ボールペンとトマトのスープ



 早朝、私はいつものように暗く湿った裏路地を歩いていた。鼻に染み付く腐敗臭にもだんだん慣れてきた。こうなると、足の裏に伝わる、多様な廃棄物や虫の死骸を踏みつける感触も心地よい。冬のあぜ道を、霜柱を踏み潰しながら歩くような感覚だ。
 週に2、3度、近所の雑貨店へ絵の具とトマトの缶詰を買いに行くときは、いつもこの道を通る。そうすることで、あの守銭奴の大家の目に付かずに出かけることができるのだ。

 ふと、私は隅にゴミ袋が置いてある気がついた。なんでもない、珍しいこともない普通のゴミ袋だ。それはそこらへんに無造作に散らばっている物と大差ないものだった。それでもそのゴミ袋は、私の興味を引き付けた。
 私は足元の空き缶や紙くずを蹴飛ばしながら、そのゴミ袋に近づいてみた。そして納得した。
 なるほど、どうりで目に付いたわけだ。

 ゴミ袋の口から、白く、細く、小さな足が生えていた。
 何かの原因で死んだものをここに遺棄されたのだろうか。生ごみ用の袋に捨てるとは律儀なものだ。
 そんなことを考えながらも、私はそのゴミ袋に手を伸ばした。顔に臭気が纏わりつくような気がしたが無視した。
 ゴミ袋は意外と軽かった。ばらばらになっているのか、それとも極度に痩せているのか。私はそれを足元に置き、幼い足の飛び出している隙間から、力任せに破いて中を覗き込んだ。

 暗闇の中に、ギョロリと輝く二つの眼球が浮かんでいた。その目は、私の顔をハッキリと覗き返してきた。

 驚きの感情はわかなかった。
 その代わり、私はその二つの瞳に対して、ある種の魅惑を感じた。
 目はその者の心を写すというが、その目には何も宿っていなかった。おそらく目の持ち主は、悲しみも、絶望も含めた、一切の感情も持ち合わせていないのだろう。まるで、その目の奥には虚空が備え付けてあるかのようだった。
 きっと私はその虚空に惹かれたのだろう。何の感情も持ち合わせていない、何にも染まっていない、さらに言えば死んでいる鑑賞者――、それはまさに今私が求めているものだった。

 私はゴミ袋に手を差し込み、目の持ち主を引き上げた。黒く長い髪をし、やせ細った少女が姿を現した。安物のシャツと下着のみを身にまとい、骨に張り付いたような皮膚は垢に塗れている。
 外界の明かりに晒されても、その少女は私を見つめたまま微動すらしない。
 私は身にまとっていた外套を脱ぎ、顔まですっぽりと少女を包んだ。そしてそれを抱え込み、アパートへ向かった――。


*


 初めて描いた絵は母の像だった。そのことははっきりと覚えている。
 本当に何気なくだった。ただ、手元に紙切れと赤のボールペンが落ちていたから、ただ、台所で夕飯の準備をする母が目に留まったから、それだけの理由だった。
 しかし描き始めてみると、これがなかなか面白かった。夕飯を作ってくれる母に対する感謝、この絵を喜んでくれるだろうかと言う不安、期待……、様々な感情が頭に浮かんだ。
 出来あがった作品も酷い出来だった。筒状の胴、まん丸な頭、線状の四肢で以って包丁と鍋を振り回す怪物にしか見えなかったと思う。
 母に肩を叩かれ、私は自分が絵を描くことに我を忘れていたことに気が付いた。
どうやら夕飯が出来たのを知らせようとしたようだった。母は私の手元にある、丁度描きあがった私の初作品を見つめていた。急に恥ずかしくなり、私は肘まで使って絵を覆い隠そうとした。
 そんな私を見て、母は言った。
「ありがとう、嬉しいよ」
 その言葉を聞いて、喜びは湧かなかった、と言えば嘘になる。
 しかし私の心の中に湧いたのは、喜びよりもむしろ全能感の方が大きかった。
 私の絵が、私が描いた絵が、母の心を動かした。
 その事実は、私の生まれた意味まで規定した。
 その時だった。将来、心を動かす絵を描く画家になると決意したのは……。

 それから何枚も、何枚も絵を描いた。そしてその都度、出来あがった絵を母に見せた。
 子犬の絵を描いた。母は喜んだ。
 戦場の絵を描いた。母は悲しんだ。
 草原の絵を描いた。母は安らいだ。
 私の絵に対し、母は様々な感情を見せてくれた。そのたびに私は、自分の能力を確信して言った。
 そしてそれは素晴らしいものであると信じていた。

 その信念を打ち壊したのも母だった。
 画家になる事を決意してすぐの出来事だった。
 絵を描くのに真剣になっていた私を家に残して、母は夕飯の買い出しへ出かけた。
「今晩は、トマトのスープだよ」
 絵を描くことに集中していた私の耳に微かに残るフレーズが、母の最期の言葉だった。返事をしたのかさえおぼろげだ。

 けたたましく鳴り響く電話の音で、私の集中が途切れた。私は少しムッとしながら受話器を取った。
 病院からだった。母がトラックにひかれて、命が危ういと言うのだ。
 病院の場所は分かっていた。私はまだ幼かった足で家から飛びだした――。

 母は物体だった。
 割れた頭からは肉が溢れるだけで、そこに心なんてなかった。
 悲しみは湧かなかった。
 その代わり、私の中には真っ黒な虚無が充満した。
 私の手には、さっきまで描いていた絵が握られていた。無意識のうちに握り込んでいたようだった。それは記憶を頼りに描いた、夕飯の準備をする母親の絵だった。
 私はその絵を母の顔に近づけた。いつもの、今までの母なら笑顔になってくれる、きっと今でも……、そんな期待があったかもしれない。
 無いものは動かせない。
 延々と沈黙する母を見て、私は悟った。
 後ろですすり泣く解剖医やその助手の声が聞こえた。
 全く興味がわかなかった。
 私の絵が、彼らの心を悲しみに変えたと言えるかもしれない。
 それでもそんなものは、頭蓋を砕かれれば消えてなくなる些細なものだ。
 私は絵をぐしゃぐしゃに丸め、ポケットに突っ込んだ。

 それから今になるまで、ほとんど記憶がない。
 ただ私の頭に中に、万能感と無能感が延々とぐるぐる回っていた。まるで、どうにかして混ざり合おうとするかのように。
 その矛盾の中でも、私は絵を描き続けた。母と言う指標を失くした私には、ただ霧の中を無秩序に歩きまわっているようなものだったが……。


*


 さて、アパートのすぐ裏についた。まだ朝は早い。大家はまだ寝ているだろう。私は二階に駆け上がった。
 腕の中の少女はおとなしい。しかし顔までコートで覆っているにも関わらず、いまだに私の顔を見つめているような気がした。
 自分の部屋のカギを開け、中に飛び込んだ。そしてすぐに鍵を閉めた。
 少し落ち着いて、部屋を見渡してみた。
 ベッドの横にはトマト缶の空き缶が積み上げれ、床には描かれた絵が散乱している。窓際には、真っ白なキャンバスが設置されていた。自分で置いたものだが、まるで「さぁ早く描け」と促しているように感じた。

 まぁそう急かすなよと私は胸の内でつぶやきながら、少女を包んでいた外套を解いた。幼少のころクリスマスにプレゼントをもらい、包み紙を丁寧に開いていく時に感じた興奮を覚えた。
 少女は私の顔をジッと見つめていた。私はその目を見つめ返す。
 少女の瞳の奥には相変わらず虚無があった。何度確認してもそれは変わらなかった。
 私は少女をベッドの上に座らせるように備え付けた。そしてすぐさまキャンバスの前に置かれた椅子に腰かけた。
 私は目を閉じ、一つ呼吸を置いた。そして目を開くとすぐに筆を握り、頭の中に浮かぶ像をキャンバスに映し出し始めた――。


*


 腹が減った。
 空腹感が急に私の中になだれ込んだ事を覚え、作業を中断した。外からは赤い日差しが射し込んでくる。どうやらすでに夕方のようだ。
 私は伸びをしながら少女を見た。私が設置した位置から、全く動いていない。ただただ私を視線で捕えていた。
 私は立ちあがり、台所に積まれたトマト缶を一つ手に取った。缶切りで蓋をこじ開け、中身を碌に洗浄していない鍋にぶちまけた。それを水で薄め、塩を少々振り、ガスコンロにて火に掛けた。
 いつもの夕飯だ。思えば母が死んだあの日から夕飯は毎日トマトのスープだった気がする。
 特に意識した事はなかった。無意識のうちに母を嘘つきにしたくないと言う感情が働いたのか、それとも嘘をついた母への当てつけか、そのどちらかだろう。しかし人間、熱量と多少のミネラルがあれば足りるもので、これまで特に病気もなく生きてこられた。長生きはできないだろうが。
 鍋の中が煮だってきた。私は中身を皿に開け、食器棚からスプーンを取りだした。

 キャンバスの前の椅子をずらし、ベッドに腰かける少女の前に座った。私はスプーンに一杯、トマトスープもといトマトと塩の水溶液をすくった。それを少女の薄い唇につけた。
 毎度のように反応はない。多少舐めとるような仕種をしたようにも見えたが、恐らく気のせいか反射的な行動だろう。
 しばらくそのままにしたが、一向にスープを口に含もうとしない。私はスプーンを自分の口へ運び、残りの少し冷めたスープは皿から直接飲み干した。
 その間も少女は私の顔を見つめていた。
 空になったトマト缶は少女の脇に放った。

 もし私がこの少女の心を動かせたなら、私の中でぶつかり合う二つの感覚は、融け合って一つになってくれる。そんな確信がある。
 私は絵で以って人の感情を操る能力を持つ。
 しかし無いものは操れない。
 でも、もし私が死んでしまった心から感情を生み出せたなら、私はまた、子供のころの万能感を再び得られるだろう。
 そのための試金石、それがこの子の、この子の目の役割だ。
 母と同じだ。私は絵を見せ、反応を覗う。
 母は分かりやすく反応してくれたが、この少女は一切の反応を示さない。
 それでも、誰もいない部屋で独りで絵を描き続け、霧の中を彷徨うよりはるかにましだった。


*


 それから何枚も絵を描いた。今までに描いた絵も少女に見せた。
 少女の目に感情が宿る事はなかった。
 それでも私は絵を描き、少女に見せ、腹が減ったらトマトのスープを作り少女の唇につけ、残りを飲み干す……。
 そんなことを延々と繰り返した。


*


 3日ほど経っただろうか。トマトの缶詰が尽きた。常に余分に確保しているのだが、前回の買い出しでは少女を拾ってすぐに帰宅したため、買い溜めることができなかったのを思い出した。
 外套は少女のすぐそばにあった。手を伸ばし、羽織るついでに横目で少女を見てみた。
 私を見る目は相変わらず何も映していなかった。しかし血色、呼吸から拾った時より窶れているのは明らかだった。
 当然だろう。ただでさえ死にかけていたのだ。それでほとんど食事もとらず、よく3日も耐えたものだ。
 私が帰って来たときにまだ生きているかすら怪しい。
 羅針盤が無くなるのは惜しいが仕方がない。また以前の、独りで絵を描き続ける生活に戻るだけだ。
 死体はまた同じように、同じゴミ袋に入れて裏路地に放置すればいい。何の損もない。
 私は財布をポケットにしまうと、すぐに部屋を出た。

 扉を閉める時、ゴトリと何かが落ちる音がしたが、気にしなかった。


*


 帰り道、私は沢山のトマト缶と尽きかけていた絵の具が入った袋を片手に、いつものようにあの腐臭の満ちた裏路地を歩いていた。すると正面に人影が見えた。
 人目につかないためにわざわざこの道を選んでいるのに、全く間の悪いことだ。喉の奥で悪態をつきながらも、無視して通り過ぎようとした。
 人影は私を呼びとめた。よく見ると警官のようだった。
 聞くとどうやらこの辺りに少女の死体が捨てられているらしい。
 私は知らないと答えた。嘘は言っていない。
 しかし警官は納得しなかった。当然だろう、こんな朝早くに、こんな薄汚れた場所を徘徊するような男を信用できるわけがない。
 何か知っているのだろう? 何も知らない。そんな無駄な押し問答が続いた。
 私は特に気にならなかったが、警官は周囲に漂う臭気に参っているようだった。2、3時間ほど経ったころ、何か分かったら連絡するようにと言う捨て台詞を吐き捨てて退散した。
 もし帰った時少女が死んでいたら、この裏路地の少し奥に捨て、あの警官に教え手柄にしてやってもいい。そんなことを考えながら私はアパートへ向かった。


*


 部屋の戸を開けると、うつ伏せに倒れる少女が目に留まった。
 私は少女の頭の下に手を差し込み、持ち上げて顔を覗いてみた。
 少女は目を閉じていた。まだ若干熱を帯びているのが手に伝わってくる。死んで間もないのか、或いはまだ生きているのか。どちらにしても、もう目を開く力のない少女には興味が湧かない。
 私は少女を抱きかかえ、ベッドに寝かせた。

 ふと、少女の倒れていた床を見てみた。何かが落ちている。
 よく見るとそれは紙屑だった。それとすぐ近くに空のトマト缶が落ちていた。紙くずは皺だらけになって丸まっている。
 似たような紙屑はそこらじゅうに散乱している。それでもその紙屑には妙な見覚えがあった。
 私はその紙屑を手に取り、皺を伸ばしながら開いてみた。

 描きかけの、夕飯の準備をする母の絵だった。
 私が母の死体の顔に向けたものだ。
 しかし、ボールペンで描かれた母の像の隣に、見覚えのない赤い染みが広がっていた。
 よく見るとその染みは人の形をしていた。頭があり、胴があり、そこから四本の手足が生えている。一本の手には先が若干太くなった棒が握られている。どうやら筆のようだ。そしてその赤い染みの人物は、四角い何かに向かっていた。恐らくチャンバスのつもりだろう。
 私はすぐ脇に落ちていた空のトマトの缶詰を見てみた。中に付着していたはずのトマトが、指か何かで拭われていた。

 モチーフは明らかだった。私の、絵を描く後ろ姿だろう。そして描き手も明らかだった。
 私は立ちあがり、先ほどベッドに寝かせた少女を見下ろした。よく見ると、右手の人差指に赤い液が付いていた。
 私はもう一度手元の絵を見た。絵の中では料理をする母と、絵を描く私が仲良く並んでいる。

 へたくそな絵だ。構図もめちゃくちゃ。被写体でなければ、何を描いたのかすらわからないだろう。何よりトマトの果汁で絵を描くなんて……。
 そんな想いを押し退けて、私の口から勝手に言葉が零れおちた。

「ありがとう、嬉しいよ」

 絵に、ぽたりと水滴が垂れた。私は驚いて手の甲で目を擦った――。


*


 肩を揺すられて私は我に返った。
 周囲を見渡してみる。白い壁に白い天井、目の前には白い清潔そうなベッドがある。病院のようだ。
 そしてそのベッドの上には、点滴を受ける少女が横になっていた。
 相変わらず私を見つめる少女の顔は、幾分血色がよくなって見えた。
 私はそのベッドのすぐ側に設置された椅子に腰かけていた。

 私の肩を揺らしたのは例の警官だった。私は彼に何があったのか聞いた。
 警官は驚いたような、呆れたような顔をして、何も覚えていないのか? と言うことを数度聞いた。しかし私との押し問答はもう懲り懲りなのか、すぐに事情を話してくれた。

 私は下の階に住む大家の部屋の戸をガンガン叩いて、居眠りしていた彼女を叩き起こしたらしい。大家は何事かと憤ったらしいが、涙を流しながら何かを訴える私を見て、ただ事ではないと察したようだ。
 私は彼女に、部屋に栄養失調の少女が倒れていることを嗚咽混じりに説き、それを聞いた彼女は救急と、警察に通報した。
 それが彼の話の概略だ。

 私はそうですかとだけ言って、顔をこちらに向けている少女の方を見た。
 警官は何か喚いているが気に留めなかった。

 私は、もう一つだけ少女に言わなければならない言葉がある気がした。そしてその言葉も勝手に口から出てきた。
「今晩は、トマトのスープだよ」

 さて、約束してしまった。私は嘘つきにならずに済むだろうか。
 少しだけ、少女の目に光が灯った気がした。それは私の絵を見た母の目にあったものに似ていた。




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