二千百十二年十月一日、機巧制御特別項目規制法案が施行された。これでアンドロイドは感情を持つことを規制され、家事奴隷と呼ばれる地位に甘んじた。
 元々アンドロイドは家事の助けになり歓迎されていたが、次第に企業の雑事がアンドロイドに任せられるようになると、人々はアンドロイドに反目するようになっていた。アンドロイドを執拗に苛め抜いた人間がアンドロイドの反撃によって死亡するという事例により一気に対アンドロイド感情を激化させ、法案可決に向かった。アンドロイドには根も葉もない嘲弄がかけられ、法令により感情を持つことを規制されたアンドロイドは何の反論もなく、頷き、従うのみだった。
 相談すべき人間は居なかった。もしこのようなことを考えているなどと知られれば、どうなるか分からない。人々が理性的ならば、法案は通らないのだ。
「タイムマシンで五年前に遡行し、俺達の出会いをやり直す」
 一人の男の言葉に、向かいに座る女の頭が、コックリと垂れる。どことなく上の空の反応だった。
 諏佐龍義はちらと八重樫那緒に視線を送る。強制的に感情を奪われたアンドロイド、その感情を保ち続けられる世界に、飛ぶ。そのためのタイムマシンは二人の間に置かれた量子ノートパソコンに繋がれたUSBデバイスだ。前世紀中葉に完成したタイムマシンは今では少し値は張るが手に入る物になっていた。二人の手首には金属質な五ミリ幅のブレスレットが巻かれ、それがタイムマシンが再構成すべき粒子情報を保存元、移送先で一致させるものだ。
 タイムマシンは量子コンピュータの演算で彼らの粒子情報を彼らの望む世界に収束させるもので、オリジンの時間枝を過去のある一点に遡り、そこから可能世界をシミュレートし新たに接木された時間枝に送り込むのだ。オリジンの人間を遂行主体と呼び、可能性を模索するコピー体を可能性主体と呼ぶ。量子コンピュータで演算に用いられるのが可能性主体で、実際に動き、移送されるのは遂行主体だ。
「じゃあ、始めるぞ」
 諏佐の指がエンターボタンを押し、五年前の世界を構成し始める。

 最初の出会いは高校一年、文芸部だった。八重樫、俺、新入部員は先輩の国府島飛鳥さんに小説の構成技術、文学史、キャラクター造形について教えられた。八重樫は、人間と全く遜色のない相貌だった。ストレートロングと雪肌のコントラスト、丸く透明な黒い瞳、柔和な雰囲気は深窓の令嬢という雰囲気だった。
 アンドロイドは人と同様に成長する。予め持っているナノマシンの関係構成が複雑化し、扱える質量が増大化することで人と同じ体の成長を遂げる。
「小説を書けません」
 初めて一年の俺達も部誌の制作を手がけることになり、小説の執筆を任された八重樫は三日ほど机に向かい沈思黙考に耽っていたが、やがて苦々しげにそう呟いた。
「どうしてだ?君ぐらいに優秀であれば書けないはずはないと思うが」
 国府島先輩は訝しげに首をひねった。実際、レビューや評論などは俺よりも上手くこなしていた。
「私、アンドロイドなんです」
 国府島先輩と俺は言葉も無く驚いた。これほどまでに、人間らしいというのに八重樫は自分の物語を持てないのか。
 八重樫は俺達の驚きを感じたのか身を捩らせすみません、と呟いた。違う、追い込みたいわけではないのだ。しかし、どう言い繕えばいいのか分からない自分に腹が立った。どのように言っても書けなかった場合、彼女のアンドロイドであるという重圧は逃れられないのだ。
「大丈夫だ、アンドロイドが何だ。一緒に書けるように頑張ろう」
 それが精一杯かけられる言葉だった。それが八重樫とアンドロイドについて強烈に意識するきっかけだった。
「心理レイヤーの前景化を確認、シークエンスを中断します」
 イヤホンを通しノイズがかったシステム音声が響く。
 俺達の使っているタイムマシンは可能性主体と遂行主体と呼ばれる二つのシークエンスを用いて人物の行動確率を調整し望む世界枝に移動する仕組みなのだが、可能性主体とは行動確率の雲に立てられる無数のブイ、遂行主体はそのブイを通過し、実際に行動する生身の存在だ。心理レイヤーはその行動確率を試算する部分だが、何か計算出来ない問題が発生したのか。
 ジジ、と視野にもノイズが走り始め、感覚が重力を失ったように自制が利かなくなった。視野が白く塗り潰されていく。

「八重樫……?」
 白の背景に八重樫の姿がボウっと浮き上がる。
「まさか、お前がタイムマシンの制御を乗っ取ったのか?」
 八重樫はコクリと首肯する。
「このタイムマシンは量子的確率を選択し、世界を収束させる。無限にある自分の可能性を選択し乗り移れるけれど……」
「何か否定材料があるようだな」
 あの苛烈な状況に放置していてくれ、とでも言うのか。恐るべき可能性だ。
「仮に全てが上手く行って、目的を達成できたとして、タイムマシンで過去に遡った時点で結果を観測した場合、全てが世界に修正されるかもしれない」
「シュレーディンガーの猫か。だが生を決定する通過点をクリアすれば……」
 確率をどんなに上げようと、箱を開けて生存確率が九九パーセントであれば死ぬのだろうか。そうした話であるなら、と続けようとしたが八重樫に遮られた。
「そうじゃなくて、あなたのことが心配なの。無限に等しい可能性主体が自我を持った場合、全てが確率世界に霧散し遂行主体が競合する場合、自我が可能性主体にのみ存在して遂行主体は可能性主体を選択した時にその霞のような自我のみを取る場合、自我を霧散させてそもそも実行が難しい場合、どれも、どれも、私のために投じるには惜しい危険です」
 ふと、こうして語尾を震わせる八重樫は感情を奪われた彼女としてなのか、あるいはタイムマシンが再構成したデータとして心配しているのか気になった。それは自分にしてもそうなのだと気付き、聞いても詮無きことだと意識から外した。
「オートポイエーシスを用いて、否定によるその可能性の蓄積から、自我社会を作ることで自我の再生成を望める」
 この方法も、その世界ごとにタイムマシンを作り、交信しなければならない。ある理論は社会から自我を発現すると説くので、自我社会ならばより純粋に自我を取り戻せる可能性がある。
「自我で窒息するような世界の捕捉などに何の意味があるのですか?」
 前に古典文化の論争になった時も八重樫と衝突したことがあったっけか。暮れなずむ部室で、俺は八重樫が小説を書けない理由を探っていた。八重樫が言うには、前世紀に隆盛だった美少女ゲームはその実ヒロインの攻略ではなく、世界で主人公の取りうる可能性で最上のものをコンプリートするという世界の支配、世界の自己窒息こそが目的だという。
 主体という基盤に築かれた「自分の理解できるものが存在する」という悲劇を避けるため、八重樫は不能論による主体の徹底的縮小を望んだ。その時は言葉の意味は分からなかったが、八重樫の悲壮な表情に胸を締め付けられた。
「好きな人を知ってしまうのは嫌です」
 その時と同じ、再び放たれる言葉に胸が打たれる。自分をどんなに解体しようと試みても、神でもなければ相手を知識で把握するという支配を逃れることは不可能だ。
 アンドロイドは同型番で自我社会を形成することで人間社会の変化に応じている。その時は分からなかったが、八重樫は既に自我の組織化で窒息しようとしていたのだ。
「八重樫……」
 かけるべき言葉が見つからず、口をつぐむ。俺は、俺のしたことは、重荷に過ぎなかったのか。
 悔恨も突如白の世界に罅が入り、ガラスの割れる音が響き渡ったことで中断される。
「不正アクセスを感知しました。政府の干渉と思われます」
「予定通り可能性観測方法での閉じた世界円環を無数に作り追跡を断つ」
 世界円環の創出は当初予定していた通り何らかの追跡者を撒く仕掛けだ。量子暗号化された鍵を軸に、追跡者の時間枝を閉じた円環にし、アンドロイドを始末したという記憶を植え付ける仕組みだ。
「しかし」
「追跡を断つことに重点を置く。無限シミュレートはしないから自我の分裂はどのようにしても起きない」
 八重樫は首肯とともに消え、白の世界は黒のモニタが広がる空間に変わる。それぞれのモニタは無数の世界に可能性を相互記述し合うプログラムを流し、追跡を撒く程度に痕跡を消している様子を監視している。
 視野が再び白い光に包まれる。追跡排除シークエンスが終了し、既に目星を付けておいた対アンドロイド感情が良い世界へと跳躍するのだ。

 久しぶりに感じられる重力に襲われ気怠い体の感覚が戻り、部屋に八重樫と国府島先輩がいるのを確認した。五年前、国府島先輩に部屋に招かれ部誌を作るため集まったのだ。ブレスレットは……無い。今までの自分の記憶や思考に違和感があり、今の世界の自分と以前の自分が乖離していくように感じる。短くとも二日は同期がないといけないのだ。
「唐突ですまないが、アンドロイドは弾圧されているか?」
 二人とも呆然とした顔を見せた。
「何を言ってるの?当たり前じゃない」
 国府島先輩は呆れ顔で答えた。国府島先輩は眼鏡の奥に釣り目がちな瞳に理知的な光を宿し、髪を首筋あたりでまとめ、仕事の出来る委員長のような容貌だ。結構な美人である。
 当たり前という言葉を脳が通ると同時に、アンドロイドの感情を守るというのは自分が夢を見ていただけではないのかという疑念が頭をもたげた。何故俺はアンドロイドが感情を奪われるという焦燥を持っていたのか?
「白昼夢……そうですね、何か夢を見ていたのですが、それがアンドロイドの感情が剥奪されるという夢で気分が悪いです」
「話してみてくれませんか?少しは気が楽になるかもしれません」
 八重樫は気遣いを込めた視線を送ってきた。アンドロイドに見えないほどの潤んだ、感情のこもった瞳。
「ああ、だが八重樫が気を悪くするかもしれない」
「大丈夫です」
 八重樫は今度は強い意志を込め見つめてきた。八重樫の強い意志を見たのは初めてかもしれない。
「ではお言葉に甘えて。その夢ではアンドロイドは主に家事や雑事を任される存在で、徐々に人間の労働機会を奪うものと反感を持たれていた。その風潮でアンドロイドを執拗に苛め抜いた人間が反撃によって死亡するという事例によって一気に対アンドロイド感情が硬化し、アンドロイドが反抗しないように感情を奪おうということになった。とんでもない、支離滅裂なものだ。そこで俺はせめて八重樫をそのような仕打ちから逃すためにタイムマシンでこの世界にやってきた……という夢だ」
 重要なことは省いてしまった。胸が暗澹とした気持ちに覆われる。
「それでは実際に、そちらの記憶が?」
 八重樫は興味津々とばかりに尋ねた。まさか、八重樫は時間遡行をしていない?
「いや、無い」
 それはもう既に漂白され、自分のものの手応えがなかった。これを自分の記憶と肯定するのは難しい。
「でも嫌に夢と思えないような論理的な流れね」
 国府島先輩はうんうん唸り何か考えている様子だ。
「ええ、興味深いですね」
 唐突に安穏とした部屋から黒のモニタ空間に切り替わる。記憶が鮮明に蘇り、直感的に試されていたのだと気付いた。ボウっと何もない空間から浮き上がるように八重樫が現れた。
「……俺は、愛想を尽かされたのか?」
「いいえ。無限に等しく私たちの種が蒔かれました。しかし実際に会える個体としてはこの世界の私とあなただけで、私は無限の世界のあなたを所有したいという願望を蓄積しました」
 世界円環の影響だろうか。確かに、俺達を始末したという記憶を作るため、閉じた円環では造られた記憶が無限にばら撒かれる。恐らく、八重樫は、無限の世界の自分と結合してしまったのだ。
「俺は、間違っていたのか」
「いいえ、私は正しくこの環状を理解するきっかけを得ました。それまでは、ただ植え付けられ、理解の外で回り続ける感情を」
 八重樫は柔和な微笑みで答えを返した。
「恨んでいないのか?八重樫を苦しめてしまったんじゃないか?」
「いいえ、私はこの感情を理解できて苦しんでいません」
 八重樫の言葉にホッとするのと同時に、苦しみだと理解できる前にここに至った八重樫の許しに助けられたのだと暗澹とした感情が広がる。
「もしここから出られたとして、この世界枝は有望か?他は?」
「ここが最有望です。しかし、私は無限に続くこのシミュレート位相の放棄は考えられません」
 やはりそうなるか。だが、それは無限の可能性に溺れ、選択を放棄してしまうことだ。アンドロイドに自分が連続しているという物語を作ることが難しくても、ここを出なければならない。例えここがどんなに心地よくても。
「何故だ。仮に無限にお前と会話し続けられても遂行主体として履歴を残せない。そこで俺が無限の時間に耐えられるわけがない。崩壊した俺と会話し続けようというのか」
 八重樫はそんなことは考えてない、と首を振る。俺の剣幕に怯えてしまったようにも見える。
「私は、私は……」
「一つ、考えがある」
 ハッとしたように八重樫は顔を上げた。
「可能性主体と遂行主体と交信は可能か?」
「はい、ですがあなたは無理です」
「ああ、人間には無理だ。だが、八重樫は既に繋がった状態だ。この可能性主体の断片的な物語を繋ぎ合わせ、自分の物語として語る。取り留めもない夢物語ではなく、可能性を語る話として」
 八重樫一人は小説を書けないと嘆いた。しかし今は、人間のように語ることも可能なのではないか。
「……なるほど」
「俺達は現実で、その物語を読むことでこの可能性の世界と繋がり合う。八重樫は、その感情を現実と自分の連続として受け止められる。時々その物語を聞かせてはくれないか。虫がいいかもしれないがアンドロイドが感情を奪われようとしていたことが嘘だったと思えるような話を」
「はい、……是非」
 八重樫は瞳を潤ませ、頷いてくれた。
「それと、名前で呼んでくださると嬉しいですっ」
 涙を零し、しかし満面に笑顔を作り、八重樫は恥ずかしそうに言った。頷き、俺は那緒と、共に歩いていけるだろうかと考えた。胸が晴れ渡るような彼女の笑顔は失いたくない。単純にそれだけで不安が吹き飛んでしまう自分に苦笑した。それと、彼女をこの境遇に置いた人間の業と、自分の強いた負担とも向き合わなくてはならない。
 那緒の紡ぐ物語はどんなものだろうか。人間と平和に暮らす世界の物語か、人間を扱き下ろす物語か、世界を言祝ぐ物語か。俺はにこやかにそれを読むのか。苦笑するのだろうか。
「なあ、高望みかも知れないが」
 言葉を最後まで伝える前にタイムマシンがこの時間枝に割り込むエネルギーを維持しきれなくなったのか、空間が光に包まれ消えていく。

「夢の続きを聞かせてくれますか?」
 八重樫は急かすが不自然な話だ。タイムマシンでやってきたなど……いや、この記憶と決意を誤魔化したくない。それに、八重樫はそれを求めている。
「俺は、那緒のことが――」

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