は苦しみ始めました。
「さぁお前が死ぬ時が来たぞ。だが、まだお前は約束を果たしていないな。今日の晩にまた魂を取りに来ることにしよう。」
悪魔は男にだけ言葉を伝えて去っていきました。目を覚ました男は最後になる言葉を紡ぎ始めました。
「私もお別れをする時が来たようだ。最後の別れの言葉を残したい。それを記してもらえるかな。」
そして男は今までで一番長い別れの言葉よりも数十倍も長いお別れの言葉を残しました。それは朝から晩までかかりました。
「みんな、今までありがとう。」
男を見届けたお妃や家来は悲しみました。それから、男の最後の言葉を叶えるために動き出しました。
男の死後、男の残した言葉は石碑と書物として人々に知れ渡るようになりました。男の葬儀はすぐには行われませんでした。それは男の言葉を叶えるためにしょうがないことでした。男は最後に、自分が訪れてきた国や町、村の名前などを言いました。そしてそれを聞いたお妃はそのすべてに使いのものをだし、信じられないほどのお金をかけて各地からゆかりのあるものを呼び出すことにしました。
使いのものは一つの村に着きました。男のことを知らないかと村人に聞いて回ってみると、村人のすべてが知っていると言うとても古いお話を耳にしました。「聖者の行い」と言うそのお話では、とても若い男が村にない技術を伝えて人々を救っていました。
本を読んでいた使いのものに村人が声をかけました。
「このお話はもうずっと前から村に伝わっていてね。直接この男のことを知るものはもういないけれど、このお話だけは少しも変わることなく伝えられているんだ。」
使いのものが最後のページをめくると、そこには若い男が描かれていました。
「それは当時の腕利きの絵師が描いたんだ。私にはわからないけれど、とても似ているらしい。」
使いのものは一つの国に着きました。男のことを知らないかと国民に聞いて回ってみると、国民のすべてが知っていると言うとても古いお話を耳にしました。「不死の英雄、戦場を駆ける」と言うそのお話では、誰よりも強い男が敵をバッタバッタとなぎ倒していました。
本を読んでいた使いのものに国民が声をかけました。
「痛快なお話だろう。似たようなお話はよくあるが、この話だけは特別有名でね。子供たちに人気なんだ。私は誰かが書いた作り話だと思っているけど、何故かこの男に関してだけは記述が多いんだ。王宮に肖像画が公開されているから気になるのなら見に行くといいよ。」
そして使いのものは王宮に肖像画を見に行きました。
ちなみに隣の国では、「万人殺しの死神」というお話が語り継がれていました。
使いのものは一つの国に着きました。男のことを知らないかと国民に聞いて回ってみると、国民のすべてが知っていると言うとても古いお話を耳にしました。「七英雄の悲劇」と言うそのお話では、当時の暴君に立ち向かった七人が悲惨な末路を辿っていました。
本を読んでいた使いのものに国民が声をかけました。
「このお話は古くにあった実際の出来事を記したものなんですよ。とても恥ずかしい歴史ですが、私たちはこのことを忘れずに協力していくようになったのです。広場に皆を導いた男の像が作られているんです。是非とも見ていってください。」
そして使いのものは広場で像を見つけました。
一番遠くに出た使いのものは、一つの町に着きました。さっそく男のことについて聞いて回ってみると、そこには不思議なお話が千年近く前から語り継がれていることを知りました。そのお話には「若い男」という単純な名前が付けられていました。お話の中で、若い男はある日を境に急に年を取らなくなり、また、どんな些細なことでも覚えるようになったと書かれていました。
使いのものは町人に聞いてみました。
「このお話の人物は実在した人なんだろうか。」
語り継がれているお話にしては作り話のように思えました。
「そのお話の男は間違いなく存在していたと聞いています。確か名前は―――」
こうして各地に出ていた使いは男にゆかりのある人たちを国に連れてきました。人々が集まるまでにはかなりの時間がかかりましたが、不思議なことに男の体は生きている時と何も変わらないように見えました。
男の葬儀が行われる前には、使いのものたちは自分たちが見てきた男の話をここぞとばかりに語りました。そして語り合ううちに、自分たちが見てきた話のままだと男が生きている時間の辻褄が合わないことに気づきました。使いのものは各地で男の絵や像を見ることで、男にゆかりのある人たちだと気づいて連れてきましたが、古いということについて深く聞いたものはありませんでした。一番遠くに行った使いの一人が言いました。
「我らが王が最初に言った村に行ってきたが、そこでは千年近く前から王の名が語り継がれていた。」
そして使いのものは、男が千年近く死なずに生きてきたことを知りました。このことはすぐにお妃にも伝えられました。皆は男が人間ではないと思いました。しかし昔のように男を恐れるものはいませんでした。各地で人の役に立ち、人を救ってきた男を怖がる理由はありませんでした。誰もが「きっと我らが王は神に使わされたに違いない。」と考えていました。
そのころ各地から集められた人々は、国にある大きな石碑を珍しそうに見ていました。そしてそこに書かれていることに覚えのある人が多くいました。石碑に書かれていたのは名前でした。国の偉人や町の名家、人によっては家族の名前が書かれているものもありました。
男の葬儀が始まると、連れられてきた人たちは順番に並べられました。お妃は男が生きた証を多くの人たちに知ってもらうために、男が残した言葉を記した書物を人々に配って読むことしました。
読み上げが始まると、集まった人々がざわざわしだしました。お妃は何ごとかと思ってよく見てみると、一つ読まれるたびに誰かがそわそわとしていることに気づきました。そしてこのことは全ての人々に当てはまりました。
男が残した言葉は、男が死ぬまでに関わった人たちの名前でした。これは悪魔からの条件でもありました。あのとき悪魔はこう言いました。
―――「最後に一つ条件がある。それはお前が住んだところから離れるときは、そこで関わった全ての人間の名前を言って去ることだ。」
男はこのことを守っていたので、記されたものには人々の名前が書かれていたのでした。なので集まった人たちの名前はすべて書かれていました。人々は次々と姓を言い当てられたのでとても驚いていたのでした。
とても長い読み上げの儀式が終わると、お妃は知っている全てを集まった人々に告げました。それは、男が千年近く死なずに生きてきたことや、その間に多くの人を救ったこと、各地にあったお話は男の行いで、男は全ての人を忘れずに覚えていたことでした。これを知った人々は男の死をとても悲しみました。そして、悲しんだ人たちは一人ずつ最後の言葉を男に告げていきました。
いよいよ男の葬儀が終わりになりました。お妃は予定通りに、最後に黙祷を捧げることにしました。全ての人々の目が閉じられ、とても長い黙祷が捧げられました。黙祷はいつまでも続きました。それがあまりにも長いので、人々は痺れを切らして目を開けました。するとそこには不思議な光景が広がっていました。男の国のもので動くものは一人もいなくなっていました。
そのあと国内は騒然となりました。集められた人々のほとんどは道がわからないので国に帰ることはできなくなりました。人々は混乱する他はありませんでした。そして不思議なことがまた起こりました。人々に配られた書物には何も書かれていませんでした。石碑にも何も書かれていませんでした。そこにあった名前は全てなくなってしまいました。
誰にも知れないところに悪魔が立っていました。
「人間は愚かなものだな。どうして困っている人間を助けなければならないのか。馬鹿馬鹿しい。」
悪魔はとても満足した顔で人々を見ていました。
「馬鹿なあの男はとてもよくやってくれた。悪魔に好きにさせるということがこれでよくわかっただろう。」
大仕事を終えた悪魔にはとても達成感がありました。
「それにしてもあの男が特別だったのか、人間というのは不思議なものだ。そして実に騙しやすい。」
悪魔は男と契約をしましたが、男には本当のことは伝えていませんでした。
「千年を生きれる体と言葉に力を持たせたのはとてもいい結果だった。」
悪魔は千年を生きれる体は与えましたが、忘れられない呪いなど与えていませんでした。その代わりに男に条件を与えていました。悪魔が男に名前を言わせていたのは、その言葉に魂を捕らえておくためでした。
「これでもう魂に困ることもないだろう。一仕事終えたあとは、とても気持ちいいものだ。」
こうして、悪魔はもう人間の前に現れることはありませんでした。
男の葬儀に集められた人々は男の国で過ごすことになりました。二度と動かなくなった人たちの処分にはとても時間がかかりましたが、長い時間をかけて国はまた繁栄していきました。
ある日、一人の旅人がこの国を訪ねました。国ごとの特色を楽しんでいた旅人は、何か特別なことはないかと国民に聞いて回ってみました。すると、国民の全てが知っているというお話を耳にしました。旅人は国民に聞いた通りに国にある大きな石碑のところに行ってみることにしました。そこには多くの人を救ったり助けたりしているとても優れた男の話が書かれていました。しかしその男は最後には悪魔にだまされて多くの人を不幸にしてしまうというお話でした。
「ずいぶんとひどい話もあったもんだ。」
旅人は誰に向けてでもなく呟きました。そして周りにいた国民に声をかけました。
「このお話の題名は何て言うんだい。」
声をかけられた国民は嫌なことでも思い出したような顔で答えました。
「誰もこの男を攻めることはできません。しかしこの罪がなくなることはありません。」
国民は胸に手を当てて黙祷をしました。周りにいた人たちもこれにならって黙祷を始めました。
「男の優しさと男の罪を忘れないように、私たちはこのお話を」
「「やさしい代行者と呼んでいます。」」
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