あの日の天体観測
1
「あー」
恵美はそう言って暗くなりきる前の星の見えない、薄暗い空を見上げた。隣を歩く慎二はポケットから取り出した五百円玉を手に、絵美の話しに耳を傾けている。
「なんかさ、このまま誰もいないところに行ってしまいたいって思う」
切実そうに、「誰」の部分をため息混じりに伸ばす。
「なんで?」
「だって、楽じゃん。親の門限なんか忘れてさ」
訪ねる真二に対し、恵美は投げやりに答えた。二人はショッピングモール裏手にある歩行者専用道路を通り、駅に向かう途中だった。恵美は駅構内をまっすぐ抜けた先に通じる歩道橋を渡って、真二は地下鉄に乗ってそれぞれ帰路に着く。
「夏のお祭りだって多分行けないし。約束してたのに」
「なんで?」
繰り返し、真二は同じ言葉を投げる。
「塾行かないと駄目だから」
歩調を緩めずとも、周囲を歩く人たちは前を向いたまま二人を追い抜いていく。小学生の歩幅では、大人の一歩には遠く及ばない。駅までの短縮通路とはいえ、二人にとっては短くない距離だった。
「ウォークマンも失くしちゃったし」
「あれ何曲くらい入ってたんだっけ?」
最近の恵美の口癖を耳にして、ふと疑問に思ったことを真二は聞いた。
「MDのこと? 忘れた。お姉ちゃんのもあったし」
失くしてまった時の事を思い出す。ちょうど姉のお気に入りのMDをウォークマンの中に入れていた時だった。その頃には既にMDは市場から姿を消しつつあった。人々の心の中には別の機器たちの姿形が根付いている。
現在姉はMDを活用しないタイプの機械を使っている。にも関わらず、今や活用しなくなったMDを失くされた事に対し、ひどく腹を立てていた。見つかりっこないとわかっていながら、探して来いと怒鳴られ、頭を叩かれた。
「そういや宿題やってないんだけど、真二やった?」
ノート見せてあげるから写させてほしいと言うより前に、真二は首を振った。
「だよねえ」
さして落胆した様子もなく、恵美は頭を垂れた。
駅構内に入ると、すぐ左手に切符売り場が見える。特に話し込むこともなくお互い別れを告げる。そのまま進もうとする恵美の背中に、真二の声がかかった。立ち止まって振り返ると、片目を瞑った真二が、両指を曲げて作った円を覗き込むようにして恵美を見ていた。
「何やってんの?」
「ねえ、望遠鏡持ってるって言ってたよね」
真二は円を覗く姿勢のまま、周囲の目も気にせず声を張った。
「部屋の窓から覗いてるって」
「うん、おじいちゃんにもらったやつだけど」
周囲の喧騒に負けじと、恵美も声を張る。
「ねえ真二」
何か言いたそうに口を開ける真二を無視して、恵美は真二に近づいた。両手をへそより下で組んで、切符売り場の脇にもたれる。
以前、太陽メガネを使った授業の時にそんな話をしたことがあった。望遠鏡を持っていることを真二に羨ましがられたが、僕もクリスマスにプレゼントしてもらうんだと嬉しそうに言っていた。サンタクロースを信じている真二が可笑しくて、つい真実を喋りそうになって我慢したのを覚えている。意地悪そうな笑顔のまま言葉を濁したので、その日はずっと真二に付き纏われた。その事を思い出して、恵美は自然と笑顔になった。
「そういやさ、プレゼントもらったの? サンタさんに」
ほら、望遠鏡、と白い歯を思いっきり見せて、恵美は訪ねた。六年生にもなって未だに信じているようであれば、からかってやろうかという悪戯心が内心を掠める。
「え、うん。もらったけど……」
真二は指の円を解き、弱々しく答える。思わぬことを聞かれたと言わんばかりに、棒立ちで恵美を見返す。
「ふーん」
そうなんだ、と恵美は顔を斜め上に逸らした。まっすぐな目でそう言われるとどうも怯んでしまって、自分が邪悪な何かだと、子供ながらに思わされる。憂鬱な気分が吹き飛んだ気がして、真二をからかうのはまたの機会にすることに決める。
「でさ、話し遮っちゃったけど、何言おうと思ってたの?」
改札から出入りする人々には目もくれず、まるで学校で机をくっつけてお喋りに興じるように、二人の視野は狭まっていった。
「今度さ、広樹と裕也と俺で天体観測するんだけど、恵美も来ない?」
一緒に帰ろうと誘う時のような気軽さの中、どこか照れくささが混じっているように感じられたのは、一瞬、真二の目が泳いだように見えたからだろうか。単なる気のせいで、照れくさがっているのは恵美の方かもしれない。何か特別なことに自分が誘われたと思って、しかしすぐに伏し目がちに首を下げた。
「無理だよ。ウチ門限厳しいからさ」
目を伏せたまま、腕時計に目を向けた。時計の針は午後七時半を指そうとしていて、真二たちが望遠鏡を担いではしゃいでいる姿が頭に思い浮かんだ。自分も行きたいと言い出すことができず、正面から向かい合うことができない。上目使いに、伺うように真二の様子を確かめる。
「大丈夫だって、迎えに行くから」
「でも……」
行きたいという気持ちが消えないおかげで、曖昧な答えしか返せなかった。消せるわけがなく、迎えに来ないでほしいとはとても言えそうにない。
「お父さんにもついて来てもらうから、大丈夫だって。みんなで行けるようお願いしてやるから、恵美も来なよ」
門限が近づいている。三十分あればまだ十分な時間があるとわかっていても、帰らなくてはならないと言えば、それで話を終わらせることができる。ここから逃げる口実になる。
「でも、やっぱり無理だよ。行かない!」
言えそうになくても、言ってしまった。自分のせいで残念そうにする真二の顔を見たくなくて、恵美はそのまま駆け出した。途端に周囲のあらゆる物音が耳を覆って、そこに意識を集中させ、制止の声を聞かないようにした。
断るのは慣れている。
2
恵美の家が厳しいのは知っていた。学校側が公認した行事であろうと、夜の外出は禁じられているくらいで、とにかく時間にうるさい家庭だった。何をすることもなくただみんなで集まる時も、運動場で花火大会を開いた時も、テントを張ってキャンプファイヤーを囲んだ時も、恵美の姿はなかった。
厳しいらしいと女子たちが囁いて、教員も慣れた様子で、近藤は不参加だと言った。
「お前、バンドやってたんだってな」
飲み会の席で携帯をいじっているところに、声がかかった。見ると、奥の方で騒いでいた男だった。
「え、何?」
携帯は眺めていただけで、実際には何も見ていなかった。最近になって思い出すようになった人物のことを、今更のように思い返していた。焼肉の匂いは洗濯すれば落ちるが、決して剥がれることのない何かについて、真二は考えていた。十を超える人が酔っ払い、肉を焼いて箸で突つく中、真二はその何かについて思いを巡らせていた。
「だから、バンドやってたんだって聞いたんだけど」
「ああ、解散したけどな」
多くのバンドが解散したように、多くの人が宗教の勧誘に興味を示したように、その場その場の生活を続けるだけの意義を見出し切ることができず、家庭の事情もあって解散した。自分たちのために時間を割いてくれる人がいなくなってしまったという現実を見て、諦めがついた。理由はいくらでも思いつくが、結局バンド人生に命をかけるだけの素養や情熱がなかったという事に尽きた。広樹は親の実家に行き、裕也は親の遺産で海外を旅すると言って日本を発った。再結成することは二度とない。
「今ボーカル探してるんだけど、よかったら一緒にやらないか」
飲み会の参加者の中に見知った顔があったので、その彼に聞いたのだろう。後輩の、名前は覚えていない。親しくもなかったが、同じ天文部として一定の会話はあったのだろう。
「なあ。聞きたいんだが、今更バンド初めて、遅いとは思わないのか?」
別に有名になりたいわけではない。そんな答えが返ってくると思っていたが、実際は違っていた。
「思うわけないだろ。有名になるチャンスじゃねえか」
高校の同窓会に呼ばれて来たはいいものの、当然ながら裕也と広樹の姿はなく、それどころか同級生の姿は一人として見当たらなかった。もともと部員の数自体が少なかったので不思議なことではない。
集まった人たちの顔をみると、年齢層はバラバラだった。下は二十、上は三十歳を越えている。互いに初対面という人の割合の方が多いくらいだった。
恵美のことを考えるようになったのも、同窓会のお知らせのせいだった。
「悪いけど、もうバンドはやらない。やる気もない」
真二はそのまま立ち上がって帰ろうかと思ったが、携帯を眺めて過ごすことにした。
断るのは、苦手だった。
◇
広樹の親が所有しているビルの屋上、そこで天体観測を行った。多くの星が浮かぶ空を見たのは、振り返ってみればあの日が初めてで、そのせいもあり圧倒されたのをはっきりと覚えている。成人した今であれば声を失っていただろうが、当時は声を張り上げてはしゃいで過ごした。
視界一杯に広がる自然の広がりに、忙しく首を動かしては望遠鏡を覗いた。ぼんやりとした、ブレ気味の土星がレンズ越しに現れ、また感嘆の声を上げた。今であれば解像度が悪いと文句を言い、物足りない気分になっただろうが、子供の頃はそんなことお構いなしだった。小さい頃はなんでも新鮮だったから、肥えていなくて得だなと真二は当時を思い返した。
みんなで仰向けになって手を広げて、じっと空を見て目を輝かす。
帰る時間だと言って立ち上がった後に恵美が呟いた、来てよかったという言葉が、その言葉に裏づけされた笑顔が、今でも脳に焼き付いている。
恵美は私立の中学に進むことが決まっていたので、二度目の天体観測は頓挫することになった。塾に通うようになり、小学校を卒業してから恵美と顔を合わせたのは、一年以上経ってからだった。
中学二年の頃にキャンプを行った時、何の前触れもなく恵美が顔を見せた。短かった髪が肩までかかっていて、身長は真二と三センチも離れていなかった。悔しくもあり、照れくさくもあった。当の恵美は何の気兼ねもなく久しぶりとお辞儀をした。手を挙げて挨拶を交わす程度の、気持ちの良いお辞儀だった。
再会の喜びに手を合わせたのはよかったが、肝試しが始まり、時間が経つにつれ二人はバラバラに行動するようになった。一緒に行こうと約束していたし、実際最初の内は行動を共にしていた。真二が先に進み過ぎて恵美のいたグループを見失ってしまったのが全てだった。先回りして脅かそうと提案したのは裕也だったが、一番食いついてたのは真二だった。提案した裕也よりも張り切っていた。恵美と歩調を合わせて昔話しや近況について話しておくべきだったと後悔したのは、次の日になってからだった。
恵美は他県の高校に進むことになっていた。それで最後の思い出をつくろうと肝試しに参加したと知ったのは後になってからの話で、恵美の口から直接聞いたわけではなかった。解散直前は全員が集合していたが、どこか歯車が狂ってしまい言い出せなかったのだろうと、それは自分のせいだろうと思い、真二は壁を蹴った。
携帯電話を持つようになった頃には恵美は遠くへ行っており、連絡先を入手することはできないでいた。そんな折、恵美から年賀状が届いた。元気でやっていますという内容の、形式的な文面ではあったものの、真二は内心で暴れ周り、全身の筋肉に力が入った。すぐに返事を出し、メールアドレスと電話番号を記載した。
一週間を待つことなく、メールは届いた。どこの機種の携帯なんだろうとアドレスを確認して、PCから送られたメールであることを知った。
聞くと恵美は携帯を持っておらず、学費を払うので精一杯だと言っていた。生活が貧しいとわかるには十分過ぎる情報だった。
バンドを組んだから、長期休みの時に聞きにきてくれないかと真二はメールを送ったが、恵美にそんな余裕があるわけないことは察しがついた。それでも送らずにはいられなかった。来れるわけがないのに、是非行きたいと言ってくれるのが嬉しかった。その日以来、恵美とは日常的にメールを交わすようになった。
互いの写真を添付して、互いの成長した姿や、逆に変わらないところを指摘し合った。PCについて勉強して、バンド内で作った自作曲を打ち込んで、恵美に送った。ライブの様子を撮影したデーターを送った。
恵美は何か目指していることがないのかと聞いたことがあった。本当にやりたいことがなくて、どうすればいいかわからないという答えに対し、安易な回答を返した。
いつかバンドをでかくするから、その時はマネージメントしてほしいと、求められてもいない提案をした。
そうだね、その時はお願いしようかな。そう控えめな文面を見たとき、真二は押し付けがましいことを言ってしまったと気づき、後悔した。
そうして、肝試しの時とは比べ物にならないくらい、あらゆる歯車が狂いだした。世の中全体の空気が落ち込み、誰もが経済の停滞を予感したが、誰も気にも留めなかった。広樹は実家に帰り、裕也は親の遺産で世界を回るといって出て行った。事実上、バンドは解散した。探していたあと一人の正規メンバーは、最後まで見つからなかった。
恵美に伝えることはできなかった。解散するより随分と前から連絡が途絶え、何度メールを送ったところで、送信フォルダが増えるばかりだった。
同窓会の二次会に参加することなく、真二は自宅に直帰した。両親は二人で旅行に行っていて、夫婦としての人生を過ごしている。
「わがまま言ってすまん」
二人が頭を下げ始めた時は何事かと思ったが、自分のことは気にするなと真二は笑顔で見送った。こんな時こそ家族全員で過ごすべき時なのにという言葉に対し、やりたいようにやるべきだと言った途端、親父は吹っ切れたように再度、頭を下げた。
最後まで真二のことを気にかけていたお袋に対しては、中途半端はやめろと言って背中を押した。
自室に戻り、最近作り上げた楽曲の編集を始めた。集中力が続かないのは、一度に昔のことを振り返りすぎたからだろうか。何度も水分を補給し、編曲作業に戻る。
どうしても無理だと諦めた後は、インターネットで母校を検索して、当時を振り帰る続きを楽しんだ。
そして何を考えることもなく、バンドメンバーの名前を一人ずつ検索していった。ひょっとしたらSNSをやっているかもしれない。その程度の気持ちで見つけた裕也のホームページを見て、息が止まった。
世界の旅に関する記録が書かれているわけではなく、特に日記らしい日記もない。
ただひとつ、トップページの自己紹介の欄に書かれている一言に、釘付けになる。
3
両親が事故で死んで、二千万の遺産が手元に入った。二十歳半ばの裕也にとっては大金で、多くの人が羨むほどの大金でもあった。
世界中の富裕層や大物政治家が姿を消し、申し訳程度に顔を出す、国を動かす人たちに不満を爆発させた国民は、暴動を起こしたりストライキを起こしたりして、行き場のない行為を繰り返した。状況を正確に掴めている者なんて誰一人としていなかった。
日本のように平和にやっている国は予想より多かったが、紛争を始める国も一つではなかった。何よりも不可解なのは、世界最大の宇宙研究機関の本部が、もぬけの殻に近い状態であることだった。家族含め、彼ら彼女らの消息は未だに掴めていない。
裕也が現地に足を運んだのは暴動後であったため、あらゆる機器が破壊されていた。データーというデーターが初期化されていては、何の情報を得ることもでないと怒りを爆発させた。建物内にある機械という機械が破壊され、破壊活動に勤しんだ者はどこか爽快そうな顔で行っていたという噂が立ち、当然批判は多かった。何の情報も残っていないとわかりながらも、手がかりが失われたと落胆する人もいた。、
混乱に陥って尚、紙幣の重要度は変わらなかった。民営化された政府は、いよいよ既得権益を発揮し始め、また新しい対立構造が生まれていた。宗教が力を増し、宇宙研究の最先端にいた者は神の怒りに触れたと伝えて回った。
インターネットでは乱雑な説が多く出た。まとめとして定型化されている説はいくつかあったが、どれもありきたりなもので憶測の域を出ないものだった。彼らは地球から脱出した説と、宇宙人と接触した説。宇宙人と接触した後、地球から脱出したという派閥も存在した。
決定的どころか、信頼できる根拠すら見つからないまま、人々は日々を過ごした。そして、姿を消した宇宙機関と密接な関係にあったロケット開発会社の暴露により、終焉の日を地球人の心に植えつけた。とは言っても、証拠として公開された記録はいくらでも捏造可能なものだった。後は証言に頼るしかなく、決定打となる証拠が提示されない中、それでも多くの人が地球の終わりを信じた。世界のあらゆるメディアが取り上げたことも要因のひとつだったが、何より冗談で済む話でないのは誰もが感じるところだった。
世界中を巻き込むような戦争や、それこそ核戦争に突入していないのは救いだった。結局のところ、世界を滅ぼしたい人なんていないのかもしれない。
小康状態に落ち着いた今では大きな争い事はなくなった。いつ勃発してもおかしくないが、しばらくは大丈夫そうだという気配を人々に与えていた。
裕也だけでなく、多くの人が何が起きているのかの詳細を知ろうとして、諦めた。今ではアメリカに根を下ろし、友人のジェームスと暮らしている。
「おい、裕也。新しいネタ手に入れたぞ。極上のやつだぜ」
出かけていたジェームスが大麻の入ったパケ袋を掲げ、にんまりと分厚い唇を開いた。緑のTシャツは伸びきっており、丸く突き出た不健康そうな腹周りに目が行く。百九十を越えるほどの巨躯ではあるものの、つぶらな瞳が良い具合に威圧感を消している。サングラスをかければ道往くものが道を譲る風貌に早変わりする。
「本当かあ? いつものやつでいいって言ったのに」
ジェームスの言う極上は決まり文句と化しており、期待できるものではなかった。
「さっそく試そうぜ」
嬉々とした声で言われても、ソファから飛び起きる気はしなかった。ジェームスはキッチンに向かい、一人ボングに水を入れ始める。
「びっくり箱を楽しもうぜ」
ジェームスの声の他に、冷蔵庫を開ける音や、何かを弄ぐる音が裕也の耳に入る。
「……そうだな」
ジェームスの言葉に乗せられることにした裕也は、テーブルに手を伸ばしライターを手に取った。窓の外から夕焼けが差し込んでいて、肴としては申し分なさそうだ。
キッチンから戻ってきたジェームスが顔を見せた。片手にボングを持ち、もう片手にはパンパンに張ったビニール袋を持っている。持ち物をテーブルに置き、ビニールの中から大量のスナック菓子やジュース類を置いた。
「日本の寿司が食いてーな」
言いながら、ジェームスが大麻をセットする。手に入れたバッズを専用の道具であるグラインダーで砕く。ボトルキャップをまわすように、ガリガリと。
ハサミでチョキチョキと時間をかけてバラした方がいいという信念が、裕也にはあった。匂いを楽しみながら徐々に粉々になっていく様をみる高揚感が増して、より興奮するのだ。ジェームスが受け入れてくれなかったのは残念だった。
「じゃ、先もらうぜ」
セットが完了するや否や、ジェームスは右腕にライターを持ち、宙に掲げた。肘から手首にかけて刃物で切られたとしか思えない傷跡があり、腹さえ引っ込んでさえいれば真っ先に目につく部位だったであろう程の、深い傷跡だった。
ライターを着火させ、勢いよく吸引する様を、裕也はじっと見た。
コポコポと水が暴れ、煙が吐き出される。数秒後に咳き込んだジェームスの顔をみると、一人頷いて親指と人差し指で輪を作っていた。
「っかー。これはいかついぞ。めちゃくちゃ喉にくる」
「俺にも吸わせてくれ」
興味なさげに振舞っていても、おいしそうに吸っている姿を見てしまっては、早く自分も続かなければという変な連帯感が生まれる。裕也はこの感覚が好きで、一吸い目はいつも誰かに譲っていた。
「まったり系だな」
二回、三回と吸引し、大麻を詰めなおし、また吸う行為を繰り返す。たまらなく喉が暑くなり、咳き込む際に広がる独特な味が鼻腔を満たす。
「まだだぞ、まだ吐くなよ」
ジェームスは手を宙に振り回して、煙を吸い込む裕也を煽る。そうして耐え切れなくなって、煙を吐き出し咳き込む。部屋の中が香ばしい匂いで広がって、それがまたハイな気分を促進させてくれる。
二人並んでソファーにもたれ、裕也はテーブルに足を乗せた。
「悪くないな」
ニヤついた顔で裕也は言った。その万遍の笑顔に、同じく万遍の笑顔で返すジェームス。笑顔のまま唇を閉ざし、おいしそうにスナック菓子を頬張っている。
「まったりだな」
窓の外に見える夕焼けを見ている内に、裕也は心地よい眠気に包まれ始めていた。このまま全身の力を抜けば数分後には深い眠りに落ちるだろう。ジェームスは相変わらずスナック菓子に手を伸ばし、休む暇なく口を動かしている。
「何か音楽かけようぜ」
そう言って立ち上がるジェームスに目もくれることなく、裕也はまどろみの中でふと、昔の光景を思い出していた。
それはまだ小学生の頃で、惚れている相手に対し何のアプローチもかけられなかった、苦い思い出としての記憶だった。一人悶々としたまま、積極的に誘いをかける友人の背中を見て、悔しい思いを抱いた。
天体観測をしたあの夜もそうだった。誘うチャンスはいくらでもあったはずなのに、計画したのは自分だったにも関わらず、友人に先を越されてしまった。自分の本心を隠したまま、仲良さそうに並ぶ二人を目にしては、目を逸らすばかりだった。
「ジェームス、ロックなのをかけてくれ」
宇宙の神秘さを感じさせてくれるような、誰もが聴いたことのあるクラシックが流れ始めるや否や、裕也は耳をふさぎたくなった。夕焼けに目を向けたまま、怪訝そうにするジェームスの顔が頭に浮かんだ。
「熱い曲にしてくれ。昔のことを思い出したんだ」
「そりゃなんだ、嫌で楽くて面白い昔話か?」
何をどう察したのか、ジェームスは笑みの混じったいじらしい声で言った。
「今は気分じゃない」
深い深呼吸を繰り返し、裕也は次にかかる曲を待った。
「じゃあ……バッキバキになるやつにするか」
「いや、ちょっと待ってくれ」
裕也はジェームスの横顔を見た。六つのスピーカーが目に入り、その中心にジェームスはいた。マウスを触って次にかける曲を探す手が止まる。
裕也はボングを手に取り、新しい煙を体内に取り込んだ。ジェームスはその様を黙って見た。
「一人になりたい」
「またかよ。気難しいやつだな」
肩を竦めるジェームスを尻目に、裕也は夕焼けに視線を戻した。
「大麻吸って瞑想しないなんてもったいない。お前もやればいいのに」
まあいいけどよ、と一人呟くジェームスと同じような感じで、裕也は呟いた。
「じゃ、俺はこいつに没頭するぜ」
ヘッドフォンのコードをスピーカーに繋いだ途端、ジェームスは何も言わなくなった。体を揺らして、文字通り音楽の世界に没頭している。時折、感嘆の混じった呼吸音が聞こえるが、気になるほどではなかった。
空気の循環を肌で感じようと、目を閉じ、自分の呼吸に意識を集中させる。全身の細胞が活性化するイメージで、余計な考えを邪念として振り払う。無理に振り払うことはせず、次々に浮かぶ考えを受け入れつつ、無心へと収束させるようにしていく。
そうして最後の最後まで頭に残り続けた六月三日という数字に目を瞬かせた。虫刺されを嫌って虫除けスプレーをかけて臨んだ、天体観測の決行日。
目を見開き、立ち上がるより先にPCモニターの方を見た。すぐにヘッドホンをかけたジェームスに駆け寄り、肩を掴んだ。
「ちょっとどいてくれ」
ヘッドホンを外そうとするジェームスの手を掴み、そのままでいいからと掌を前に出す。抗議の声を上げんばかりの顔をするジェームスだったが、渋々椅子を横に引いてくれた。裕也は感謝の声を上げて、立ったままモニターに向かった。
腰をかがめ、勢いよくキーボードを叩く。
以前作った斉藤裕也というタイトルのページを開く。当初はこれまでに歩き続けた国の写真を記載していこうかと思っていたが、面倒で放置しているサイトだった。
「今年の六月三日、四人は再会する」
トップページの自己紹介の欄にそれだけを記載した。大手SNSに本名で登録し、出身地なども詳しく記載した後、自分のサイトのリンクを貼った。
裕也は再生中の音楽プレイヤーを停止させ、ジェームスに向かって言った。
「聞いてくれ、ジェームス」
「今度はなんだ。嫌がらせか?」
再生ボタンを押してほしそうにマウスを注視しつつも、横目で裕也を見る。
「すまんジェームス、俺日本帰るわ」
4
父親に外出を禁止されてから十日が経った。忙しそうにする父親の真意がわからず、広樹は居心地の悪さを胸に抱えていた。十日前、父親は興奮した面持ちで鼻息荒く広樹の部屋にやってきて、しばらく外に出るなと指を突きつけた。指はそのまま目を貫きそうな勢いで、汗臭く迫られた父親を前に、ただ頷くことしかできなかった。よくよく考えてみれば、なぜあの時きちんと納得できるだけの理由を聞かなかったのかと後悔したが、あまりの勢いに圧倒されてしまったのだ。
十日が経った今では父親の興奮した様子はなくなり、食卓の席でも冷静そのものだった。箸を動かす仕草にあった焦りは影を潜め、普段より一層時間をかけて租借する程の、余裕に満ちた口元をしていた。その頃には母親の表情にも目に見える変化が起きていた。出てくる料理の気合の入りようは、ここ数日ずっと続いていた。知らぬは息子だけと言わんばかりに、何もわからないでいた。
一度、無断外出しようとしたことがあったが、玄関にカメラが置いてあるのをみて諦めた。そこまでして家に閉じ込めて、何を企んでいるのだと問い詰めたところで、まともな答えが返ってくることはなかった。
「今は知らなくていい」
面白くなかった。そう思っているところに、兄が帰ってきた。もう何年も顔をみていなかったので、突然の帰宅に眉を潜めた。
兄の姿は広樹とは対照的だった。筋肉のついた体格の良い体にしても、坊主頭にしても、人を殺しそうな目にしても、兄を見ると軍隊を意識させられた。とにかく苦手だった。
頭脳の明晰さにも大きな開きがあり、海外の有名大学を卒業して、そのまま世界的な金融機関に就職した。両親はそんな兄に期待をかけ、音楽に明け暮れる広樹には目もくれなかった。今回だってただ家に閉じ込めておくだけで、何を教えてくれるわけでもない。
だからといって普段から不満があったわけではなかった。小言を言われないだけで満足だった。放任してくれていることに感謝さえしていた。それだけにこの十日間の息苦しさは広樹にとって辛く、与えるストレスは大きかった。
一人PCに向かって将棋ソフトを立ち上げ、CPU相手に対局するのが広樹のここ一週間の日課だった。小学生の一時期、学年全体で将棋が流行し、広樹は誰と戦っても王手を取った。負け知らずで名が通り始めると、それまで流行に乗っていなかった裕也と真二が興味を持ち始めた。昼休みのサッカーを中止させてまで、将棋のルールを覚えようとした。その二人とは後にバンドを組むことになり、あっけなく解散することになる。
世の中が終わろうというのに暢気にバンドなんてやっている場合ではないと、誰が言ったわけでもなかった。それでも自然消滅は避けられず、メンバーはバラバラになり、それぞれがそれぞれの道を進んでいった。
「もう二度と会うことねえな」
裕也の一言は、誰もが意識させられていたことだった。真二は住み慣れた地に残り続けると言っていたが、今ではどうなっているかは知る由もない。
二度と会う事はなくとも、何かしら互いの情報は共有しておいてもいいのではという思いは常にあった。しかし裕也が拒絶したことがきっかけとなり、全員との連絡が途絶えることになった。
最後まで友達で過ごそうと言った広樹本人が、遠くに行くことになったのは皮肉だった。両親が実家に帰ることになり、自分だけ残るとはとても言えなかったのだ。言えるわけがなかった。仲の良い親子だと胸を張ることはできなくとも、こんな時に家族が離れ離れになるような、そんなわがままを押し通すわけにはいかなかった。
真っ先に拒絶したのは裕也だったが、ちゃっかり自分の足跡を残しているところはさすが裕也らしいと思った。インターネット上にあるページに、その足跡はあった。わざわざ見つけやすいように出身校まで明記してある。リンク先にあるページに記載されていた「帰国」を思わせる文面を見て、もっと言えば「再会」を匂わせる日付を見て、すぐに天体観測を行った夜のことを思い出した。あの時は珍しく恵美の姿があった。門限が厳しいで有名だったが、親には内緒で抜け出してきたと、初めての体験を興奮気味に語っていた。拳を握ったまま俯き、首をせわしなく動かしてどこか不安そうにしていた。それもすぐに吹き飛んで、後は興奮が勝って楽しそうにはいしゃいでいた。恵美とはほとんど話したことがなかったが、あの日も結局あまり喋ることはできなかった。むしろなんで恵美がいるのだと訝しんでさえいたが、顔には出さないようにした。当の恵美にはお見通しだったようで、軽い口論になったのも今では良い思い出だった。尾を引きずるようなことはなかったので、何だかんだで楽しい天体観測だった。
関係ないことを考えながら将棋なんて打つものではないと、広樹は苦笑した。低レベル設定のCPU相手に追い詰められ、どう転んでも勝ち星が見つからない。
「負け知らずなんだけどなあ……」
将棋ソフトを導入して十日間、一度しか勝利したことがなかった。唯一兄より優れた特技だと当時は息巻いていただけに、現実を突きつけられる毎日だった。
ちょうど兄が帰ってきている。家族と過ごすという選択を取らなかった兄だが、父親と定期的に連絡していたのは知っていた。
どうせどこにも行けないのであれば、久しぶりに兄と対局してみようか。そう思い立つより少し前に、部屋のドアがノックされた。
「……兄貴」
部屋に一歩押し入り、ドアにもたれる兄と目が合った。切れ長の目が捉えているのは広樹か、その向こうに見える将棋画面の映る液晶モニターかは判別がつかない。
「久しぶりだな広樹」
肌と密着したTシャツ姿は、以前と変わらぬ引き締まった体であることを示していた。
「余計な事は言うなって親父に言われてるんだがな、まあ……関係ないな」
「余計な事……。今の俺のこの状況と関係が?」
反射的に聞き返した。兄は二歩広樹に近づくと、絨毯の上に座って胡坐をかいた。
「なんだ、知らないのか?」
兄はとぼけた口調で、馬鹿を見るような目で言った。
「助かるんだぜ、オレたち」
◇
「すげえんだぜ、父親の人脈って。家族全員、地球の外に、安全な場所に避難できると知った時、すっげえ嬉しかった。助かるぞってな」
どうして自分にだけ教えてくれなかったのだとは言わなかった。愛する妻と、優秀な息子がいれば、後はおこぼれがあるだけなのだから。
「信じられるか? 地球の外に人が住んでるんだぜ。凄くないか、なあ?」
なあ、と繰り返し兄は言った。広樹はどう答えればいいのかわからず、曖昧にはにかむしかできなかった。信じられない気持ちと、くだらない嘘を吐く兄ではないという思いが同時に存在していた。
「なあ、何か言えよ」
兄は腕を組み、あぐらをかいたまま腰を突き出し、広樹を見上げた。
「何かって言われたって……」
「羨ましいお前の願いをよ、叶えてやろうかなって」
兄はよく広樹のことを羨ましいお前と呼んだ。それは親から放任されて自由に生きることへの当て付けだと広樹は思っていた。
「将棋なんてしてねえでさ、行きたいとこ、あるんじゃねえのか?」
「行きたいとこ……そりゃあるよ」
広樹は椅子を右に左に、小刻みに回転させ、兄から視線を逸らして俯いた。
「知ってんだぜ、お前が毎日とあるホームページ覗いてるの。そこに書かれてる内容も。なぜか知ってんだぜ、気持ち悪いよな」
「…………」
「死にたくないってんなら何も聞かなかったことにして、将棋でもやってろや」
兄は膝を叩いて立ち上がると広樹に背を向け、ドアノブに手をかけた。
「親父はいねえし、いつでも外に出られるようにしてある」
ポケットから何かを取り出し、広樹の足元に投げて寄越した。
「じゃあな」
そう言って兄はドアの向こうに消えようとして、部屋の中に顔を覗かせた。
「ひょっとして、もう二度と会わねえんじゃねえか?」
足元に投げられた物がクレジットカードであることを確認した時には、兄の姿はなかった。広樹は王手寸前の対局を放置したまま、一人決意を固めた。
クレジットカードを持ち、ギターも忘れずに。
「世の中なんて、捨ててなんぼなんだからよ」
玄関から出る際、兄のそんな一言が聞こえた気がした。
5
「いい世の中にはならなかった」
空を見上げ、今いるこの場所を強く思った。地球にいる時と同じような感覚で、青一色に広がっていた。確かにそう広がっているように見えた。
「おじいちゃん、少しは気分よくなった?」
声がした。車椅子から降りることもできず、孫を振り返った。
「どうしたの?」
孫の笑顔が老人を見た。その顔が唯一の真実だった。首から下は自動化され、思考以外の意思はバグとして処理されてしまう。経験は意味を失い、人は単純化した。プログラムに任せておけば、作られた集合的無意識がなんとでもしてくれる。
宇宙人とは名ばかりで、所詮は人類だった。自然の緑がなくなれば、人は生きていけない。自然と共存しない生物は、何ら意味がない。ただ物事を考えるだけの、無意識に成り果てる。
まだまだ捨てたものではないと、そう思っていた何かが消えれば、待っているのは何だろうか。
孫から視線を外し、手に持った写真を眺めた。写真には見覚えのある屋上が映し出されていて、そこには見覚えのある顔があった。
「お前が正解だ。いい世の中にはならなかったぞ」
「まだまだこれからだよ」
孫の声がする。
「肉体としての無意味さを実感するね!」
孫の声がする。
感想
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