#2『どぎまぎすると、つい“でちゃう”んです』

『昼休みをいかに平穏にやり過ごすか』
“友達を一切作りたくない人間”にとって学校生活を送る上で最大の課題だ。
 教室でじっとしているのは危険すぎる。いつ誰に話しかけられるかわからないし、何かのはずみでなつかれでもしたら最悪だ。かと言って相手を無視したり無下に追い返したりするのも論外だ。私はクラスの嫌われ者になっていじめられたいわけではない、友達を作りたくないだけなのだ。サバイブの難易度を無駄に吊り上げる言動はとるべきじゃない。
 必然、昼休みは教室を離れるしかなくなる。なるだけ人目につかない場所を見つけてそこに身を隠し、昼休みが終わるまでじっと待つ。それがベストだ。
 問題はどこに身を隠すかだが、小学生の頃は今よりずっと苦労した。かつて使われていたらしい焼却炉のそば、プールサイドの脇、体育館の壇上の袖裏、図書室の片隅……いつもどこかしらに誰かがいた。小学生男子という生き物は人の踏み入ってない場所に好んで巣を張る習性がある。
 ジプシーよろしく転々と場所を変え、ようやく見つけたのがとある女子トイレ。目立たない場所にあるから利用者は少ないし、さしものわんぱく小僧共も女子トイレを根城にするほどわんぱくでは無い。ただそこはやはりトイレ、清潔さとは無縁だし、臭いだって気になる。決して居心地の良い空間とは言えない。
 でも結局、最後まで心から落ち着けた場所はそのトイレだけだった。すると妙なもので、小学校を卒業する頃には学校のトイレという場そのものに偏執的な愛着を抱くようになった。
 私は中学に入るとすぐに“最適なトイレ”を求めて校舎をくまなく回った。
 そうして見つけ出した新しい居場所はこの上なく快適な空間だった。新設されて間もない私立校なので校舎全体が真新しいし、業者による手入れも十全だ。便座も床もいつもピカピカ、換気扇だって回ってるし、使用済みナプキンが何日もゴミ箱の中に放置されているなんてこともない。
 そんなわけで私はこの居場所を大いに気に入っている。
 中学を卒業するまでの三年間、誰にも踏み荒らされたくない。
「ぐっ……ひぐっ……ぶぇぇっ……ぶぇえぇぇ、うぐえぇぇぇ」
 平穏を脅かす要因は何であろうと排除しなければならない。
「ひっく……ひっく…………ふっ……ふうっ、ぐふふぅっ……ぐふすすすっ」
「変な声で泣くのはやめろ!」
「きゃあ!」
「“ぐふすすす”ってなんだよ、うるさいし気持ち悪いんだよさっきから! なんなのそれ笑ってんの?」
「いきなりそんな大声だすから……はー……びっくり……」
「びっくりなのはこっちだよ! なんで今日も来てるんだよ、昨日あんだけ釘刺しといただろう!」
「ごめんなさいです、ほかに泣ける場所がないんです」
「ぐっ……」
 どうしよう、このまま常習的に居付かれでもしたら最悪だ。
 直接首根っこ捕まえて追い出してやれたらどんなにせいせいするだろう。
 早まるなよ……何か他のもっとスマートな方法を考えるんだ。
「……なあ、あんたは駆け込み先を間違えてる。あんたが来るべきはここじゃない、職員室だ」
「えっ……?」
「いじめられてるんだろ? だったら便器に泣きついたってしょうがない、担任に泣きつけ」
「あ、うぅ……それはダメなんです」
「なぜ?」
「あまり大ごとになってはまずいのです」
「連中に弱みでも握られてんのか?」
「いえ、家族に知られたくないんです。とくにお母さんにだけは、ぜったい」
「お母さん?」
「はい、お母さんです。お母さんにはこれ以上心配かけたくないんです。わたし、小学校でもずっといじめられてて、わたしがたくさん心配かけちゃったせいで、お母さんは心の病気になってしまって……。だから嘘ついてるんです、中学では毎日楽しいよって、友達もたくさんいるよって」
「……それ、いつまで続けるつもりだ?」
「うー、えーと、“あの人達”がいつかいじめにあきてくれるまで、がまんするです。その前に、クラスの誰かやさしい人が助けてくれるかもですし」
 冗談じゃない。
 どうでもいいけど私にまで迷惑をかけるなよ、無知女。
「そんな不確かな“いつか”と“誰か”に期待してるのか、相当おめでたい奴だなお前は」
「う……」
「その望みが薄いことくらい、自分でもなんとなくわかってるんじゃないか? だったら人生の難易度を無意味に吊り上げるようなマネはよせ」
「ううぅ……」
 よし、いいぞ、もうひと押し。
「ずっとこのままでいいのか? いいわけないよなぁ? おいどうなんだ?」

『やいこら睦実ィ! 姐さんがせっかく訊いてんだ、ちゃっちゃとはっきり答えろィっ!』

 多田睦実がいるはずの個室からべらんめえ口調の少年の声が聞こえた。
「…………なにいまの」
 幻聴にしてはあまりにリアルな……。
『へい、睦実に代わってあっしが答えさせていただきやす! あっし睦実とは古くからの腐れ縁でありやして、ムツゴローってェもんです。以後お見知りおきを』
 ……えーと、ちょっと待って待って、ワカンナイ、ナニナニわけがわかんない。
 ちょっと整理させて、心と頭を整理させて。
「えーー……と……うん、ムツゴローは睦実の、もう一つの人格ってことでオッケー?」
「ムツゴローはわたしの大切な友達です」
 今度は睦実の声が返ってきた。
「ええと、もっとちゃんとした説明がほしいんだけど……」
「昔からこういうのだけは得意なんです。ホントは将来声優さんになりたくて、放送部に入ったりもしたんです。……まあ、いろいろあってすぐにやめちゃったですけど。あ、でもやめたのもお母さんにはないしょです」
「二重人格ではないのね?」
「ムツゴローはくまのぬいぐるみなんです、お母さんの手作りです、かわいいですよー。上着のポッケに入れて肌身はなさず持ち歩いてるんです。手のひらサイズです。何よりも大切なわたしの宝物です」
「いやそんなことまでは訊いてない」
 ドヤ声でぬいぐるみ自慢されてもなー。
 でもそっかぬいぐるみかーびっくりしたなー。
 アテレコかー、いやーまいっちゃったなー、うまいもんだー……
「あんたフザけてんの?」
「ごっ、誤解です、ふざけてないですっ!」
「バカにしてんだろ」
「してないですっ!」
『なぁーにウスラぼんやりしてやがんでィ睦実っ、姐さんにしっかり説明しろィっ!』
「えーと、うーと、わたしは今まで友達がいたことってないんです……」
「いや、だから何?」
 私だってそうですけど?
「だから代わりに想像のお友達とおしゃべりするんです。今でもよくします。なんでか家族には口すっぱく止められているので、普段はお家の中以外ではやりません。……でもひどく追いつめられて、どぎまぎすると、つい“でちゃう”んです」
「なるほどね」
 どんびきだよ。
「まったくムツゴローには困ったものです。空気読めよ、です」
 いやそれどういう気持ちで言ってんの?
「……なんか頭痛いからもう教室に戻るわ」
「あ、じゃあわたしも──」
「待って!」
 あわてて私は睦実を制止した。
「あんたが出るのは私の後だ。そうだな、私が出たら五十数えろ、それまでドアには指一本触れるな」
「ど、どうしてですか?」
「理由は訊くな」
「でもでも、ちゃんとお顔を見てお礼を言いたいですよ」
「お礼?」
「お礼です。親身に話を聞いてくれて、アドバイスまでくれて、わたしなんかのために……やっぱり先輩は、やさしいです」
「別に……あんたのためじゃない!」
 あまりこれ以上イライラさせるなよ、無知女。
「さっきの話ですけど、やっぱりこのままがんばってみます。わたし、お母さんのことが世界でいちばん大好きだから、心配かけたくないんです」
「っ……勝手にすれば!」私はドアのロックを外した。「それより五十数えるまで絶対開けるなよ」
「わかったです」
「そうそう、次いじめられたらムツゴローに啖呵切ってもらえばいいんじゃねーの? 困ったときは出てきてくれるんだろ」
「あ~なるほどです。それは思いつかなんだです」
 何がなるほどだ。んなことしたら益々馬鹿にされるか無駄に神経逆撫でて終いだろ。
「さすが先輩です。重ね重ね、アドバイスありがとうです!」
 ……何でも好意的に取りやがって、うかつに皮肉も言えやしない。
「でも出てきてくれるかなぁ……ムツゴローは内弁慶だから、威勢がいいのは身内に対してだけなんです」
「ご愁傷様」

 トイレをあとにしてすぐ、やけによく通る間延びした声が数字を唱えだした。
 声に出せとまでは言ってねえっつうの。


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