5月31日は木曜日。午後4時、外は…曇り?オレンジ色の雲が西の空を覆っていた。
眠そうな目をしたオネエサマが酒のニオイをぷんぷんと振りまきながら店の前に現れて、僕を控え室に案内してくれた。店の敷居を跨ぐのは前回の面接の後、今日が二回目だ。
『とりあえずよろしくね。肌に合わなかったら辞めたらいいわ』と冷たく言っていた割に、オネエサマはやけに楽しそうに僕を控え室の鏡の前に座らせる。
「初めてならこのあたりだと思うんだけど、どっちがいいかしら?」
オネエサマが青と黒、2着のドレスを持ってニヤリと笑った。

「コンタクトは入れてきた?」
「はい」
「いずれは眼鏡っ子なんてのも良いかもしれないわねー」
青いドレスの裏地がつるつると肌を滑る感触に慣れることができない。僕の手は、太股のあたりで生地を押さえるのに必死になっていた。
オネエサマの骨っぽい手が、目の前にメイク道具をてきぱきと広げていく。僕は何が始まるのかとびくびくしながらそれを見ていた。
「…本格的に働くなら、アナタも買うのよ?こういうの」
何が始まるのかなんて、ここに来る時から解っていたが。

 電動シェーバーを手渡され、僕が念入りに髭を剃り落としている間、オネエサマが肌色のクリームを手の甲にたっぷりと出して慌てていた。出しすぎたクリームをチューブ型の容器に何とか戻そうと四苦八苦している。まるで絵の具みたいだ、と僕は思った。
 あっちで顔洗ってきて。じゃあ下地からいくわね。
 オネエサマが目の敵みたいに口周りに何やらクリームを重ねていく。そのうち青くなるのよ、ここが!とぶつぶつ唱えるのを聞いていた。
 こってりとしたファンデーションを顔や首周りにまで塗りたくられて、いよいよ目の回りにオネエサマの指が這ってゆく。
「若い子は良いわよね。しかもアナタ、肌も綺麗だからノリも良くて化粧する方も楽しいわあ、」
 いいじゃない、いいじゃない、とオネエサマが楽しそうに色とりどり、目映いばかりの色の乗ったアイシャドウのパレットを手に取ったところで僕は怖くなった。
「…あの、お化粧はそこまで濃くなくても…」
「あらそう?…ま、まだ舞台には上がらないしねえ」オネエサマが派手なパレットを閉じ、別のパレットを開いた。ちらりと見えた淡いブラウンに酷くホッとした自分に笑ってしまう。
「初めてだものね、びっくりしちゃったわよね。」
でも、舞台に上がるようになったら、化粧も少し派手にしなくちゃだめよ?
 オネエサマが少し寂しそうな顔になって、僕は焦った。
「あ、はい。今日は、とにかく女の子になってみたいので…そういう時は、ちゃんとします」
 オネエサマは「やだ!かわいいのね!」と笑って、袖を捲った。

 一時間の後、出勤してきたオネエサマ達がこっちだあっちだ、と僕に被せるカツラ選びで大騒ぎをし、茶髪金髪のあまりにも絵に描いたようなカツラが並べられる様子に恐れおののいた僕が、
「女の子になってみたいんです」
という言葉をもう一度使ってみると、オネエサマ達は口々に『カワイイ』『可愛い』と言って、黒髪のカツラを引っ張りだして来てくれたので、僕は迷わずショートボブのそれを選んだ。

さらさらの黒い髪の毛が頬に触れる。なんだか懐かしい気持ちになった。
「顔だけならどこから見てもオンナノコよ。お化粧も控えめだから…すね毛さえ剃ってしまえば、このままお外も歩けるわね。どうかしら?」
差し出されたキラキラのミュールに足を通し、オネエサマに手を引かれるまま、ふらふらと姿見の前に連れていかれる。
相変わらずつるつる滑るドレスと、初めて履いたヒールの靴が怖くて足下から目が離せなかった。

『目が似てるから、きっといけるよ。ちょっと顔貸して』

 あの日の"彼女"が、あの日のままに僕の顎を持ち上げた気がして、僕はキラキラのミュールから視線を上げる。
 姿見の中の"彼女"と目が合った。

 "彼女"は幾分か戸惑った様子だった。
 僕は深呼吸をして、記憶の中の"彼女"の姿を思い出す。
 しっかりと両足で立ち、鏡に向き合った。

 やっと逢えた。久しぶりだね。

 僕がニヤリと笑うと、"彼女"も同じ笑みを返してきた。
 鏡の中の僕は、
 僕は、『彼女』だった。 





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