夢工場


 たまねぎの頭を切り落としたような建物の入り口をくぐると、予想に反して中は、これといった変哲もない、感じの良いエントランスだった。

「ご予約の方ですか」
「はい」
「確認いたします。お名前をどうぞ」
「ヨシダ、タカユキ、です」
「はい、ヨシダ様ですね……、はい……はい、確認いたしました。本日十四時からのご予約を承っております」
「間違いありません」
 中央に受付のカウンター。その脇に背の高いパキラ。奥にはエレベーターが二台。石貼りの床に、壁は、光を多く取り入れるために一面のガラス張り。しかし、露悪趣味には走らないほど良さがある。いかにも近未来を思わせる流線形の外観は、ある種の美的感興を起こさせてくれるが、それだけでは何の意味もない。けれど今の私には、それがこの施設の質を保証してくれている気がして、なんとも頼もしく心強かった。
「当施設のご利用は初めてですか」
「ええ、もちろん」
 妙な質問だな、と思い、私は苦笑まじりに答えた。
「初めてです」
「かしこまりました。ご案内いたします。こちらへどうぞ」
 エレベーターに乗り、案内が『3』のボタンを押す。『3』の上には『4』と『R』のボタンしかないので、思ったよりも小ぶりな建物らしい。
 ゆっくりと箱が動き出す。<死刑台のエレベーター>という言葉が頭に浮かんだ。確かフランス映画の題名だったと思う。
 三階に着きドアが開いた。細長い廊下が続き、およそ二メートル間隔に、均等に部屋が連なっている。床にはライラック色のカーペット。壁と天井は白い。
 私はなんとなく、先ほどの疑問を投げかけてみた。
「あの……、こちらの施設を何回も利用するということはあるのでしょうか」
「はい、ございます。ご家族やご友人の方がご利用になる際、付き添いでご来館いただく方もいらっしゃいます。特にご老人やお子様、お身体の不自由な方などは、満足に説明を受けたり、手続きをしていただくことが困難な場合がございますので、その際には、代理の方のご名義でご利用いただいております」
「はあ、なるほど……」
 すらすらと淀みなく説明するところを見ると、私と同じ質問をする人間は多いらしい。これから死にゆく者がこんな疑問を抱くことは実に……、実にどうでもいいことのはずなのに、それでも好奇心の甘い誘惑に耐えられないのは、それがヒトの本質だからなのかもしれない。あるいは、そんな人間は、心の片隅に未練、生に対する執着を引きずっているのかもしれない。
「こちらのお部屋です」
 案内された部屋は、やはり、何ということはない。六畳ほどの広さに、ベッドが一台、丸椅子が一脚。ベッドには心電図モニタのような四角い機械が備え付けられている。薬品の匂いがしないだけで、まるで病室のようだった。おそらく他の部屋もまったく同じ間取りなのだろう。
「ベッドに腰掛けてお待ちください。間もなく、担当の者が見えます」
 案内が出て行き、ドアが閉められた。
 静寂が訪れる。あつらえたような、死がくる前の静けさ――その止まった時の中で、私は妻の顔を思い返していた。



 ひと月前、妻は死んだ。自殺だった。結婚から一年が過ぎようとしていたときのことだ。
 妻はまったくの健康体で、私たちの夫婦生活にも――すくなくとも私が考える限りでは――問題はなかった。だから、というのも夫としては言い訳がましいが、なぜ妻が自殺を選んだのか、私にはわからない。そしておそらく、その答えは一生わからないのだと思う。
 遺体が我が家の寝室に搬入された後、物言わぬ妻の亡き骸の前で、私は呆然と座り込んでいた。妻の顔は死に化粧で普段にも増して美しく見えた。眼窩をなぞる柳眉が穏やかな寝顔のようで、きっと、今わの際も苦しまずに済んだのだろう。しかし、そんなことはすこしも慰めにならなかった。
 何よりも私を憂えさせたのは、妻が私に相談もせず、何の素振りも見せず、独りで逝ってしまったことだった。遺書もなかった。それでも突発的な自殺でなかったことだけははっきりしていて、それがことさら妻の無言の訴えのように感じられ、私はいたたまれなかった。



「お待たせしました。担当の原沢です」
 入ってきたのは、白衣を着た、五十がらみの男性だった。丸く横に広い輪郭、厚い唇、垂れぎみのまなこに地蔵眉、その間でひときわ存在感を放つのっそりと伸びた鼻。顔中に刻まれたしわは、年輪のように長い年月の経過を物語っていた。全体的な雰囲気として、どこか人を和ませるものを持っている。高校生のとき、こんな教師がいたような気がした。
「吉田孝行さんで、間違いありませんね」
「はい」
 原沢の声に事務的な響きはなく、心底私をいたわってくれているようだ。もしかしたら、それ自体が常の仕事として、習い性となっているだけかもしれない。
「これからの手順について、説明は受けていらっしゃいますね?」
「はい。承知しています」
「それでは、横になってください。ええ、仰向けに」
 言われた通り、私はベッドの上に身体を横たえた。すると原沢は、例の心電図モニタから、ボウル容器にダクトがついたような機械を取り出した。それを私の頭にかぶせる。暗闇が広がった。
 ボウル容器からは、低い、うなるような音が聞こえてくる。私は、熱帯魚の水槽に入ったエアーポンプを思い浮かべた。



 望むままの夢が見たい。
 その研究がそもそもの発端だったらしい。
 そして出来上がった機械は確かな効き目を持つ、まさしく、夢のような発明だったようだ。同時に、仕組みは私にはよくわからないが、人体の複雑な脳の機能に、文字通り致命的な異常を及ぼす処刑装置でもあった。開発者自身がその身をもって効果を実証したため、現在この研究は行われていない。
 要するに研究は失敗に終わったわけだが、それが結果的に、安楽死を促す営利事業へと発展した理由は、なにもその失敗を躍起になって取り返そうという貧乏人根性ばかりではなかったろう。客がいなければ商売は成り立たない。とりわけ、独り身の老人が多いらしい。
 妻の死から二週間が過ぎた、さる日曜の午後。我が家の客間で、私は説明員と二人、テーブルを挟んでいた。
「その人の経験していないことや、人間として能力の限界を超えることは無理です。例えば、宇宙の真理を知りたいだとか、まったく知らない言語を自由に喋ってみたいだとかいったことです。ただ、個人差はあるようですが、空を飛んだりはできるようです。人が体験し得る範囲で感覚が働くということです」
「ふつうの夢と同じですね」
「平たく言えば、その通りです。ただ、一般的な夢よりも具体性を持っています。なので、体験したことははっきりと知覚できますし、身体や頭脳も思うように働きます」
「すべて幻覚なんですよね」
「そうなります。脳を騙すわけですから」
「機械が……まるで、嘘をつくようですね」
「その人の一番強く望む心を映し出すわけですから、真実を見せてくれるとも言えます」
 方便だな、と私は思った。
 説明員の話はATMの自動音声のように淡々と進んだ。私は、その説明員には口を動かす以外の表情筋が存在しないのではないかと疑ったが、いま思えば、その時の私も似たようなものだった。あの場に人間は一人もいなかった。
「残念ながら、奥様がどのような夢を望まれたかについては、我々にはわかりません。ただひとつ言えることは、奥様は望んで当施設をご利用になったということです」
 結局、妻が自殺をした動機はわからなかった。



「準備は完了しました。あとはスイッチを入れるだけです」
 エアーポンプの音が止まり、入れ違いに原沢の声がした。
「何か、最期に話しておきたいことはありますか」
「はい……、ひとつだけ」
 話して何が解決するわけでもない。それでも話さずにはいられなかったのは、私の苦しみを誰かに共有してもらいたかったからだろう。
「私には佳代子という妻がいました。妻はちょうど一カ月前に、こちらの施設を利用しました」
「ええ……、お聞きしています」
「私は、妻がそこまで思い詰めていることを、すこしも知らなかったのです」
「人の心を完全に理解することなどできません」
「そうかもしれませんね……。私は、私なりに、懸命になって妻の自殺の理由を見つけようとしました。けれど、いくら探しても、私には見つけ出せなかった。それこそ霧の中をさまよい歩くようなものです。もう……疲れてしまった」
 私と原沢の声を置いて他には何も音がしない。ひとつひとつの言葉が、その間が、妙に長く感じる。どこか、聞こえてくる声が遠く意識されるのは、頭を覆うボウル容器のせいばかりではないだろう。
「私は鈍い男でした。妻のことを何もわかっていてやれなかった。結局のところ、私が気付かなかっただけで、妻が自殺した原因は私自身にあったのかもしれません」
「ご自分を責めてはいけません」
「この機械は人の体験や思考をもとに、望んだ夢を見せてくれるそうですね」
「ええ」
「それなら、私が気付いてやれなかった、私自身の心の内を……妻が死んだ真相を見せてくれるのではないでしょうか」
「もし吉田さんがそれを強く望むのであれば、きっと」
 私は鼻から大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。すべてのやり取りが空々しくなってきた。そろそろ潮時なのだろう。
「先生はご結婚なさっていますか」
「……ええ」
「では、その奥さんをどうか大切になさってください」
「――心に留めておきます」
 噛み締めるように間を置いて、原沢は答えた。
 もう、何も言うべきことはない。私が沈黙を守っていると、おもむろに、原沢が切り出した。
「よろしいですか」
「はい、お願いします」
 数秒をかぞえ、スイッチを入れる音が聞こえた。
 それは、張りつめた糸を断つような、硬く決然とした音だった。



 最初は、何が起こったのか、なかなか把握できなかった。より正確に表現するならば、何も起こっていないということを理解するまでにしばらくの時間を要した。
 私は困惑した。事前に聞いていた説明によれば、スイッチが入った直後から効果が出始めるはずだった。それが、変化のきざしが一向に見られない。私は思い切って尋ねてみた。
「先生……、もう、本当に、機械は動いているのですか」
 返事がない。
 私は、あの、うなるような機械の音が途中で聞こえなくなったことを考えた。あのとき本当に電源は入っていたのか。
 私がもう一度問いかけようと言葉を発しかけたとき、ようやく原沢の声が返ってきた。
「吉田さん、あなたがたの治療は成功です」
 何を言っているのか意味が理解できなかった。いよいよ混乱は深まるばかりで、事情が何ひとつ飲み込めない。
 にわかに頭のボウル容器が取り外された。瞳孔はすでに暗闇に慣れつつあったのだが、唐突に光にさらされても不思議とまぶしさは感じない。何より、眼前の信じがたい光景に、私は目を見張らざるを得なかった。
 微笑む原沢の後ろに、死んだはずの妻が立っている。
 とっさに、いくつもの感情が私の胸に去来した。本当に、妻に会えたことへの驚き、喜び、そして、ついに私も死ぬことになるのだという諦観。
 私は、近寄る妻を抱き締めた。
「孝行さん、ごめんなさい」
 妻の声は記憶の中に残っている思い出そのままだった。
 何も言えなかった。あれほど切望していたのに、いざ再会してみると、どう声をかけていいのか、何から話せば、聞けばいいのかわからない。
 そこへ原沢が口を出してきた。
「短い間でしたが……いえ、お二人にとっては決して短い時間ではなかったでしょうが、よく耐えてくれました」
 私は怪訝な表情を隠せなかった。そういえば、なぜ原沢がいるのだろう。これが私の脳内に映し出されている幻覚なら、原沢がいる必要はないはずだ。
「吉田さん……吉田孝行さん。あなたは死んでいません。生きておられるのです」
「え?」
 耳を疑った。
「まず、あなたを騙し続けていたことをお詫びいたします。これは、今までお話しするわけにはまいりませんでしたが、すべて心理カウンセリングの一環だったのです。当施設は自殺の助けをする機関であることに違いはありませんが――より正しくは、患者を自殺から助け出す、精神病院のようなものなのです。奥様は、回復を望んで当施設にいらっしゃったのです」
 原沢の言うことは理解できたが、それでもまだ信じられなかった。
「なぜ、こんなに回りくどいことを……」
「吉田さんには大変つらい思いをさせてしまい、心苦しく思っております。このような手法をとるのは、我々としても不本意ではあるのですが……。心の治療を行う上でもっとも重要なのが、悩みの原因であるところの本音なのです。真実正銘の死に向かいあったとき、人間は本音が出るものです」
「では、全部嘘だったと……」
「そうですね、そう言われても仕方ありません。そういうことになります」
 原沢は、ばつが悪そうな顔でそう言った。
 不意に目頭が熱くなり、視界がにじんだ。腕の中の妻がぼやけて見える。
 佳代子は生きており、私も生きている。以前と変わらない日々が取り戻せる。なぜ私は、死のうなどと考えたのだろう……



「――吉田孝行。十四時七分十二秒、心肺および脳波の停止を確認。担当、原沢」
 言い終えた後、すこし間を取り、原沢はICレコーダーの録音を停止した。そして、慣れた手つきで脳波調整機の電源を切る。先刻から作り笑顔を消し、険しい面持ちで事に臨んでいた原沢は、内心舌打ちをしながら、苦々しく、このひと月を振り返った。
 ――佳代子がちょっとした浮気を本気にしなければ……そして馬鹿な行動を取ろうとしなければ、これほど危ない橋を渡ることも、後味の悪い思いをする必要もなかったのだ。この男が死ぬことも――
 寝ている佳代子の頭に、孝行に使用したものと同じ脳波調整機をかぶせたのは、ちょうどひと月前のことだった。原沢には、離婚を迫ってきた佳代子の手綱を操ることはできなくなっていた。
 離婚の誓約書などとごまかして佳代子の直筆をもらい、施設利用の契約書をでっち上げることは難しくなかった。半ば無計画の行動だったとはいえ、当初はうまい方法でもみ消したものだと考えていた。しかし冷静になるにつれ、次第に、大変な綱渡りをしていることに気付いた。
 むろん、佳代子が不倫の事実を孝行に告げているはずはない。しかし、原沢にしてみれば、佳代子が不倫の証拠を残していないという確証はまったくなかった。それがどんなに些細なものであったとしても、万一、自分との接点に勘付かれるようなことがあれば、そこから芋づる式に一連の事実が明るみに出る。そうなればもう釈明の余地はない。原沢に残された手段は、自分の瀕している危険を根っこから取り去ってしまうことだった。
 ――佳代子が自殺したと知らされれば、この男は必ず、その死の真相を知ろうとするだろう。だが、結婚早々、女房を寝取られるような甲斐性なしだ。早晩心を折り、自分も後を追うようになるだろう。
 果たして、孝行は、原沢の驚くほど思い通りに行動してくれた。半年でも一年でも待つつもりでいた原沢は、肩透かしを食らったようだった。
 この不幸な男に対して同情の気持ちがないでもない。レコーダーを白衣のポケットに入れ、その頭から脳波調整機を取り外して見ると、孝行は安らかな顔で目を閉じていた。
 ――知らずにいれば幸せなことは多い。そして、その幸せが担保されるなら、人の道にもとるような嘘だって許されるだろう。そうでなくては救われない。私も、この男も……。
 この男は幸福な最期を迎えられたのだろうか?
 原沢は思いを巡らせながら、じっと、男のまなじりを伝う一条の涙を眺めていた。
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