私と物語


緒花詩きき(おはなし きき)の話を明らかにしようと思う。


棺の中で息音を立てず静かに眠る緒花詩ききの姿を、僕は最期まで忘れることはないだろう。ほとんど太陽のもとに晒されることのなかった彼女の肌は、しみ一つなく肌理が細かい。長くさらりとした黒髪も、数日前に会った時のままだ。線が細く、整った顔立ちで、死化粧により顔色も悪くなく、花に囲まれて目を閉じるききは、ほんとうに人形のようだった。
遺影の中には、僕の見慣れた姿のききがいた。十六歳で亡くなったのだから、このような場で使える写真も少ないはずなのに。
ききは足が動かなくなってからはほとんど毎日、一日中をパジャマのままで過ごしていたのだが、僕の訪れる日には、白いワンピースを着て迎えてくれることが多かった。ワンピース以外を彼女が着るのは難しい。だから、それが彼女の精一杯のおめかし。写真はきっとそのときのいつかに撮られたものだ。
僕はぼんやりと読経をききながら思いにふけっていた。

親族以外の人間のお葬式に出席するのは、今回が初めてではない。中学生のとき、ほとんど喋ったこともなかったクラスメイトが交通事故で亡くなり、クラス全員で手を合わせに行ったことがある。あのときの僕に、死を弔う気持ちがあったかと問われれば、おそらくなかっただろう。当たり前だ。よく知りもしない者の死を真摯に弔える人間は少ない。まして、中学生にそれができるはずもないのだ。中学生の僕は、そんな人間たちに手を合わされて、亡くなったクラスメイトとその親族は何を思っているのだろうか、と考えていたのを覚えている。
おそらく、現在しめやかに行われているききのお葬式に参列する人間の何人かは、彼女のことなどほとんど知らず、何らかの関係者であるというだけだろう。彼らに死を弔う気持ちがあるのかは、僕にはわからない。僕自身も、彼女の家庭教師を半年近くやっていただけの関係者にすぎないのだから、彼女の親族にしてみれば、僕も彼らも同じにみえるはずだ。
それでも、僕は彼女の死に大きな喪失感を覚えていたのは間違いなかった。もう二度と彼女と話ができなくなったのだと思うと、悲しくもなった。
お葬式とは、死者のためにあるのではなく、残された生者のためにあるのだ。という言葉を耳にしたことがあるが、今の僕には、その言葉の意味するところがよくわかった。死者を思う生者にとって、お葬式の場で、死者を弔う気持ちのない他人がいようがいまいが関係ないのだ。周りのことなど見えてはいない。どうだっていい。ただただ、自分の内側で、死者との決別をどうつけるのか、延々とそれを思い続ける。だから、お葬式は感情のない死者のためにあるのではないのだ。感情のある生者のためにこそあるのだ。

やがて参列者のお焼香が終わり閉式となった。最後に、ききの棺に花を手向ける。僕も一輪手にとって花を添える。しばらくききの姿を呆けたように眺めていたが、思い切って顔をそらした。
これで、生きていた、生身の彼女とは決別なのだ。
棺は閉じられ、親族の手によって霊柩車へと運ばれていった。お骨拾いからさきは、親族だけで行われるので、僕はここで解散となる。出発した霊柩車を眺めながら、僕は数日前のききの言葉を思い出していた。
「これはきっと、先生にとって呪いの言葉になってしまうんです。それでも先生は、私の言葉をきいてくれますか?」
なるほどたしかに、彼女の呪いは成就した。
僕は今後の人生をかけて、その呪いの清算に努めていくことしようと、このときに誓った。


緒花詩ききと初めて逢ったのは、僕が二十一歳のとき、大学三年生の立冬の頃だった。
家庭教師のアルバイトをしていた僕に、新しい生徒が割り当てられることになった。
その生徒こそ、緒花詩ききだ。会社からの説明によれば、僕の自宅から近く、希望の時間帯に合うから担当に割り当てられたとのことだったが、当時の僕は内心で訝しんでいた。
というのも、緒花詩家は僕の住んでいる地域の人間には資産家として有名で、綺麗に手入れされた庭園の先に建つ豪邸を知らぬ者などいないほどだったからだ。たいていの場合、お金持ちの家の担当になるのは、アルバイトではなく社員ということになっている。多分、お金持ちの家は何かとおいしいからだろう。出てくるケーキがおいしいとか、もしかしたらもっとおいしいものがいただけるとか、バイト仲間の間ではそんな噂が飛び交っていた。
つまり、アルバイトである僕が、緒花詩ききの担当になったのには、何か特別な理由があるのではないかと考えていたわけだ。両親がやたらクレームをつけるとか、あるいは緒花詩ききがよっぽどの問題児だとか、そんなの。
僕はそういった心構えのもと、緒花詩家へと向かった。
そして、不安は僕の予想とはかけ離れた形で現実のものとなったのだ。
初めて訪れた緒花詩家の客間で、ききの母親から聞かされたのは、
「ききは原因不明の、不治の病に冒されていて、いつ心臓が止まってもおかしくないんです」
ということだった。このときの僕は、なんと言っていいかわからず、「どのような病気なのですか?」とか、「なぜそれで家庭教師を?」だとか、今から思うとずいぶんと不躾な質問を繰り返した。それでも、彼女の母親は、穏やかに一つ一つ答えてくれた。
ききの病気は、おそらくALSと呼ばれる筋肉が衰えていく病気の一種ならしい。「おそらく」というのはこの病気についてわかっていることが現在でも少なく、特にききの症状は特異なようで、まさに原因も治療法も不明だからだそうだ。
具体的にこのときのききは、足の筋肉が衰え動かすことができず、一日中をベッドの上で過ごしている状態。幸いにも、脳や呼吸器には今のところ影響は無いらしく、意識ははっきりしているとのこと。しかし、いつ胸の筋肉を病魔が冒し、呼吸、心臓が止まってもおかしくないそうだ。
ではなぜそんな状態で家庭教師を雇ったのか。
当然、ききは学校に通うことはできない。だが、このままずっと家の中にいて、家族やかかりつけの医者以外の誰とも会うこともなく衰えていくのは、あまりにも孤独で寂しいのではないか。そう思った彼女の両親は色々な人と会話したりできる機会を作ろうと考えた。しかし、実際そんなにうまくはいかないようで、彼女と会うのは年長のカウンセラーなどばかり、同年代の者などいなかった。同じような病気を抱える子供たちがコミュニケーションを図ることを目的とした施設もあるらしいのだが、そこに行くのはきき自身が嫌がったらしい。そこで、手当たり次第に方法を模索した結果が、家庭教師だった。まあ、これもなかなかうまくいかず、僕の登録している会社に当たる前に、すでに何社かには断られたそうな。当の僕のところも、適当なアルバイトに行かせているあたり、真剣に対応したとは思えないが。
さて、そんな話を聞かされた僕はどうすればいいのか。正直困った。僕は病気の他人を心から励ましたり、死に直面している者とのコミュニケーションを自然にこなしたりできるほどできた人間ではない。人より少しだけ、顔色を伺うことが得意で、お話が好きな大学生だ。断ってしまおうかと思った。
「普段やってらっしゃるように、たんたんと勉強を教えるだけでもかまいません。どうか、会ってみてくださりませんか?」
切羽詰った声で深々と頭を下げられる。
とても無下に断れるような状況に無かった。

案内されたききの部屋の前。母親がノックする。
「きき、家庭教師の先生がいらっしゃったからお通しするわね」
「どうぞ」
 と短い返事があってからドアを開ける。
「では、よろしくお願いします」
いきなり二人にするのか、とツッコミたくなったが、そんな顔で頭を下げないでほしい。結局何も言えない。
部屋に入りドアを閉めた。
女の子特有の甘い匂いがする――別に僕が匂いに関して特殊な趣向があるわけではない。このようなアルバイトをしているとわかるのだが、やはり男と女では部屋の空気が違う。匂いだけで性別がわかるほど違うのだ。なぜこんなにも違いが出るのだろうか。人体の不思議の一つに数えるべきだ。
そんな匂いが満たすききの部屋は十二畳くらいあるだろうか。少なくとも八畳の僕の部屋よりは広い。だが置いてある物はずっと少なかった。スタンドライトとノートパソコンが置かれた学習机、百冊ばかり入っていそうな本棚。それに彼女が座る介護用のベッドだけだ。
ききはパジャマ姿でベッドに腰掛け、文庫本を読んでいた。髪が長く邪魔になるのか、後ろで一本にまとめてポニーテールにしており、顔がよく見えた。長い睫毛に、意思の強そうな少し大きめの瞳。それに反して輪郭はすっきりとして線が細く、どこか儚げに見える。なるほど、深窓の令嬢とは彼女のような人間のことをいうのかと得心した。
さて、自己紹介でもしようか。と思ったが、本を読んでいるのを邪魔するのも気が引けたので黙っていると、
「すいません。もう少しで終わりなんです。いいですか?」
と声をかけられた。僕は無言でうなずき肯定の意を示す。残り数ページで終わりというところで中断させられる辛さを知っている僕に、拒否できるはずがない。
適当な場所に腰をおろし、ききの手にしている文庫の表紙をちらりとのぞき見。『不思議の国のアリス』だ。ピンク色のやつ。僕も当然読んだことがあったので、彼女が読み終わったら感想でもきいてみようか。などと考えながら、視線を本棚へと移す。物語が好きな人間はたいてい、他人の本棚を見るのが好きなのだ。人によってはかなりの偏りのある本棚になるのだが、彼女のそれはそんなことはなかった。ミステリからSFに至るまでなんでもある。比較的に昔の、それも海外のものが多い気がしないでもないけれど、最近のライトノベルと呼ばれるものまであり、雑食っぷりが窺える。
ぱたりと本を閉じる音がした。
「終わりました。えっと」
「ああ、はじめまして。一応今日から君の家庭教師になった御伽かたる(おとぎ かたる)です」
しまった。一応とか言うべきではなかったか。
「はじめまして。緒花詩ききです。じゃあ……一応、御伽先生とお呼びしますね。こんな生徒の担当になって先生も困ったでしょ?」
 薄く笑みを浮かべながら「一応」を協調されてしまう。
「困ってないと言えば嘘になる。けど、やることはやるつもりだ」
「やること、ですか?」
「もちろん教授だよ。僕は家庭教師だから」
「私に学校で教えられる勉強が必要だと思いますか?」
おそらく必要ないだろう。だが、それをきっぱりと言ってのけるほど、僕は無神経なやつではない。
「高等教育には一切触れていないのかい? 通信教育も含めて」
「中学校はなんとか卒業しましたが、高校には行ってません。通信教育も受けてないです。残された時間を好きに使いたいって母さんに言ったら、反対もされませんでしたから」
高校に通うのは難しいだろうが、通信教育も受けていなかったのか。とすると、ききの両親は、ほんとうに話し相手をさせるためだけに家庭教師を呼んだのだ。普通そこまでするだろうか。
「母さんを悪く思わないでくださいね。私のためにいろいろしてくれてるんです。私もその気持ちはとてもうれしいので」
む、考えていることを読まれたか。
しかし、「気持ちはうれしい」か。その言葉の裏にある意味は推して知るべしだな。
「別に悪くは思ってないよ。ただ、本当に話し相手をさせるためだけに呼んだとは思わなかったから、驚いただけだ。あと、望むなら僕はすぐにでも出ていくが?」
ききが、すぐに出て行けと言うような人間ではないだろうと踏んで、わざとそう訊ねる。探り探り会話するのも面倒になってきたので、口調も崩すことにした。
「私から望んで出ていってくれる人は少ないんですよ。たいていは相手の人が望んで出ていきますから」
少し意地の悪い笑みを浮かべるきき。ひねくれているというわけではなく、冗談でこういうことを言っているのだろう。彼女の境遇から、もっと暗く卑屈な人格を想像していたが、実際は鷹揚でずいぶんと余裕があるように感じた。僕はそんな彼女に少し興味を惹かれる。
「そうか、じゃあもう少しお話しをしよう」
「なんのお話ですか?」
「やっぱり家庭教師らしく、僕が問題を出すから、君に答えてもらう」
 僕は彼女が興味を示すであろうとっておきの問題を知っている。
「ええ、いいですよ。あと私はきみじゃなくてききです。女性はお前とか君とかの人代名詞で呼ばれることを嫌う人がけっこういるんですよ?」
 まさか十六の少女に女性との付き合い方を説かれるとは。
「わかった。今後はちゃんと名前で呼ぶよ」
「そうしてください。それで問題ってなんですか?」
「カラスとカキモノ机はどうして似てるのか。この答えわかった?」
 これは『不思議の国のアリス』の狂ったお茶会に出てくるなぞなぞだ。ただし、作中に答えは明記されていない。
一瞬きょとんとするきき。
「先生も読んだことあったんですね」
「こう見えてもけっこう本を読むからな」
 ききはこの言葉に少し反応を示したようだが、とくに何も言わず、なぞなぞを考え始めた。
「カラスとカキモノ机が似てる……」
 うつむいて本をぺらぺらとめくり、該当ページを読み直す。
「いくらそれを読み込んでも、多分答えはわからないと思うぞ。なにせ――」
「待ってください。まだ答えを言っちゃだめです」
 負けず嫌いなのか、むきになって考えるききを見ながら、僕は笑みをこぼしそうになるのを我慢する。清楚で落ち着いた印象だったのに、なかなか可愛いところもある。
ききは、ややあってから顔を上げる。
「……わからないです」
 とても悔しそうに一言。
「『不思議の国のアリス』はその一冊しか読んでない?」
「ええ、この一冊だけです」
「このなぞなぞ以外にも、よく意味のわからない言葉遊びがけっこうあっただろ? 考えてみれば当然のことなんだけど、その言葉遊びはもともと英語で書かれた言葉遊びなんだ」
 ここまで言って、ききはぴんときたらしい。
「うまく翻訳することが難しいんですね。だから、このなぞなぞも原文を読まないとわからない。そうでしょ、先生」
 ききも口調が軽くなってきた。いいことだ。会話がはずんでいる証拠。
「半分正解。原文を読んでもこのなぞなぞを解くのはきっと難しい。もともと作者自身が答えを与える気がなかったんだから」
「先生は答えのない問題をだしたんですか?」
 不満そうな声だ。
「いやいや、ちゃんと答えはある。でも口で説明して理解するのは難しいし、これは宿題ってことで。多分インターネットで調べるとすぐに答えはみつかるはずだ」
「……わかりました。調べてみます」
「あと、もしその気があるのなら、別の訳者のを読むのも薦めておく。言葉遊びの表現が微妙に違っておもしろいから」
 ききはこくりとうなずく。
「さっき言ってましたけど、先生は小説が好きなんですか?」
「まあ、好きだと思う」
 正確にはお話が好きなのだ。それがフィクションだろうが、ノンフィクションだろうが構わない。ただ、現実のお話より架空のお話の方がおもしろいものが多いというだけで。
「私は足が動かなくなってからよく読むようになったんです。その方がいい夢を見れるようになって」
「夢? それは寝ているときにみる夢?」
 だから僕はききのお話にも興味があるのだ。明らかに多くの人間とは異なる人生を歩む彼女が何を思うのか。興味がある。自分の常識、現実からかけ離れたものに刺激を見出すのは、誰しも同じだろう。
「そうです。寝ているときにみる夢です。以前は夢なんてほとんど見なかった……見ても起きたら忘れるばっかりだったんですけど、小説を読むようになってからは、素敵な夢をたくさん見れるようになって」
「何かに夢中になったら、まさに夢の中にそれが出てくることは少なくない」
「先生も言葉遊びですか?」
 僕は笑みを浮かべる。頭の回転の速い子だ。
「具体的にはどんな夢を見るんだ? もしよかったら聞かせてもらいたい」
「多分おもしろくないですよ。先生の想像通り、その日に読んでいた本に影響を受けた夢ですから」
「じゃあ、例えば今晩なら、ききは不思議の国に行けるのか?」
 くすくすと笑うきき。
「ええ、きっと。私は幽霊になってアリスと穴に落ちていくんです。そして朝、目が覚めて、不思議の国とはさようなら」
「幽霊になる?」
「そうです。幽霊になるんです。私が見る夢で私はいつだって誰にも認知されず、まるで幽霊みたいに見えない存在になりますから」
「認知されず、見えない、か」
「はい。そうやって私もその物語の中を旅するんです。登場人物たちの後について。誰にも干渉されず、誰にも干渉できず。そう、まるで、夢の中でも物語を読んでいる……物語の中で物語を読んでいるような、そんな不思議な心地になって」
 ユングやフロイト先生はこの夢にどんな診断を下すだろう。いや、なんにせよナンセンスか。
「おもしろい夢だと思う。できれば、もっと詳しく聞きたいくらいに」
「そうですか? でも実は、何か新しい物語を読んじゃうと、そのときに前に見た夢は忘れちゃうんです」
 それは残念だ。おもしろいお話が聞けそうだったのに。
「そうだ、じゃあ夢日記をつけてみたらどうだ?」
「夢日記ですか?」
「そう、朝起きたら、その日見た夢を記録する。あとから読み返すとけっこうおもしろい物になっていたりする」
 ききは数秒の間考える素振りをする。
「そうですね。できる範囲で書いてみようと思います」
「じゃあ、それも宿題にしよう」
 はじめは、やっかいなことになるのではないかと思っていたが、このとき僕はすでに、ききとの会話に楽しみを覚えていた。死に直面している人間が、見ず知らずの相手との会話を円滑にかわす余裕などないと思っていた。しかし、彼女は平然としていて、冗談を言う余裕さえあった。彼女は死とどう向き合っているのだろうか。
「ところで、先生」
「なんだ?」
「先生は、『不思議の国のアリス』は本当に夢オチだと思いますか?」
 難しい質問だ。お偉い文壇たちの中にも、実は不思議の国は夢ではなかったと主張している人もいるらしい。だから僕はお茶を濁すことにした。
「胡蝶の夢っていう話を知っているか?」
 ききは首を横に振る。
「ものすごく簡単に話すと、夢の中で蝶になって飛んでいた。目が覚めたが、はたして自分は蝶になっていた夢をみていたのか、はたまた今の自分が蝶のみている夢なのか、わからないって話だ」
ききはしばらく僕の言葉を反芻しているようだった。
それから首をかしげながら言う。
「何が現実で、何が夢かわからないことのたとえですか?」
「一般的にはそういう意味で使われる。だけど、このお話を考えた荘子って人曰く、どちらが現実かは問題ではないらしい。どちらの自分も、自分であることに変わりはないのだから、それぞれの場合で満足していればいい。とのことだ」
「なんだか煙に巻くようなお話ですね。結局、私の質問の答えはどうなるんですか?」
「アリスが夢オチだったかどうか、そんなことはどうだっていいんだよ。読者の自由だ。自分の満足のいくように受け入れればいい。物語だって夢なんだから」
「答えも煙に巻くんですね。なら私はやっぱり夢だったんじゃないかと思います。きっと、退屈な現実の抜け道こそ楽しい夢なんですよ」
最後の言葉は誰に向けたものなのだろうか。土手の上で退屈するアリスか、それともベッドの上で退屈するききなのか。
「そうか」
 僕はそれだけしか言えなかった。

このあと、ききの本棚にあった小説の話しなどをしているうちに予定の時間がきた。
「それじゃあ、時間だから帰るよ」
 けっきょく勉強は一切しなかった。だが、ききの話し相手になるという目的は達成されたはずだ。
「はい。ありがとうございました」
 僕は腰を上げ、ドアを開ける。
「あの、先生」
「どうした?」
 なにか忘れ物でもしただろうか。
「宿題、やっておきますから」
 僕は虚を突かれて、ぽかんと間抜け面をさらしそうになった。
「ああ、楽しみにしてる」
 それだけ言ってききの部屋をあとにした。

緒花詩家を出る際、ききの母親に、来週も同じ時間でいいのかと訊ねると、感極まったような表情で、お願いしますと頭を下げられた。
ききの家が見えなくなって、ポケットの中からたばこを取り出し、火をつける。
たばこのにおいを嫌がられる惧れがあるので、家庭教師のアルバイトの日は、それが終わるまでいっさい吸わないように心がけているのだ。だから、この一服はひどく落ち着く。身体中にニコチンを供給しながら、ききのことを考えた。
ききは、自分と会った人間は相手から望んで自分のもとを去ると言っていた。たしかに、いつ死んでもおかしくないと聞かされれば、長く付き合いたいと思う人間は少ないだろう。万が一にでも自分と会話しているときに、それが訪れたらと考え、避ける人間もいると思う。僕も彼女と親密に付き合おうとは思っていなかった。
しかし、僕のききに対する好奇心は強かった。今の彼女は物語に、夢に焦がれている節があった。閉ざされた空間でベッドに横たわる彼女の肉体とは裏腹に、その精神は広大な物語の中を漂っている。今後、彼女はどうなっていくのか、死に追われる彼女はどんな夢をみていくのか、それを見届けたいと思った。
こんな僕は不謹慎で、無神経で、我欲が強いやつなのだろうか? 
僕が一人暮らしを始める前、テレビで不治の病の少年の一生を追ったドキュメンタリーが放送されていたことがあった。一緒に観ていた家族は、その少年のことをかわいそうだと言っていたが、僕にはその言葉は偽善に思えてならなかった。
たしかに、客観的にみてその少年は多くの人間よりハンデを背負っており不幸なのかもしれない。だが、その少年には少年なりの幸せが、喜びがあるに違いない。それを無視して、己のものさしでもって少年を不幸だといい。かわいそうだという。
そう思うのなら、その少年に、少年と同じ境遇に立つ者に、幸せだと思えるような施しを与えてやればいい。
同じように、治療費を払えず死んでいく子供。発展途上国で食料に困り人身売買で売られていく子供。
彼らをかわいそうだという。
なら自分の遊興費を、彼らを救うための募金にあてたらどうか、と問う。
ほとんどの人間は、渋い顔をするばかりでそうしようとはしない。
彼らは、自分よりも不幸にみえる人間を、かわいそうだと思うことで、自身の感情の正常さを証明しようとしているだけだ。自分の現実とかけ離れたものから刺激を受け、己の精神を豊かにしようとする。彼らにとって、テレビの向こうの、不幸に映る子供たちは、物語の中の登場人物となんら変わりはない。はなからその子供たちを、自分の現実の外側に置いているからこそ、「かわいそう」などと言えるのだ。自分勝手な感情を押し付けるのだ。
だが僕もなんら変わりはない。ただ、そういったことに自覚的であるというだけ。僕自身、アルバイトで稼いだお金を、募金に当てることはない。たばこを買い、ときにはギャンブルに注ぎ込んだりもする。僕にとっても、僕の現実の外側にあるものは物語と変わらない。物語には登場人物以外は干渉できない。好き好んで悲劇の物語の登場人物になる気もない。だから、僕は物語の登場人物を助けることはできない。そうやって僕は僕の精神を守る。ただ、物語を読むのは好きだ。だから読む。
それをどう罵られようが僕は気にしない。
ただ僕は知っている。自分勝手な現実の外側がすべて物語と変わらないことを。
ながながと思いのたけを整理したが、ききのことについては、今後どうなるかわからなかった。今はまだ、僕の中で彼女を一つの物語として付き合うことができている。逆説的だが、物語としてみることで、現実の外側に追い出すことができている。悲劇の結末しかないであろう現実から逃れることができている。だが、いつか僕も登場人物と化してしまう可能性があるのだ。彼女を現実として受け止め、自らが彼女に対して何かしてやりたいと思えるときが来るのかもしれない。できれば、それは避けたいことだ。悲しい思いはしたくなかった。
気がつけば二本目のたばこが燃え尽きていた。


ききの聡明さに気がつくのに、そう長い時間はかからなかった。
二度目にききのもとを訪れたときに、彼女は僕の言葉通り、ほとんどの日本語訳のアリスを読了していたし、辞書を片手に原文のアリスも読みこなしていた。そして、彼女の本棚に追加されていたのはそれだけではなかった。『鏡の国のアリス』から『マザー・グースのうた』、それから『そして誰もいなくなった』と『ポーの一族』。彼女が辿った物語はきっとこんな順番だろう。一つの物語の断片から次の物語へ、それを繰り返し亡者のように物語を消化していく。彼女の読書スピードとその読解力は見を見はるものだった。
夢日記も書いてくれていた。僕の予想通り、それはまるで一つの物語のようだった。緒花詩ききという少女が、さまざまな物語の中を旅する物語。物語の中で彼女は様々な登場人物に出会う。ただしこちらから声をかけることはできない。物語の中で踊る登場人物を眺め、その行く末を追う。そのとき彼女が何を思ったのかが綴られる。そんな日記だ。
そして、週に一度のききとの会話が日常の習慣となり三ヶ月が過ぎた頃である。それまで、必要以上に彼女に干渉しないようにしてきたにもかかわらず、僕がとうに悲劇の物語の登場人物になってしまっていたことを知ることになった。


きっかけは『竹取物語』だったか、それとも『ピーターパンの冒険』だったか。詳しくは思い出せないが、その日はキャラクターの生死の話をしていた。
「物語の登場人物が死ぬときってどんなときでしょう?」
 ききはこういった答えるのが難しい質問をよくする。
「作者が殺したときだろう」
 だから初めは適当に答える。
「それじゃあ、死なないまま物語が終わっちゃった登場人物はどうなるんですか? 死なずにずっと生き続けるんでしょうか?」
するとききは、僕の答えを予期していたかのように、すばやく次の質問を投げる。おそらく彼女が本当に訊きたかったのはこの質問だ。
「そもそも物語の登場人物は生きてはいない。だから、少し詩的な言い方をすれば、物語が忘れられたときに登場人物は死ぬんだろう」
 ききはこの答えに満足したように、こくこくとうなずいて見せる。
「私もそう思います。でもそれって、あまり現実と違わないと思いませんか?」
「どういうことだ?」
「ほら、現実で人が死んで、その人と親しい人たちが、自分の中でいつまでも生きてます。って言ったりしますよね。つまりこれって、覚えてる限り死なないってことと同じですよ」
 言っていることは理解できなくもないが、それは少し飛躍しすぎている気がする。ききらしくない。
「それは心理的な死について考えた場合だ。僕たちにはどうやっても肉体の枷を無視することはできない。生物的な死はどうやっても訪れる」
「なら肉体を持たない物語の登場人物には生物的な死はないんですね。だからそもそも生きてはいない」
 何を伝えたいのだろう。
「たしかに物語の登場人物には、生死は存在しないのかもしれない。だけど、存在自体は信じたいな」
 理系の人間が聞いたら、馬鹿にされること受け合いの台詞だな。神様を信じる、信じないの議論と一緒だ。
「生死は存在しないが、存在はある。まるで幽霊やゾンビの話みたいですね。まるで……」
 まるで、なんと言いたいのだろうか。だいたい想像がつく。
「まるで、夢の中の私みたい。か?」
 ききは小さく「ええ」と呟いて、うなずいた。
「私、物語の登場人物になってしまいたい。夢日記の中の私は、ここにいる私よりずっと強く存在している気がするもの」
 夢日記はもともと僕の興味を満たすために、ききに書かせたものだった。それがいまや、彼女の心の支えの一つになってしまっている。僕はそのことに、それとなく気が付いていたが、彼女自身が触れなかったので、僕も口にせずにいた。
「何かあったのか?」
 この変化に、僕は思わず立ち入ったことを訊いてしまった。
ききははっとして、視線を落とした。
しばらくの間、ききは目を瞑り、静寂が部屋を包んだ。
「手が……うまく動かなくなってきたんです」
ぽつりとそう漏らした。
「……そうか」
 僕はそう言うことしかできない。下手な同情もしない。ききを苦しめる可能性がある。僕は聞き手に、読み手に徹しなければならないのだ。現実の外側に追い出す、それでお互い傷つかずにすむはずだから。そう思っていた。緒花詩ききという少女を変えないようにしてきたはずだった。
「先生、私は死ぬのが怖くなかったんです」
 ききがそう語り始めたとき、僕は血の気が引いた。とっくに手遅れなのだと知る。
「私はもう一年も前から、死の宣告は受けていたんです。いつ死んでもおかしくないと聴かされて、初めの数カ月は死の恐怖に怯えていました。でも、しばらくしてそれもなくなったんです。こんな部屋の中で、何もできず生きて行くくらいなら、死んで、その先に行ってみてもいいかな、と思えてきたんです。だから、私は死の恐怖を乗り越えた――はずでした」
過去形でききは言った。つまり、今は違うのだ。なら、なぜ変わってしまったのだ? 変えてしまったのは誰だ? 僕はもう答えに気が付いている。
「でも先生、私は物語を読むようになって、素敵な夢を見るようになって、それを聞いてもらえるようになって、まだ死にたくないと思うようになってしまったんです。もっと、ずっと夢を見ていたいと」
ききはさびしそうにほほ笑むが、僕はただ黙って彼女の告白を聞き続けるだけだ。
「先生は、私に干渉しないように、いつでも私から距離を置いて接してくれていましたよね? 先生は気づかれないようにしていたかもしれないですが、生まれつきこういう病気と付き合ってると、気づくようになってしまうんです」
僕は臆病な人間だ。必要以上に親しくならなければ、悲しい思いはしなくてすむ。現実に起こる悲劇も、物語として処理してしまえば、悲しみは少なくてすむ。そうやって生きてきたのだ。
「やっぱりききは賢いな。すまなかった」
「いえ、謝ってもらう必要なんてないんです。だって、死に恐怖を抱くのは、きっと正常なんです。私はやっぱり死ぬのが怖いんです。それにもう一度気づかせてくれたのが先生なんですよ」
 それははたして気付いてよかったことなのだろうか。
「先生はどう思っているかわかりませんが、私は先生に救われてるんだと思います」
やめてくれ。僕にききを救うことなどできない。たとえききが救われていると感じていても、僕にそう思うことはできないし、それで僕が救われることはないのだ。彼女の言葉で、自信の身勝手さに、偽善に気づかされる。僕は彼女に興味を持っただけだ。それは僕に対して一方的に与えられる自己満足でしかないはずなのだ。
「先生、これからも私の夢に付き合ってくれますか?」
 僕はききに手を差し出されている。その手を取れば、僕はもう読み手ではいられなくなるだろ。彼女の物語に取り込まれて、僕は彼女と同じレイヤーに立つことになる。そこが現実なのか物語なのか僕にはもう判断することができないだろう。
「僕に、これからどうしてほしい?」
 これまでききを物語の中に押し込めて扱ってきた。その報いなのかもしれない。
「これからも、私の話を聞いてください。あと、もし先生さえよかったら、私が主人公のお話を聞かせてください」
「ききが主人公の?」
「はい。夢日記の私が主人公の。この日記をもとにお話しを作ってくれませんか?」
 これまで書き溜めた日記を手渡される。
「もともと僕は、この夢日記を一つの物語のように思っていた。だから内容を整理して成形し直すだけになるかもしれないぞ」
「それでもかまいません」
「わかった。書いてみるよ」
 かくして、僕は緒花詩ききの読み手から、語り手へとなった。


あの日以降ききは目に見えて衰えていった。二か月ほどで起き上がるのも難しいほどになった。それでも僕は週に一度、彼女のもとを訪れる。彼女はなんとか動かせる手を使って、本を読み続けていたし、夢日記も書き続けていた。それはつまり、僕が緒花詩ききの物語を書き続けていたということでもある。

新学期になって間もない五月一日のことだ。
「先生、実はお願いがあるんです」
 いつものようにききに話を聞かせたあと、彼女はそう切り出した。
「なんだ?」
 ききは介護用のベッドで体を起こしており、物をとったりするのを頼まれることが多い。
「お願いというより、約束です」
軽い雑用かと思ったが、どうやらそうではないらしい。ききはいたずらを思いついた子供のように、笑みを浮かべている。彼女はこんなに弱っても笑っていられるのだ。死が怖いと言っていたが、決して逃げたりはしない。
「いいよ。話して」
「これはきっと、先生にとって呪いの言葉になってしまうんです。それでも先生は、私の言葉をきいてくれますか?」
「嫌と言っても話す気だろ?」
「ええ、もちろんです」
 ききが何か訊くときは、すでに答えを持っていて訊くことが多い。
「で、何をしてほしい?」
「お話を書いてください」
「お話? これまでのじゃなくて?」
「いいえ、これまで通り私が主人公のお話です」
 それならもう書いている。けっこうな文字数になっており、自分で言うのもなんだが大作だ。
僕が疑問を口にする前にききは続ける。
「いつか話しましたよね。物語の登場人物が死ぬときは、物語が忘れられたときだって」
「ああ。でも、それがどう関係あるんだ?」
「私は死にます。きっと先生よりずっと早く」
 自明のことだが、ききの口から直接そういうことを聞かされると、少し動揺してしまう。
「多分そうだろうな」
 気のきいたことも言えない。
「だから、私は物語の中で生き続けていたいんです。先生が死ぬときまで、先生の書いた物語の中で私を生かしてくれませんか? 私が死んでも、物語を書くのをやめないでいてほしいんです」
 それが彼女の願い。
「やっぱり死ぬのが怖いのか?」
 今や多少踏みこんだことでも口にできる。
「怖いですよ。でも、忘れられていく方がもっと怖いんです。だから、先生?」
 目を細めて、ききは笑う。
たとえききの物語を書くのをやめようと、僕が彼女を忘れることはないだろう。ただ、彼女は生き続けていたいのだ、それが夢、物語の中であっても、踊り続けていたいのだ。
「わかった」
「ほんとうに、いいんですか? 先生は優しいから、これで私が死んだら、先生はきっと一生私の言葉に縛られてしまいますよ?」
「臆病な僕には、そのくらいの縛りがきっとちょうどいい」
「じゃあ」
 そう言ってききは小指を出す。
僕もそれに倣い小指を出した。
うまく曲げることのできないききの指をそっと曲げてやり、自分の指に絡ませる。
「約束ですから」
「約束する」

 ききの母親から、ききが亡くなったと連絡を受けたのは、この三日後のことだった。
なんの偶然か、五月四日はアリス・プレザンス・リデルの誕生日。アリスがうさぎを追って穴に落ちた日。彼女もまさにこの日、現実から姿を消してしまった。二度と帰れぬ穴に落ち、夢の世界に姿を消してしまったのだ。僕は彼女に代り、この日の夢日記を書いた。もはや彼女は幽霊などではなく、きちんと誰かと話し、登場人物の一人として物語をリードする主人公。ききが主人公の物語。


ききが亡くなったあとも、僕は約束通り、彼女が主人公の物語を書き続けていた。
そして、ネット上で公開していたそれが、編集者の目に留まり、僕が小説家としてデビューしたのは、ききが亡くなって二年後のことだった。
読者の方はご存じだと思うが、『緒花詩ききと物語』という名で知られるその小説は、シリーズ物として多くの読者に愛され、十年間続き、つい先月、無事に完結をむかえることができた。
さて、ここまで読んでくださった読者の皆様はすでにおわかりだろう。読者の皆様が知る小説上の登場人物である緒花詩ききが、かつて実在した人物であるということを。 
僕は読者の皆様を騙していたのだ。
これはフィクションだと謳い、緒花詩ききという肉体を持たぬキャラクターを、皆様の中で生かすことができた。
彼女は生き続けるだろう、この物語が忘れられるその日まで。
だが、『緒花詩ききと物語』は完結してしまった。
それは、僕がききとの約束を、彼女の呪いを清算したからにほかならない。
勘のいい方ならお気づきかもしれない。僕は今、この文章を病院の個室のベッド上でしたためている。
僕が死ぬそのときまで、僕の書いた物語の中で生きたいと願った少女の、これが最後の物語なのだ。

病室の窓から外を眺める。
そこには一匹の白い蝶がまっていた。


享年三十四歳 御伽かたる著『自伝 私と物語』より

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