仏の顔は三度から

 
 もう春も終わり、夏の訪れが感じられる日の昼下がり。私の目の前には、残酷なまでに青い空が広がり、少し目を下に向ければ、黒い無機質な盤上を、目まぐるしく動く人の影が見えた。とあるビルの屋上で、私は、死ぬための準備をしていたのだ。一体、何が私をここまで絶望させたのか。きっかけは、高校からの彼女と別れたことだった。そんなことで、と誰もが思うだろう。しかし、私にとって、彼女は人生の希望で、彼女がいなければ生きていけない、という状態だったのだ。
 私は試しにビルの縁からすり足で少し足を出してみた。死ぬために来たとはいえ、実際、その場に立ってみると、たった一歩が踏み出せない。それどころか、足が震えて立っているので精一杯だった。下を見ないように意識すればするほど下しか見えなくなる。このままでは埒が明かない。私は自分の意気地なさに、悲しさと哀れみを感じ、呆れながらも目を閉じてみた。下を見なければ、ましになると思ったのだ。案の定、恐怖はかなり薄れた。方向感覚が無くなり、周りの風景、世界が闇に閉ざされた。普通ならより不安が増すだろう。しかし、そのおかげで私は世界全体と一体化したかのように錯覚した。これならいける。私を支えてくれているのは、世界なのだ。もはや、足の震えも止まっていた。胸を張り、タイタニックのローズのように腕を横に伸ばした。後は、飛び立つだけだ。だが、ここにきて、彼女のことが脳裏にちらつく。本当に死んでしまっていいのか。捨てたはずのこの世への、彼女への未練が湧き出そうになるのを留めようと、足の指に体重をのせる。また、足が震えだしてきた。けれども、今度は止まらない。意を決し、身を宙に預けた。瞬間、閉じていた目を思わず開けてしまう。私の視界から青い空は消えた。いや、消えるはずだった。縁から足が離れるか離れないかのところで、何かに強い力で後ろへ引き倒され、半分ほどアスファルトの黒であった視界が再び青に変わった。あまりにも予想外なことで、受け身を取る間も無く、後頭部を打ちつけ、今度こそ、私の視界から青い空は消えたのだった。

「う、うう…」
頭の後ろがズキズキと痛むのをこらえて、起き上がる。いやはや、何が起きたのやら。
「ようやく、お目覚めかい」
後ろから、澄んだ声が聞こえた。振り向くと、その声の主であろう、黒いスーツを着たひとが立っていた。
「あなたがおせっかいを?」
別に、私は助けて欲しかった訳ではないのだ。おせっかい以外の何物でもない。すると、黒服のひとは、アメリカ人みたいに、やれやれといったポーズをして
「随分な言い草じゃないか」
と言って私に近づいてきた。思わず身構える。
「そんなに警戒しなくてもいいだろう。私はただ、君に伝える事があるだけなんだ」
伝える事?命の大切さでも熱弁するつもりなのだろうか。
「引き止めるつもりなら、その言葉は無駄になりますよ。私にそんなつもりは無い」
「君の命になんの興味も無いよ。君がそうであるようにね」
「じゃあ、どうしてさっきは助けたのですか」
「伝える事がある。君に死なれたら、伝えられないだろう」
「これから死ぬ人に何の御用でしょうか。手短にお願いしたい」
先の状態になるまで、どれだけ苦労したことか。
「君はこのまま飛び降りても、死ねない。」
死ねない?何を言っているのだ。やっぱり、引き止めたいだけじゃないか。
「私には分かるんだよ。今、飛び降りても君は完全には死ねず、植物人間として残りの生涯を過ごす事になる。」
無言で私は後ろを向いた。このまま話を聞いても、時間の無駄だ。
「だから、飛び降りるのは明日にした方が良い」
思わず足を止め、振り返る。なるほど。確かに引き止めるつもりはなさそうだ。
「どうしてそんな事が分かるのですか?」
「不思議な事もあるもんでね」
答えになっていない。つまり根拠など無いということだ。しかし、これまた不思議な事だが、嘘をついているようにも思えない。
「分かってもらえたかな」
黒服のひとはくすくすと笑う。とにかく、飛び降りるには、日が悪いのだろう。こだわりがあるのでもない。大切なのは、結果だ。
「飛び降りは明日にしようと思います」
「そうかい。それがいいだろうね」
黒服のひとは、まだ笑っている。少し不気味だ。
「では、ここで。助言に感謝します」
散々、今から死にます、といった身としては、このまま帰るのは少し恥ずかしいが、自殺しない訳では無いのだ。ただ、日を改めるだけの事。それに、黒服のひとにとっても、目の前で人が死ぬのはいい気がしないだろう。いわば、戦略的撤退というところか。礼を言いながら早足で黒服のひとの横を通り、屋上の扉に手をかけた。
「本当に信じてくれたのかい?」
後ろから不吉な言葉が聞こえた。
「少し、ひとを信じやすいようだね」
ああ、だから笑っていたのか。
「騙したのか」
頭に血が上ってくるのが分かる。怒りも感じるが、むしろ、恥ずかしい。
「そう怒るな。本題に入る前に死なれては困るだろう。」
私の顔は、きっと朱玉のごとく真っ赤だろう。
「これ以上、何があるんですか!」
「君の彼女は、黒の4WDに突っ込まれて、意識不明の重体だそうだ。さっき病院に搬送されたらしい」
先のからかうような口調ではなく、きりりと鋭い声だった。今度は本当なのかもしれない。愚かだと分かってはいるのだが、聞かずにはいられない。
「死ぬのは病院に行ってからでもいいんじゃないかい?」
「本当のことですか。それとも、また、からかうつもりなんですか?」
どうして信じてしまうのだろうか。どうせ嘘だろう。しかし、無視できない。
「今度こそ本当だよ。神に誓ってもいい」
そう言って、ネックレスを外し、私にそれを見せつけてきた。銀色の十字架だ。信仰の証のつもりなのだろう。
「何処の病院にいるんですか!」
「言われなくても教えるつもりだったよ。この近くの病院だ」
近くに大きな病院は一つしかない。重体ならなおのこと、そこしかないだろう。扉を勢いよく開け、階段を下る。後ろから、まだ話は終わってないぞー、と気の抜けた声が聞こえた。何をいまさら。一刻を争うのだ!

ひたすら階段を下っていく。一段飛ばし、二段飛ばし、三段飛ばし。しだいに階段を下りるというより、飛び越えるようになる。着地を重ねる毎に、痺れる様な感覚がひどくなり、足の奥がぎしぎし軋む。しかし、気にしてなどいられない。今はただ、飛ぶだけだ。

何度も飛んで、ようやく出口にたどり着いた。足の感覚はもうほとんど無い。扉に突撃して外に出る。ここからが本番だ。病院まではそう遠くない。タクシーに乗るよりは、走る方が早いだろう。だが、元々、体力に自信がない上に、疲労している。はたして走りきれるだろうか。きっと、厳しいだろう。だが、やる以外の選択はない。これが生涯の疾走になるならば、大したことはない。力を振り絞り、走り出した。

「ハァ、ハァ…」
なんとか病院にたどり着いた。道中、人がほとんどいなかったのは助かったが、血を吐きそうなほど息が苦しく、汗も滝の如く流れ出ている。周りから見れば、私も病院に搬送されるべき人に見えるだろう。しかし、目標は、もう目の前にあるのだ。自働ドアを通って中に入る。病院内は、今の私には凍えるほど涼しい。受付を見つけ、必死の形相で
「ここに…はんそ、搬送さ、と…聞いて…ど、に…」
「落ち着いて下さい!どうされたんですか!」
息が整わない。
「重体の…女性が運ばれたそうで…」
「重体の女性ですか?少し待って下さい」
手元にあるパソコンで何か操作を始めた。待っていてくれ。あともう少しなのだ。
「えーと、こちらには運ばれていないようです」
そんな…。運ばれていないだって。最悪の想像が、頭に浮かぶ。もしかしたら違うところに運ばれたのではないか。この辺りではここが一番大きいが、他にもあることにはあるのだ。そういえば、黒服のひとも、こことは言っていなかった気がする。
「この地域の病院にも運ばれていませんね。一応、70代の男性が搬送されたとはありますが、その方ではないですよね?」
一体どういうことだろうか。何が何やら分からない。受付の人がしきりに何か言っているが、まったく頭に入ってこない。適当に返事をして、ロビーのソファに座った。とりあえず冷静にならなくては。急に止まったせいで、滝のように出ていた汗がさらに吹き出ていた。
 また、私はあの黒服のひとに騙されたのだろうか。いや、どう考えても騙されたとしか考えられないだろう。確かに、確かにその通りなのだが、まだ、どこかで信じている私がいる。もしかしたら搬送されたというのは嘘で、重体のまま何処かで助けを待っているのかもしれない。また、重体というのは嘘で、貧血で倒れただけなのかもしれない。もはや妄想に過ぎない憶測が、次々と浮かんでくる。絡まる思考。それを断ち切るのは簡単なことだ。黒服のひとを問いつめればいい。あるいは、彼女に電話して、安否を尋ねればいい。前者の場合、先のビルの屋上に戻っても、いない可能性がある。正直、気が引けるが、後者の方法しかないだろう。もう汗も引いて、随分と冷静になっている。ここが、最後の正念場だ。今度は力ではなく、勇気を振り絞るのだ。ズボンのポケットから湿気で濡れた携帯電話を取り出す。電話帳から彼女の番号を見つけ、ボタンに指をかける。押すのにはためらいを感じると思ったが、むしろこの時を待ち望んでいたかのように、するりと彼女に電話をかけることができた。彼女が応答するまでの呼び出し音は、普段聞いているような苛立たしい音ではなく、感情のない、まさに機械の音として聞くことができた。
「もしもし」
電話が繋がった。なんてことはない、いつも通りの彼女の声だった。
「何か用?」
いや、少し怒っているかもしれない。
「大した用事ではないんだけどね」
「大した用事もないのに電話してきたの?」
「風の噂で君が病院に運ばれたと聞いたもんだから、大丈夫かと思って。その様子だと、ただの噂だったみたいだ」
「何それ。そんな変な噂を流す人がいるんだ」
「まぁ、何もなかったようで良かったよ。時間をとってごめん」
「別にそれはいいけど。本当にそれだけで電話してきたんだ」
「それだけだよ」
「そう…」
「じゃあね」
色々、話したいことがあるけれども、もう十分だろう。引きずっているように思われるのも嫌だ。彼女とは、別れたのだ。
「さよなら」
電話を切る。これですべてが判明した。私はまたも騙され、無駄な苦労をしたということ。そして、今も彼女は無事であるということ。最初から何も変わっていないけれども、肩の荷が下りたようで清々しい気分だ。もう、自殺をしようとしていた私は、どこにもいなかった。もしかすると、そんな私は存在していなかったのかもしれない。きっと、この世にまだ未練があったのだろう。だからこそ、信憑性のかけらもない、黒服のひとの話を簡単に信じていたのだ。彼女は私の人生の希望であり、彼女と別れたということに変わりないが、希望が消えてしまった訳ではないのだ。なにも死ななくていいだろう!
 聖人君子、悟りを開いた仏陀の面持ちで、病院の外に出る。空の雲はすっかりなくなり、夏の訪れを感じさせる、ぎらぎらと輝く太陽が私を照らす。今思えば、あの黒服のひとは、私の命の恩人だったことになる。もう、いないかもしれないが、戻って、礼の一つくらい言おうではないか。行き道とは違う、軽い足取りで、来た道を戻った。
「よく分かったね」
敷地から少し出た所に、あのひとがいた。そこにいると予想していた訳ではないのだが。
「これはどうも」
軽く手を挙げて挨拶をする。向こうも手を挙げる。屋上の時より幾分かラフに感じた。
「愛しの彼女は生きていたかい?」
「ええ。いつも通りでしたよ」
「だろうね」
楽しげに笑いながら、
「どうだい。自殺なんて考えるもんじゃないだろう」
「そうですね。私は愚か者でしたよ。方法はどうであれ、引き止めていただき、ありがとうございました」
本心からの言葉だ。
「良い顔じゃないか。そんな君ならすぐに違う恋人ができるさ」
また笑う。
「そんなつもりはありませんよ」
「引きずる男か」
「そんなところです」
「気持ち悪い奴だ」
私もそう思うし、何とでも言うがいい。今の私の心は、輝きに満ちているのだ。どんな言葉でも揺るがない。
「まぁ、そんな一途な君に、ご褒美をあげようじゃないか」
急にどうしたのだろう。
「もらえるものは何でももらいますよ」
そういう主義なのだ。
「非常によくある話だけど」
もったいぶるようなことなのか。
「さっきの屋上に、悲しみに暮れ、絶望のあまり命を絶とうとしている女性がいるそうだ」
言わんとしていることは、分かる。しかし、既に、二回も騙されているのだ。
「さすがに、騙されませんよ」
口ではそう言ったものの、まだ少し信じている私は、どうしようもない奴だ。
「それは、残念だが、しかたがない。ここでお別れだ」
黒服のひとは、少し、悲しそうな顔をして、わたしの横を通り過ぎる。寂しい気もするが、運命的な出会いもここで終わり。目まぐるしい一日もこれで終わりを迎えるだろう。足を前に進める。
「あ。そうそう」
数歩、歩いたところで、黒服のひとが振り返る。
「最後に一言」
私も同じく振り返る。急に、太陽の輝きが強まり、眩しさで目がくらむ。そして、

「信じる者は救われる」






























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