十六女一家の異常な日常

十六女(いろつき)一家の異常な日常

親愛なるニュートン街の

 携帯電話のアラームが寝室に鳴り響く。泥のような眠りから全力で抜け出そうと必死で目を開ける。カーテンの隙間から光が差し込む様子を見ながら、十六女鉄也は上半身を起こし、携帯電話のアラームを止めた。
部屋の隅に置かれた少し大きめの姿見には、もう四十を迎える男にしては少し若めの、それでいて厳格な雰囲気の男が映っている。哲也は白髪を抜きながら今日一日の予定を立てる。
 そろそろ行く準備をしよう。鉄也は部屋のカーテンを開け、いつも通りの朝が来たことを確認するとリビングへ向かった。
 十六女鉄也は平凡な秀才だった。小学生の頃から勉強もスポーツも話術も、全て学年で一番になる事は無かったが、その全てが確実に上位に食い込んでいた。毎日それなりに努力をして、それなりに遊んで、それなりに怠けていた。その結果、彼は大切な家族と一軒家での暮らしを得た。鉄也は自分が世界で一番幸せとは思っていなかったが、自分の努力と見合うだけの暮らしではあるだろうと日々感じていた。しかしそんな彼の大切な家族は現在、少し歪な形になってしまっていた。
 鉄也がリビングの扉を開けるとまだ朝六時だというのに既にテレビの電源が付いていて、そのテレビの前に置かれたソファには先客が座っていた。
「おはよう有栖、今日は学校行けそうか?」
 ソファの上には鉄也が最も愛する存在、十六女有栖が座っていた。有栖は答えるどころかこちらを振り向くことさえしなかった。名は体を表すとはよく言ったもので、有栖は童話に出てくるような美しく、愛くるしく、心優しい少女だった。
 しかし優しすぎる心はいともたやすく傷ついてしまう。理由は分からないが彼女は小学五年生に進級する直前の頃から、学校へ行かなくなった。いや、学校どころか外を出歩くことも無くなった。
 そんな生活を続けてから三年、有栖を信じてはいたが、さすがに不安になってしまった彼は何度か医者に相談しに行った。しかしどの医者も口を揃えて「診察する必要がありませんよ」と答えた。確かに自分にもそういう時期があった。学校へ行かず、近所の公園や川辺で時間をつぶし、授業が終わる時間になったら家に帰る。パトロール中の警察に見つかって補導された事もあった。
「ただその期間が長いだけだ」
 彼はまだ寝ている妻の代わりに、自分の朝食を用意しながらつぶやいた。トーストと目玉焼き、コーヒーを胃に流し込む。
 元々鉄也と娘はすれ違いが多い親子だった。入社当初から周囲に期待され、いわゆるエリートの道を進んできた鉄也は、会社でも重大な仕事を任されることが多かった。一週間丸々会社で寝泊まりする、なんて事も珍しくはなかった。息子はそんな父を許してくれたが、まだ幼い娘の目には子供を顧みない、悪い父親に映っていたのだろう……
 もう家を出なければ会社に間に合わないような時刻になっていた。今日は土曜日でいつもなら出勤する必要がないのだが、重要な企画会議が朝からあるので出社しなければならなかった。しかしその前に彼にはまだやらなければならないことがあった。
 鉄也はソファの端に腰かけると一冊の本を鞄から取り出した。
「新しい本、買って来たんだ」
 鉄也はまだ帯が付いたまま、一度も開かれたことの無い新品の本を有栖にそっと手渡した。
「父さんは別にお前が学校へ行かなくても、一生無職でも構わないと思ってる。愛する娘一人一生養うくらいは稼いでるつもりだ。基文は男の子だから大学卒業したら即効家を出てってもらうつもりだけどな」
 有栖は微動だにしない。テレビに向かって、綺麗な姿勢を維持したままだ。そんな有栖の美しい長髪のなでながら鉄也は続けた。
「ただ父さんは有栖に好き勝手やっていいと言っているんじゃないぞ。有栖、お前が幸せになれない事をしちゃダメだ。他のどんな事はしてもいいけどお前が不幸になるのだけはダメだ。まだお前は準備中なんだと父さんは思っている。父さんにもそういう時期はあった。だから落ち着いて、良く考えて、幸せになってくれ」
 彼は最後にほほ笑むと立ち上がって玄関に向かって歩き出す。
 リビングを出ようとした時、後ろから微かに「ごめんね」と聞こえた気がした。「いいんだよ」と鉄也は心の中で有栖に答えた。

子供たち

「でね、お父さんが基文は大学卒業したら即効追い出すって言ってたよ」
「なんだよそれ、酷いな」
 十六女基文はまだ起きてこない母親に代わって三人分の朝食を用意していた。
「私もその時半分寝てたからよく覚えてないんだけどさ。有栖は自分が不幸にならなければどんなことをしても、どんなことしなくてもいいとか言ってたよ」
「まったく、しょうがない父親だな」
 父は昔起きたある事件がきっかけで変わってしまった。前は家族皆に優しかったのに、今は違う。実の親に蔑ろにされるというのはあまり気分のいいものじゃない。
「ずるいよなぁ、有栖ばっかり……」
 彼は包丁をまな板の上に置き、ソファに腰掛ける有栖を見つめる。
「しょうがないじゃん、そんなの……」
 リビングに気まずい静寂が生まれる。
 やれやれとため息と吐くと、基文は熱したフライパンに卵を三つ割って入れた。卵を焼く音と土曜日の朝からやかましいテンションで突っ込みを入れる女芸人の声だけがしばらくリビングを支配していた。
 確かにしょうがないのかもしれない。有栖は父にとってたった一人の実の娘。可愛くてしょうがないのだろう。でも基文はそれを素直に認められなかった。
 彼は両親を尊敬し、愛していたが、たまに父親を殺してやりたい衝動に駆られた。しかし基文はそんな突発的な殺意に身を預けるほど愚かな若者では無かった。もっとも、その殺意に身を預けたとして、体つきが貧弱で、特にスポーツをやったことがない自分が、大学まで柔道を習っていて、百九十センチを超える長身の父を殺せるとは思えなかった。
 フライパンの上の卵はいつの間にか少し硬めのスクランブルエッグになっていた。自分で自分の悪態をつきながらそれを皿に移すと、これまた硬めの、少し焦げすぎたトーストを同じ皿にのせてテーブルへと運んだ。
 テーブルの上には三人分のスクランブルエッグ、サラダ、トーストが並ぶ。
「おにいちゃんは今日何か予定あるの?」
「今日はこれから部活で学校へ行くけど」
 彼は熱々のスクランブルエッグにケチャップをかけながら答える。
「そうなんだ……」
 少女は静かに俯いてしまった。基文はグラスと麦茶を取り出し、グラスに麦茶を注ぎ始めた。
「どうしたんだよ」
「おにいちゃん、最近私にかまってくれないよね。前は休みの日に二人で遊んだりしてくれてたのに。私のこと嫌いになったの?」
「は?だって俺もう三年生だよ?今年で引退だから部活に気合い入れて取り組んだり、受験勉強したりで忙しいだけだよ。嫌いになったわけじゃない」
 少女は俯いたまま「それだけじゃないくせに」とつぶやいた。
 ばつが悪くなった彼は朝食を急いで麦茶で流し込むと席を立った。自室へとドラムスティックの入ったケースを取りに行く。基文は吹奏楽部でパーカッションを担当していた。
 幼い頃、父に連れて行かされたよくわからない海外のバンドの日本公演を見て以来、基文はロックバンドが好きになった。会場中を取り巻く熱気。その熱気を切り裂くように、叩き潰すように鳴り響く音楽。幼い基文は一瞬で魅了された。特に基文はドラムに最も魅力を感じた。心臓を直接叩かれたのではないかと思うほどの振動を今でも覚えている。中学に入学すると、本当は軽音部を設立しようとしたが認められず、結局吹奏楽部に入部してパーカッションを担当した。
 机の上に置かれたスティックケースを学校指定の鞄に入れて肩にかける。時刻は八時十分。部活は九時開始で学校までは三十分。今家を出れば丁度いい時間に着く。
 階段を駆け降りて玄関へ向かうと、そこには少女が立っていた。
「どうした?」
「……行く」
「え?」
「私も途中まで一緒に学校行くって言ったの!!」
 彼女は基文を怒鳴りつけるとずかずかと外へ向かって歩き出した。いったい彼女にどんな心境の変化が訪れたのか。あの様子から察するに元凶は自分だ。
「なんで怒ってんだよ・・・」
 彼もあわてて靴を履くと玄関の扉を開けて外へ出た。

水面上のアリア

 十六女一家は海沿いの町に住んでいた。漁業が盛んで、観光客も多く来る。今は六月だからまだ大したことはないが、これが七月、八月と時間が経てば海水浴目当ての観光客で溢れかえる。
「できるだけ自然に囲まれた場所で、子供達には真っ直ぐ元気に育って欲しい」
 と、いつだったかは忘れたが鉄也が言っていた。子供たちの健やかな成長を願ってわざわざ通勤に不便な場所に家を建てた。しかし現実は上手くいかずこんな歪な家庭が生まれてしまったわけだ。そう考えると不憫でしょうがなかった。
「今日はいい天気だな」
「そうだね」
 二人は短い会話をたまにはさみながら二人は海沿いの国道を歩いていた。海と人と空。なんとも穏やかで平和な風景。そんな平和な風景を壊す出来事が二人がT字路まで約二十メートルのところで起きた。
「あ、やべっ!!」
 目の前でチカチカと点滅を繰り変えす青信号を見ると走り出した。どう考えても間に合わない。
「おにいちゃん!!」
 少女は叫びながら彼の手を引こうとするが、細く伸びた青白い手は彼の手に届かなかった。基文が赤信号にもかかわらず横断歩道に飛び出すと、最悪の事態が起きた。トラックが猛スピードで走ってきた。
「危ない!!」
 ウソだ!!おにいちゃんは死なない!!イヤだよ!!
 彼の体は今にもトラックに吹き飛ばされそうだ。一瞬にして彼女の心を絶望が支配して、無意識の内に目を閉じた。暗闇の中で彼女の耳には衝突音は聞こえず、ブレーキの音だけが聞こえた。
 恐る恐る目を開けると、「気をつけろバカヤロー!」と怒声を浴びせながら去っていくトラックの運転手と、すいませんでした謝る彼の姿があった。
 彼女は胸を撫で下ろすと涙目になりながら兄に駆け寄る。
「あ、あの……」
「言いたいことわかる?」
「う、うん……」
「じゃあ今私が何しようとしてるかわかる?」
「は、はい……」
 右手を掲げてビンタの構えをとる彼女を目の前に、彼は覚悟を決めて目を瞑る。
「……まあ、いいよ。許す、無事だったし。でも本当に気を付けてよね」
「はい……」
 心底反省している様子の彼はとぼとぼと歩きだした。歩き始めてしばらく経った時のこと。
「あれ?先輩?」
 背後から女性の声が聞こえてくる。二人で同時に振り替えるとそこには一人の、長めの髪を二つに分けて三つ網にした少女が立っていた。
「先輩、おはようございます」
「お、香奈ちゃん。おはよう」
 香奈と呼ばれた少女には見覚えがあった。香奈という名前も覚えている。多分彼女は有栖が小学生の頃、同じクラスだった女の子だ。そういえば吹奏楽部に所属しているという話を基文から聞いたことがあった。
「先輩に借りたCD、凄いよかったです!」
「お、本当に?どの曲が良かった?」
「八曲目が特に良かったです!」
「ああ、ペーパートリップ?あれは確かに・・・」
 二人は楽しそうに話しながらどんどん学校に向かって歩いていく。二人が並んで歩く姿は楽しそうで、輝いていて、何より似合っていた。
「何でおにいちゃん、私と喋ってる時より・・・」
 やっぱり帰ろう。彼女は踵を返して歩き始める。少し歩いて振り返っても彼は気づいていないみたいだった。それが悔しくて彼女は走り出す。
 家に帰ろう。さっきのテレビ番組はまだやってるだろうか?
 彼女の頬を大粒の涙が伝った。

火曜日/空室

 十六女朱音が目を覚ましたのは時計の針が九時を回ってしばらくしてからだった。せっかくの土曜日、夫と子供たちは仕事や学校が無いのだからたまにはいいだろう。そう思いながらリビングへ向かうと彼女は自分が自分で嫌になってしまった。
 使用済みの調理器具、汚れた食器が三人分、テーブルの上に置かれた朝食。
 そういえば夫は会議があるとか言っていた。基文は・・・部活か。息子が用意してくれたであろう朝食を見ると朱音は情けなさと息子に対する感謝から大きくため息を吐いた。
「ありがと・・・」
 せっかく用意してくれていたが今朝はあまりお腹が空いていない。テレビでも観よう。ソファへ移動すると、そこには有栖と新品の本が仲良く鎮座していた。
 朱音は目の前が赤く染まるような気がした。刹那、朱音は有栖を思いっきり殴り飛ばす。ソファから落ち、倒れた有栖を更に踏みつける。
「キャッ!!」
 耳を突くような悲鳴がリビングに響き渡る。しかしそれは朱音の攻撃を止めるには至らなかった。
「何であんたなのよ!!あんたじゃないでしょ!!私でしょ?私があの人に一番愛されるべきでしょう!!!」
「おかあさん、や、やめて!本当に!」
「うわあああああ!」
「おかあさん!!」
 朱音は狂ったように叫びながら有栖を踏み続ける。最後の一撃に怒りや悲しみ、悔しさを乗せて踏みつけると有栖はぐったりとうなだれ、叫び声もあげない。いや、叫ぶことができなかった。多くの感情が乗ったあまりに重い暴力も、朱音の心の靄を晴らしてはくれなかった。
「おかあさん……」
 静寂に蚊の飛ぶような声が吸い込まれる。
 どうすれば、どうすればいいの……?
「コワシテシマエ……」……え?
 どこからか声が聞こえる。
「壊シテシマエヨ……」だめ、止めて……
 声は自分の中から聞こえていることに気付いた。
「何故拒ム……?」だって、だって……
 だってそんな事したら私の大好きなあの人が……悲しむから……
「モウ十分ダロ……?」もういいの……?
 もう我慢しなくてもいいの?皆許してくれるの?あなたはどう?
 朱音が有栖を見下ろすと有栖は優しく笑って「いいよ」と言ってくれた気がした。朱音は泣きながら笑った。それが都合いい妄想だとしても、幾分か救われた気にはなる。涙が頬を伝いそっと床に落ちる。朱音は包丁とボストンバックを用意した。
 そして朱音は有栖に刃を立てる。

市民

 予想よりかなり早く会議が終わった。こんなにあっさり終わると逆に不安になってしまう。会議が終わる頃には日も沈んでいるだろうと思っていた。しかしまだ午後一時だ。鉄也は会社の喫煙室で携帯電話をいじっていた。
「あ、十六女さん。お疲れ様です」
「ん?お、川島か」
 川島は十六女の部下だ。川島はまだ若いのに有能で、信頼のおける部下だった。いや、若いのに有能というのはおかしいか。
 無能な人間の多くは生まれたときから死ぬまで無能で、有能な人間の多くは生まれたときから死ぬまで有能なのだ。これはいつだったか川島が言っていた言葉だ。全てがその例に当てはまるわけではないだろうが、多くはそれに当てはまるだろうな、と鉄也はその持論を初めて聞いた時思った。
「お前子供はどうだ?もうだいぶ大きくなったんじゃないか?」
「そうなんですよ。子供の成長ってビックリするくらい早いですよね」
「ああ、たまに不安になるくらいにな」
 鉄也は煙草の火を消すと、すぐに新しい煙草に火をつける。
「お前子供がまだ小さいんだから禁煙したらどうだ?」
「禁煙ですか?」
 川島は苦虫を噛み潰したような顔になる。その表情はただの苦虫ではなくかなり苦く、大きい苦虫を噛み潰したような顔だ。川島には今年産まれたばかりの娘がいる。写真を見せてもらったが、なかなか可愛い女の子だった。
「絶対嫌ですね」
「絶対か」
「絶対です。禁煙なんて愚の骨頂、馬鹿のすることですよ。ただでさえやりたいことを社会に、物理に、道徳に縛られてるのに、さらに自分を束縛するなんてあり得ません」
「俺でも禁煙したぞ、子供たちがまだ小さかった頃は」
 鉄也は吐いた煙の先を眺めながら言った。
「そう、子供たちが、な……」
 川島が少し戸惑うような表情を見せた。
「いや、他人に押し付けるようなことじゃなかったな。すまん」
「い、いえ、あの、その、なんか・・・すいません」
「謝んなくてもいい、当たってる」
 鉄也は笑いながら煙草の火を消すと喫煙室を出た。
 喫煙室を出ると同時に携帯電話にメールを着信する。送信相手の欄には「十六女有栖」と表示されている。急いでメールを開くと、「今朝はありがと。ごめんね」とだけ書かれていた。
 鉄也は優しそうにほほ笑むと「いいんだよ。お互い頑張ろうな」と打ちこんで返信した。

どこでもないところ
 
 十六女家の前に一台のタクシーが停まる。それをもう十分以上外で待っていた。朱音は急いでそれに飛び乗る。
「どこまで?」
「愛宕山の辺りまで。詳しい場所は近づいてきたらまた指示します」
「了解」
 寡黙な運転手で助かった。もしお喋りな運転手だったらこのボストンバックの中身についてあれこれ聞かれたに違いない。決して自分が間違いを犯したとは思っていない。しかしこの中身がバレるのは色々と厄介なのだ。
 あの後有栖の処理にだいぶ手間取った。腕、足、指、首、腹、腰、頭。今でもあのなんともいえない感触が自分の両手を支配している。
「はあ……」
 朱音は膝の上に置かれたボストンバックに目を落とした。夫にはなんと言おうか。夫は何時頃に帰ってくるだろうか。今の時刻を確認しようとポケットを探ってみるが、携帯電話を家に忘れてきてしまった事に気付いた。
「運転手さん、今何時でしょうか?」
「はい。え~、今十三時十八分です」
「ありがとうございます」
 十三時。大丈夫、まだまだ時間はある。会議が十七時より早く終わるとは思えないし、会社から家までは約二時間かかる。つまり自分の予想が正しければ朱音に与えられた猶予は後最低五時間から六時間。「これ」を処理し、その後の策を弄する時間は十二分にある。
 携帯電話を忘れてしまったのは痛い。しかし致命傷には至らないだろう。
 愛宕山へ向かう途中、子供たちの通う学校の前を通りかかった。
「あの子は、どう思うのかな・・・」
 不自然なほど白い、改修したての校舎を眺めながら朱音はつぶやいた。あの子にとって有栖はどんな存在なのだろう。夫と同じように愛すべき存在なのか。私と同じように忌むべき存在なのか。
 どうか私と同じでありますように。
 朱音を乗せたタクシーは歪な願いと共に校舎を過ぎ去った。

ニコラとテスラ

 基文は帰宅すると真っ先に部屋へと向かった。空腹感と睡魔が自分の体を乗っ取るために戦った結果、睡魔が勝鬨を上げたからだ。
 時刻は十五時を少し過ぎた辺り。三十分寝ても次の待ち合わせには間に合う。昼寝には丁度いいぐらいだ。
 ドアの前で周囲を確認し、自分以外の人間が居ないことを確認すると、素早くドアを開け体を部屋の中へ滑り込ませる。基文はドアを閉まるとまずため息をつく。
 そして壁に貼られた大きなピンナップを愛おしそうに見つめる。
「ただいま、有栖……」
 ピンナップの中には幼い日の妹がでかでかと印刷されていた。カーテンが閉められて光の射さない部屋には壁、床、天井に至るまで有栖の写真やピンナップ、ポスターで埋め尽くされていた。まだ小学三、四年生のころだ。
 部屋の元の壁面は全く見えず、全てが幼い有栖で埋め尽くされていた。
「こんなの、他の人間に見られたら、それがたとえ家族でも異常だと思われちゃうよな」
 基文はピンナップの中の有栖に口づけをする。
「おやすみ」
 基文は部屋の四方八方で優しく微笑む有栖に見守られながら、静かに眠りについた。

沈黙
 
 鉄也は静かに玄関のドアを開ける。音もなく家の中に入り、靴を脱ぎ、リビングへ向かう。愛しい有栖はリビングにいるだろうか。
 彼は期待を胸にリビングへ踏み込む。しかしそこに有栖はいなかった。
「あ、父さん。おかえり」
「基文……ただいま。有栖は、どこだ?」
「有栖?……そういえば俺も学校から帰ってきてまだ見てないな。部屋にいるんじゃない?」
「……そうだな」
 鉄也は有栖の部屋へと向かう。昼のメールは多分彼女が変わろうとしているサインだ。彼女が死ぬ気で送ってくれたそのサインを見逃すわけにはいかない。
「有栖、入るぞ」
 ドアをノックしてドアノブに手をかける。返事を待つ間もなく、鉄也は部屋に入る。
「有……栖……?」
 しかしそこに有栖はいない。いったいどうなってるんだ?有栖が外へ出かけたとは考えられない。じゃあ家の中にいるはずだ。
「有栖!!」
 鉄也は少し焦りながらトイレ、風呂を調べる。続いてキッチン、玄関、倉庫、寝室。家の中を全て調べ終えたが、そのどれもが彼を安心させてはくれなかった。
「おい基文!」
「うお!なんだよ!」
 今まさに口の中へ運ぼうとしていたポテトチップスが基文の手からこぼれ落ちる。
「有栖がいない!!お前本当に何も知らないのか!!」
「え?う、うん」
「一緒に探せ!!」
 鉄也は家を飛び出した。万が一という可能性もある。外も探しでみよう。しかし有栖が一人で外へ出るはずがない。じゃあ何故家の中に居ない……?
 空き巣、強盗……しかしセキュリティーのしっかりした家だし、土曜の昼間にそんな事を企てる頭の足りない奴らなら、もう捕まってるはずだ。何より家を荒された形跡が無かった。なら答えは一つ。家族の誰かが……
 鉄也はその恐ろしい考えを頭から振り払おうとした。家族が、大事な有栖に危害を加えるはずがない。しかし、理論的に考えれば家族以外に有栖を拉致することはできない。
 ……鉄也は右ポケットから携帯電話を取り出して電話帳から「十六女朱音」を選択して電話をかける。有栖に何かするとしたら妻だ。間違いない。鉄也は怒りのあまり携帯電話を握りつぶしてしまいそうだった。

サイレン

 基文は自室のベッドに座り彼女を待っていた。
 まさか父親がこんなに早く帰ってくるとは、予想外だった。まあいい。今この家には自分一人しかいない。存分に彼女を愛でることができる。あの美しく伸びた長い黒髪を、小さな体を、白い肌を、妖しく光る唇を。
 有栖が家に居ない。これは多分嫉妬に狂った母親が有栖を「処分」しに行ったのだろう。しかしあれを「処分」するのはあまりたやすいことではない。帰ってくるのはどう考えても十七時を超えるだろう。後一時間は彼女を愛することができる。
 そんな邪な計算をしているとインターホンが彼女の来襲を告げる。基文は急いで玄関へ向かい扉を開ける。
「いらっしゃい、香奈ちゃん」
「おじゃまします」
 彼女の笑顔を見ると基文は胸の奥が熱くなるのを感じる。
 そっくりだ。
 この笑顔は有栖の笑顔にそっくりだ。自分がもう決して愛することができない、有栖にそっくりなのだ。
「じゃあいつもの部屋で待ってて。何か飲み物持って行くから」
「ありがとうございます」
 彼女は頬を赤く染めた。
 なんて美しいんだ。基文は自分の股間が硬くなるのを感じた。

冷血と作法

 もういったいどのくらいこの穴を掘り進めているのだろうか。もうすでに穴の深さは1mを超えていた。もう十分だろう。
 朱音が一息ついていると着信音が鳴った。携帯電話のディスプレイには「十六女鉄也」と表示されていた。しまった、感付かれたか。朱音は少し迷った後、通話ボタンを強く押した。
「もしもし」
「今どこにいる」
 感情の昂りを感じさせない、しかし恐怖を感じる声だった。
「今買い物中よ」
「どこまで行っているんだ。やけに静かじゃないか」
「え?えぇっと、買い物は終わったんだけどちょっとお散歩してるのよ」
「本当のことを言え」
 朱音は自分の首筋を冷や汗が流れ落ちるのを感じた。
「有栖をどうした!!」
 ここで初めて夫は感情を露わにした。朱音は決意した。どうせ隠し通せることではない。
「愛宕山に来て。そこで全部話す」
 夫はしばらくの沈黙の後、「二十分で着く」とだけ言って電話を切った。
 朱音はその場に膝から崩れ落ち、泣いた。ひたすら泣いた。
「ごめんね、ごめんね有栖・・・」

水曜日/密室

 基文は少女を前に唾を飲んだ。
 目隠しとヘッドホンをつけ、三つ網をほどく。ほどけた髪はまるで、夜空の様な漆黒の光を放つ。漆黒の光はまるで川のようにベッドを流れる。
 本当は目隠しも、ヘッドホンも全部取っ払って彼女を愛したかった。しかしそれではだめなのだ。多分彼女は真実を知ったら傷つき、もう二度と基文の歪な愛を受け取ってはくれなくなる。
 基文は彼女の下腹部に、そっとキスをする。
「うっ」
 彼女は小さく声を漏らす。なんて可愛らしい声だ。
「凄く可愛いよ」
 ヘッドホン越しに囁く。しかし彼女に声は届いていないようで、ひたすら「恥ずかしいです」と首を振り続けていた。もっとも、本気で抵抗しなかった辺り、彼女も満更ではないのだろう。
 基文はそっと彼女の柔らかい唇に口づけをする。いやらしい糸が二人の唇を繋ぎ、そっとちぎれる。
「本当に可愛いよ、有栖」
 ……彼女の耳には、届かない。

泥の中の生活

 鉄也は目の前の光景をただじっと見つめていた。大きく口を広げた穴。泥まみれのボストンバック。そのボストンバックよりひどく泥にまみれた妻。妻の右手に握られた錆まみれのシャベル。
「どういうことだ」
 驚くほど冷静だった。無論、鉄也にはわかっていた。ボストンバックの中身も、その穴の意味も。
「このボストンバックの中身、何だと思う」
「有栖だ」
 蝉の機械的な鳴き声と、どこかで遊ぶ子供の声だけが鼓膜を揺らす。朱音は微動だにしない。
「そうなんだろ」
 突然、朱音は俯き、肩を揺らす。両手で目を覆い、嗚咽を上げ始める。そして、首を縦に振った。
「ふざけるな!!!」
 鉄也は両足を踏みならし朱音の前まで走り、襟を掴む。
「俺達の、たった一人の実の娘なんだぞ!!それを何で!!どうして!」
「あなたはいっつも有栖ばっかり!!私や基文や優子のことなんて考えもしない!」
「お前達も愛している!しかし有栖は学校にも行かず、外にも出ない!一日中テレビを観るか寝ているか本を読むか!心配して当たり前だろ!」
 自分の両目から涙が溢れてくるのが鉄也にはわかった。体中の水分が両目から逃げ出そうとしているようだ。
「ふざけるな!」
 鉄也は堪え切れなくなり朱音の右頬を思いっきり殴る。
「どうやって殺した!!同じ方法でお前も殺してやる!」
「もうやめてよ!有栖がかわいそうじゃない!」
 何を言ってるんだ、この女は。お前は有栖を殺しただろう。鉄也の怒りはもう我慢のできない領域に達していた。落ちていた大きめの石を拾い、振り上げた。
 その時、朱音は恐怖と怒り、悲しみ、悔しさ、同情が複雑に入り混じった瞳で叫んだ。
「有栖はもう死んだのよ!!」

犬猫芝居

 今家に入れば丁度いいだろう。養父の部屋のカーテンは閉め切られている。
 十六女優子は静かに家の中に侵入し、音をたてないように鉄也の部屋の前へ近づく。部屋の中からは男女の愛し合う声が聞こえてくる。
 優子は唇を真一文字に結んで部屋のドアを蹴り開ける。
「おにいちゃん!!」
「ゆ、優子!!」
「え?何?え?」
 優子はずかずかと香奈の元へ歩いて行きヘッドホンを取りあげ、目隠しを外す。
「え?優子ちゃん?」
 優子は肩で息をしながら基文を睨みつける。基文はただひたすら茫然自失としていた。
 そんな基文の頬に思いっきりビンタを炸裂させる。
「優子ちゃん、何やってるの!!」
 香奈が止めにはいる。こんな、こんないい子を義兄は、こいつは!!
「香奈ちゃん、落ち着いて聞いてね」
 優子は出来るだけ平静を装って告げる。
「お兄ちゃんはね、基文はあなたを香奈として愛していなかったの」
 優子は一呼吸置いて続ける。
「こいつは香奈ちゃんを有栖おねえちゃんとして愛していたの!!」

土曜日/待合室

「これは有栖じゃない、あなたもわかってるでしょ」
 朱音はボストンバックを開けて有栖の頭部を取り出す。綺麗な翡翠色の瞳が鉄也を見つめ、鉄也もまた、朱音の問いかけに答えることもせず、ただ有栖の瞳を見つめていた。
「最初は私とあなた、基文で有栖の誕生日プレゼントを探しに行った時に見つけたお人形だった。まだ優子ちゃんが養子として家に来る前」
 風が木の葉を揺らし、蝉が鳴き止む。
「基文がこの人形有栖にそっくりだねって言って、私がそうねって頷くとあなたがこれを誕生日プレゼントにしようって言った。これを渡した時の有栖、凄く嬉しそうだった」
 朱音の顔にほほ笑みが浮かぶ。
「有栖、いつもこの子と一緒でだった。旅行の時も、放課後も……あの事故の時も」
 一瞬で朱音の顔からほほ笑みが消える。代わりに朱音と鉄也、二人の顔には深い絶望と悲しみがうかがえた。
 有栖は交通事故で亡くなった。まだ小学四年生だった。これから楽しい事も、苦しい事も、たくさん待ち受けていたのに。ただの鉄の塊が、彼女の命をたやすく奪って行った。
「私たちは皆泣いて……ずぅっと泣いて……葬儀の時……」
 そう、葬儀の時いつも一緒だったこの人形を、有栖を棺に入れようとした時。
「基文が、待ってって。有栖を棺に入れないでって・・・」
 あれが全ての始まりだった。あれから私たち家族はこの人形を有栖の代わりにしてしまった。あの頃は夫だけじゃなく、私も、基文もこれを有栖だと思いこもうとしていた。もちろん本気でこれが有栖だと思ってたわけじゃない。ただ上辺だけでもそう思い込むことで、少し救われた気がした。
「それで、人形を有栖の代わりにした日々がしばらく続いた後、優子の両親も・・・」
 優子は近所に住む有栖と同い年の女の子で、有栖と基文ともよく遊んでくれていた。優子は基文のことをおにいちゃんと呼び、有栖のことをおねえちゃんと呼ぶほど二人を慕っていた。優子と有栖は良く似ていた。本当に姉妹なんじゃないかと思うほど。二人とも美しい長髪で、背丈も同じくらい。笑った顔や困った顔なんかそっくりだった。
 そんな優子の両親も交通事故で亡くなった。有栖はトラックに轢かれて死に、優子の両親は買ったばかりの自動車のブレーキが利かなくなり暴走。三人とも不運だった。
 一人遺された優子は優子の親戚と私達で話し合った結果、友達も多いこの地域で育てるのが一番ということになり、私達が引き取った。
「優子が来て、私と基文はこのままじゃいけないって。でもあなただけはずっと人形を有栖だと思い込んで生きている!いい加減目覚めて!今を見てよ!」
 鉄也はこちらを向き、涙を拭いて語り始めた。
「わかってた。本気でその人形が有栖だなんて思ってなかったよ。ただ時々、その人形の中には有栖が、有栖の魂が宿ってるんじゃないかって。そう思うと、救われたんだ」
 鉄也の目には再び大粒の涙が浮かんできていた。
「でもそんなの嘘だ。自分で自分に言い聞かせることで逃げてたんだ。そんな身勝手な嘘にお前達を巻き込んでいる事も知っていた。有栖のメールは優子が、部屋を使っているように見せかけてくれるのは朱音、お前がやってくれてたんだろ?」
 朱音は静かに頷いた。
「なんで、わかったの……」
「昼届いたメール……俺と優子と、その人形しか知り得ない内容でな……人形はメールを打てない」
 鉄也は自嘲気味に笑った。
「嘘から目覚めるのが怖かった。俺は壊れてしまうんじゃないかって。俺は弱い人間だから。だから、だから……」
 鉄也は崩れ落ち、うずくまり、声をあげて泣き始めた。
 朱音は人形の目を見つめる。
「ごめんね、今までありがとう」

ヨーロッパ

 三人分の影が夕陽でオレンジ色に染まった部屋に落ちる。
「私は、有栖おねえちゃんから何度も相談を受けてたの」
 優子は語り始める。
「おにいちゃんから性的なイタズラを仕掛けられてきてるって。それが嫌だって。でも嫌とは言えないって」
 優子は部屋の椅子に腰かける。
「幼かった私は何を言ってるのかわからなかった。わからなかったから嫌だって言えばいいじゃんとしか言わなかった。いえ、それしか言えなかった。でもそんな簡単に解決する問題じゃなかった。結局有栖おねえちゃんは事故で亡くなるまで、お兄ちゃんに性的イタズラを仕掛けられていた」
 香奈が目を見開き、その目で基文を見つめる。基文はその視線から逃れるように下を向いている。
「有栖おねえちゃんが亡くなって、十六女家の人間は皆あのお人形を有栖おねえちゃんの代わりとして可愛がり始めた。それで私の両親も亡くなって、私がこの家に養子に来ると朱音お母さんはこのままじゃいけないって目を覚ましてくれた。お兄ちゃんも私が来たから目を覚ましたって、朱音お母さんはそう思ってる」
 優子の中にどんよりとした暗闇が広がる。
「実際はそうじゃなかった。実際は私が来たから。有栖お姉ちゃんと同い年で、同じくらいの背格好で、同じ長髪の私が来たからだった」
「そんな、それって!つまり先輩は優子ちゃんにも!」
 香奈は優子が皆まで言わずとも何を伝えたいかがわかったようだった。優子は肯定も否定もせずに続ける。
「でも私だってそんなの嫌だった。義理とは言えおにいちゃんなわけだし、それが有栖おねえちゃんの代わりってわかってればなおさらね。でも居候の身分でそんなこと言ったら、もしかしたら家を追い出されるかもって。だから言えなかった」
 優子は自分の頬を涙がつたっているのに気付く。意識しないうちに泣いてしまっていたようだ。
「でもある日言ったの。嫌だって。そしたらお兄ちゃん、そうかって。そう言ってそれ以来どこか私に冷たくなった。もちろん家族から見て不審に思わないぐらいだけど。でもお兄ちゃんはすぐに代わりを見つけたの。それが・・・」
 優子はベッドに座る香奈に視線を送る。
「そう、だったんだ」
 優子は自分でなんて残酷な事をしているんだろうと自己嫌悪していた。何も悪くない香奈ちゃんを巻き込んで。多分これは香奈ちゃんに対する嫉妬なのかも知れない。それをもっともらしく言って、嘘の正義で本音を隠して……
 本当は優子は基文が好きだった。ただ有栖として愛されるのが嫌なだけだった。
「お兄ちゃんは嘘をついてたの。香奈ちゃんを愛してるんじゃなくて、香奈ちゃんに似ている有栖お姉ちゃんを愛してたの」
「……」
 香奈は黙って立ち上がり、服を着始める。そして着替えが終わると黙って部屋を出て行った。
 優子も黙って部屋を出ようとした。
「待ってくれ」
 基文が優子を背後から呼び止める。しばらく沈黙が続く。しかしそれでも優子は義兄の言葉を待った。夕陽が沈黙に色をつけるのではないかと思うほどの長い時間の後、基文は口を開いた。
「優子、ごめん。それから、ありがとう」
「……うん」
 優子が部屋を出ると、二人はほとんど同時に泣き始めた
 これでこの家族が抱えていた嘘は全て無くなった。有栖という幼い少女を中心に歪に固まっていた家族が、少しだけ元に戻ったのだ。
 夕日は静かに海に沈み、夜が訪れようとしていた。

日曜日/浴室

「あれから香奈ちゃんとはどう?」
「事情が事情だからって普通に接してくれてるよ。もちろんフラれたけどな」
 基文と優子は声を合わせて笑った。
 あの後朱音と鉄也が帰ってきた。鉄也は今までごめんと皆に謝った。基文の一件は黙っていようと思っていた優子だったが、基文本人が自分の嘘を語り始めた。そしてその後、基文は部屋中に貼ってあった生前の有栖の写真を持ってきて、これと有栖お気に入りの人形を一緒に焼いてしまおうと提案した。焼いて有栖の居る場所まで届けようと。写真や人形を寺とか霊能力者を介さずに焼いてしまおうとはなかなかスリリングな提案ではあったが、十六女一家は皆それに同意した。
「よいしょっと」
 喪服に身を包んだ鉄也は抱えていた段ボールを地面に置く。
「ここなら有栖のとこまですぐ届くだろ」
 鉄也は辺りを見回す。海に囲まれ、視界を阻む大きな建築物など一つもない。
「ここ、昔私達と優子ちゃんの家族で来たことあったわよね」
 髪をかき上げながら喪服に身を包んだ朱音が言う。
「うん、あったね」
 基文の視線は宙をとらえている。きっと当時を思い出しているのだろう。鉄也がポケットからマッチを取り出し、火をつけ始めた。
「有栖はもういないんだな」
 なかなかマッチに火がつかないようで、何度もマッチを擦りながら鉄也が言う。
「うん、おねえちゃんはもう、いないんだよ」
「そんな当たり前のことわかってるつもりでいた。でも本当はわかってなかったんだな、俺と父さんは」
「違いない」
 マッチにやっと火がつく。
「行くぞ、いいんだな」
 鉄也が全員の顔を見る。皆がほとんど同時に首を縦に振る。
 円になって箱を囲み、全員がそれぞれの思いとともに箱を見つめる。箱の中には人形と写真、それから有栖の大事にしていた品がいくつか。それを覆うように色彩豊かな花が入っていた。
 その花の上にマッチが投げ入れられる。すぐに火は花を燃やし、箱を燃やした。どんどんと炎の勢いは強くなり、煙は天高く伸びて行く。
「……多分ね、基文と鉄也さんだけじゃなくて、私も認めたくなかったんだと思う。有栖の死を……」
 朱音が誰に向かって言うでもなく、ただ煙を見つめながらぽつぽつと語り始めた。
「だから、いつまで経ってもあの人形を……真実を鉄也さんに突き付けられなかったんだと思う……」
「……そうか」
 鉄也は一言。一言だけそう言って朱音を胸に引き寄せた。
「有栖、ごめんな」
「やっとこの人形を届けられるな」
「有栖、皆あなたの事をいつまでも愛しているからね」
「お姉ちゃん、ありがとう」
 全員の目に涙が浮かんでいた。それは決して煙のせいではないだろう。

月曜日消失

 基文は暇つぶしに散歩をしていた。
 学校は夏休みに入り、毎日吹奏楽部の練習。まともに遠出する時間もなかった。
「有栖はもういないんだな……」
 有栖に関係する物を焼き、有栖の元へ届ける。それは自分が提案したことだった。それで皆救われる。未練は断ち切られ、後には有栖への思いだけが残ると。実際自分以外の人間はそうだったみたいだ。
 あの後父が言っていた。
「俺は今まで優しい嘘っていうのはこの世に必要なんだと思ってた。それで多くの人間が救われるんだってな。でも今回それは違うって思ったよ。嘘は優しくても嘘だ、必要無い。まあ今回の一件だけ見てそう判断するのは怠慢かもしれんがな」
 そんな事を言いながらあの人は美味そうにビールを飲んでいた。
「優しい嘘は、必要だよ」
 基文は誰に伝えるためでもなくつぶやいた。
 結局自分一人、有栖への未練が残っている。そもそも遺品を燃やし、人形を燃やし、写真を燃やしただけで未練が断ち切られるわけがない。わかりきっていたこと。ただあの時は、ほんの少しヒロイックな気分に陥っていたのだろう。
 どんよりした気持ちを胸に抱えたまま歩いていると、古びた店のショーウィンドウに目を惹かれた。
 そこには長髪の美しい、白い肌の、どこか儚げな人形が鎮座していた。
 どこかからか声が聞こえる。
「この人形、有栖にそっくりだね」


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