「このボーカル、何回同じ事唄っているんだよ!」
 そう怒鳴り散らして隣の運転席に座る佐竹がスピーカーを止めたのは、県道沿いの脇道に車を停めて一時間ほど経ってからのことだった。車内に流れていたイエスのスウィートネスという音楽は消え、風やエンジンの音が鮮明となって入り込んでくる。
「神バンドの神曲って自信満々に言っていた気がするんだけど」
 ここで待つ間これを聴こうと佐竹は一枚のCDを持参していた。レコード屋で発掘した一枚だったらしく、一時間ほど前は「どうだ名曲だろう」と鼻を鳴らしていたが、今ではこの有様だった。
「誰だよ、名曲だと信じ込んでこれ一枚延々と流し続けようとした奴。そんな可愛らしい店員目当てにレコード屋に通っている奴のことなんか知るかよ」
 佐竹はスピードガンを構え直し、大きく欠伸をした。
「にしてもパトカー通らねえなぁ」
 僕は畳んだ右肘を窓枠に乗せ、遠くを眺めた。八月中旬の昼下がり。未だ高く昇る太陽は熱と光を嫌というほど放射し続けていた。
 スピード違反を犯した警察を取り締まる。大学生の、社会というものを経験したことのない僕たちは今それをしていた。
「これなら家に居た方がマシだったかな」
 呟いてすぐ、佐竹を盗み見たが、聞こえていなかったのか、窓の向こうにスピードガンを構えたまま動かなかった。
 長くなりそうだな、と僕も大きく欠伸をし、背凭れにどっと身体を預けた。県道にパトカーらしき車が通っていく気配はない。
 柔らかなソファーから眠気が襲い掛かり、僕はそっと瞼を閉じた。意識が沈んでいくまでの間、ここに来るまでのことを思い出していた。

「酒屋んところ、今大変らしいよぉ」
 昼食である目の前の焼きそばを頬張っていると、正面に座る祖母はホウレン草の御浸しに箸を伸ばしながら話を始めた。間伸びた声は少しだけ早い昼食をよりほんのりとさせる。
「大変って?」
 はて酒屋んところとは、と思いながらも腰を折っては悪いと相槌を打つ。祖母の人物紹介は縦横無尽に過去へ遡る傾向にあるので非常に覚え辛かった。鳥屋がどうこう、卵屋がどうこう言われても、現在存在しない屋号なので結びつけるのが困難だった。
「警察の長男、あれ刑事だっけぇ。昔から腕っ節が相当強かったけど、せっかちでさぁ。それでか知らないけど成績不良で危ないらしいよぉ」
 祖母は伸ばしていた箸を戻し、茶碗の上に置いた。世間話に集中するようだった。
「そんで嫁さんと喧嘩したらしくて、一人息子の大貴君。確か小学三年生だったかねぇ、その子とも仲違いしたらしいんだよねぇ」
「嫁さんとは判るけど、大貴君とはなんで?」
 口に含んだ焼きそばを麦茶で流し込み、祖母に尋ねる。正直なところ、警察の長男とその嫁さんには全くといって興味はなかったが、大貴君のことは気になった。大貴君のことは佐竹から話だけは聞いていた。カードゲームが強く、先日胸を張らせて地元の大会を荒らしに行った佐竹を立ち上がれなくした相手だった。
「かっこ悪いんだってさぁ。あんたの為に頑張っているってのにさぁ」
 未だ顔を思い出せない警察の長男に同情する。昔会ったような気がするがそれほど悪い印象は受けなかった。
「まぁ気持ちは判らなくもないけど――」
 突如履いていたハーフパンツの左ポケットが揺れ、僕は一旦言葉を止めて、入れていた携帯電話を取り出した。背面ディスプレイには友人の佐竹の文字がある。メールではなく、通話を求めているようだった。
 嫌な予感がし、出ないことも考えたが祖母の手前、それも出来なかった。出ないの? といった眼で僕を見つめている。佐竹も佐竹で諦める気はないらしい。掌の上で未だ携帯が呻き声をあげていた。
 一度溜息をついてから、通話開始のボタンを押した。もしもし、と面倒くさそうに話しかける。
「遅えよ」
 佐竹の第一声はそれだった。ぶっきらぼうな口ぶりは大学二年になっても相変わらずだった。
「今暇か? 暇だよな」
 尋ねた後に断定されてもな、と苦笑しながらも昼食を終えた後は暇であったので、これといった用事を言い返せなかった。
「……まぁ、暇だな」
「よしこれから迎えに行く。もう二度と戻らない夏を存分に味わおうぜ」
「何だよそれ」
「二度と戻らない夏だよ。青春。社会人が喉から手どころか足まで出しちゃうくらいの彷徨の時期」
 持って回った言い方に呆れていると、じゃあ十分後に、と言葉を残して佐竹は通話を切ってしまった。ツーッツーッと耳元で機械音が鳴る。
 祖母に外出を伝え、残っていた焼きそばを片付けた。さてどうなるものかな、と皿に箸を置いて立ち上がり、御勝手を出る。
 縁側は涼しさとは無縁と感じられるくらいに眩しさで溢れていた。何処にとまっているのか、無数の蝉の鳴き声が嫌というほど耳に届く。
 洗面所で顔を洗い、身支度を整える中で佐竹の用事が何なのかを想像する。何時ものようにろくでもないことなのだろう。それでも少しだけ胸が疼いていることに気づいていたが、それを否定するように僕はティーシャツを脱いだ。

 神バンドの神曲と称された音楽を背景に、警察を取り締まるまでの経緯を隣でハンドルを握る佐竹から聞いていた。なかなか赤から青に変わらないことに定評のある信号の前で僕たちが乗る銀色に塗装された車は停まっていた。
「これ見ろよ」
 渡されたのは縦長の形をした紙だった。受け取って内容を確認する。
 交通反則告知書・免許証保管証。
「午前中、スピード違反で捕まったんだよ」
 佐竹は苦虫を噛み潰したような表情で言葉を続けた。
「いつものようにさ、彼女に挨拶しようとレコード店に車を走らせたんだよ。意気揚々とさ。そしたらこれだ、この始末だよ。十三キロオーバーで違反金九千円とかふざけやがって。おまけにレコード店に行ったらどういうわけか彼女に嫌な顔されるし散々だ」
 全部自分のせいじゃないか、と呆れる。返せ、と佐竹は僕の手から青切符を取り上げた。
「で、それがこれからすることと関係があるわけ?」
「大有りだ」
 佐竹は左手の親指を立てて後部座席の方を指した。そちらに視線を向けると、メガホンと、ドライヤーのような形をした機械がぽつんと置かれていた。
「スピードガンだよ」
 もしや、と佐竹の方を振り返る。僕の焦りに気づいたのかふっと笑って、脳裏に浮かんでいた思考を読み上げた。
「スピード違反した警察を捕まえるんだ」

「正気か?」
 警察を捕まえるとかのたまい出した友人は依然として笑っている。
「正気だよ。俺は、いや俺たちはこれから警察のくせにスピード違反している不適な輩を捕まえる」
「帰っていいかな」
 ドアに手を掛けたと同時にロックが掛かり、エンジンの噴く音がする。ようやく信号が赤から青に変わったようだった。
「まぁそう言うな。後悔はさせないよ」
「意味が判らな過ぎて、寧ろ納得したい気分になったよ」
「そうか。ならいいな」
 言葉を返す気にもなれず、浮きかけていた身体を座席に戻す。車は自宅から二キロ近く離れていたし、この猛天下の中歩く気にもなれなかった。
 何時の間にか、なるようになるかなの精神が頭に浸透していることに気づく。いつものパターンだと頭の中で笑った。何故こうも佐竹の馬鹿みたいな提案に乗ってしまうのか疑問に思う。
 車は県道から少し進み、脇道に入ったところで停まった。
「よしここで待ち伏せしよう」
 佐竹は開け放たれた窓からスピードガンを伸ばす。
「一キロオーバーしても許してやらねえからな!」
 この時は未だ一時間以上待ち伏せするハメになるとは考えてもいなかった。

   ※※※   

 幸福のバイオリズムが本当にあるのだとしたら、と私は考えていた。良いことが起こればその分悪いことが起こる。また逆に悪いことが起こればその分良いことが起こるといった思想だ。しかしそれを操作出来るとすれば神以外に有り得なく、神が私のような矮小な存在の幸福のバランスを整えているとは考え辛い。つまり幸福のバイオリズムなどというのは偶然から生まれた思想で、偶然それに同調した人間が多かっただけというわけだ。信じるのが下らないレベルの思想だろう。
 しかし、と私は思う。こう事が上手くいくとこの先に絶望が待ち受けているのではないかと思い描いてしまう。だが、ここに至るまで不運や悲劇はあった。差し引きは取れているのではないか。けれどその判定は私がしているわけではない。結局は何が起こるか判らないということなのだろうか。
 県道を走らせるパトカーは順調に現場の銀行へ向かっている。信号に阻まれることなく、一定の速度をもって進んでいた。
 道路の凹凸でガタリと揺れる度に、判っていても私はトランクに意識を向けてしまう。大丈夫だ。そうそう目覚めるものでもないし開けられるものでもない。
 アクセルを少しだけ強く踏む。早く目的を果たし、休みたかった。
 私はふとあることに気づく。このパトカー、無線がついていない。咄嗟にポケットを漁る。が、中にはハンカチしか入っていなかった。額から汗が流れ落ちる。もう既に不運が始まっている気がした。いや、不運が起きているからこそこれから幸運が舞い降りるのかもしれない。もう考えても無駄だ
 バックミラーに脇道から銀色の軽自動車が進入し、私の乗る車の背後につくのが映る。
若い二人組の青年の姿が並んでいるのが見えた。奇妙なことに運転席に座る男がメガホンを握っているように見えた。

   ※※※   

「掛かった!」
 餌に魚が喰いついたかのような口ぶりで佐竹は声を上げた。嬉しそうに「十三キロオーバーだ十三キロオーバー」とはしゃいでいる。
「よし行くぞ」
 キーを回し、車が脇道から県道に出る。この時点でこの車は制限速度を軽く超えていたが気にしないことにした。
「前のパトカー停まりなさい」
 憎んでいるはずの警官の口真似で佐竹はメガホンを響かせた。制限速度を十三キロオーバーしたパトカーは居た堪れなくなったのか、少ししてから道脇に車を停めた。佐竹はその後ろに車を停め、スピードガンを握り締めながら、ドアを開けた。
「おい、お前も来るんだよ」
 佐竹が一人突撃して自爆していくものだと考えていたが、どうやら違うようだった。反対側のドアを開け、しっしっと外に出るよう促してくる。
「言っておくけど僕は何の責任も取らないし何も言わないからな」
「判っているって。こういうときは圧力を掛ける為に数が多い方がいいんだよ」
 何時の間にか窓が閉じられていたドアを開け、車外に出る。視線の先には制服姿の警官が一人腕を組みながら立っていた。目深に帽子を被り、濃い無精髭を生やした中年男性だった。何気なしに腰元に眼を向けてみるが拳銃や無線らしき代物は見当たらなかった。ポケットに妙な膨らみもない。
「後ろについて来い。黙ってていいから」
 耳元でそう囁かられ、おとなしくそれに従う。佐竹は大足で悠然と警官に近づいていった。
「なんで呼び止められてたか判る?」
 判るはずないだろう、と口火を切った何故か胸を張っている佐竹を眺めながら思う。人類皆お前のような頭のおかしい思考を持ち合わせてはいないのだと突っ込みたくなる。
「……あのねえ」
 無精髭の警官は質問には答えず、溜息を吐いた。呆れられてもしょうがないよな、と内心思う。
「まぁいいや。どうかしたの? 今急いでいるんだけど」
「スピード違反だよスピード違反! これを見ろ。十三キロオーバーだ! 警察のくせに恥ずかしくないのかね君ぃ」
 何キャラなんだよ、と心の中で毒づきながら、佐竹からスピードガンを見せ付けられた警官の動向を窺う。
「え……」
 警官は戸惑ったような表情を見せた。こんなことの為に呼び止められたの? と感じているのは明白だった。
「君たち若いけど学生だよね?」
「だからなんだよ! 警察だからってスピード違反していいとでもいうのか!」
 声を荒げる佐竹を眺めながら、ボディーブローの一発打ち込む権利を目の前の警官に与えたくなってくる。
「街中の銀行で強盗があったんだよ」
 警官は殴りかかることはなく、少し下がり気味の声で言葉を紡いだ。銀行で強盗?
「だからその、急いでいたんだ。すまない。反省している。これから現場に行かないといけないんだ」
 そう言って警官は頭を下げた。経験の差だろうか。綺麗な御辞儀だった。本当に急いでいるんだろう。許してやるのかな、と佐竹の方を見たが、予想通り彼は激昂していた。
「ふざんけんなって! 何が反省しているだよ。銀行で強盗? だからって制限速度超えていいのかよ。それで許されると思っているのか。俺は許されなかったのに」
 佐竹が一歩、前に出る。
「九千円も取られたのに」
 おそらく僕と警官に同じような懸念が脳裏に過ぎったように思う。
 こいつ、違反金払うまで帰さないんじゃないか?
 数秒ほど沈黙が流れた。さてどうなるものかと傍観していると、それを破ったのは警官だった。
「……判ったよ。十三キロオーバーだったね。あとで点数は引いておく。信用は出来ないだろうけどね。だからせめてものの誠意で違反金はここで払うよ」
 あまりの潔さに僕は驚いた。おい、いいのかよ、と警官を見つめるが、彼は既にポケットから財布を取り出し、中から一万札を抜いていた。
「本当にすまなかった」
 両手で渡された一枚の万札を、先ほどまで顔を赤らめていた佐竹は困惑しながら受け取った。え、いいのか、と僕の方を何度見る。
「じゃあすまないがこれで」
 そう言って警官は急ぎ足で僕たちに背中を見せた。佐竹は面食らった顔で万札を握ったまま動かなかった。
「ああ、あと」
 パトカーのドアに手をつけたところで警官は振り返った。
「たぶん私だったから良かったんじゃないかな」
 こんなことはもうしない方がいいということなのだろう。僕は立ち竦んでいる佐竹の肩を叩こうとした。
 ガタッ。
 近くで何かが当たる音がした。前から、パトカーの方からしたように思う。
 再び何度か先ほどのような音が鳴る。その度に音の根源が明瞭となっていき、パトカーのトランクからしていることに僕は気づいた。
 そのことを警官に伝えようとしたが、既に運転席に座っており、その後すぐ道路へ進入していった。遠くなっていくパトカーを眺めながら、一体あの音はなんだったのだろうと立ち尽くす。
 佐竹は未だ万札を握ったまま動かなかった。両手の指で支えられた紙幣が風で揺れる。
 あれ?
 僕は靡かれた紙幣が二枚あることに気づいた。思わず佐竹の肩を叩く。
「おい、それ」
 口を半開きにした状態で佐竹はこちらを向き、手にした二枚の一万円札を見せ付けた。
「二万円貰ってしまった」

「初めは俺も一枚だと思った」
 運転席で福沢諭吉が二人、揺れる。
「あっちも十三キロオーバーだって確認していたし、手持ちがなかったのかそれとも御釣りを貰うのが悪かったのか知らないけど、とにかく一万円を渡すつもりだった。けど焦っていたのか二枚掴んで渡してしまった」
「返した方が良い」
 僕は佐竹の握る一万円札を一枚を抜き取った。
「これはさすがに拙い。あの警官、銀行に向かうと言っていた。今から行けば現場で会えるかもしれない。返しに行こう」
「おい、せっかく手に入れたのにか」
 佐竹は僕の手から紙幣を奪おうとするが止める。一万円稼ぐのにどれだけの揚力が必要なのかくらい判っていた。
「ここまできたら、そうだな。愉快じゃない」
 僕の言葉にあの手この手で万札を引き抜こうとしていた佐竹の手が止まる。数秒だけ車内がシンになり、佐竹は「判ったよ」とキーを回してエンジンを噴かせた。
「確かに愉快じゃないな」
 車は街中の銀行の方向へ走り出していた。佐竹はハンドルを握る方とは反対の手で一枚の紙幣をフラフラをさせる。
「まぁ二時間で一万稼げりゃ万々歳だよな」

 銀行の前にパトカーが数十台並んでいるものだと想像していたが、遠目から見て駐車しているのは一般車だけだった。
「おい、本当に強盗が起きているのかよ」
 街中の銀行と称されるのは近辺ではここだけだった。普段とあまりの変わらなさに疑問を抱きながらも銀行に近づく。
「ああ、でも」
 その建物はこの昼間に不自然なくらいにシャッターが全て下ろされていた。入り口には不自然な立て看板が設置されていることに気づく。
「本当に起きているのかも」
「なら何で警察がいないんだ。あの警官一人に任せられているわけないだろ」
 確かに人材不足が叫ばれるようともたった一人の警官に銀行強盗の対処を一任させられるとは思えなかった。じゃあ君頼んだよとはいかないはずだ。
「あの警官何処に行ったんだろうな。あの人に聞けば全てが解決する。本当に強盗が起きていようと起きていまいと」
「確かに」
 佐竹は頷くと車を正面の駐車場には入れず、その横の道路に走らせた。
「とりあえず裏に回ってみよう」
 銀行の裏側は石塀を挟んで駐車場となっていた。疎らに駐車されているのが目に付く。
「いた」
 駐車場の隅、西の出入り口付近にポツリと先ほどのパトカーが停車していた。中には先ほどの警官の姿もある。
「銀行の方を見ているな」
 佐竹の言葉通り、あの警官は銀行の方に首を向けていた。何かを待っている、そんな印象を受けた。
「何を待っているんだろう」
「聞けば済む話だ。ほら一万円返せ」
 駐車場に車を停め、佐竹は僕に手招きをする。絶対に返せよな、と万札を渡すと、「判っているって」と言って飛び出していった。大足で走っていく佐竹の姿が少しずつパトカーに近づいていく。上手くいかなそうだな、と不安が募る。
 佐竹とパトカーの距離があと二十メートルといったところだっただろうか。不安は的中した。といってもベクトルは全く別の方へ向いていた。
 不意に銀行の下半身を隠すように立ち並ぶ石塀から人が現れた。サングラスをつけた人が三人、石塀から飛び降り、着地する。一人が銀色のハードケースを握っていた。どう見ても一仕事終えた強盗犯にしか見えなかった。
 佐竹もそれに気づいたのか、動かしていた足を止め、こちらを向いた。なんだこれと言いたそうな表情をしていた。確かに何なのだこれは。
 強盗犯達は佐竹の方に顔を向け、一度立ち止まったが、すぐに西の方へ走り出していた。
あれ? と僕は思う間もなく、出入り口付近に停車していたパトカーから警官が飛び出すのが眼に映る。同時に後部座席のドアも開くのが見えた。おいどうなるんだ、と車内で独り焦燥する。
 警官は近づく強盗犯達を殴り飛ばし、パトカーの中へ放り込んだ。一瞬のことだった。映画でも観ているかのような立ち振る舞いで、これが現実であるように思えなかった。じゃあ君頼んだよ、と本当に頼まれたのかもしれない風景がそこにはあった。
 警官は一仕事終えた後のように右肩を上下させながら、パトカーへ戻っていく。その時、
いつか聞いたようなガタッという音が小さく鳴り、警官はトランクを見た後、急いで運転席に座り、パトカーを走らせて駐車場を去っていった。何事もなかったかのように駐車場内に閑散とした雰囲気が流れる。
 佐竹は暫く立ち尽くしたまま動かなかった。僕も呆気にとられていた。こちらへ戻ってきたのはパトカーのサイレンが聴こえ出した頃で、このままここにいるのは拙いと感じたのか急ぎ足で帰ってきていた。
「何なんだよ一体」
 第一声はそれで、僕は「見たままだよ」としか答えられなかった。本当にあれは一体なんだったのだろうか。
「とにかくここを出よう。厄介なことになる前に」
 アクセルを踏み、タイヤを回転させ、出入り口に向かう。冷静に考える時間と場所が欲しかった。佐竹も同じことを考えているのだろう。が、駐車場を出ようとしたところで、ちょうどパトカーとすれ違い、呼び止められる。
「そこの車は止まりなさい」
 断る訳にもいかず、「まぁ、悪い事したわけじゃないからな。して、ないよな」と少し間誤付きながら、車をバックさせ、再び停車させる。
「こんにちは」
 二名の警官が運転席の佐竹の方に現れ、挨拶をする。一人は所々に皺が刻まれた年配の方で、もう片方は僕達と同じ年齢に見える若い男性だった。
「驚かないで聞いて欲しいんだけど、ここで銀行強盗があったんだ。何か知っていることがあったら教えてくれるかい」
 年配の警官は優しく問いかけてくる。若い警官は僕達の様子を一挙動見逃すまいと視線を張らせていた。
「知っているも何も」
 佐竹は「なあ」とこちらに顔を向ける。言いたいことは判っていたので僕は頷いた。
「もう解決したんじゃないのか?」
 佐竹の言葉に警官二人は顔を見合わせる。聞こえないように短く会話をした後、「すまないが詳しく聞かせてもらえるかな」と年配の警官は顔を近づけた。
 僕と佐竹は先ほど起きたひとコマを説明した。スピード違反を取り締まっていたことや一万円ではなく、二万円を頂いてしまったことなど面倒になりそうな要素を省いて話す。
「ちょっと待ってくれ。じゃあ強盗犯はもう捕まっていうのかい」
 年配の警官は慌てた表情を見せていた。若い警官の方にも同じような表情が見て取れる。
まだその情報を得ていないことは丸判りだった。
「そうだよ。上に聞いてみたらどうだ」
 即座に年配の警官が無線機器を取り出し、通信を始める。こちらに聞こえるくらいのノイズが鳴り響き、その中で短い会話を繰り広げていく。言葉を聞いていくうちに、事態が可笑しな方向へ転がっているのを僕は感じていた。
 数度、年配の警官は無線を掛け直していたが結果は一緒のようだった。面倒なことになったな、と溜息をつく。
 無線交信が終わり、年配の警官は鋭い眼をこちらへ向けた。そりゃそうだよな、と先ほどの会話を反芻しながら思う。
「捕まっただなんて情報、一つもないぞ」

「おい、それはおかしいって」
 佐竹は身を乗り出して反論をする。
「俺達は確かに見たぜ。警官が強盗犯達を殴り飛ばしてパトカーに放り込むのをさ」
「しかし何処にも連絡が来ていない。おかしくないか」
 年配の警官は訝しげに腕組みをしながら答える。嘘をついていると思われているのか、この噛み合わない事態について考えているのか、その姿からは読み取れなかった。
「本当にそれは警官だったのか?」
 年配の警官の目がより疑わしいものに変わる。しかし僕たちが見たものは確かにパトカーを持つ警官だった。
「そもそもだ。時間が噛み合わないんだ」
「時間?」
 僕は思わず口を挟んでしまう。
「そう時間だ。通報を受けたのはついさっきなんだよ。なのにそのパトカーは強盗が起きていることを知っていてここに待機していたんだろ」
「誰かから連絡を受けていたのかも。携帯というものがある」
 すっきりさせたい気持ちが強くなり、年配の警官の目を見て話す。
「いやそれもない」
「どうしてだよ」
 しばらく黙り込んでいた佐竹が声を荒げる。年配の警官は要領を得ない生徒を見下すかのようにふうと溜息をついた。
「連絡を受けたならどうして警察に通報しない。おかしいだろ」
「じゃあ全部嘘だって言うのかよ。あいつが言ったことも俺が言ったことも。俺たちが見たのは一体なんだったんだよ!」
 もうお手上げだと佐竹は両手を天秤にように掲げる。僕も大したことは思い浮かばず、黙り込む。
「もしかするとさ」
 沈黙を破ったのはずっと口を開かなかった若い警官だった。若い警官は遠くを見つめながらポツリと呟く。
「その警官らしき人物、強盗犯の仲間だったんじゃないかな」

 近所の牛丼屋のカウンター席には既に佐竹が座っていた。正面にはまだ冷水の含まれたコップしか置かれておらず、料理は未だきていないようだった。
「おせえよ」
 佐竹の毒づきを聞きながら隣の席に座る。それがスイッチであるかのように茶髪の店員が僕の元に現れ、水を置き去っていく。
 ゴクリと水を多く口に入れる。外界の気が狂いそうな熱は、掛かり過ぎなくらいの冷房と冷水で落ち着いていく。
「ほらこれ」
 佐竹は足元に置いていたバッグから一部の新聞を取り出した。見せたい記事があるらしく何度かパラパラと捲る。
「これだこれ。見てみろよ」
 佐竹の見せたい記事は察していた。あの銀行強盗の件だろう。受け取り内容を確認する。
 強盗犯三人とそれを補佐する運転手一人逮捕。逃走用のパトカー。事件から三時間後の逮捕。
「無事捕まったみたいだな」
 グビリと佐竹はコップから水を飲み上げる。まるで自分が先ほど犯人を雁字搦めにし、後のことを他の警官に任せ、これから休憩だというような振る舞いだった。
 あれからもう既に一日ほど経過していた。早いものだと時間の速度に驚きを禁じえなかった。
「読んだよ。で、佐竹が言いたいことも判る」
「へえ、当ててみろよ」
 僕は記事の写真の部分を指差した。そこには捕まった犯人たちの顔写真が掲載されていた。
「あの無精髭を生やした警官がいない。そういうことだろ」
 僕は佐竹の顔を盗み見る。佐竹は薄く笑って頷いた。
「そうだ。あいつがいない。で、変なやつが混じっている」
 佐竹はもう一度音を立てながら水を口に入れた。
「若い警官の予想は外れたな。犯人が一人逃走中って書いていないし。しかし、だったらあいつは一体何者だったんだ?」

 結論は出ず、数分後に出された牛丼を平らげ、店を後にする。それがスイッチであるかのように茶髪の店員は訛った声で「有難うございました」と僕たちを見送った。
「これからどうする」
 例の如く、「牛丼屋にいるから来い。今すぐに」とだけしか聞かされておらず、今後の予定を佐竹に尋ねる。
「大貴にリベンジしに行く」
 佐竹は指をポキリと鳴らした後、ポケットからデッキケースを取り出し、見せ付けた。
「あいつの伸びに伸びきった鼻をへし折ってやる」
 別に佐竹に勝ったことを誇らしく思っていないんじゃないかな、と大股で歩く佐竹に付いて行きながら思う。カードゲームのことはよく分からないが、佐竹が強いプレイヤーでないことはなんとなく判っていた。
「あいつの家、この牛丼屋の目と鼻の先らしいんだ」
「え。小学生の家に上がりこむのか? 大学生二人が? しかも片方はリベンジとかほざきながら?」
 てっきり何処かのホビーショップで大会でも開かれているものだと思っていたのだが違うようだった。何時の間にアポでも取ったのか、大貴君の自宅でリベンジマッチを繰り広げる気らしい。
「問題ないだろ。青春だよ青春。ほらそこだ」
 青春って便利な言葉だな、と感じながら佐竹の指した方を見る。何処にでもある、瓦が敷き詰められている屋根をした一軒家がそこにはあった。
「たのもー」
 躊躇いもなく、佐竹はそう言ってインターホンを鳴らした。数秒してガチャリと扉が開かれ、中から大貴君らしき少年が現れる。日に焼けた肌と短髪頭が活発な印象を僕に与える。
「うわ、本当に来たよ」
 少年はバーカとでも言うかのように佐竹を指差した。
「来るって言っておいただろうが。おら大貴、さっさとやるぞ。忙しいんだ大学生ってのは」
 佐竹は開かれた扉にサッと潜り込む。暇でしょうがないくせに、と突っ込もうと思ったがそれは自分にも言えることなので止めておいた。御邪魔します、と大貴君に挨拶をし、佐竹の後につく。
「僕だってこの後用事があるし。小学生だって忙しいんだ」
 対抗でもするかのように大貴君が後ろで毒づき、ガチャリと扉の閉まる音がした。

 結果は惨敗だった。素人目から見ても差は歴然としており、三回勝負で佐竹は一勝も獲ることが出来ず、戦いの後、佐竹がボツリと「狂ってる…」と呟いていた。
「ほら敗者はさっさと帰った帰った。これから用事があるんだから」
 堂々の全勝を遂げた大貴君はシッシッを手の甲をこちらに揺らす。佐竹は一度舌打ちをした後、「これで勝ったと思うなよ」とどう考えても負け惜しみにしか聞こえない言葉を残し、立ち上がった。
 僕もそのまま立ち上がり、家を出ようとしたが、突如尿意が襲い掛かり、大貴君にトイレの場所を聞いた。廊下の突き当たりを右だよ、という返事に頷き、足早に廊下に出る。
 木目の廊下を渡り、何気なしに左右を眺める。幾つか引き戸が設置されており、閉じられていたり、開かれていたりしていた。
 突き当たりを右に曲がり、そこにあったトイレで用を足す。心地よい爽快感に包まれながらトイレを出、手前にあった洗面器で手を洗い、再び廊下に入る。
 廊下を渡りながら何の気もなく、開いていた部屋を眺める。部屋の中央付近にガラス張りのテーブルとソファーが見え、どうやらここはリビングであると察した。
 あまり見るのは行儀悪いなと視線を外そうとしたが、そこでふと立ち止まる。壁際のショーケースに飾られた一枚の写真。そこに写っていたのはあいつじゃなかったか?
 悪いと感じながらも、足を戻してリビングに進入し、ショーケースの前に立つ。
 ああ、やっぱり。
 僕は写真立てに飾られた二人のウエディング姿を眺めながら思う。
 そこには濃い無精髭こそなかったが、佐竹にスピード違反を取り締まられた警官の姿があった。

「さて暇だ」
 大貴君の家を出て、数メートル歩いた後、佐竹は大きく背伸びをした。もう大貴君に負けたことなど忘れているのかもしれない。
「これから何しようか。俺の部屋で映画でも観るか?」
「いや、それよりちょっと歩こう。聞いてもらいたい話があるんだ」
 あの写真を見てから考えたことを佐竹に話そうと思った。思い描いたその話はあくまで推測の域を出ないが辻褄は合う気がした。
「佐竹、さっきリビングで見たんだよ――」
 僕は静かに説明を始めた。一人の警官が巻き起こした可笑しな話だ。

   ※※※  

 それは全くの偶然だった。商店街の路地でスピード違反を取り締まっていて、速度違反をした車を発見し、咄嗟に「前の車停まりなさい」と告げてしまったのだ。違反した車がパトカーであることも知らずに。せっかちな性格に毎度ながら呆れてしまう。
 謝らなければと思いながら、後を付いて行ったが、パトカーは一向に停まる気配を見せなかった。おかしいなと感じながらも一歩前に出ることは出来ず、道脇に上手く停まれる場所があればそこに停まろうと考えながら運転をしていた。
 交差点に近づき、ここで上手く別れればいいなと期待していたが信号はすぐに赤に変わってしまい、パトカーは両車とも停車を余儀なくされた。
 が、前のパトカーは停まらなかった。信号が赤にも関わらず、横を走る車をぬって道路を横断していく。明らかな信号無視であり、いよいよ変だぞと私はサイレンを鳴らし、後を追った。
 しばらく鬼ごっこが続いたが、パトカーは行き止まりに詰まってしまい、私のパトカーと挟む形になった。私はパトカーから出て、全速力で疑いのパトカーのドアノブを引く。反応が遅れたのか、ロックを掛けることが出来ず、ドアは難なく開き、運転席に座っていた男の首を掴んだ。警察の制服姿であったが、構わなかった。こいつは確実に警察の人間ではない。
 警官姿の男は私の行動に縮み上がったのか、涙眼で「すいません、すいません」と謝りだした。
 首を掴みながら何をしていたのかを尋ねる。男は数秒思考した後、もう御終いだと思ったのか、それで自分だけ罪が軽くなると考えたのか全てを吐き出し始めた。パトカーで仕事を終えた銀行強盗犯を運ぶつもりだったのだと。駐車場の隅で待機し、捕まえる素振りで強盗犯を中に入れ去り、用意していたもう一つの車で乗り換える計画だったのだと。
 私は男の話を聞き終え、上に通報することよりもこれはチャンスなのではないかと考えた。上司や同僚、部下。そして何より妻や息子を見返せる一世一代のチャンスなのではないかと。
 男をトランクに放り込み、私は偽のパトカーに乗り換えた。ここへ乗り込んでくるであろう強盗犯を丸ごと捕まえて手柄にしてやろう。
 県道に出て、妙な二人に捕まったが、すぐに離れることが出来た。私は待機場所である駐車場の隅にパトカーを停め、強盗犯を待った。
 聞いていた時間通りに強盗犯が現れ、にやつきながらパトカーに近づく奴等を気絶させパトカーに放り込む。腕っ節には自信があり、それは簡単だった。
 けれどそこからが問題だった。無線も携帯も持っていなく警察に連絡手段がなかった私は急いで近くの警察署へ向かった。パトカーから離れるわけにもいかなく、トランクからの音も気になっていた。
 警察署まで残り百メートルといったところだっただろうか。そこで私は目覚めた強盗犯に襲われ、運転席を奪われてしまった。私はトランクに放り込まれ、四時間後に警官に囲まれながら発見された。
 当然そこには表彰などという文字は塵一つも存在しなかった。
 再び幸福のバイオリズムのことを考える。私は今不幸だ。ならこの先良いことでもあるのか。
 多分ないだろう。冷めた目つきで私を見つめる上司を眺めながら私は思っていた。

   ※※※

 佐竹は僕の話を腕組みながら聞いていた。
 あの警官が少年を見返すために強盗犯の仲間が運転するパトカーを奪って運転手のフリをしていたこと。強盗犯を捕まえ、補導しようとしたがおそらく奪い返されてしまったこと。
「なるほどな」
 話し終えて、佐竹はふうと溜息をつき、
「確かにそうかもしれない」
 と言って、道端に落ちていた小石を蹴り飛ばした。小石はコンクリートの地面を跳ね、端の用水路に落ちていった。
「そしたら愉快だな」
 佐竹はそう言って笑った。それを見て僕も笑う。真昼の路地に若者の笑い声が響き渡る。
「良い事あればいいな」
 そうだなと僕は頷く。どうか幸あれ君ずっと、と少し前に聴いた曲のリリックを口ずさんでいた。
 しばらく無言のまま路地を歩いた。夏の太陽の光が燦々と降り注いでいたが、僕たちはただ歩き続けた。
 一台の車とすれ違う。何気なしに覗いてみるとそこには大貴君と、そしてあの無精髭を生やした警官の姿があった。
 お互い、楽しそうに笑っていた。
感想  home