キャンキャンという高く賑やかな声で、私は眠りから覚めた。瞼を持ち上げると、赤茶色の毛をした犬を抱き抱えている男の姿が見えた。
「おはようございます」
 穏やかな笑顔と言葉に、私はまだ自分が夢の中にいるのかと疑った。しかし頭を振り、まばたきを繰り返しても眼前の光景は消えない。
「あれ、まだ眠たいんですか? でも、いつまでもこんなところで寝ていたら身体が固まってしまうでしょう。もう朝の7時を過ぎていますよ」
 そう言って身を屈め、犬の頭を寄せてくる。犬は嫌がらず、いや、むしろ喜んで私の顔を舐めてきた。ミニチュアダックスフントだろうか、随分と人懐っこいものだ。状況が理解できず眉を顰める私を見て、男は「犬が嫌いですか」と残念そうに呟き、姿勢を戻した。
「昨日は酷いことをしてごめんなさい。まずは紐とガムテープ、取ってあげますね」
 男の腕から下ろされた犬は、とことこ歩いて浴室から出て行った。視線で追おうとしたところに、口に貼られたガムテープが剥がされる。皮ごと剥がされたかというような痛みと、肉が引き攣れる感触。文句を言おうとして、また塞がれたら堪ったものではないと自重する。そんな私の様子を察してか、男はくすくすと笑った。
「別に、喋ってもいいんですよ」
「ああそう、じゃあ遠慮なく。ガムテープ外れるとき、私、めちゃくちゃ不細工じゃなかった? 顔がむぎーってなった気がするんだけど」
 一瞬の沈黙の後、浴室に笑い声が反響した。ひいひいと苦しそうに咳き込んでまで笑いながら、器用な手つきで私の身体に巻き付いたガムテープとビニール紐を外してく。最後に両手首の拘束が外され、私は大きく伸びをした。関節の軋む音が聞こえる。
「で、お兄さん、一晩の間にどんな心境の変化があったわけ?」
「まずは自己紹介をさせてください。僕の名前は笹本康介といいます、よろしくお願いします」
「あからさまに話題を逸らされても、対応に困るんですけどぉ。五体満足になった私が、目撃者の口を封じようと凶行に走るかもよ」
「君の名前も教えてくれませんか?」
 会話が噛み合わない。自由になった口で、私は思う存分溜め息を吐いた。
「ほいほいと個人情報をバラしますかっての。どういう魂胆か知らないけどさ、通報する気がないんだったらこのまま逃がしてくれない? 廃公園の林なんてそう簡単に死体が見つかる場所じゃないけど、絶対に発見されない場所ってわけでもない。あんたさえ黙っていてくれるなら、殺人の次は逃亡生活を経験してみるのも面白いかなって思ってるんだけどさぁ」
「それは諦めてください。君はこれから、僕と一緒に暮らすんですから。だから名前を教えてもらわないと、いろいろと不便です」
「……暮らす? ええと、私が、笹本さんと?」
「康介でいいですよ。ほら、名前。いっそ偽名でもいいですから、呼び名を決めないと。何なら、僕が名付けましょうか?」
「参考までに、あの犬の名前を教えて」
「ヌイです。女の子ですよ」
「私めのことはどうぞ千恵とお呼びください。ちなみに本名でございます」
「ちえ……あんまり似合いませんね」
 ともすれば昨夜の出来事を忘れそうになりながら、乾いた浴室で気の抜けた会話を交わす。明るい光の中で男……笹本康介の様子を観察するに、歳は20代の半ば以降、地味だが優しそうな顔立ちだ。よくある形の、濃い灰色のスーツを身に着けている。昨夜の鬼気迫る表情から一変して、とても柔らかな態度で接してくるのがなんとも気色悪い。まさか、あまりのショックに頭のネジがおかしくなったのだろうか。
「あんたさぁ、記憶喪失になったわけじゃないんだよね? 愛する彼女さんが惨殺されたの、覚えてます? 私の包丁はどこにやったの? とりあえずこの部屋から出て行っていい?」
「そんな矢継ぎ早に質問しないでください。とりあえず、リビングに移動しませんか。固い浴槽よりは座り心地の良いクッションがありますよ」
 相変わらず頬笑みを浮かべた康介は、そっと私の頭を撫でた。乱れた髪を梳く仕草は、それこそ愛しい恋人にするようで、私は問いの答えを何ひとつ得ないまま浴室を後にするしかなかった。
「どうぞ、そこに座ってください」
 示されたのは、淡いピンク色の円いクッション。座卓を挟んだ向かいに、同じ形をした水色のクッションが置かれていて、康介はごく自然にそちら側へ座った。渋々と腰を下ろせば、柔らかな感触が受けとめてくれる。未だに強張る身体を解すために、再び背を伸ばして仰向けに寝転がった。気持ちいい。
「そんでさぁ、急にトチ狂ったことを言い出した理由くらいは教えてくれない? さすがに昨日と別人すぎるよ、ワケ分かんない」
「僕は君と仲良くなりたいだけです。僕にはもう、君とヌイしか残っていないから」
 呼ばれた名前に反応し、毛布の上で寝ていたヌイが寄って来た。甘えてじゃれかかるヌイは、康介の膝に抱え上げられると長い赤茶の尾を振る。
「ねえ、千恵さん。僕が仕事に行っている間、ヌイの面倒を見ていてくれませんか? ヌイはとても寂しがり屋で、ひとりきりになるとストレスで吐いちゃうんですよ。大丈夫、ヌイは大人しい子だから噛んだりしませんし、トイレもちゃんと出来ますから手はかかりません。一緒にいてくれるだけでいいんです」
 腰のクッションを動かして枕代わりにしながら、私は適当に話を流し聞きしていた。変な姿勢で眠ったせいで充分に休めず、襲い来る眠気のために考えることが面倒になっている。理解のできないものは、理解されるつもりがないのなら、理解のしようがないのだ。
「とりあえず、康介は私のことを警察に突き出すつもりはないんだよね?」
「はい」
「隠れてこっそり通報しない?」
「しません」
「『復讐だ!』って言って、私を刺し殺したりも?」
 少しだけ、曖昧に笑う気配があった。不意に訪れた沈黙に、私は身を起こして康介の表情を確かめる。細められた目と上がる口角、つまり、笑顔。
「しませんよ、絶対に」
「嘘くさいー」
「信じてくださいとしか、僕には言えません。ただ、僕が仕事から帰ってきたときに千恵さんとヌイが一緒に出迎えてくれたら、とても嬉しいと思います」
 そろそろ出ないと、と言って康介が見た置き時計は、8時に近づいていた。ヌイを降ろして立ち上がり、キッチンスペースへ向かう。
「朝と昼は、申し訳ないけれど冷蔵庫の中のものを適当に食べてください。肉じゃがとか豆腐とか、いろいろあるはずです。帰りは……そうだな、頑張って7時には戻ってきます」
 ごそごそとキッチンを漁っていた康介が、ふと、流し台の脇に置かれていたものを手に取り、振り返った。
「よろしくお願いしますね」
 右手にあるのは、包丁。目を見開いた私の顔をじっくりと眺めてから、康介はそれを元の場所に置き直した。ごとりという音が、酷く耳障りに響く。包丁の刃には、確かに暗い赤がこびり付いていた。
「それじゃあ、行ってきます」
 固まった私をまったく意に介さずに、康介は玄関に用意された鞄を持って出て行ってしまった。がちゃり、施錠の音がしても、私は動けない。振り返ったときの康介は、とても、とても冷たい瞳をしていた。
 どれくらい身を凍らせていたのだろう、手のひらを舐める犬の舌の感触で、私は意識を戻した。反射的に引いた手が犬の顔に当たって、キャインと高い鳴き声が上がる。
「あ、ごめん」
 これも反射的に謝ると、ヌイはしばし私をじっと見つめて、再び手を舐めてきた。ぺろぺろ、ぺろぺろ。繰り返されるそれに、指が唾液でぬめぬめと汚れる。
「何、お前、私に匂いでも付けてるの?」
 唾液をヌイの背中の毛に擦りつけて拭っても、べたべたとした感じが消えない。仕方なく手を洗おうと流し台に向かえば、否応なく件の包丁が目に入った。見覚えのある柄と、何より乾いた血の痕がその素性を保証している。昨夜、私が女を殺したときに使った包丁だ。
 康介は確実に、昨夜の出来事を忘れてはいない。だからこそ、私と仲良くしたいという彼の思惑が理解できない。そしておそらく、私に理解させようともしていない。だから私は、理解する努力を放棄する。
 肺の空気を根こそぎ押し出すような溜め息を吐いて、ピンクのクッションに頭を落とす。施錠は所詮、外からの侵入を防ぐためのものだ。中からの脱出には何ら支障ない。だったら、少しくらいここで休んでいっても良いだろう。なんだかんだで私は緊張していたし、重労働のおかげで疲労も大きい。これからどうするにしたって、眠くて眠くて仕方のない身体は動くことを拒否しているのだ。そのまま横たわっていると、腰の横でヌイが長い胴体を丸めて顎を落とした。くっついた身体から伝わってくる、人間より高い体温が心地いい。静かで、あたたかくて、柔らかい。この部屋は心地のいいもので溢れている。ただひとつ、私の持ち込んだ包丁だけが異質だった。





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