たとえばネガの品質を4Kとするなら、35ミリのプリントの品質は2Kに相当する。
つまり四分の一の解像度だ……。
――モンテ・ヘルマン
あの海に。
タクシーを降りたとき、自分を支えるものが何一つなく、転びそうになったのを覚えている。姿勢を崩したままふらふらとアパートの階段へと歩いた。背後でタクシーがUターンをして、走り去っていった。
エンジン音が遠ざかると、周囲の暗さが濃くなったように感じられた。中杉美月は階段の手すりに寄りかかり、足を止めた。今ひとつはっきりとしない視界には真夜中の空があった。時刻はもう午前二時か三時くらいになっているはずだった。雲が厚く、月は見えない。
階段を上り始めて数段で足を踏み外した。かろうじて踏みとどまり、段差にしがみつくように手をつき、転げ落ちるのを回避した。手のひらに砂利がこびりついた。勢いよく手をついたから、傷ができてしまったかもしれない。
手すりを頼りに立ち上がり、そのままずるずると階段を上っていった。人が見ていたら、何事かと思ったかもしれなかった。廊下を部屋の前まで歩いた。バッグから鍵を出し、鍵穴へ差し込んだ。
部屋に入った途端、そこが玄関であるのも気にせずにへたり込んだ。飲み過ぎだった。一つの現場が終わり、その打ち上げだった。裕福な現場ではなかったし、トラブルも多かったが、楽しい時間を過ごせた。その終わりが打ち上げだった。
バッグを置き、這うようにして台所へ向かった。コップに水を注ぎ、一息で飲み干す。ぼんやりとしていた意識が束の間すっきりとなったが、またすぐに眠ってしまいそうになる。流しのふちを掴んで立ち上がる。足元がおぼつかない。どうにか寝床に辿りついたが、直前で足をからませてしまい、ベッドへ勢いよく倒れ込んだ。
うつぶせに倒れたままでいたが、ごろんと半回転して仰向けになる。部屋に入ってから電気はつけていなかった。カーテンの隙間から、外の灯りがかろうじて差し込んでいる。身体を起こし、パーカとジーンズを脱いだ。中に着ていたキャミソールと下着だけになる。美月はまた寝返りをうち、枕に顔を埋めて、目を閉じた。
しかしあれほど眠りかけていたというのに、何故だか掛け時計の針が時間を刻む音が耳から離れない。目を開いても、広がっているのは黒一色だった。枕から顔を離すと、ようやくうっすらと室内の様子が伺える。
横向きになり、窓を見やった。カーテンがわずかに開いていて、ガラス越しにベランダの一部がそこから覗けた。ぶら下がった空き缶が目に止まった。缶詰に穴を開け針金を通し、手すりに巻きつけている。外で煙草を吸うときに使っているものだった。風が吹いているのか、かすかに揺れているように見えた。
そのとき音が聞こえた。ベランダからではなく、部屋の前の廊下からのようだった。何か引きずっているような音だった。気にせずに眠ってしまおうかと思ったものの、音は徐々に大きくなった。重さのあるものをずるずると引きずっていて、まさに美月の部屋の前を通ろうとしているようだった。
ベッドから抜け出した。脱ぎ捨てたジーンズへ手を伸ばし、尻のポケットからスマートフォンを引っ張り出す。立ち上がって壁に手をやりながら玄関へ向かった。その間も音は響き続けていた。カメラ機能を立ち上げ、ドアスコープを覗き込む。
視界が円形になる。と同時に息を飲んだ。その端の方から両足が見切れていくところだった。歩いている人間の動きではなかった。両足の指先は上を向いていた。美月はドアスコープから目を離し、ゆっくりとドアにもたれた。音はまだ聞こえていたが、徐々に遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。階段までに距離を考え、一階に下りたところなのだろうと推測した。
息を吐き出した拍子にスマートフォンを床に落とした。小さくかちゃんと音がしてしまう。反射的に拾い上げ、息を止めた。空いている手を口にあて、耳を澄ます。外からの音はすっかり聞こえなくなっている。こめかみのあたりから垂れた汗が頬をつたうのを感じた。
意を決して、もう一度ドアスコープを覗き込んだ。口を押さえる力が強くなった。外は真っ黒で、廊下さえも見えなくなっていた。外から塞がれたのかと思ったが、そうではなかった。目を離せないままでいると、徐々に光源が生まれ始めた。見えてきたのは人の顔だった。顔をドアに密着させていたようだった。ドアスコープのレンズから離れていき、代わりに状況が確認できるようになる。
美月は弾かれるようにドアから顔を離した。目に入れたくなかった。玄関の段差に手をつき、ドアを凝視していた。聞こえてきたのは足音だった。こつんこつんという音が規則的に遠ざかっていく。
どれだけの間、動けずにいたのかわからなかった。どこかから犬の鳴き声が聞こえたとき、美月はわれに返ったように腰を上げた。鍵を外し、恐る恐る廊下に出た。外は白み始めていたが、人の姿はどこにもなかった。
階段まで歩き、自分の部屋の前に戻った。ドアスコープからこちらを覗いていた人間は本当に存在したのだろうか。そう疑い始めていた。しかしドアノブを握った瞬間、反射的に手を引いた。ノブはびっしょりと濡れていた。ただの水のようだったが、雨が降ったわけでもないのに濡れていた。美月は玄関ドアをじっと観察した。水の痕跡はうっすらとだが、人の手形になっていた。美月はそれに自分の手を合わせる。ドアスコープを覗こうとするときに、ちょうど手を添えるような位置にあった。
美月は玄関に戻り、床に落ちていたスマートフォンを拾った。そしてすぐに外へ出て、ノブとドアを撮影した。しかし色が飛んでしまって、手の痕をうまく捉えることができなかった。
「だめだ……」
そうつぶやいて、また玄関に入った。幸い、バッグはすぐ近くに置かれたままだった。カメラを出し、フィルムを巻きながらドアの前に立つ。距離を取り、全体をフレームに収める。残っていた数枚分を撮り切ってから、部屋に戻ろうとしたとき、自分が下着にキャミソールという格好であることを思い出し、首の後ろをぽんと叩いた。
手のひらで鏡をこすっても、曇りは一向に拭えなかった。肩に届かないくらいのショートカット。普段は前髪を垂らしているが、撮影に携わるときは分けてヘアピンで留める。色気も何もない、ただの黒色のピンだ。邪魔に思えることもあるから、ピアスも外してしまう。
そんな女が鏡に映っているはずだった。しかし曇りが邪魔をしていて、自分の表情さえもわからなかった。腕時計で時間を確認する。まだ昼過ぎだった。
蛇口を捻っても水は出ない。すでに取り壊しの決まっているビルだった。蒲田駅から歩いて一〇分くらいのところにある七階建てのオフィスビル。美月はライターに同行して、内部の写真を撮っていた。まるで面白味のない仕事だったし、朝が早いのも好ましくなかったが、雇われの身では仕方なかった。
ライターの男はここでどういう出来事が起こったかをでっちあげるため、あれやこれやと見て回っている。一人になりたいという彼の要望を尊重し、美月は休憩を取ることにしたのだった。無計画に歩き回る男に着いていけば、体力には自信がある方だが、どこかで限界が来るのは目に見えていた。当然エレベーターは動いていなかった。
三階の女子トイレには鏡が二枚取り付けられていたが、洗面台は両方とも取り外されていた。個室のドアも無いが、つきあたりにある窓はしっかり閉ざされている。ビル内の空気はどこも淀んでいたが、この女子トイレはいっそう重苦しかった。
美月は窓に手をかけた。左右に開くのではなく、上部のロックを外せば奥に――つまり外へ開くタイプの窓だった。しばらく使われていなかったため、掛金は溶接されたかのように固かった。美月はシザーポーチから金やすりを取り出し、掛金の部分にあてがった。凝り固まった埃をこそぐようにして掻き出し、改めて留め具を外そうとした。すると今度は簡単に開き、外の空気が流れ込んできた。
同時に陽射しも差込み、トイレはいくらか明るくなった。窓があるとはいえ、窓ガラスも鏡と同じようにひどく汚れていた。美月は窓を開けられるだけ開けた。穏やかな午後が広がっている。建物の内部とは大違いだった。拘束時間は夕方までだったが、早く終わればそこで仕事は終了になる。あとはあのライターの気分次第……そう考えた美月は首をふった。粘りに粘る気がしないでもなかった。
周囲にはこのビルと同じようなオフィスビルが多かった。挟まれるようにぽつんぽつんとアパートの姿も見える。美月は首から下げていたカメラを外へ向かって構えた。なんてことのないデジタル一眼レフは見た目よりもずっと軽く、彼女が持っているライカやグラウベルマキナなどよりもよっぽど機動力がある。
前に倒した窓がフレームに入ってしまっていた。いっそ取り外せればと思ったが、いつ終わるかもわからない休憩時間にそこまでするのも億劫だった。身を乗り出すようにして、外へレンズを向ける。液晶の小窓を見つめていると、あるビルの屋上に人がいることに気づいた。スーツを着た男が煙草を吸っている。日曜の昼間とはいえ、出勤している人もいるのだろう。彼にレンズを向けたままでいると、不意に男がこちらを見た。
シャッターを切った。そしてすぐにカメラを引っ込めた。代わりに肉眼で男がいたあたりのビルを眺めた。しかしもうその男の姿はどこにもないようだった。人影のないビルばかりだった。美月は撮影した画像をその場で確認する。煙草を吸う男が小さく映っていた。ボタン操作で男の姿を拡大させる。こういうときはデジタルの便利さを強く感じた。
男はやはりこちらを見ていた。煙草を口にくわえ、柵に寄りかかっていた。表情が無い。ただこちらを見ている。美月は男のいるビルの窓ガラスが大部分割れていることに気づいた。もう一度視線を外の風景へと動かす。同じ建物はすぐに見つかった。トイレの窓から二時の方向にあるビルだった。
屋上には男がいた。美月の視力では表情まではわからなかったが、デジタルカメラに保存された画像と寸分違わぬ格好でこちらを見ているのは確認できる。美月は視線を反らし、窓に背を向けた。
電話が鳴った。ライターの男からだった。一階にいるから戻ってこいとの連絡を受け、美月はトイレを出ようとした。ドアに手をかけたとき、背後を振り返った。窓は開けっ放しのままだった。つかつかと早足で歩み寄り、外を見ることなく力任せに窓を引いた。
カフェラテが注がれたグラスとサンドウィッチを載せたトレイを受け取った。美月は混み合った店内に藤枝真咲の姿を探した。すぐに窓際のテーブル席に彼女の姿を見つけ、そちらへ向かって歩き出した。
真咲とは彼女が出版社勤めをしていた頃からの仲だった。かれこれ五年になる。たまたま雑誌関係の仕事で出入りしていたときに出会い、学部もサークルも接点はなかったのだが、同じ大学出身だという共通点から付き合いが始まったのだった、
『うわ、ひどい写真!』
初めて言葉を交わしたとき、彼女は笑顔でそう言った。美月も苦笑するしかなかった。実際その通りだった。ノートパソコンの画面に表示されていたのはラブホテルの出入り口だった。初老といってもいいくらいの男が周囲を気にしている様子が捉えられていたのだった。
トレイをテーブルに置き、肩にかけていたバッグを下ろし、椅子に座る前にシザーポーチを外した。テーブルの上にはスペースがなかったため、バッグに並べるように床に立てた。
「それ、便利そうでいいよね」
「え? どれ?」
「それ」
真咲が指差したのはシザーポーチだった。本来は美容師が使うものなのだが、自分用に改造したものだった。撮影のときに必要な小物を詰め込んでおくにはぴったりだった。
「なんかオシャレだし」
「そう?」
美月はストローをグラスにさした。カフェラテを一口飲み、窓越しに通りの様子を見やった。道行く人は一様に傘を持っている。空を見上げると、分厚い雲が広がっていた。真咲の足元にも水色の傘があった。
その視線に気づいたのか、真咲が口を開いた。
「傘?」
「うん。今日雨降るんだっけ?」
昼間はよく晴れていた。青が強すぎて、空を背景に入れた構図を作るのに苦戦したくらいだった。
「降るって言ってたよ。ねえ、それ一口ちょうだい」
サンドウィッチを指差す真咲に美月は皿ごと差し出した。「ありがと」といいながら、ツナサンドをぱくりとやり、戻してくる。もう一つはハムとレタス、トマトを挟んだものだった。
「そういえばさ、どうだったの。滋賀だっけ?」
カップのコーヒーを飲みながら、真咲が聞いてくる。
「うん、あと兵庫。おもしろかったよ。くたびれたけど」
「いいよねえ。映画の撮影でしょ。俳優さんとかいたんでしょ?」
「いたけど、でも自主映画だし。知らない人だったし」
一週間ほど前まで美月が携わっていたのは映画製作だった。といっても撮影監督して招かれたわけではなく、スチールカメラマンとして地方ロケに同行したのだった。
「ギャラも安かったし。でもああいう現場って初めてだったし、楽しかった」
映画製作をめぐる映画を撮る中でかつてあったスタイルが必要とされた。その理屈は美月にはぴんと来なかったが、せっかくの依頼を断る理由もなかった。およそ三週間、滋賀県と兵庫県でロケをした。
「昔ながらのスチールカメラマン。ていっても私にはよくわかんないけどね」
「撮影所システムってやつですか」
「うん。なんかそんな感じ」
東京に帰ってきた日にそのまま打ち上げになった。体力のある人たちだと呆れながらも、彼女自身も飲み過ぎてしまって、家に帰るのにも一苦労だった。
美月は真咲から顔を背け、窓ガラスの向こうへ目をやった。先ほどまでは傘を持っている人がほとんどだったが、今は多くの人の傘が開いている。
「降ってきたみたい」
真咲の声に外を見たまま頷く。泥酔したまま帰宅したのがまさにあの夜だった。いまだにあれが本当に起こったことなのか酔っ払って見た幻だったのか、判断できずにいる。
しかし少なくとも、人間を引きずる男の姿の目撃情報は近所では無いようだったし、それらしい事件も起こっていない。証拠して残っているのは濡れたドアとノブを撮った写真だけだった。
美月はバッグから封筒を出し、真咲の前に差し出した。真咲は黙って受け取り、中身を確認する。中には三〇枚ほどの写真が入っている。美月が撮影隊に同行していたときに写したものだった。
「中杉の写真って、なんかあれだよね、アートっぽくないよね」
「アートっぽい」
真咲は写真の束をめくりながら、「うん」と頷く。
「自然っていうかさ、なんだろう、まんまっていうか。ほら、世の写真家の写真って、原色バリバリだったり、モノクロの、何あれ、コントラストっていうのかな、ああいうのとか」
「ああ、うん」
「ああいうのじゃん。イメージ的に。でも中杉のはさ、写実っていうか、見えたまんまだよね」
美月はカフェラテを一口飲んでから、「そりゃあ、ポジだから」と軽く茶化してみるが、真咲は美月を見たまま、まるで反応しなかった。仕方なく少し間をおいてから続ける。
「写真ってそういうものだと思ってるから。機械だから、見たまんましか写らない、嘘はないって思ってるから、いま真咲が言ったみたいなのもわかるけど、興味ないな」
「うん。興味ない」と付け加えるように繰り返す。
「ふうん。報道写真家みたいな感じなのかな。キャパとか」
「いやいや、そんな畏れ多い」
誤魔化すように「ははは」と笑ってから、サンドウィッチを掴み、また外へ視線を戻した。歩道の向こうは四車線の車道になっていて、渡ったところに乗用車が一台停まっていた。左ハンドルの車だった。車内には誰もおらず、美月は手早くサンドウィッチを平らげ、スマートフォンのカメラ機能を起動した。二度シャッターを切り、撮った画像を開く。
「カメラあるのに、そんなの使うんだ」
「うん。でも、けっこう使えるんだ、これ」
真咲が印画紙から顔を上げ、美月を見ていた。外に目をやり、すぐに美月へと戻る。
「車?」
「うん。なんか、おもしろい」
「構図だったの」と続けようと外を見やったとき、男と目が合い、言葉に詰まった。先程の車はすでに発車していて、停車していた場所にはいなかった。代わりにガードレールの傍に立っている男が目に入った。座ったり、立ち止まったりしているわけではなく、こちらを向いて突っ立っている。
言葉を切った美月を訝しみ、真咲も外へと目をやった。
「誰?」
「え? 知らないよ」
「こっち見てるし」
「わたしたちじゃないんじゃないの」
美月は誤魔化すようにそう言ったが、自分を見ていることを半ば確信していた。あのビルの屋上にいた男もそうだった。拡大した画像を見たとき、確かに彼は自分を見ていた。そう強く感じた。
構図やピントも確認せずに、スマートフォンのシャッターを切った。「ちょっと何やってんの」と慌てた声を出す真咲に「別に」と答える。
「挑発みたいじゃん。やめてよ」
「大丈夫でしょ」と言いかけて、また声を失った。男はいなくなっていた。立っていた場所の左右を見ても人はおらず、車道を横切って近寄ってきているようなこともなかった。
真咲が「いなくなった」と言った。「考えすぎかな。でもこわい」と続ける彼女の声にも、美月は上の空だった。写したばかりの男の画像を見ようとしたが、画面の小ささが気になった。
グラスに手を伸ばし、カフェラテを口にした。そのとき美月はひどく喉が渇いていたことに気づいた。
誘導棒の赤い光が夜道に光っていた。すでに陽の落ちた時間だった。真咲とは夕食を共にしてから別れた。その帰り道だった。降り出した雨はやがて本降りになり、傘を買わなければならなかった。自宅にいたずらに増えていくビニール傘を思うと気が重かったが、背に腹は変えられなかった。
本当は一刻も早く家に帰り、写した画像を確認したい気持ちでいっぱいだった。しかし真咲との約束は前々からのものであったし、お互いに今日を逃せばまたいつ時間が合うかわからない。そちらを優先したのは当然の判断だった。
工事現場の真横を通るとき、横目で見ると、ちょうどマンホールの蓋が開いていて、中から作業員が上がってきているところだった。雨を避けるために濃い紺色の雨合羽を着ていて、黒い塊が這い上がってきたようにも見えた。男がそこから出てからも、マンホールの蓋は開けたままで、夜の暗さよりもはるかに深い黒がその先に広がっているように見えた。実際どうなっているのか見てみたい気持ちもあったが、立ち止まるわけにもいかず、そのまま通り過ぎた。
美月のアパートは駅から距離があるのが難点だった。暗室を作るためには部屋数が必要だったし、予算の中で条件に適していたのが今住んでいるアパートだった。2LDKという一人暮らしにはいささか広い間取りだったが、コンビニの一軒も近くにない立地を除けば、けっして悪くはなかった。
帰宅してすぐにパソコンを起動させた。デジカメとスマートフォンのメモリカードの中身を読み込ませている間に着替えをし、化粧を落とした。
ヘアクリップで前髪を留め、パソコンのモニターを覗き込む。ビルの屋上にいた男と歩道に立っていた男。もちろん二人は別人だった。顔も背恰好も似ていない。服装にしたって、ビルの男はスーツだったが、ガードレール越しに立っていた男はジーンズにアロハシャツだった。しかしどこか似通った雰囲気があった。
画像を拡大していくと、似ているものが何なのかわかった気がした。目つきだった。落ち窪んだような目のまわりに影ができていて、そのせいで表情が曖昧なものになってしまっている。特に歩道にいた男の方は無数の雨粒も写り込んでいて、姿自体が隠れて見えなくもない。
美月は台所へ行き、コップに注いだ水を一息で飲み干した。暗室からポジフィルムを持ち出し、投影機のセッティングをする。真咲には殺風景と言われるが、たまにポジを引き伸ばして見ることがあるので、壁をポスターやフォトフレームで飾る気にはなれない。
投影したのはあの朝に撮ったノブとドアの写真だった。映画撮影に関するフィルムは全て渡していたが、関係ない部分は手元に残していた。
ドアに残された手形はうっすらとしていて、スマートフォンで写したものよりはましだったが、肉眼で見るのと比べれば、はっきりと確認することはできなかった。しかし美月の目にとまったのは小さなドアスコープだった。あのとき起こったことが現実ならば、向こう側からこちらを覗き込もうとしていたのは間違いのないことだった。
玄関を振り返った。美月はおそるおそる近づいて、ドアスコープに片目を寄せた。無人の廊下が見える。頼りない灯りのせいで薄暗いが、何の問題もないいつもの廊下だった。
美月は目を離し、その場にしゃがみ込んだ。ドアスコープを見上げる。自分は外を見る側なのに、そこから視線が差し込もうとしている。何故だかそう感じた。
ワイパーがフロントガラスに落ちる雨を拭い続けていた。強い雨だった。ワイパーが届かないところに雨粒の筋ができている。美月はシートベルトと腹部の間に手を差し込み、ひとつ息を吐いた。蒸し暑い夜だった。ハンドルを握っている真咲の顔にも汗が滲んでいる。
交差点を左に曲がった。すでに日付は変わっていた。昼間中からぽつぽつと降っていた雨が本降りになったのは日が暮れてからだった。雨脚はますます強くなっている。
美月の住むアパートまではまだ一時間ほどかかる。雨が視界を遮っているせいか、真咲の運転はいつもとは違い慎重だった。ときおり目を凝らすようにして、フロントガラスの向こうを見やっている。
「中杉」
「何?」
「コンビニ寄っていい?」
真咲は自分の視線の先を見るように促した。美月はゆっくりと右斜め前方へ視線を動かした。少し先にコンビニエンスストアの看板が見えた。青と白、緑の三色の光が夜を照らしている。『酒・タバコ・ATM』の太い文字がいやでも目に入った。
返事を待たずに真咲はウィンカーを出した。特に反対する理由もなく、一息つくのも悪くはないと思ったので、美月は軽く頷いて答えた。
「何買うの?」
「ううん。トイレ。あんたんちの方、コンビニないじゃん?」
「寄ってけばいいのに」
「車停めるとこないし」
後方を確認しながら、コンビニエンスストアの駐車場に入った。車は一台も止まっていなかった。エンジンを切ると、雨音がいっそう強くなった。
真咲は後部座席の足元に投げ出してあったビニール傘へ手を伸ばした。
「どうする?」
「行かない。雨強いし」
美月は車の窓を爪でとんとんと叩いた。真咲は「うん」と頷き、外に出ようとドアを開けた。しかしすぐに身体を元に戻す。
「何か買ってくるものある?」
鼻の頭を擦りながら、そう訊ねてくる。美月は天井に目をやり、すぐに顔を真横の真咲へ向ける。
「ない。ありがと」
「うん」
真咲は再びドアを開けた。真夏の夕立のような、激しい雨が地面を叩いている。ビニール傘をさした真咲は車の前を通り、コンビニエンスストアの入り口で足を止めた。たたんだ傘を傘立てに突き立て、店の中へ入っていった。
美月はドリンクホルダーに手を伸ばした。烏龍茶のペットボトルを取り、一口飲んだ。すっかり温くなってしまっている。飲み物を買ってきてもらえばよかったと思ったが、自宅まで何時間もかかるわけでもないと思い直す。ハンカチで汗を拭った。
足元のハンドバッグからスマートフォンを出した。着信はなかったが、メールの受信が二通あった。一通は迷惑メール、もう一通は化粧品の通販サイトからのメールマガジンだった。メールを開封済みにして、スマートフォンをバッグに戻した
ふと窓の外へ目をやった。店の出入り口の自動ドアが開いたところだった。出てきたのはスーツ姿の中年男性だった。右手にビジネスバッグ、もう一方の手に折り畳み傘とビニール袋を持っている。雨の様子を伺いながら、店のガラス窓に沿うようにして歩き出した。何をしているのだろうかと思ったが、すぐに目的が理解できた。出入り口から離れたところに据え置きの灰皿が設置されていた。男はそこで煙草を吸い始めた。バッグとレジ袋は足元に置き、携帯電話を内ポケットから取り出す。液晶画面の白い光がぼんやりと灯っていた。
美月も煙草は吸うが、このような雨の中でまで吸おうとは思わない。男から目線を外し、正面へと戻したとき、ちょうど別の男がコンビニから出てくるところだった。ウィンドブレーカーを着ていて、顔までははっきりと見て取れなかった。先程の中年の男と同じように雨の具合を確かめ、ウィンドブレーカーのフードをかぶった。片手で襟元を締めたとき、煙草を吸っている男に気づいた素振りを見せ、少しの間を置いてからそちらへ向かって歩き出した。男は片手に持っていたレジ袋から、歩きながら中身を取り出し、袋を捨てた。美月の目の前の地面を風に吹かれた白いレジ袋が漂うように横切っていった。
ウィンドブレーカーの男は中年の男の背後に立ち、手に持ったビンで側頭部を殴りつけた。美月は「あっ」と声を出しそうになり、口を押さえた。。中年男性はうつぶせに転倒した。すぐに手で体を持ち上げるようにするが、力が入らないのか四つんばいになるのでやっとだった。その真横に立った男は片手で持ったビンを今度は後頭部へ振り下ろした。ワインかリキュールのビンのようだった。倒れた男の体の動きがひどく緩慢になった。
美月はその一部始終を、息を止めたまま見ていた。ウィンドブレーカーの男はしゃがみ込んで、倒れた男を何度かビンの底で突っついていた。反応はなかった。男はビンで頭をかきながら立ち上がり、背後を振り返った。その視線の先には、コンビニエンスストアの入り口に置かれた傘立てがあった。男はビンを置き、早足で傘立てへと向かった。ビニール傘を手に取ったが、すぐに別の傘へ手を伸ばした。濃い茶色の傘だった。
車の外部の音はほとんど聞こえていなかった。雨音だけがやかましかった。傘を手に戻った男は横たわった男を仰向けに直した。そして逆手に持った傘を振り上げ、石突を目に突き刺した。男の体が一度だけ、跳ねるように動いた。
美月は口を強く抑えた。悲鳴を上げてしまいそうだったが、その目はくぎ付けになったままだった。彼はもう一方の目に対しても同じ行動を繰り返したが、今度は男の体はピクリとも動かなかった。
不意に彼は美月の方向を向いた。コンビニエンスストア前の道路へ目をやっただけなのか、彼女の視線に気づいていたのかはわからなかった。しかし確実に美月は彼の目を見た。フードの中には暗がりがくすぶっていて、顔形も表情も確認できなかった。しかし目が合った。向こうはこちらを見ている。美月はそう感じた。
とっさに顔を背けた。助手席でうずくまるように体を丸め、息を殺した。相変わらず雨音しか聞こえていなかった。彼がどこかへ行ったのか、あるいは近寄ってきているのか、それすらも判断できなかった。両手で口元を抑え、しかし目は開けたままでいた。グローブボックスの下に置いたバッグが見えたが、護身に役立つものなど入っていなかった。
どんと音がした。と同時に車が軽く揺れた。美月は身体を震わせ、いっそう縮こまった。音は一度きりだった。どれくらいの時間が過ぎたのかもわからない。ただ雨の音だけが聞こえていた。時計の文字盤を確認しようとしたが、グローブボックスの下に潜り込んでいるような状態でははっきりと見ることができない。
意を決し、体を元に戻した。助手席に座り直し、車の前方へ目をやった。コンビニの中にいた数人の客はパニックとまではいかないまでも、外で起こった事件には気付いているようで、中から様子を伺っていたり、店員に通報を促していたりしていた。心配そうにこちらを見ている真咲の姿もあった。彼女は何かを指差していた。
美月はゆっくりと助手席の窓へと視線を動かした。先程の音はこちら側からしたはずだった。窓ガラスを目にしたとき、一瞬呼吸が止まった。男が窓に手を置いて、車内を覗き込んでいた。強く叩きつける雨に、手のあたりが赤く滲んでいた。
男の目は確かに美月を見下ろしていた。目が合ったまま、動けなかった。しかし窓ガラスを挟んで数十センチの位置にある瞳が、美月にはぼんやりとしか認識できなかった。それは夜の暗さや雨、かぶったフードのせいだけではなかった。
美月は手を差し出し、ガラス越しに男のそれに重ねた。彼の手の方がひと回りは大きかった。顔を上げた。男は彼女を見下ろしたままだった。口元が言葉を紡いだ。フードの中の表情はやはり伺えない。怖がるな。それでも口元が動いたのはわかった。美月はこくんと頷いた。
男はきびすを返し、倒れた男のところに戻っていた。逃げようとはせず、ただ彼の傍らに座り込んだ。美月が呆然と男の行動を眺めていたが、やがてわれに返り、真咲に電話を促すジェスチャーを示した。真咲はすぐに頷いて指で輪を作った。もう通報しているという意味のようだった。
間もなくサイレンが聞こえ始めた。男はそれでもその場から動こうとしなかった。パトカーの赤灯が見えたとき、ようやく美月の身体から緊張が抜けた。
警察官が男に話しかけても、彼はただその場に座っているばかりで反応しなかった。無理矢理立たせられ、引きずられるように連行されていく男を見送った。すぐに救急車も到着し、動かなくなった中年の男はストレッチャーに乗せられ、運ばれていった。
やがて一人の警察官が美月に気づき、車に近寄ってきた。中指でこんこんと窓ガラスを叩き、中を覗き込んでくる。美月はそんな彼の行動をただ見ていた。何か言っているようだったが、雨音とガラスのせいでほとんど何も聞こえていなかった。美月はじっと彼を見ることしかできなかった。
その後、美月は警察の車両で家まで送られた。調書を取る必要があるが、時間が時間だけに翌日以降に警察署まで行けばいいという話になった。真咲とは別の車になった。元々は遠回りになるものの、真咲に家まで送ってもらう予定だったが、犯人の男が彼女の車の窓ガラスに触れたため、警察がいったん預かるということになった。
「中杉、だいじょうぶ?」
「え? あ、うん、だいじょうぶ。平気平気」
別れ際、真咲は心底心配そうに彼女の手を握り、そう言った。美月は彼女の手を握り返し、笑顔を浮かべた。真咲は余計に気を回していたが、まもなく警察官といっしょに車に乗り込んだ。
美月は雨を避けるためにコンビニの中へ入った。すでにその日の営業を打ち切っており、雨をしのぐために店を開けているだけだった。中には事件を目撃した店員が残っていたが、制服はもう着ていなかった。
「災難でしたね」
「はい。え?」
「あ、いや、うん」
若い男の店員だった。入り口の自動ドアは開きっ放しの状態で固定されている。警察関係者の出入りがあったためだった。雨は一向に弱まらなかった。
「どうするんですか?」
「はい?」
「いや、これから」
店員が気さくに話しかけてくるが、美月は上の空だった。彼の言葉が耳に入ってこない。
「警察の人が送ってくれるって。家まで」
「ああ、そうなんですか。いいですね」
「この雨じゃ……」と言いながら、店員は首を前に出して、空の様子を確認する。その仕草は被害者の男と加害者の男とまったく同じものだった。
「いやいや、笑うところじゃないですよ」
にやけながらそう口にした店員に「はい?」と聞き返し、すぐに口元に手を当てた。
「変な人」
店員の男はつぶやくようにそう言った。とほぼ同時に警察官が一人、二人の下に駆け寄ってきた。車の準備ができたと告げ、広げたビニール傘を美月へ傾けた。彼自身はレインコートを羽織っているから、雨をまったく気にしていなかった。
警察官は傘をさしながら、美月を車まで連れて行った。真咲とは違い、普通の乗用車だった。運転席には別の男が座っている。男は制服を着ていなかったが、敬礼をする警察官を手で制した。
男は刑事だった。迷わずに美月をアパートの入り口まで送り届け、さっさと走り去っていった。一時間弱のドライブの間、会話はまったくなかった。美月は後部座席で俯いたまま、あのとき窓ガラスに添えた手のひらをじっと見ていた。
その夜は不思議なほどよく眠れた。久しく経験していなかった深い眠りだった。翌日目覚めたのは昼過ぎだった。スマートフォンを確認すると、真咲から二度ほど着信があり、メールも受信していた。美月はベッドに寝たままそれをぼんやりと眺めるばかりで、また眠りに落ちていった。今度の眠りは浅く、夢を見た。男が地べたに倒れ、雨曝しになっている。美月はそれをひたすら撮り続けていた。
家を出たのは空がいよいよ暮れ始める頃合いの時間帯だった。先日通ったときに行われていた下水の工事は完了したようで、何の特徴もないマンホールが地下への穴を塞いでいた。
美月はその場にしゃがみ、マンホールの蓋へ指を伸ばした。人差し指の腹が金属に触れた。黒ずんだ汚れがこびりつく。穿いていたジーンズの尻のあたりににこすりつけるようにふき取った。しかし黒ずみは完全には拭えず、いくらかが残ってしまっていた。
立ち上がったとき、電信柱が目に入った。美月の背丈よりも高い位置に穴が空けられている。すぐに電柱を登るときのステップを差し込むためのものであることがわかった。美月はその穴を覗き込む。向こう側が塞がれているため、顔を近づけてしまうと光源がなくなり、何も見えなくなってしまった。
顔を離す。今度は距離を取ったまま、片目を閉じた。黒い点のような穴をそのままの位置から見つめた。
そのとき、真横をトラックが走り抜けた。つむじ風に片手をかざし、目をつむった。エンジン音が遠ざかり、ほとんど聞こえなくなった頃に美月は両目を開き、何度かまだたきをした。
電柱に近寄った。右手の人差し指を穴に差し込もうとしたが、第一関節くらいまでしか入らなかった。抜いた指はススでまた黒ずんでしまっていた。美月は構わずに、再び片目をその穴に近寄せる。頬とおでこが電柱に触れそうになったとき、美月は反射的に身を引いた。何か見えたというわけではなかった。先程よりも暗さが深くなったように見えたからだった。
美月はバッグからポケットティッシュを出し、丸めて穴へと押し込めた。
バス停は郵便局の目の前にあった。停留所の周囲は工事中になっていて、白いラインが入っているカラーコーンが並べられている。コーンのてっぺんには、夜間に点灯するライトが取り付けられている。
美月は停留所のベンチに座り、横目でカラーコーンを眺めた。美月と共に降車した人たちは思い思いの方向へ歩き去っていて、待っていた人たちを乗せたバスは二ブロックほど先を走っていた。ベンチに座っているのは彼女だけだった。美月はおもむろに立ち上がり、そのライトに手をかけた。引っ張ってみると簡単に抜けたが、ライトは棒状のものの先端についていて、それを差し込むことでコーンのバランスがより安定する寸法になっているようだった。
抜き取ったライトを地面に置き、美月はカラーコーンのてっぺんから中を覗き込んだ。コーンを掴むように添えていた手に力を込めた。そのまま持ち上げて、望遠鏡のようにあたりの光景へ向けた。
車道が視界に入った。コーンそのものの色が滲み出したように、目に入るものに赤が染み込んでいた。美月はコーンを置き、まばたきをした。目の前にあるのは、ファインダー越しに見えるような色合いの風景だった。
「中杉」
コーンへ再び目を落としたとき、声をかけられた。真咲だった。
「何やってんの?」
「何って……何だろう」
首を傾げる美月に真咲は「何だそれ」と返す。
「そんなの持って、不審人物にしか見えないよ」
「うん」
真咲は腰に手をやり、呆れたように美月を見やった。彼女の方が背が高いから、美月を見下ろすような姿勢になる。
きょとんとした表情を浮かべる美月に首を振り、「まあいいや。行こう」と軽く肩を叩いた。そしてすたすたと歩き出した。
美月は真咲の背中を追った。淡い水色のカーディガンの裾がひらひらと揺れている。紺色のロングスカートとあわせて、彼女の身体のラインを隠している。仕事柄、タイトな服装を好む美月とは対照的なコーディネートだった。
入ってすぐのところに受付があり、警察署も普通の企業とさほど変わりはなかった。真咲が受付に立っていた婦人警官に訪問の理由を伝えると、待っているように指示をされた。真咲は上着を脱ぎ、壁に沿って設置されていた長椅子に座った。
「わざわざこんなところまで来て待たされるとは」
うんざりといった声色だった。背もたれに寄りかかり、だらしなく天井を見上げている。
美月も彼女の隣に腰を下ろした。通路を挟んで向こうにある壁に数枚のポスターが張り出されていた。警察官募集や交通安全を促す内容などのポスターだった。美月の目を引いたのは覚せい剤のおそろしさをイラストで説明しているデザインのものだった。
他のポスターは写真がレイアウトされているが、それだけがデフォルメされたイラスト中心に作られている。もっとも、麻薬中毒者の写真は公の広告では使えないから当然といえば当然かもしれない。美月も撮ったことはないが、見たことはあった。
入り口の自動ドアが開いた。若い男の警察官が入ってきたところだった。受付の婦人警官に挨拶をしてから、奥へ歩いていった。自動ドアが閉まる直前に強い風が吹き込み、美月は思わず顔を背けた。
「ああもう、風強いのやだ」
隣で真咲が風でわずかに乱れた髪を手ぐしで整えていた。美月は微笑んで、視線をまたポスターへ戻した。そのとき画鋲が外れた。左下隅をを留めていたものだけが残り、他の三つはぽろぽろと床に落下した。ポスターはだらしなく垂れ下がり、コルク製のポスターパネルが露わになる。
美月はポスターに歩み寄り、床に散らばった画鋲を拾い上げた。右下隅を留め、次いで上の二カ所を元に戻そうとする。
ふとコルクに空いた穴が目に入った。何度か貼り直しをしたのか、無数の穴が点々と空いていた。美月はそこに親指を押しつけた。でこぼこの感触が指の腹から伝わってくる。
「中杉」
背後から声がかかった。美月は指を引っ込めて、振り返った。真咲と男が彼女を見ていた。うろ覚えだったが、どうやら昨夜の刑事のようだった。美月はそそくさとポスターを直し、二人の元へ駆け寄った。「なんか、すいません。ポスター」と言ってくる男に曖昧な笑顔を返す。
調書の作成は短時間で終わった。真咲とは別室で行われ、彼女はまだ終わっていないようだった。刑事は個人差があると言っていた。美月のように何があったのかを明確に順序立てて話せる人はさほど多くない。記憶が事実を上回る。ましてや今回のようなショッキングな出来事の場合は。そう話す刑事に、そういうものかと適当に頷いた。
許可を取り、真咲が出てくるまで待たせてもらうことにした。とはいえ、取調室で待っているわけにもいかず、またあの受付の長椅子に腰を下ろした。
バッグからスマートフォンを出した。SDカードに保存された画像を一枚一枚確認していく。なんてことのない画像ばかりだった。最後に真咲といっしょにいるときに取った、喫茶店の画像があった。窓ガラス越しに通りの向こうに立っていた男を撮影したものだった。
写してすぐに確認したときと比べて、男の顔が不鮮明になっていると思えた。あのときの時点で表情の無さは強く印象に残ったが、そのときよりも顔を覆う影が濃くなっているように見える。拡大してみると、一層そう感じられた。しかしそんなことがあるわけない。
スマートフォンをしまった。トイレに行きたくなったが、その間に真咲が来るかもしれない。迷った結果、受付の婦人警官に言付けを頼んだ。真咲と美月のような二人連れは珍しかったのか、顔や服装を説明する前に「先程の方ですね。わかりました」と返事をしてきた。
ついでにトイレの場所を聞くと、階段を上がってすぐのところにあると教えられた。言われた通りに階段を上る。折り返しのところに小さな窓があった。曇りガラスの向こうはもう陽が落ちかけていた。
トイレに入り、個室で用を足した。洗面台の前に立ったとき、冷たい風が背中を撫でた。振り返ると、トイレの突き当たりには窓があり、格子がはめ込まれていた。
美月はゆっくりとそこに近づいた。格子は外側に取り付けられていて、窓の開閉は自由にできるようになっている。ガラスに手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。この窓も曇りガラスになっていて、手の跡がべたべたと付着しているのが確認できた。
洗面台に戻り、手をゆすいだ。窓ガラスとは違い、鏡には汚れ一つなかった。ハンカチで手を拭きながら、鏡の中の自分をじっと見つめた。見慣れた顔だった。
美月はもう一度蛇口をひねった。指先に石鹸をこすりつけ、今度は丹念に洗った。その間も彼女はずっと自分自身に目をやっていた。水を止め、指に残る水滴を拭き取り、ハンドソープの横に置かれていた消毒用のアルコールを手にすり込んだ。
それから彼女は身を乗り出して鏡に顔を近づけ、左手で左目の上まぶたと下まぶたを押し開いた。眼球がときおり、怯えたように小刻みに動いた。美月は右手の人差し指を伸ばし、左目の上部に突っ込んだ。
真っ白いシーツがたなびいていた。病院の屋上には何枚ものシーツが干されている。美月はその合間を縫うようにして進んだ。車椅子に慣れるまでに時間はかからなかった。
落下防止用のフェンスにギリギリまで近寄ると、車椅子に座ったままでも中庭の様子が見渡せた。美月はポラロイドカメラを顔の位置よりも高く持ち上げ、ファインダーを覗くことなくシャッターを切った。すぐにフィルムが吐き出される。仰ぐようにしていると、まもなく白黒の画が浮かび上がる。
その作業を何度となく続けていると、背後から声をかけられた。
「中杉さん」
顔だけで振り返ろうとしたが、左目に痛みが走ったため、車椅子ごと向き直ることにした。そこにいたのは看護師の女だった。干していたシーツを取り込みにきたようだった。
「大丈夫ですか? あっ、写真ですね」
まだ若く、不慣れな部分も少なくなかったが、明るさのある看護師だった。美月はふともものあたりに置いていたフィルムを彼女に手渡した。そのとき名札が目に入った。清水と記されたプラスティック製の名札だった。
清水は渡された写真を一枚一枚めくっていった。「よく撮れてますね。さすがプロ」などと軽口を叩いていたが、やがて顔色が変わった。
早足でフェンスに歩み寄り、写真と地上の様子をせわしなく見比べた。その位置からはちょうど病院の中庭が見えた。見舞い客が入院患者とひなたぼっこをしていたり、リハビリに精を出している患者がいたりする。
しかし美月が手渡した写真には人が写っていなかった。風景は確かに一致していた。人間の姿だけが抜け落ちている。
「中杉さん、これどうやって……」
清水は中庭へ目をやったまま、そう呟いた。彼女は美月のちょうど隣に立っていたが、向いている方向は逆だった。美月は答えずに、車椅子を走らせ始めた。来たときと同じように白いシーツを合間を進んだ。
ゆったりとした風が吹いていた。所狭しと干されたシーツはまだ三分の一も取り込まれておらず、カーテンのように揺れている。清水は「中杉さん」と美月を呼んだ。そして駆け出し、先回りをして、彼女の前に立った。車椅子に追いつくのは難しいことではなかった。
「これどうやって写したの? 人が全然……」
美月は清水の顔を見上げた。左目はガーゼと眼帯、包帯で完全に塞がれている。右目がぎょろりと動くのを見て、清水は唾を飲み込んだ。
視線が交錯したまま、時間が流れた。美月は右手を車輪から離し、手招きをした。清水は車椅子の横に回り、その場にしゃがんで耳を美月の口元に近づける。
「写真は嘘をつかない」
美月はそう囁いた。「でも……」と言いかける清水を遮って続ける。
「怖がらないで」
抑揚のない声に清水は震えながら頷いた。美月は彼女の肩に手を置き、とんとんと軽く叩いた。それから人差し指で背中をちょんと押した。
病院の受付で名前を記し、面会用のバッチを受け取った。真咲はまっすぐに美月の病室に向かったが、ベッドはもぬけの殻だった。車椅子もカメラもなかった。さてはまた屋上に行ったのかと、真咲は彼女の病室を出た。
調書の作成が終わったとき、美月の姿はどこにもなかった。入り口まで戻った真咲は受付のあたりにもいないのを確認してから電話をかけようとした。しかし受付の警官にトイレに行ってますと教えられ、その場で待つことにしたのだった。
しかしすぐに自分もトイレに行きたくなってしまい、婦人警官に場所を訊ねた。階段を上ったところでトイレはすぐに見つかった。中に入ると、奥に設置された窓に向かって立っている美月の後ろ姿があった。
真咲は彼女の名前を呼んだ。美月はゆっくりと振り返った。彼女の顔を見たとき、真咲は息を飲んだ。彼女は左目から激しく出血していて、しかし全く意に介さない様子でぼんやりと立っていた。
「中杉……?」
声はかすれていた。「真咲?」という答えがあった。彼女の右目は閉じられていた。だから自分の姿は見えていないのかもしれない。だから真咲は「わたしだよ、中杉」と続けた。
出し抜けに彼女は歩き始めた。大怪我をしているとは思えないくらいしっかりとした歩調だった。真咲の身体は硬直したままで、歩き出した彼女を止めるどころか、すれ違ったときに肩がぶつかり、その拍子で転倒してしまった。
美月はトイレから飛び出していった。真咲は慌てて立ち上がり、彼女を追った。トイレから出ようとしたとき、外から大きな悲鳴がし、すぐに大きな音が聞こえた。
恐る恐るトイレを出た真咲は床に残った血の跡をたどった。階段のあたりで警察官や刑事が呆然とした面持ちで階下を見やっていた。一階では救急車を呼ぶ声や怒号が相次いでいた。
真咲は階段に歩み寄り、一階の様子を目にした。美月がそこに倒れていて、ぴくりと動いていなかった。死んでしまったのかと思い、真咲は彼女の名前を叫び、階段を駆け下りた。
それが一ヶ月くらい前の出来事だった。美月は病院に担ぎ込まれ、左目の失明や右足の骨折などの大怪我を負った。「下手したら命だって危なかったかも」と言ったが、美月は「うん」と頷くばかりだった。
真咲はひまを見つけては見舞いに来ていた。気晴らしになればとポラロイドカメラとフィルムを持ってきたのも彼女だった。
エレベーターで一番上の階へ向かった。ドアが閉じようとしたとき、顔馴染みの看護師の姿が目に入った。早見という名前のその看護師は美月の担当だった。真咲がボタン操作で閉じかかったドアを開けると、「助かりました」と言いながら乗り込んできた。
「何階ですか?」
「一番上。清水さんが戻ってこなくて」
「清水さん?」
「ああ、会ったことないかな、まだ若い子で」
「……わかるようなわからないような」
エレベーターが最上階に到着した。早見が先に降り、すたすたと歩き出した。急いでいるのか、ひどく早足だった。
屋上へはさらに階段を上がらなければならなかった。見晴らしのいい風景が見られるため、出入りは特に禁止されておらず、脇にスロープも設置されているため、車椅子の患者でも問題なく外へ出られた。
真咲は階段を上った先にあるドアを見上げた。重々しい鉄扉になっている。早見は先に階段を上っていたが、不意に開いた扉に足を止めた。
向こう側から光が射し込んでいた。真咲は目を細め、手をかざした。車椅子がのそりと屋内へ入ってくる。
「中杉……?」
そう口にしていたが、逆光のために車椅子に座っている者の顔は確認できなかった。
車椅子はスロープの側へは向かわなかった。躊躇なく段差の先に進み、そのままがたがたと転がり落ちてきた。途中で座っていた者が人形みたいに投げ出され、真咲は早見が悲鳴を上げるのを聞いた。
真咲は慌てて後ずさり、尻もちをついた。早見は壁に身を寄せるようにして、車椅子を避けた。勢いが止まらないまま、車椅子は廊下の壁に激突し、大きく耳障りな音を立てた。
一瞬の沈黙のあと、真咲は急いで階段の真下まで這い寄った。そこに倒れていたのは美月ではなく、看護師の制服を着た女だった。階段の途中にいる早見を見上げると、彼女は「清水さん……」と口にして、急いで階段を下りてきた。
入れ替わるように真咲は階段を上った。車椅子の車輪がかたかたと回っている音が耳をくすぐった。扉はいつの間にか閉ざされていた。真咲は扉に手をかけ、ゆっくりと横に動かした。
屋上いっぱいに干された白いシーツが風に吹かれ、さざ波のような音を立てていた。人の気配はまるでなかった。揺れるシーツの下で、くしゃくしゃになった数枚のポラロイド写真が生きもののようにかさかさと蠢いていた。
(了)
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