判を押すだけの退屈な仕事。それが延々と、まさしく永遠に続く。
 それが私の生業だ。
「次の者、ここへ」
 デスクの前を先頭にして、老若男女が長蛇の列を作っている。絶え間なく続く頭の群れをちらりと眺めたあと、手元にある書類に目を戻した。
「罪状認否は?」
「え?」
「無罪か有罪か」
「えっ?」
「いいから、どちらか申告しろ」
 ええ、と戸惑い続ける壮年の男を、列整理をしていた部下が「早く言え」と急かした。
 困惑するのも当然だろう。だいぶ簡略化しているが、これは他所の国の裁判形式なのだ。
 此処は日本の地獄なのに。
「形式的な問いだ。どちらでも構わん。さっさと言え」
「え、えっと……無罪、です」
 そうか、と言って私は書類に判を押した。『えんま』と平仮名で彫ってある判子だ。少し前までは漢字の『閻魔』だったが、上界(いわゆる人間界)で平仮名が発明されてからこっちを使うようになった。今の日本人だったら大抵読める。
 上界ではみんな『がっこう』という場所で文字を習うらしい。暇なんだか何だか知らんが大した連中だ。その向上心は見習わねばなるまい。私ももう少し判子を綺麗に押す努力をしようと思う。
「では判決。罪なき人間などいない。よって有罪」
「は?!」
「連行しろ」
 部下に言いつけて、騒ぐ男を退場させる。
 地獄に来ている時点で有罪に決まっているだろう。何故かそれを理解しない者が多いので、私はいつも首を捻っている。
「はい、次」
「すみません! こ、ここは本当に地獄なのですか……?!」
 次に来たのは若い男だ。二十歳そこそこといったところか。剃髪で金色の袈裟を……おいこいつ坊主か。
 昔から多いんだよな、坊主――といっても人間というものは九割九分九厘地獄に堕ちるものだから、全体的な比率でいえば少ない方かもしれない。私の立場上、目についてしまうというだけだ。
「そうだが」
「そ、そうですか……では、ここには『浄波璃の鏡』があるのですね!」
 坊主は目を輝かせて周囲を見回した。ミーハーな坊主だ。
「あの、死者の生前の行いをすべて写しだすという……! そして判決を決めるのですよね!」
「浄波璃の鏡なら何百年か前に酔っぱらった書記官が頭から突っ込んで壊したから、もうないぞ」
「ええっ?!」
「司録というんだが、本当に死にかけてな。大変だった。そういえば我々は死んだら何処にいくのだろうな。それで、罪状認否は?」
「せ、拙僧には罪など」
「無罪か。では判決、坊主はもれなく有罪なので有罪。あ、地獄の中でも辛い階層に堕とすからそのつもりで」
「なんで?!」
「身内には厳しくせんと示しがつかんだろ。はい、次」
 このようにぽんぽん判を押して、上界からやってきた死者を裁いていく。それだけの仕事だ。単純作業に近いので簡単だし、気は楽だが、休みはない。休息という概念が此処にはないのだ。究極のブラック企業だと昨日来た人間がぼやいていた。
 どうやら人間たちにとって休息とはなくてはならないものらしい。私もその休息なるものを味わってみたいと思い、それとなく仲間たちに話を振ってみたが、皆一様に地獄が機能しなくなると言って拒んだ。上界では今、自死だけでも年間三万人の人間が死んでいるらしく、我々が休息している暇なんぞはないらしい。しかし自死だけで年間三万人とは、上界では自殺がブームなのだろうか。いや、トレンドというやつか。
「では、次の者。罪状認否は」
「閻魔様、お話があります」
「私にはない。罪状認否は」
「お願いします。わたくしの話を拝聴してください」
 お願いしている割りには日本語がおかしい。
 私はちらと人間を見下ろした。今時珍しい、和服姿の女だ。薄化粧に地味な小豆色の帯と着物。長い黒髪を結い上げ、悲しげな眼でじっと私を見上げている。
 ……嫌いではない。
「手短に済ませろ」
「はい。わたくし、実は……」
 女は着物の衿に手を添えると、緩々とした動作で胸元を開き始めた。透き通った生白い肌が徐々に露わになる。
 和服美人の即席ストリップか。
 ……嫌いではない。うん。
「こういうものを、御所持していますのよ」
 だから日本語がおかしい――と返しかけた口が固まる。
 私は思わず女の胸元を凝視した。豊満な谷間に何かが挟まっている。
 これは――。
「こ……蒟蒻か」
 高鳴る胸を押さえて、一つ咳払いをする。落ち着け、落ち着くのだ閻魔と私は自分に言い聞かせた。
 何を隠そう、蒟蒻は私の好物なのである。上界にも知れ渡っているらしく、稀だがこのように賄賂として地獄に持ってくる人間もいる。どうやって運んでくるのかは不明だが。やはり棺桶に入れるのか?
「そうですわ。しかも我が故郷、山形の名物である玉コンニャクでございます」
「玉、……玉コンか」 
 私はなるべく平静を装って言った。流石にここで「うっそマジで?! ひゃっほー!!」と叫ぶわけにはいかない。私にも一応、威厳というものがある。閻魔大魔王様だからな。
 しかし、なんてツボを突いてくる女なのだ。醤油と酒、砂糖で味付けされた玉コンニャクは絶品である。程よい歯ごたえと蒟蒻に染み込んだ味のバランスが何とも言えない。一口サイズの球状で食べ易いという利点もある。これなら仕事をしながらでも食べられる。
「どうぞ収納してくださいませ」
「だから日本語が……まぁ良い。司命、没収しておけ」
「あら。閻魔様がお取りになってくださるのでは?」
 女は上半身をくねらすと、谷間に挟まっている玉コンニャクを見せつけた。
 ……やるな、女。
 私は再び咳払いをした。
「手を伸ばしても此処からでは届かん。どうしてもというなら、お前が来い」
「喜んで」
 デスクに身を乗り出し、私の目の前で女が更に胸元を広げる。
「直接、口をつけてもよろしいのですよ?」
「遠慮する」
 部下の手前、そんなことはしていられない。閻魔大魔王様だからな。本心としては、勿論したかったが……いやなんでもない。閻魔大魔王様だからな。
 女の白い肌がじりじりと近づいてくる。そっと手を伸ばし、美味そうな玉コンを指で挟もうと――した時、だった。
 ぐさり。
 擬音にするとそんな感じだろうか。その様な音が二、三回、耳の奥を貫いた。
 ぐさり。ぐさり。ぐさり。
 何だ、どうした。書記官に問う前に、私は台座から転げ落ちた。更にぐさり、ぐさりと何度か音が響く。
 なんだこれは。
 私は己の体を弄ってみた。手にべっとりと赤いものがついている。液体のようだ。血というやつか。随分と生臭い。
 そういえば、浄波璃の鏡に頭から突っ込んだ司録も赤い液体を垂れ流していたな。地獄に住まう者の体の中にも、人間と同じものが流れているのか。だとしたら我々は大差のない存在なのかもしれない。
 薄れゆく意識の中、視線を動かすと書記官が倒れているのが見えた。人間たちに殴られている。
 案外、弱いのだな、我々は。上界では生きていけないかもしれん。いや、だからこそ地獄にいるのか。
「御免なさいね」
 死にゆく私に、刃物を握った女が告げた。
 
       
 
 +++



 なんだそれは。
 まず浮かんだ感想がそれだった。
 なんだそれは。意味わかんねぇ。馬鹿馬鹿しい――お前、頭大丈夫か。
 俺は眉を寄せて、健一を見た。
「嘘吐け」
「嘘じゃないって、本当だって! 本当の本当に、俺の前世は閻魔大王なんだよ!」
「大声出すなバカ! ……そんな話、誰か信じるっていうんだよ」
 学校から家へ向かう帰り道。俺はいつものように幼馴染の健一と並んで歩きながら、奴のアホな妄想話に付き合わされていた。
 健一が言うには、自分の前世は閻魔様で、地獄にきた人間に騙されて殺されてしまったらしい。そんな馬鹿な話があるものか。人間ごときに負ける閻魔様なんて、そりゃ閻魔様じゃないだろう。ていうか閻魔様って死ぬのか? それ以前に地獄なんてあるのか――。
「なんだよ、信吾だから話したのに。信じてくれないのかよ」
「何をどう信じろっていうんだよ。っていうか、信じたからなんだよ」
「え? 何が?」
「だから……今の話を俺が信じたとして、だ。だからなんなんだよ。何か変わるのか? お前が彼女と別れたり俺に彼女ができたりするのか? 校長がついにヅラですって自らカミングアウトしたり、明日からの期末考査が全部マークシートになったりするのかよ。なんねぇだろ。どう考えたって何も変わらねぇだろうが。信じても信じなくても意味ねぇよ」
 意味ならあるよ、と健一は笑いながら俺の肩を掴んだ。
「俺とお前の友情が深まる……!」
「アホか」
 一蹴して、健一の頭を小突く。
「まぁでも、確かにお前らしいよ。間抜けなところとかがそっくりだ。女にも弱いし、コンニャク好きだし」
「お前、知らないの? 閻魔様ってコンニャクが好物なんだぜ」
「だからそれはお前の妄想の」
「いやマジで。こんにゃくえんま像ってのがあるんだよ、文京区の寺にさ。みんなコンニャクお供えするらしいよ」
 ほんとかよ、と俺は顔を顰める。どこまで本当か解ったものじゃない。
「信吾。お前、俺が嘘吐くような人間じゃないって知ってるだろ?」
 確かに健一は嘘を吐くような人間じゃない。幼稚園の頃から、かれこれもう十年くらいの付き合いになるが、基本的には正直で裏表のない奴だ。いつもあっけらかんとしていて明るいし、話しやすい。少々妄想癖があるのが玉にキズというくらいで、良い親友だ。
「そりゃ……解ってるけどよ」
「じゃ、続き聞いてくれる? 舞ちゃんに言っても聞いてもらえなくてさぁ」
「当たり前だろ」
 彼女にこんな変な話すんなよ。ていうか篠原舞は俺も狙ってたんだぞ。ちゃんと付き合わねぇと承知しねぇからな、と思いながら俺は篠原の代わりに、いや、篠原の為に話を聞いた。
「そのさ、閻魔様ってやっぱり凄いんだよ。人間にはない力を持っているんだ」
「あっさり刺されてあっさり死んだのにか?」
「いや、喧嘩が強いとか魔法が使えるとか、そういうのじゃなくて。閻魔様はね、人間の輪廻を俯瞰することができるんだよ」
「ハァ?」
「つまり前世で何者だったのか、来世で何者になるのか、その人を見ると解るんだ。前世の悪行は地獄の量刑に関わるんだって。だから閻魔様には前世を見る力があるわけ。人の魂は輪廻し続けることによって浄化されて、最終的には仏になるんだ。凄いよね」
 凄くない。
 溜息と共に吐き出しそうになった言葉をぐっと堪える。
 こいつ本当に大丈夫か? 前から妄想癖はあったけど、こんなに宗教チックなことを言うのは初めてだ。まさか変な新興宗教とかに目覚めちゃったわけじゃないだろうな。だとしたら親友として、全力で引き戻してやらねば。篠原の為にも。
「健一……お前、なんか変な勧誘でも受けてんじゃねぇだろうな」
「勧誘? 何の」
「ナントカ教団とかさ。宗教系の」
「まさかぁ。俺、ああいうのには興味ないよ。所詮、現世の話だろ?」
 所詮、の使い方がよくわからない。一体何がどう所詮なんだ。
「いや、っつうかさ。前世とか現世とか言ってる時点で相当やべぇって気づけよ。そら篠原も引くだろ。いや誰だって引くわ。俺もドン引きしてんだぞ、今」
「やばくないだろ。本当のことだし」
「何が本当なんだよ。お前、いい加減に」
「本当なんだよ」
 振り返った健一が俺を見つめる。鋭さと冷たさを帯びた言葉を浴びせられ、俺は思わず口を噤んだ。
「本当なんだ。……俺は、嘘なんか、吐いていないよ」
 ゆっくり、理解させるように健一が呟く。
 俺は豹変した親友の顔に驚愕の眼差しを向けた。
 世界と空気が、一瞬にして凍りつく。
「なんっ……、……どうしたんだよ」
 困惑を飲み込み、やっとのことで声を発した。
 健一は俺を見つめたまま、瞬き一つせずに言った。
「本当のことを、言ってるだけなんだよ。さっきから。俺は、こんなにも、正直に。バカみたいに、正直に……!」
 信吾だから、話しているんだよ!
 道の往来で健一が激昂する。俺は慌てて周囲を見渡した。幸い、辺りには誰もいない。
 ……幸い?
「それなのにお前は何も解っていない。何も解っちゃくれない!」
「ちょ、健一! 落ち着けよ、どうしたんだよ……っ」
 何なんだよ、一体。
 背筋にすっと冷たいものが走る。滲み出た汗が首筋を伝った。
 ――怖い。
 健一が、怖い。
「どうしたってなんだよ! どうかしてるのはお前の方だろ!」
「ハァ?!」
「どうかしてるのはお前の方だって言ってるんだよ、この人殺し!!」
「こっ……?! お、お前、何言ってやがる! いい加減にしねぇとマジで怒るぞ!!」
「怒ってんのは俺だよ!! 言っただろ、俺は正直に全部話したじゃないか!」
「何をだよ!」
「俺は輪廻を俯瞰できるんだよ」
「あぁ?!」
「お前の前世を知ってるんだよ」
「……あ?」
「よくも殺してくれたな」
「……え?」
「もう色仕掛けも蒟蒻も通用しない」
「健」
「解ったんだ。人間も地獄の番人も大差はない。みんな輪廻の中にいる。私たちは一つなんだよ」
「けんいち」
「誰でも地獄に落ちるし、誰でも上界に生まれ変わるのだ。安心しろ。次に地獄で会う時はまた親友になろうじゃないか。私たちはきっと、相性が良いのだよ」
「け」
「そうそう、お前の捨て台詞は何だったかな」
「…………」
「ああ、思い出した」
「……」

「御免な」

 閻魔大王がナイフを引き抜いた。








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