私たち住人は



「かなりさっぱりしてるな……悪い意味で」
 佐々原進一は深く息を吐いた。
 予想通りすぎて逆に驚いてしまった。「ここは廃墟なのでこんなに閑散としてるんですよ」と大家に言われても、何も疑う余地がない。それほどこの家には生活感というものが存在していなかった。トラックで揺られながら運転手に少ない荷物を運ばせてしまい、申し訳ないという罪悪感が沸いた結果がこの有様だった。
 しかしよくよく考えると当然の結果だ。今日から始まる新生活、今まで空っぽだった新居に生活感を感じてしまったら、おもわず勢いのある霊媒師を呼んでしまっても誰にも文句は言われないだろう。
 だいだい荘の一〇一号室、これから進一が一人暮らしをする拠点となる場所。
 数少ない荷物である新品の教科書は、学校から購入した際に前もって発送していたので、部屋の隅に放置されていた。大小がばらばらで壺型の人工ピラミッドを彷彿とさせる。
 普通の引っ越し作業なら部屋に山積みされていても不思議でない段ボールも、部屋の中央にたった一つ寂しく置いてあるだけで、ちゃぶ台代わりに使えと言われているようにしか思えなかった。中身は分からない。着いたら開けろと言った両親の意向に背くわけにはいかないからだ。
「何が入ってるんだ?」
 期待に胸を膨らましつつ早速開封してみると、これでもかと詰められたカップヤキソバと一本の下町のナポレオンと書かれた酒瓶が入っていた。両親に「これさえあれば大丈夫」と胸を張って段ボールを渡された時に感じた不安が今、進一に津波となって押し寄せた。
「これをどうしろっていうんだよ……」
 独り言が息を吐くように出てしまうのも仕方がないことだった。これから一人暮らしをする息子に送るラインナップで、カップ麺の束というのは、ダメ人間一直線コースを推奨されている気分になる。その上に酒瓶ときたら、もう揺るぎない。
 よく見るとカップ焼きそばと酒瓶の間に、二つ折りの手紙が挟まっていた。中身を確認してみると、
「これしかなかったです、ゴメンね。ご近所の皆さんと仲良くするのよ。仕送りは気が向いたら送ります。母より」
 と書いてあった。
「ほぉ……」
 今までの人生の中で少しでも多くの善行を積めばこんな仕打ちを受けなくてよかったのだろうか。「仕送りは気が向いたら」という信頼度の低い文字列と、生活基準のベクトルがずれた同封物を見ると、子供の頃にスイカの種を飲み込んでしまった時の様な不安が思い出されてしまう。
 引っ越しとヤキソバ――蕎麦。
 蕎麦だ。
 このヒントだけでこのジャンクフードたちが引っ越し蕎麦の代用品だと察した自分を褒めてほしい。引っ越し蕎麦ときいて普通はヤキソバを想像しない。送られる側はバカにされているとしか思わないだろう。
 そして酒瓶も用途が分からない。飲むとしても、これから高校に入学する進一にとって、少なくともあと五年は待たなければならなかった。常識を考えるならその線は消えるのだが、引っ越し蕎麦としてカップ焼きそばを推奨する両親にその言葉が通用するかは甚だ疑問だ。酒瓶を寂しくなる一人暮らしの華になるだろうと思い、酢豚に入れるパイナップル的な役割で段ボールに詰めたのなら、それは余計なお世話以外のなにものでもなかった。
 とりあえず、酒を新宅での新生活を汚らわしい物から守る御神酒と仮定する。
「にしても、どうすればいいんだ?」
 御神酒に自分自身を守る効果はおろか、単語すらよく分からない進一が儀式のやり方など知るはずもなかった。そもそも儀式が実在するのかも怪しい。
 蓋を開け、酒瓶に面と向かってみる。使っていない脳から探った知識を参考に、酒を四方に振りまいてみた。勝手に役割を与えられた御神酒が、トプトプとフローリングに染みこんでいく。九百ミリリットル瓶の三分の一は使ってしまった。冷蔵庫とコンロとカップ焼きそばしかない部屋にアルコールの匂いが染みついた気がした。
 酒瓶を冷蔵庫に片付け換気のために窓を開けると、初春の匂いが進一の鼻腔をくすぐった。
 さあ、引っ越し蕎麦を振る舞うためにお湯を沸かそう、と進一が意気込んだのはいいのだが、この家には熱湯をこしらえる手段が存在しなかった。これからヤカンなり鍋なりを買ってこなければいけない。いきなり一人暮らしにおける不安という名の壁にぶち当たった。
 ――そうだ、やかんを借りるついでに挨拶に行こう。そうすれば引っ越しの挨拶におけるカップ焼きそばの不審臭を消すことができるかもしれない。
 ちゃんとした蕎麦を買うほどお金に余裕がない進一は、現在思い浮かぶ限りのまともな案を出し、実行すべく間髪入れずに家の扉を開けた。
 すると二つ隣の部屋から滑らかなベージュ色をしたブレザーに白いカッターシャツ、カチっとした紺色のスカートの足下には白い靴下を履き、誰がどう見ても制服と呼べる物を着た、薄く茶色がかった肩に掛かるほどの髪の毛をしている女性が出てきたところだった。
 進一は、これは神が与えてくれた「よろしく挨拶チャンス」とばかりに駆け足で彼女に近づいた。
「あの、今日一〇一号室に引っ越してきた佐々原進一って言います。よろしくお願いします。いきなりで申し訳ないんですけど、ヤカンを貸してくれませんか?」
 道徳も体裁もへったくれもない。変拍子の曲を演奏するドラマー並の必死さとマラソン大会終了から豚汁までの勢いを胸に、新天地で生活するに重要な突撃を行った。
 制服少女は不意に声をかけられたからか呆気にとられ沈黙し、視線の先が分からない丸い目で進一を見つめている。かと思うとハッとした表情になって口を開いた。
「キミが進一っていうなら、私は超特急になるね!」
 これが彼女との最初の出会いだった。

 少女に借りることで無事にヤカンを手に入れることができた進一は、ついでに手料理という名のインスタント食品をごちそうするべく、まだ名も知らぬ少女を家に招いた。
「うん、私の家とおんなじドアノブだ」
 そう言って臆面もなくドアノブをひねって進一の家に侵入してきたあたり、招いたというより、上がり込んできたという方が適切かもしれない。
 内装がほとんど焼きそばで構成されている家も、女性のオーラが入るとそれだけでどこか進歩したことを感じてしまう。
「初めての訪問客が女の子だなんて、本来なら喜ぶ場面だよなあ」
 ヤカンにかけたお湯の沸き加減を観察しながら、進一は頭を悩ませた。新生活にあたって大切なご近所付き合いを、好調なスタートダッシュで迎えたことに素直に喜ぶことができないのは、彼女の今までの言動が原因だ。とにかくよく分からない。
「それにしても、悪いねごちそうになっちゃって。もうお湯の匂いがこっちに漂ってきて空腹を我慢できないよ」
 その言葉を聞いてヤカンに鼻を近づけた進一は、顔に熱を感じるだけという結果に首をひねった。ちなみに鼻づまりの処方箋を貰った記憶はない。
 その頃、彼女はこどものように割り箸のバチで、カップヤキソバの太鼓を叩いていた。
「もうお湯沸いてるよ」
「あっ、本当だ」
 ヤカンから湯気が出ていたらそれは沸騰を意味している。進一は自身に言い聞かせた。
 進一は今までお湯もろくに沸かしたことがない自身を恥ずかしく思ったと同時に、一人じゃなくて良かったという安堵に包まれた。
 正座で食料を今か今かと待ち構えている彼女はヤカンを奪い取り、いつの間にか蓋が開いていた彼女と進一のカップに、沸きたてホヤホヤのお湯を注ぎ込んだ。
 カップ麺に湯を投入してからの三分間は、テレビなどを見ていれば瞬く間に過ぎてしまう。しかし、初対面の人間と顔を合わせ、正座でただ時間が経つのを待つという行為は、苦行以外のなにものでもない。向かいに座っている彼女はそんなことは全く気にせず、蓋の隙間から揺らぐ湯気を凝視していた。このカップヤキソバには、じっと見つめることで出来上がるまでの時間が短くなるという機能は付いてなかったと記憶している。
 進一はこの空気を払拭させるべく、重く閉じた口を開いた。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかった。名前は?」
「名前? あるよ」
 何だ、その返答。しかし「ないよ」と言われるよりましだ。そう考えよう、と進一は考えた。その方が人生幸せに過ごせるに違いない。
「申し訳ない、言い方がアレだった。名前を持ってるならそれを教えてくれませんか」
「ああ、小早川カシス。永遠の十七歳です」
 よかった、本当に名前あった。
「ここからここでお世話になります。よろしくお願いします、先輩」
 最初の印象は、後に金や金塊や金メダルを代償に手に入れることは難しい。進一はしっかりとした好青年アピールに力を注いだ。
 先輩となれば春休み期間にもかかわらず、制服を着ていることにも合点がいく。高校生は学校で勉強に勤しむのに忙しいのだろう。
「ところで、その口調なに? もっとリラックスしようよ、同い年なんだし」
「そう、同い年……って違いますよ。自分はこれから高校に入学するピカピカの一年生ですから」
 まるで、先輩の小早川さんがドロドロに濁った三年生みたいな言い方になってしまった。汚れ一つなく着こなしている制服に申し訳なく思う。
「んー? そう、だから、同じ一年生同士仲良くやろうねって話だよ!」
「えっ、だって今先輩一七歳って――」
 進一は何も考えずに口を走らせたことに後悔した。この世は、自分のように両親の適当な采配で下宿することになった人だけで成り立ってはいないのだ。
「あっ、その、何かすいません! 配慮が足りてなかったというか、認識が違っていたというか、その――」
 一度ついた傷をそう簡単に消すことはできないと知ってはいても、進一は必死に弁解し体裁を取り繕った。
「私、十五歳だよ」
 彼女はしれっと言い放った。返せ、時間を。
 彼女は野球場にしゃぶしゃぶ鍋を意気陽々と持ち込んだ人を見る目で、僕を不思議そうに眺めた。
「でも、さっき永遠の十七歳って言ったはずじゃ」
 進一は釈然としない思いを糧に糾弾した。
「だって憧れるじゃん。『永遠の十七歳』って。九十年代アイドルも真っ青だよ」
 本来なら十七歳以上の人が言うことによって「気持ちだけはいつまでも若いのよ」という強い意志を表しているはずなのだが、十七歳も経験したことがない若造が放つこの言葉は、永遠の十七歳時代を担ってきた先駆者を馬鹿にしていると言われても仕方がないだろう。
「なら、こっちだって永遠の十七歳だ!」
 進一は対抗する。
 彼女はこめかみを銃弾で貫かれ、何が起きたのか分からないという表情へと変化した。しかし、進一が瞬きを一つする間に、顔の様子がマイナスを掛けたかのように逆転していた。
「私もだー!」
 目を輝かせながら、彼女は進一へ綺麗なビンタをお見舞いした。
「世界の終わりだ……」
 あまりに唐突な出来事に我を忘れ、世界の今後を危惧したところで、進一が左頬に感じる痛みは事実に違いなかった。
「あっ、ゴメン! よく分かんないけど、よく分かんない喜びが手に偏っちゃった」
「いいよ……カップヤキソバが無事ならそれで」
「もうできたかな?」
 この切り替えの早さ、素敵。
「あ、うん……そろそろいいと思うよ」
 進一は半ば呆れながら答えた。
 この空間には時計すら存在しておらず、監獄も顔負けの間取りとなっている。よって時間に囚われない縄文人のような生活を送ることになりそうだ。
「よーし、月に代わっていただきます」
「召し上がってください」
 進一がため息を吐くのと同時に、彼女は蓋をバリバリと開き、カップの中に付属のソースをぶち撒いた。湯が並々と入ったカップに。
「うぇっ! なに、やってるの?」
 ソースと湯が黒と透明の不快なコントラストを描いているブツを目の前に、進一は頓狂な声をあげながら彼女に訊いた。
 雑煮に入る餅の形が地方ごとに違うように、カップヤキソバ一つ挙げても食べ方に差ができるというのだろうか。世の中にはまだまだ知らないことが沢山あるな、と進一は物思いに耽ろうとしたが、固まっている彼女の姿を見ると一気に現実に引き戻された。
「間違えてないよ」
 平然と喋る彼女の黒い瞳は、一体何を射抜いているのだろう。
「この人、こっちが何も言ってないのに言い訳してる」
 ここから符号が表す事実は一つ、間違えたのだ。
「しょうがないよ、間違えたってお腹に入れば一緒だから。それにほら、意外とおいしそうだし」
 進一は思ってもないことをペラペラと口走った。彼女と目を合わせることが辛くなり、思わず俯きがちになってしまう。この部屋初めての来客に対し、いきなり苦しい目に味わわせる訳にはいかない。少しぐらいこちらで処理してもいいだろう、と意気込んで顔を上げると、そこにはソースラーメンが二つ湯気を立てて君臨していた。
「悪性の細胞が、増殖している……」
 進一は自分の家にも関わらず、家に帰りたいという思いが脳に宿った。
「何か起きた? 誰か来た?」
「二人で頑張れば、辛さが半減するかと思って」
 彼女は星に祈るような声で進一になげかけたが、黒い悪魔はしっかりと倍増していた。
 話題を変えよう。撤退も立派な戦略だ。一旦これと距離を置くことによって、何か打開策が見えてくるかもしれない。
「あの、小早川さん……」
 進一はおずおずと彼女の名を呼んだ。
「もう、これからこのだいだい荘で共に生活するっていうのに、その呼び方はちょっと他人行儀すぎるよ」
 彼女は生八つ橋のように柔らかな頬を膨らませた。食べたい。
「だから、私のことは、アテネ銀行って呼んで」
「ごめん。自分、アテネ銀行嫌いなんだ」
「ピンポイントだね!」
 会話をしながらも、再生不可能のヤキソバは、進一の視界から一度たりとも消えることはなかった。
「嫌いならしょうがないなあ。私のことはカシスって呼んでくれればいいや」
 何故か渋々妥協したカシスは、人差し指をくるくる回した。
「ほら、早く食べよ。冷めると美味しくなくなっちゃうからね」
「ここで一般論が出ると思わなかったな……」
 今後金銭面でどう困窮するか分からない生活だ。湯まで体内に摂取することができるニューウェーブな食事スタイルだと思えばきっと完食できる。その予定だ。
「いざ参る」
 進一は箸を持ちスープに漬かった細めの麺を口へ運んだ。ぼそぼそとした触感に味の薄い麺の味。ソーススープは何のために存在しているのか分からず、油臭さと不快感が進一に巻き付いた。
 アフリカの子供も残す味。
 津波のように一度起こると全てを飲み込んでしまうような味ではなく、ポリ袋に詰め込まれ、徐々に酸素が無くなり、ゆっくりと死んでいくような苦しさがこのヤキソバには内包されていた。
 明るい笑顔が見にくく歪んでいることを恐れつつ、ちらっとカシスを見ると、何の躊躇いもなく、ずるずるとするすると黄色い麺を口に流し込んでいた。
「よく、食べれるね……」
「うん」
「お腹減ってたの?」
「うん!」
 カップヤキソバのポテンシャルの高さに感謝しなければならない。進一は来客を不快に思わせずに済み安堵した。
 こんなところで意味もなくカシスとの親密度を下げる訳にもいかず、進一も彼女を見倣い、マグロ漁師がマグロにかける情熱と同等の思いを胸に掲げ、みすぼらしい麺に食らいついた。しかし、どれほど自身を誤魔化そうとしても味覚まで騙すことは出来ず、進一は引き攣る顔をむりやり笑顔に見せることに必死だった。
 進一はアリが道端に落ちている軍手をほどいてマフラーに編み直すという和やかな光景を想像して精神を安定させた。短期決戦だ。無心になって麺を体内へ取り込む機械となり、さっき想像したアリをぶち壊すくらいの勢いで黙々と食べ続けた。その結果、苦労が実り、麺だけではあるがようやく全てを胃に収めることに成功した。
「はぁ……」
 今ならジャンボジェット機を一人で動かせそうな気がする。
 一方カシスは進一が耄碌したネズミのようになっている間、ヤキソバをぺろっと食べソースとお湯のスープまで飲み干していた。カップの底にはギトギトの油とベタベタのソースがテカテカと光っている。
「おいしかったね」
 頼むから、嘘だと言ってほしかった。
 ここで下手なことを言って、お互いを繋ぐ糸に漆を塗り、かゆみのある関係になるわけにはいかない。
「やっぱりおいしいよね。まあ、その……食べ物だし」
「食べ物だからおいしいに決まってるよね」
 将来、幸せな家庭を持ちそうな笑顔で言った。
「そのソース飲まないの?」
 カシスは首を傾けて問いかけた。
「ソース飲むことが普通みたいに言うね」
「飲まないなら貰っちゃうよ」
 進一の許可など無視して、カシスはカップを奪い取った。
「あっ」
 手が素早く、動きが獣だった。
 カシスはごくごくと音が鳴るほど豪快に黒い悪魔を飲み干した。しかし、カップを顔から離すとどこか顔色が濁っているように見えた。
「大丈夫?」
「えっ、なにが?」 
「いや、その顔色」
「私は日本代表だから大丈夫だよ」
「そう、ならよかった」
 カシスはおそらく強がりを言っているのだろうが、平気な訳がない。このソーススープヤキソバを食べたものにしか分からない苦しみを進一は知っている。
「ちょっとトイレ借りるね」
「理由は聞かない方がいいね」
 カシスはおもむろに起ち上がり、洗面所横のトイレに歩を進めた。
「なんか、ゴメンね……」
 進一はカシスをこんな目に遭わせてしまった後ろめたさを感じた。カップヤキソバを残飯状態にしたのはカシスだが、ヤキソバを振る舞って原因となったのは進一だ。
「違う! そんなんじゃないから。ちょっと大リバースするだけだから」
 慌てた様子で進一に弁解しだした。
「ご、ご武運を」
 トイレの扉をゆっくりと開き、カシスは盗人のようにこっそりと中に入っていった。カシスの痛々しい様子を見ていると進一まで胃と胸の奥が不快感で濁るような気がした。
「ねえ! 進一くんのトイレ凄い落ち着くね。何この香り、呼吸が楽しいよ!」
 カシスは、年始めにデパートで行われる福袋を買うために並んでいるおばさんが、十時になって店内に入る瞬間張りにトイレから飛び出した。
「こんなにリラックスできるトイレ、初めて入ったよ。凄いね!」
 いつの間にか、体調の悪さを漲る力へと変換している。ここのトイレにはそんな力が宿っているのか。様々要素で不安に思い、進一は問いかける。
「それよりも、具合の方は大丈夫なの? それか、別人?」
「すっかり平気だよ! 進一くんはこんな力を持ってるなんて魔女だね! 狩るね!」
 体内に素敵な妖精でも飼っているのだろうか、と進一は無駄に考えを巡らせた。
「ちなみにそのトイレまだ使ってないから、狩るなら前に住んでた人を狩ってね」
 進一は少し呆れ気味に言った。
 これほどまでにカシスを虜にする何かを持っていた前の住人が些か気になるが、初めてのトイレを他人に使われることなく済んだことで、進一は微少な幸せを失わずにすんだ。
「うん。分かった」
 何が分かったのか進一にはよく分からなかった。しかし、不利益なことはなさそうだったのでとりあえず安心しておく。
 突如、しなやかな風が部屋に舞い込んだ。
 まるで玄関のドアが開いて風の通り道が出来たような――
「あれっ」
 と、進一。
「あれっ」
 と、いつの間にか玄関に侵入していた女性。
 出会って三秒で会話がリンクしてしまった。しかし、女性は全く気にしていない様子で、ただどこか不思議そうだった。
「誰だおまえ!」
 女性はインド象のようなボイスを進一に浴びせる。
「多分だけど、それこっちのセリフのやつ!」
 まだ相手の正体も分かっていないが、ついつい口が動いてしまった。
「あっ、京子」
 互いが衝突しそうになるなか、均衡を破ったのはカシスだった。
「なんだ。カシスじゃん」
 京子と呼ばれた女性は、ふらふらとよろめきながらカシスのもとへと向かった。
 京子が進一たちを見つめる瞳はどこか気怠そうで、腰まである長い髪は、絵の具を全色混ぜたかのようなしっかりと濃厚な黒色に染まっていた。白くて長いウサギの耳のようなタオルを肩にかけていた。
 そして気がつけば清純な風はどこかへ逃げてしまい、誰かが放出しているアルコールの匂いが部屋中に充満していた。
 千鳥足で右に左にふらつきながら、京子はカシスの胸元に飛び込んだ。
「京子ったら、昼間だっていうのにまたお酒呑んでー」
「別に良いじゃん! 誰にも迷惑かけてないんだし!」
 今、こうして京子がくだを巻いている間にも、カシスと進一と進一の新居には年齢不相応な香りが確実に染みついていた。これを喜ぶのは中毒の方だけだろう。
「急にごめんね、進一くん。この人は一階に住む小野寺京子って人。見た目はこんなので、中身はあんなので、将来は暴風警報だけど結構いい人だよ」
 進一には今のところ京子の良いところは発見できなかったが、カシスの微妙なフォローでどうにか警察に通報せずに済みそうだった。
「でさー、ぉえええええええええぇぇぇっ」
 目の前で繰り広げられる荒れ狂った大蛇のような嘔吐。それは先刻から体調の悪さを訴えていたカシスではなく、京子が披露した芸だった。
「うわあああぁ!」
 マイホームが初対面で酒臭い人の口から出る吐瀉物で汚染されていく様子を見てしまった進一は、咄嗟に声を荒げてしまう。
「ちょっとー、吐いちゃダメだって」
 ソースラーメンをスープごと飲み干してトイレに立て籠もろうとしていた人間が、いけしゃあしゃあとぬかしている。
「はぁ……。で、あんた誰?」
 ゲロ吐きゾンビは、何事もなかったかのように問いかけた。進一は京子がどんな成分で成り立っているのか不思議でしょうがなかった。
「それよりも、床と口と心を掃除してくれませんか……」
「なにそれ! なんかあたしがゲロ吐き星人みたいな言い方じゃない」
 ゾンビと星人、どっちが上位なのだろう。
「えっとー、こっちは進一くんで、今日からここに住むことになったんだってさ」
 カシスが取り纏め役として働いている。意外と真面目なのかなんなのか、もうよく分からない。
「へー、そう。じゃあ帰るわ」
「あんた、傍若無人か」
 進一は玄関を開けると、フローリングに撒かれた吐瀉物がお迎えしてくれるこんな状態で会話を続けたくなかった。
「とにかく! これ以上被害を拡大させないでくださいよ」
「うわー、進一が怒ったぞー」
 京子はおちょくったトーンで、はしゃぎながらカシスに抱きついた。
「進一くんはもうちょっと優しく言ってあげてよ。ほら、『ぺぺろんちーの』ってかんじでさ」
 なんだこの空間。
「二人ともいろいろ大丈夫ですか? 本来なら色々とありえない光景になってるんですけど」
 進一は吐瀉物と京子を交互に指さしながら言った。
「だって、あたしにとってこんなの日常茶飯事だし。ねー」
「ねー」
 京子とカシスが意気投合している。町中で見かけるならほほえましいのに、何故だろう、やり場のない気持ちが沸々と湧いてくる。
 ばば抜きで吐瀉物と京子をペアとして捨てたい。
「つっても、あたしだってそこまで非常識じゃないからー」
 京子は肩にかけたタオルをさっと取り、職人の手つきで吐瀉物にそっと覆い被せた。
「やったね、視界から消えたよ!」
 カシスは超魔術を見たかのように驚いた。
「二人とも天才だなあ」
 進一は感心した。
「あっ、ソースラーメン挑戦したの?」
 京子は進一が飲み残したソース汁を発見した。
「あたしも金が無いときよくやったなー。これメチャウマよねー。腹は膨れるし酒のつまみにもなるしで、悪いとこがないわ」
 進一にとって信じたくても信じたくない発言だった。
「何このダンボール! カップヤキソバのヤマ、ヤマ、ヤマ! こんなに食料があるなんて、あんたブルジョワね。もう一杯食べないの? 若いんだからどんどん食べなさいって」
 京子はダンボールを目ざとく発見し、ねずみ講の末端のように進一に勧めてきた。
「生きる死を体内に取り入れるなんて自殺行為、どうしてやらないといけないんですか。それに、自分はこれからお金との戦いになるんですから、カップヤキソバ一杯すら無駄にしたくないんです」
 これからの生活で家賃、光熱費、食費など出費が耐えることは無い。多少なりとも親からの仕送りはあるが、気まぐれで急に途絶えてしまわないとは限らない。せめて家賃くらいは両親の力でなんとかしてほしかったところだ。
「ほぉ……」
 その言葉を聞いて、酔っ払いの目がどこか進一を射抜いたような気がしたのだが、所詮は酔っ払いの動向なので、今日起こったことは全て忘れるくらいの心構えでいたほうが賢明だ。
「ほぉ……じゃないですよ。それよりも、小野寺さんはなんでうちに不法侵入してるんですか。尺取虫ですか、あなたは」
「誰が尺取虫よ。いや、ね。空き部屋から何となく酒の匂いがしたのよ。これはバッカスがくれたあたしへのご褒美! って思ったわけ。そんで部屋を開けたら二人の男女が一つの部屋にいるじゃない。何よこの仕打ち」
 進一は御神酒という名目で酒をフローリングに浸水させた記憶が蘇った。
「アル中の方ですか」
「もう、褒めないでよ」
 京子は顔を赤くしながらニヤニヤと笑っている。
「褒め言葉なんですね」
 進一は呆れとも尊敬とも区別がつかない抑揚で言った。
「そうだよ、京子は常日頃からお酒を呑んでぐうたら寝て、夜食はラーメン間食はポテトチップスって生活をして、頑張って心は二十歳、身体は初老の夢を目指してるんだよ! だからもっと応援しないとね」
 カシスはキラキラした目で無意識に悪態をついた。
「目指してないから! 人をダメ人間みたいに言わないでよ!」
 ダメ人間は弁解した。
 最初から京子のまわりには負のオーラが纏ってある気がしたのだが、カシスの暴露と京子が否定をしなかったことで、進一は小野寺京子とはどんな人物であるのかということが明らかになった。
「私はお酒の匂いなんて感じなかったけどなあ。進一くん、何か心当たりある?」
「んっ? いや、別に。何も」
 正直に酒を部屋に振りまいたと言えばよかったのだが、京子に知られたとなると「こんなお宝こんなやつの近くになんて置いておけないわ。酒をよこすまで帰るもんですか」とか「なんてもったいない! 今すぐみんなで啜るわよ」という頭の悪い要求をされそうだったので、どもりながらも必死にごまかした。
「別になんにも無いならいいけどさ」
 京子は諦めたように見えたが、顔には不満と疑念が渦巻いていているのが分かった。
「ほら、そろそろ帰ろうよ。進一くんだって今から引越しの後片付けとかやらないといけないだろうからさ」
 京子の手を両手で持って玄関へと引っ張るカシスの様子は、この時ばかりは天から舞い降りた神様の使いのように見えた。
「えーっ、もうちょっと居たいー」
 駄々をこねるお子様がそこにはいた。
「まあいっか。最初にここ来たときと比べると、なんだか気分もよくなったし」
 何故気分がよくなったのだろう、と考える進一はタオルに覆われた中のものなど眼中になかった。
「じゃあね、進一くん。また遊びに来るね。ほら、京子も早く早く」
「わかったわかった。もう食べられないから……」
 起きているのに寝言を言う京子を引っ張って、部屋の外へと連れ出したカシスはの笑顔は絶えることが無かった。
「またね!」
 カシスは手を持っている両手を離し、その影響でよろめいて「うぅ……」と唸る京子の傍ら、炊きたてご飯のような笑顔を振る舞った。
 それを見てついつい笑ってしまった進一も小さく手を振り返した。
 姿が見えなくなって玄関の扉がバタンと音を立てて閉まると、自分の家に一人だけという当たり前の状況に違和感を感じてしまった。胸のどこかに何かぽっかりと抜け落ちてしまったような、そんな感覚。意識を正常に戻すために深呼吸をした。京子の酒と吐瀉物の臭いが進一の体内に打撃を与えた。
「このにおいで空いた穴を埋めるのは間違いだな……」
 進一はぽつりと呟いた。


 目が覚めると、昨日まで感じていた重苦しい疲れはすっかりと身体から消え去っていた。しかし、それと反比例して腰にきしむような痛みを感じる。敷布団も掛け布団もなく、フローリングに直寝していれば原因は明らかだった。骨が悲鳴を上げるのを身に染みて感じる。
今日から始まる華の高校生活の出鼻をさっそく挫かれてしまった。この痛みが何か良からぬモノをもたらしそうな予感がして、進一の心に少しだけ緊張感が宿った。
だいだい荘はまるで冬眠しているのかと錯覚するほど静寂に包まれている。町は活動の準備が整っている様子を見せず、まるで時間が止まっているようだった。
 進一は昨日二人が帰宅した後京子が忘れたタオルを返そうと思い手に取り、ベタベタのアレがタオルをベタベタにし、泣きながら処理したことはもうすっかり忘れてしまった。忘れたいと願った。
「進一くん、おはよう!」
 玄関でドアと壁が勢いよくぶつかる音と、カシスのアンプを通したような大声が早朝にもかかわらず室内を満たした。
「お、おはよう。とりあえず、時間と場所考えようか」
 堂々とした不法侵入に進一は動揺してたじろいでしまった。盗まれる物は何もないと高をくくって鍵を閉めていなかったのがいけなかったようだ。まんまと隙を突かれてしまった。しかし、進一が一日に抜けた髪の毛の数を数えて記録するほど律儀な性格の持ち主で、しっかり鍵を掛けていたら一体どうするつもりだったのだろう。
「やっほー。元気してる?」
 カシスの後ろには京子も突っ立っていて、呑気に進一の様子を伺っている。そして何故かは知らないが、カシスと同じ制服を着ていた。
「誰だおまえは!」
 進一は京子のような人間に指を刺して全力で訊いた。
「えぇ~。あんたさ、もしかして昨日会ったこと忘れたとかじゃないだろうな」
 京子もどきは戯言をぬかしている。
「あのおっさんみたいな人は知ってますけど、あなたとは初対面ですよ。はじめまして。名前はなんていうんですか?」
 進一は感じの良い人アピールその二を実行した。
「小野寺京子だよ! なんで制服着ただけで別人扱いされなくちゃいけないんだよ」
 まあ分かってはいたが目の前の人物は京子だった。
「あれだけ酔った姿見せられたから、大学三浪のベテラン浪人生なのかと思ってたんだけど」
「残念でした、あんたと同じ高校一年生でーす」
 年上に見られたことは特に気にしていない京子の言葉を聞いて、進一は少し緊張が解れた。新しい土地に立ち、一人からスタートする学校生活で早速二人も知り合いを作ってしまった。教科書を忘れても貸してくれる人がいなかったり、昼休みには弁当を一人で食べたりすることは無くなるだろう。これが高校生活における出会いの瞬間だと意識すると、心臓の鼓動がはっきりと聞こえ、全身が少し熱くなり、口元が緩みそうになった。
そして同い年だからこれからは敬語を使わなくてもよくなり、京子が次に酒を呑んだ時も下手に絡まれることを恐れる必要が無くなるというわけだ。京子が次に酒を呑んだ時も――次に酒を呑んだ時。
「――って、堂々と法に触れてるよね」
「えへへへ」
 京子は顔の筋肉を緩めてにやにや笑っている。
「分かった、この人は頭が悪いんだと思う」
「あたしにそんなこと言っていいと思ってんのかなー。余裕な表情してられるのも今のうちだぞ」
 京子は何かを企むかのように凹凸の無い胸を張った。
「京子が何か言いたいことがあるんだってさ。その為に私までこんな時間に起こされたんだから」
 カシスはなまはげみたいに大きくあくびをしながら言った。
 どうやら進一の予想通り、今は早朝で、登校時間までまだ余裕はあるようだ。
「それよりもこんな朝早くから勝手に侵入してきて、まず言うことがある気がするんだけど」
 進一は朝早くから襲撃された理不尽な現象を謝罪の言葉を聞くことでなんとかして自分の中で納得させたかった。
「日経平均株価とか?」
「違うよ?」
 咄嗟に否定してしまったが、肯定していたらカシスはちゃんとその頭の良さそうなワードである「日経平均株価」とやらを教えてくれたのだろうか。チェックするために、カシスが毎朝起きたら新聞を読んでいるという図はなかなか想像できなかった。
「まぁそんなことはどうでもいいとして、進一に金儲けの話を持ってきてやったぞ」
 これほどまでに胡散臭い言い回しを聞いてしまうと、怪しむどころか逆に全てを受け入れてしまいそうになる。
「金儲けをそんなに簡単にできたら、この世の全ての社長が泣くな」
「大丈夫、社長じゃないけどあたしに任せとけって!」
 京子は未来からやってきて全てを知っているかのように自信を漲らせていた。
「明日はお待ちかねの入学式よ。何百人ってレベルの生徒が高校に入るわけ。そして高校といったら学食、学食といったら食堂よりも購買のパンとか弁当でしょ。それをあたしたちが買い占めて色つけて売ればいいのよ。どう? 完璧じゃないこれ。だから資本となるお金を下さい」
 闘志をあふれさせながら進一に熱弁する京子の姿は小学生にしか思えなかった。
「どうしてそんなに見込みがない博打をしようと思ったんだ。そもそも自分の生活だけでも精一杯なのに、金なんて出せる訳ないだろ」
「じゃあ、ここは割り勘ってことで」
 京子は「じゃあ」の使い方を教えてくれる授業を受けたことがないのだろうか。
「いやいやいや。こっちは安定した仕送りが無くて明日の生活がかかってるんだよ。それなのにこんなことに金は出せないって」
「よし、分かった。一緒に頑張ろう」
 京子の相手のことを考えないその姿勢は、午前二時にやってくる佐川急便も顔負けだ。
「だから明日は購買に来るのよ。金は全く持ってないからあとで徴収するわ。じゃ、そーゆーことで」
「そういうことなんだってさ。じゃあまた明日ね」
 京子とカシスは有無も言わせず、用件だけ伝えて猫のように素早くその身を消してしまった。
 進一は気がつくと爆弾を身体に巻き付けられていたような気持ちに苛まれた。


 翌日の夕方、進一を含めた三人は食堂にある大人数用のスペースでうなだれていた。テーブルの上に山積みされたパンと弁当を置いて。
「なんでだろう、私いまとってもロンドンに行きたいよ」
 カシスは頬をテーブルにつけながらアサッテの方角を向いていた。
「うん……自分もだよ」
 窓から沈む夕日を見ながら、進一は荒波に揉まれたような声を出した。
「まさか、午後に何の行事も無くて、午前中で全員が帰宅するとは思わなかったわ……」
 京子は進一たちに状況の再認識をさせた。
「部活する運動部も皆無だなんて……もう嫌だ!」
 進一は金が戻ってくることはないと知りながらも、つい声を出してしまう。
「これで完全に今月は乗り切れなくなったけど、なんとかなるよね!」
 カシスの声が三人しか存在しない食堂に虚しく響き渡る。
 進一はよく分からない仕送りシステムの中、食費、光熱費、家賃などを全てやりくりしなくてはいけないという状況で、打開できる見込みも無い。考え方が、仕送りが届くまでなんとか乗り切る方法から、ATMを破壊する用の鈍器を買った方が早いかもしれないという方向にまで曲がってしてしまっている。
「諦めるのはまだ早いわ! アレをやればいいのよ」
「そっか! アレをやればいいんだ。さすが京子、ミニチュアダックスフンドだね!」
 投資に失敗してこの金欠状態に、何か策でも存在するのだろうか。生活費は全て目の前にある大量の食料に変えられてしまった。これは魔女という名の京子の仕業だということは明らかだ。
 そんな京子の策なので不安の要素は満載だが、お互いに困窮していて進一も他に頼る術がない。よって、不本意ながらも提案に乗らざるをえなかった。
「アレって何だ。この状況を打開できる何かがあるのか?」
「京子は天才警察犬だからね。何でもできるんだよ」
 カシスが代わりに堪える。
「何か紙と書けるもの持ってない? 進一ならあるでしょ」
「まあ、あるけどさ……」
 何かに使うと思っていたルーズリーフを一枚カバンから取り出し、京子に手渡した。ルーズリーフを購入した時の進一は、こんなタイミングでの使用ば想像していなかった。
「ありがとう。じゃあいくね」
 カシスはペンを構えると切り裂きジャックも驚くほど、眼が鋭く変貌した。
『大家さんへ。桜見物の好季節となりましたが、いかがお過ごしでしょうか。早速ですが、私たち住人は――家賃を滞納することをここに誓います。ますますのご活躍を期待しております。佐々原進一』
 深く息を吐いて、カシスはゆっくりとペンを置いた。
「百点間違いなしだね!」
「勘弁してくれないかな……」
 この手紙と不安感にまみれた未来ごと燃やしてほしいと思いつつ、進一は大家さんがますますのご活躍をしないことを祈った。(了)
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