アスク・ミー・エニシング
あたしの中でまだ二十一歳だという余裕と、もう二十一歳だという焦りが躁と鬱のように居場所を取り合う。この先当たり前に就職活動を始めて、その何年後かには適当な相手を見つけて家庭に入っているのだろうか。この誰が用意したでもないレールに乗ることが安定へ繋がっている。そんなことは頭ではわかっていても、どう想像したって現実感は湧かなくて、やっぱり自分のことは、一番他人事のよう。
そんなことを考えながら睡眠と覚醒の間を行ったり来たりしているうち、いつの間にか眠ってしまったらしい。読みかけの文庫本を顔の下に敷いていたせいで、右の頬にだけ文庫本の角が爪痕のように赤く浮き上がっている。目の前にある点けっぱなしのパソコンにつながったイヤホンからは、音楽がシャカシャカと聴き漏れる。
自分はもう何者にもなれないというこの悟りにも似た枯れた想いはなんなのか。
こんな漠然とした問いにあたしなんかが答えを見つけられるわけがないとわかっていても、うまく折り合いがつけられずに自問自答を繰り返していた。
まぁ、でもこんなことは誰もが通る道なのだろうと思いながら、アプリケーションを立ち上げすぎたOSみたいにのろのろとした動きで文庫本を手に取った。本を開いてそっと鼻の頭を擦ってみると案の定、脂が紙を気の萎えるような色に変色させ、あたしは軽く舌打ちした。
それだけで窓から投げ捨ててやろうかと思ったがこの本を貸してくれた相手の顔が頭をよぎって、部屋の一角に押しやられた洗濯物たちの山へ投げることで妥協してやる。
骨が鉛になったんじゃないかと思えるほど重たくなった体を起こして、汗ばんだ髪の間から時計をにらみ付けると午後6時を少し過ぎたあたりを指している。
カーテンの役割も兼ねた洗濯物の間から外を覗くと、凪いだ波が優しい海と民家の隙間を縫うように張られた細い坂道とが深い群青に染まった空に融和して、まるでポストカードにでもできそうだ。
あたしが住んでいるマンションは、さすが高台に建っているだけあって景色だけはやたらいい。
大学に進学するにあたって両親に一人暮らしを頼み込んだとき、やっぱり最初は猛烈な反対を受けた。実家からも通おうと思えばできなくない距離だったし、なによりあたし自身に一人暮らしが出来るだけの自炊力が無いことは親なら百も承知。
でも何故かそこだけは譲れなくて、もう戻らねえよ、という決意は固い。そして自慢だった黒髪ロングを泣きながら親の前でばっさり切り落とす、というパフォーマンスでとうとう両親も折れてくれて、なんなら「もう知らん」と呆れられたりもした。
それでも父親には「変なビデオには絶対出るなよ」とか言われてそれなりに心配はされたし、今でも母親は結構な頻度で食いきれないくらいの米を持ってくる。
でも理想の一人暮らしは最初の三ヶ月程度で終わりを告げた。実家暮らしのときでさえ自分の部屋を片付けられなかった人間が急により広くなった生活空間を管理できるはずもなく、ざっと2DKの部屋を見渡せば、カバーの取れた漫画や読みかけの小説、ゲーム機に積もる埃、その他の生活ゴミや洗濯物が散乱している。あぁそういえばキッチンには食器も積んでいた気がするな。
それら一つ一つが、次は俺の番だ、という顔で処理されるのをただじっと待つ。「すまん」と一言、心で詫びたあたしはそれらを横目にスマートフォンを拾い上げてメールの確認にいそしんだ。
一件。二十分前に深川からのメールが来ていた。内容は「もう着いたよ」のただそれだけ。
馬鹿みたいにかいた寝汗のせいでシャワーを浴びたいのは山々だったけど、これ以上こいつを待たせる気にもなれなくて電話をかけると2コール目の途中でつながった。
「もしもし、加奈子」
「ごめん、寝てた。今どこ」
「やっぱり寝てると思った。一階の正面のところにいるけど」
「じゃあ、あんたずっとそこで待ってたの。寝てると思ったんなら電話でもしてくれればよかったじゃん」
自分に非があるとはいえ深川のこのいつもの調子にイラつきながらも、スマートフォンを爪痕が残る頬と肩で挟みつつ、玄関の鍵とチェーンを外して、やかんに水を入れ、火にかける。
「いや、いいよ。大した時間じゃなかったし」
「わかったから、とりあえず部屋に来て。鍵は開いてるから」
それだけ言って返事も聞かずに通話をぶった切ったあたしは、いつもの癖でスマートフォンを布団の上に投げたときに何か硬い物とぶつかる音を聞いてまた舌打ちした。そういえば、あの辺りには延滞スレスレのCDがあったっけ。
マンション二階の角に位置するこの部屋へは今のとこ深川が一番の来訪回数を誇っている。まぁ付き合っているんだから当たり前と言っちゃ当たり前なんだろうけど。
Tシャツに下はパンツ一枚だったあたしが手早くジーンズに足を通し、化粧ポーチを最後どのバッグに入れたのかを思い出しているところで玄関の方から物音がして目をやると、深川が窮屈そうに体を折り曲げて靴紐をほどいている。かがんだ拍子に肩がけの鞄がずれて落ちたのか、床でぐにゃりと力なく皺をつくっていて情けない。
あたしより頭一つは確実に背の高いこの男の見た目を一言で言い表そうとするなら「河とか沼に一本だけ立ってる、くい」そう、まさにそんな感じ。
この時季に深川が家に来るときはアイスを手土産に買うのが二人の間では慣例みたいなものになっていて、見るとやっぱり手にはコンビニの袋がぶら下がっている。
「今日、すごい暑いね」
そう言うと深川は居間のあれこれを適当にどかして自分のスペースを作りだす。慣れたものだ。でもこいつの所作になんて今更興味も持てなくて、今のあたしにはコンビニ袋の中身の方がよっぽど魅力的。
「アイスなに買ってきたの。なんか悪いね、毎回」
「いいよ。俺も食べたいし」
汗ばんだ深川の手から袋ごと奪い取ってアイスをチェックする。でた。ガリガリ君ソーダ味二つ。ねえわ。
「またこれ?せめて違うやつにして、二択にしようとか思わないの。あんた、そういうとこだよ」
アイス一つで人間性まで否定する気はなかったけれど、この暴力的な暑さと最近のあたしの心の荒み具合を踏まえればそれも致し方ない。
「どうせ今食べるだけだから、べつに何でもよかったかなって思って。ごめん」
なにが「今食べるだけ」だ。安い妥協してんじゃねえよ。こっちは今を生きてるんだ。お前はそう言って死んでいくんだよ。
次の瞬間、火にかけていたやかんのくちがヒステリックを起こした女みたいに癇にさわる音を出し始めたので、あたしは早口に「あ、ちょっとコーヒーお願い。あんたも飲めば」と言った。
今座ったばかりの深川がだるそうにキッチンへ向かう。
「俺はいいよ。飲み物も買ってきたし。いつも思うけど、加奈子この暑さでよくこんなに熱いの飲む気になるよね」
ほっとけよ。と言いかけて飲んだ。
コーヒーを待っている間、カップアイスじゃなくてバーアイスだから食べながら化粧ができないことに、若干イラつきながらも「それがいいんだよ」とこだわりぶった返事を返す。
正直、最近のあたしたちの関係を良好とは言いがたい。別々の大学に進学して少しずつ時間が合わなくなっていったのが原因なのだろうか。
破竹の勢いでガリガリ君一人を始末したあたしは、急に二人のこの空間が無音なのに気まずくなってテレビのリモコンに手を伸ばす。夕方のニュース番組が天気予報にさし掛かっていた。もうこんな時間だったのか。化粧にかけられる時間が十分にないことに流石に焦りを感じて手を動かす。
高校三年生のとき部活もやってなかったあたしは、なんとなく家に帰りたくなかったから、という理由で放課後は図書室で過ごすことが多かった。とはいえあたし自身そんなに本を熱心に読むタイプでもなかったので、手塚治のブラックジャックで時間を潰す日々。
その図書室であたしと同じく本に向かっていたのが深川だった。第一印象は「陰気なやつだな」そんな程度だった気がする。
「いつもなに読んでるんですか」
ブラックジャックに飽き始めていたあたしから話しかけたのだった。つまり暇つぶしがきっかけだ。
初対面の人に対する過剰なまでのふてぶてしさを除けばあたしにだって女としての魅力がないわけではないらしく、高校を卒業するまでに数回は告白された事もある。
でもぼんやりとどの相手ともセックスをイメージすると、とても了承する気にはなれなくて「処女をくれてやる相手は自分で決める」という信念がいつの間にかあたしの中に芽生えていた。
深川の無毒さに当てられたんだろうなぁ、と今になって思い返す。
優しいと言えば聞こえはいいが地味でおとなしいという属性も兼ね備えていた深川に、初めからあたしも気を使うことなく話せたのは男としてなめていたんだろうけど。それでも図書室での会合を重ねるうちに誰よりも心を許せるようにはなったし、その頃にはあたしは深川に告白させようと躍起になっていた。
今のところあたしの人生はそこから加速度的に充実した。ベタなデートスポットだって、陳腐でくだらない話題にだって、とりあえずは脳に素晴しい一場面として保管されている。
初セックスのときだって、お互い初めてだったから、バスルームから緊張しすぎた深川の嘔吐く声がうすら漏れてきて先にベッドで準備万端のあたしまでつられて嘔吐きそうになったけど、それすら恋だの愛だのといわれているような神秘めいた力が、脳内麻薬をドバドバ分泌させて今となってはかけがえのないものだ。
ただの水に誰よりも感動するヘレン・ケラーよろしく、むき出しの全身で恋愛を痛いほどあびている。そんな時期はあたし達にも確かにあった。
「コーヒー入れたよ」
深川がたいそう熱そうに持ったマグカップを差し出す。それを一口含んで舌が焼けるような感覚に、これで調子を上げていくんだ、と自分の体に言いきかせる。
「そういえばあんた今日、あたしに話があって来たんじゃないの」
「いや、加奈子出かけるみたいだし、また今度でいいよ」
「大学の飲み会があるの。べつに今ぱっと話しちゃえばいいじゃん。あたし化粧してるだけだし。なにそんなに時間とる話だったの?」
面倒くさい話だったら途中で失敬して後日にまわそう。そんな算段で話を促す。
「やっぱりやめとくよ。来週でもご飯食べながらゆっくり話そう」
そう言って深川は額にうっすら滲んだ汗を手で拭うと軽く部屋を見回した。
「久々に来たけど結構荒れてるね」
「そんなに久しぶりだっけ。まぁ最近なんだかんだ忙しかったし。でも週末には片付けるんじゃない」
部屋を見回したときに目に止まったのか「貸してた本もう読んだ?」と聞いてくる。
「まだ。やっぱり高校卒業を期に、文学とは決別したみたいだわ」
実際はあたしが文学に傾倒した瞬間なんかこれっぽっちもなかった。しかし図書室で出会った手前、文学少女というガラスの仮面があたしの唯一の砦のような気がして後には引けなくなっていた。
今でもそれを守るために度々、深川から本を借りては読まずに返すので、内容については聞かれても答えることができず、表紙やネットのあらすじから想起した「普遍的なテーマを扱っているよね」とか「全にして個である部分はあるよね」などといった無理矢理、禅問答レベルにまで解釈を広げたような感想を言ってはのらりくらりとはぐらかしていた。まぁぶっちゃけはぐらかせてないんだろうけど。
あたしのいつもの調子に深川は「そっか」とそっけなく一言だけ返した。
「あんたのさっき言いかけた話が気になるんだけど。短めにでも話せない?」
あたしはなんとか話題を変えたくて話を振り出しに戻してしまう。本当に話したいのはこんなことじゃなくて、他愛もない話を何気なしにキャッチボールできればそれでいいんだろうけど。
「なんていうかもっとちゃんと、時間をとって加奈子と話したいから。またにしよう」
「わかった」と私は私で消沈した。
とはいえ一向に進展の見えないこのやりとりに、なんとか手応えみたいなものが欲しくてふと深川のほうを見てしまう。見返すその視線は確かにこっちを向いてはいるんだけど、こめかみ辺りをすり抜けて遥か後方、無限大の彼方で焦点が結ばれているような気がしてあたしはつい「ちゃんとこっち見て話してよ」と声を荒げてしまう。
「いやちゃんと見てるつもりだけど」
「ごめん。あたし最近だめだわ」
いつからか深川がぼんやりとあたしの輪郭しか見てないんじゃないかという、不安と怒りの入り混じった想いに駆られるようになっていた。
あたしのゼミを受け持つ横井教授が「友人がやっているから」という馴れた理由で勝手に決めた創作料理居酒屋から、あたしの一人暮らししているマンションは電車で4駅のところだった。もっと近場で済ませろよ、とも思ったがそんなことで角を立てても仕方ないことは流石にあたしでもわかったし、もちろん誰も言いだす学生はいなかった。
自己紹介と横井教授の眠気を誘う話で終わったゼミの一回目を含めても、まだ四回しか顔を会わせていない十名程度の集団は当然どこかよそよそしくて、店主のこだわりらしい雑貨が飾ってある店内の奥まった座敷に案内されても、皆どこに座るのが自分にとって無難なのかを画策している。
「とりあえず座って。適当でいいよ。しばらくしたら一人ずつ呼ぶので、呼ばれた人は私のとなりまで来てください」
と言うと横井教授は健康なんてお構いなしと言わんばかりの丸々とした体で一番奥の席を陣取ると、おしぼりで顔を拭きはじめた。どうやら早めに学生個人の人となりを知りたいらしくて、親睦と面談を兼ねた飲み会だったらしい。
酒のほとんど飲めないあたしは乾杯に注がれたビールを半分以上残して、そそくさと目の前に出される料理を貪る。
あたしが食べることに飽き始めていた頃には、少し離れた席ではそれなりに盛り上がっていたらしかった。こっちは隣にいた男と今日の天気とか通り一遍の話しかしてないっていうのに。
すると今しがた面談を終えたらしい男がこちらに中腰で近づいてきて「教授が呼んでますよ」と呼びかけると、入れ違いにさっきまで隣に男が座っていたところに落ち着いた。
今度はこいつと話さなきゃいけないのか、と辟易したが男がレディオヘッドTシャツを着ていたことに少しだけ興味がわいたあたしは、それどこで買ったんですか、女が着ていたらどうですか、とからんではみたけれど「どこだっけな」とか「はぁ」とか見事に惰性のレスポンスしか返ってこないことに、この男はホモに違いないと勝手に帰結した。
だからしばらくして唐突に「今は彼氏とかいるんですか」と男に言われても、それは向こうの席にいるけつが半分見えているようなスカートをはいて飲み会に来るような打算見え見えの女にしろよ、としか思えなかった。
ようやくあたしの番がまわってきた頃には既に横井教授はでき上がっていて、シャツの襟元からはだらしなくランニングが覗いているし、呂律も微妙に怪しい感じだ。
あたしが隣に座るやいなや「土屋さんはさぁ、大学生活楽しいの?」と酒のかかった息を容赦なく吹きかけてくる。
「まぁそれなりに楽しめてますかね」
この飲み会は、ただこのおっさんの相手をするだけの場だったのか。そう悟った瞬間、飲み会を断って家で深川と居た場合とどう違うんだろうと考えてみたりする。どちらも一緒か。そうか。
その間にも横井教授は「それはよかった。女の子は色々と大変だからね」と妄言じみた言葉を吐いては緩みきった口元で「かかか」と笑ったかとおもうと、おもむろに茶碗蒸しをかき込んだりして忙しない。
それからしばらくの間はそんな事を聞いてどうすんだというような質疑応答で時間を埋める。ビールに飽きた横井教授が日本酒を冷やであおり始めたあたりで、肥えすぎてミシュランマンみたいになった体から生えた手が、不意にあたしの手の上に載せられた。
突然冷や水をぶっかけられたように全身を鳥肌が這う。偶然かとも思ったが一向に手をどける様子はなく、あたしの手の肌の感触を確かめるような動きも加わって徐々にエキサイトしていく。
セクハラじゃねえか。
生来の卑しさが露になったこの男に「やめてくれますか」と理性で諫言するが、それでも変わらずにぎらついた眼差しであたしのことを舐めてくる。己の権威と欺瞞を盾に私欲を満たそうとするその姿にもはや大学教授なんて威厳は微塵も残ってなくて、高二の時に夜道で初めて変質者に遭遇したときのことがフラッシュバックしたあたしは、とっさに手を引いて身を強張らせる。
すると今度は腰に手を回してきやがったのをきっかけに、いよいよスイッチが入ったあたしは、
「だから手どけてよ。酒くせえんだよ。デブが」と押し殺した低い声で呪詛するかの如く言い放った。
「あぁ?誰にそんな口利いてんだ」
「自分の立場利用して、女のからだ触ってんじゃねえよ。あんた人として屑だよ」
ひと回り以上は年齢の離れた小娘にプライドを蹴散らされたのか「お前いい気になるなよ」と咽を絞るように唸った横井教授はあたしの胸ぐらを掴みに手を伸ばす。
「お前だよ。ふざけてんじゃねえ!」
あたしの怒鳴り声とビンタを見舞う乾いた音で、近くで静観を決め込んでいた学生達もにわかにざわめきたつ。「やばいよ」「止めたほうがよくない?」どこからかそんな声も聞こえた気がする。
横井教授があたしめがけて呑みかけのグラスを振りかぶる。氷が胸で軽くバウンドして、残った日本酒があたしの顔を濡らしてとっさに目を瞑る。
一泊空いて体裁なんてお構い無しに飛びかかったあたしはとっくにハイになっていて、片手に持った割り箸で相手の目を突いてやれ、みたいなテンションになっていた。
海岸線に沿うように敷かれたこの県道は、防波堤を挟んで砂浜より数メートル高くなっている。こんな深夜ともなると人の気配なんてほとんどなくて、数分に一度トラックが高速道路みたくスピードを出して通り過ぎていくだけだ。県道沿いには喫茶店や海の家が、適正距離を測るかのようにぽつぽつと間隔を空けて建っている。
どこからともなしに吹いてくる涼しい潮風が頬を撫でて髪をさらう。日中の熱を帯びたぬるい風とは打って変わって、一日の疲れを癒そうとしてくれているみたいだ。
場違いに明るすぎる自動販売機の照明が、路面をスポットライトのようにそこだけ照らす。とぼとぼと歩いて近づいていくと、同じく引き寄せられた羽虫がたかっているのが見える。
先に着いて自動販売機の前に自転車を置いて待っていた深川にあたしは「やぁ」と話しかけてみる。こちらを向く見慣れたその顔に今更どんな表情を返したらいいのかわからず、あたしは少しにやけた。
「どうしたの。こんな時間に」
「さぁ、どうかしちゃったのかもね」
「加奈子酔ってる?」そう言って自動販売機の品揃えに目を移した深川に、あたしは「もう醒めてるよ」と答えると、眩い人工的な光に当てられた横顔から感情を読み取ろうとして諦めた。
自転車のスタンドを軽く蹴って起こした深川が「今日は大学の飲み会があるんじゃなかったの」と聞いてくる。
「なかったよ、そんなのは。申し訳ないねこんな時間に」
そう言って県道をあたしのマンション方面へ向かって二人で歩きだす。沈黙は波の音が場をつないだ。
結局あのあと逃げるようにして居酒屋を出たあたしはまっすぐあの部屋に帰る気にもなれず、なにとなしに駅前でぷらぷらと時間を潰していた。そのうち「あたしからあの教授に謝らなければならないのか」とか「これで単位が下りなかったら留年か。それは親にどう説明したらいいんだ」とか色々考え出したらすぐに煮詰まって、その全てに嫌気がさしたあたしは電話帳の深川にタッチしたのだった。
少し歩いたとこであたしは「ちょっと砂浜に下りよう」と声をかけた。防波堤からは夜空に薄くかかった雲を透かした月の丸い輪郭が、夜の海を柔らかく照らしているのが見える。
防波堤の切れ目のところが階段になっていて、その近くに自転車を停めた深川が少し遅れて砂浜に降りてくる。昼は家族連れやサーファーが居るのだろうけど今は見事にあたし達だけで、二人して夜の学校に忍び込んでいるみたいだ。
「あたし、あんたに色々言わなきゃいけないことがある気がするんだよね」
浜辺にハンドバッグを放ってスニーカーと靴下を脱いだあたしは、足の裏で砂の感触を確かめながら波打ち際に向かって歩く。
「でももう、なにから話していいかわからない」
「今日なにかあったの」
深川なりに気を遣ってくれているのだろう。いつだってこの男は聞き手に回る。でもそれがあたしには物足りなくて独り言のように呟く。「あんたのその無毒さはあたしには毒かもね」
「どういうこと」と深川は小さく聞き返したが、あたしはそれに一瞥をくれて寄せる波を蹴り返しながら海へ歩み入っていく。いきなりのことだったので深川も流石に驚いただろう。背中から「服濡れるよ」と深川が当たり前のことを言ったので「そりゃあね」と一言返した。
月の光を正面に望んで淡く輝く水平線へ向かって歩く今のあたしは、結構さまになってるんじゃないかと思いつつも、適当に膝くらいの深さまで来たところで深川のほうへ向き直った。ふとスマートフォンをジーパンのポケットに入れてなくてよかったと思う。
あたしは声が震えるのを悟られないように、息を整えてから深川を見つめて言う。
「やっぱり力抜いて上手く生きていくなんてあたしには無理。他人に合わせるような器用な真似ができたらいいんだけどね。あたしには難しいわ。だから急にわざわざあんたに来てもらったんだよ。色々と迷惑かけるね。ほんとありがとう」
言い切るとあたしは深川の顔を見ようとしたけれど、視界が滲んでぼやけてしまう。仕方ないので両手を広げてそのまま後ろに倒れると、背中が海面を打ってあたしは海に沈む。倒れた勢いで軽くお尻に海底の感触を感じながらも鼻から息を出し続ける。
すぐに息が苦しくなったあたしは、我慢できずに立ち上がった。濡れた髪を掻き揚げようとうつむいたら、透けたTシャツからブラが浮き出ている。海水を吸って重たくなった布が、肌に張り付く感触が気持ち悪くてあたしは脱いだ。
突然の奇行にどうしていいのかわからないのか「なにしてるの」と呆気にとられたように言った深川の顔はほのかに赤らんで、視線はふわふわと定まってない。
ジーパンとブラだけになったあたしは「なんであんたが恥ずかしがってんのよ」と言って、丸めたTシャツを放り投げた。
びしょびしょに濡れていたけどしっかり胸でキャッチしてくれた深川に、なんとなく嬉しくなって今一度顔を見つめなおす。深川もしっかりと見返してくれていて、そのピントもあたしにバッチリ合っているかのようだ。
「ねぇ、自分を偽るのって凄くエネルギー使うんだよ。楽したくてやるんだけど、上手に人と付き合いたくてやるんだけど、あたし全然うまくいかないよ。どうやったって少しずつずれるんだよ。それに気づいたときにはもうどうしようもなくて、どうでもよくなって。こんなに疲れるものなのかなぁ」
砂浜より幾分も高い県道を車のヘッドライトが通り過ぎて、エンジン音が深夜の空にやけに響く。あたし達二人に気づく人なんていないだろう。
「ごめん。やっぱりあたし面倒くさい人間だわ。それでもあんたには、あたしのこと見ていてほしい」
視線の先に立っている男の気持ちを、あたしはどうしても知りたくて「あんた今なに考えてるの」とストレートに質問してみる。
「加奈子はなんでそんなに、いつも一生懸命なんだろうってずっと思ってた。でもそれは普通にしようとして無理してるだけなんだって今やっとわかった。それは俺には真似できなくて、相手と距離を置いて自分を納得させてただけだったんだ。つくずく加奈子と俺は違うタイプの人間なんだって思うよ。だから俺は面倒くさいの好きって言ってやれない。でも加奈子に振り回されるの好きだよ」
そう言って深川はあたしに向かって右手を差し伸ばした。左手にはくしゃくしゃになったシャツが握られたままだ。
少し沈黙したのちに「ずっと加奈子のこと見てたよ」と言ってくれた深川に「そっか」と一言返して歩み寄ったあたしは差し出された手をしっかりと握った。
県道へと上がる階段へ砂浜を歩いていく途中で深川の肩に頭をあずけながら、一体なにが変わったんだろうと考えてみる。
でもやっぱりあたしなんかに答えが見つかるはずなくて「ブラで帰るの?」とためらった口調で聞いてきた深川にあたしは「そうだよ」と優しく答えた。
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