#3『アメはママのことがだーい好きなんだもんっ!』

 発端は、部活動の一環だった。
 放送部に入りたての一年生は発声練習と度胸付けを兼ねて、毎朝校門の前であいさつ運動をするのが習わしになっている。その初々しい集団の中に件の無知女もひっそり紛れていたわけだが、彼女の特異すぎる声質はその他大勢を押しのけ目立ちに目立った。起床間もない寝ぼけ頭に飛来した未曾有の衝撃に皆そろって足を止め、その声の主が新入部員達の中でもひときわ低い身長と、緩いウェーブのかかったふわふわの栗毛を持つ可憐な少女であることを同時に認識した。
 声優はだしの愛らしい美声とそれに見合う妖精的なルックスが相まって、そのあいさつ少女はとりわけソッチ系愛好者の間で人気に火がついた。翌週にはファンクラブも発足されるなど評判は評判を呼んで、またたく間に校内は多田睦実の話題で持ちきりになった。
 顔が売れれば、敵も増える。
 アレはとんでもないアバズレで上級生を誘惑してやりまくっているだの、昼休みに体育館裏でタバコを吸っていただの、彼女についての悪い噂がそこかしこで聞こえるようになってからは、嫉妬に狂う女子と噂を真に受けた男子からの怨嗟の念が直接的な攻撃となって本人にぶつけられるようになる。
 廊下を歩いていると見知らぬ生徒からすれ違いざまに罵詈雑言を浴びせられる。
 階段を降りている途中にいきなり背中を強く押される。
 下駄箱に「ビッチ死ね」だの「放送部を辞めないと殺す」だのと書かれた紙を入れられる。
 これらはあくまでたまたま小耳に挟んだ情報であって、私は実際にその現場を目撃したわけではない。
 でも入部から半月と持たずに、多田睦実は本当に放送部を辞めてしまった。

 一度根付いた嫉妬や醜聞はそう簡単には払拭されなかった。この一件により多田睦実は校内で完全に孤立する。孤独な小学校生活を送っていた彼女は、中学でもその二の舞を演じるハメになったわけだ。
 それでも露出が途絶えた分、不特定多数による嫌がらせは目に見えて減った。だが代わりに今度は特定人物からの執拗ないじめを受けることになった。先の嫌がらせに対する多田睦実の一貫した姿勢は、嗜虐趣味を有する者にとってこの上なく都合の良いものだった。多田睦実はどれだけ嫌がらせを受けても決して親や教師に泣きつかない。それはどれだけやりたい放題暴虐を尽くしても限りなくノーリスクに近いということ。足かせが無いことを悟った奴らは、まるで物言わぬゴミ箱にゴミを放り込むように、次々と彼女に悪意を放り込んだ。
 さらに具合の悪いことに、あの無知女は他人の悪意というものに対しあまりに鈍感だった。皮肉を助言と捉えて疑わなかった辺りにもその鈍さは現れていたが、奴はともすると罵倒すら激励と取るかもしれない。これは苦痛を知らない平和ボケ野郎によく見られる特性なのだが、不可解なことに多田睦実は年季の入ったいじめられっ子である。
 何にせよ、悪意に対する鈍さは、身の危険に対する無防備さにつながる。それがあまりに行き過ぎると世をサバイブする上で致命的な欠陥となる。
 じっと耐えていれば、いつかいじめをやめてくれるに違いない。
 じっと耐えていれば、見かねて誰かが助けてくれるに違いない。
 あの無知女が本気でそう思っているのだとしたら、その無知ぶりはあまりにも愚かしい。
 世の中には己の想像を絶するほど深い闇を心に抱えた人間がいる。その凶悪な害意に対抗するには、それと同等の敵意でもって立ち向かうしかない。
 そして人は基本的に自分と関わりの無い人間に対して、冷酷なまでに無干渉だ。矛先を向けられる危険を犯してまで、わざわざはぐれ者を助けるような物好きはそう居ない。孤立無援の無知女は本人でどうにか自衛するより他にないのだ。そしてこのままその鈍さ故の無為無策を通す限りいじめはエスカレートするばかりだろう。もうこんなものは“耐え忍ぶ戦い”とすら呼べない。気の長い身投げに近い。

 以上の考察の大半はあくまで私の主観による憶測でしかない。だがそれでも、次のことだけは断言できる。
 多田睦実の現状は、生き地獄以外の何物でもない。
 日常的に執拗ないじめを受け続け、誰からもかばってもらえず、本来頼るべき家族にはそれを一切ひた隠しにしなければならない日々。
 たまに新聞の一面に載る“いじめを苦に自殺する子供”というのは、きっと睦実のような境遇の人間なのだろう。
 身に余り過ぎる不幸を背負えるだけ背負わされながら、あいつは一体どんな精神状態で毎日を生き延びているのか。想像するだに意識が遠くなる。
「……いい加減やめようか」
 家に着いてから今までずっと、宿題そっちのけで無知女のことについて考えている。
 もうあいつとは一切関わるべきじゃない、それだけはハッキリしている。しかし昨日と今日、二日連続であのトイレに来たからには、三度目もあるに違いない。このままなし崩し的に面倒事に巻き込まれるのは御免だ。なにか手を打たねば。
 私は腕を組み直し、もうしばし思案を巡らすことにする。目の前に開かれた問題集はもはや完全無視だ。
 有効な解決策を見つけあぐねていると、ふと玄関の方から物音が聞こえた。「ただいまぁ~」

 ママの声だ! 

 光より速く玄関に向かうと、きらびやかな仕事着に身を包んだママがヒールを脱いでいるところだった。
「ママ~! どうしたの、こんな時間に帰ってくるなんて。お仕事は?」
「今日は定期メンテでお店が特別休日だったのよう、ママってばついついうっかりしてたのだ~、てへてへ」
「嬉しい! じゃあ今夜はママずっと家にいるの?」
「そうなるわねぇ、事前に休みってわかってたらバイトの方のシフトを入れたんだけど」
「わーいわーいやったぁー! 私今夜はママのベッドで寝るぅー!」
「だめよ。生活サイクルが真逆なんだから、寝るときは別の部屋って決まりでしょ?」
「ヤダヤダ! だってママと二人で過ごせる夜なんてめったにないんだもん!」
「ママ夜中はずっと起きてるのよ?」
「私も隣でずっと起きてるー。今夜はいっぱいお話しようねっ?」
「うふふっ、いくつになってもアメは甘えんぼさんなんだから~」
「だって~アメはママのことだーい好きなんだもんっ!」
 久しぶりにママといっしょの夜だ! あぁ~うっれしいなぁ! 


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