国を愛した愚かな王の話




 はじめに断っておくが、本書は正式な歴史書と呼べる代物ではない。現在に至るまでの国史を正しく知りたいという者は、旧王立図書館によってまとめられた『正史』を紐解くがよかろう。
 私が書き記すのは、この国が長らく続いた君主制をついに捨て去り、共和制へと転換した、その時期のことである。国暦でいえば五六三年、それは我が国最後の王が崩御した年であるとともに、それまで約二〇年の間、二つに分断されていた国家が一つに戻った年でもある。
 本書は主としてそれに至るまでの経緯、特に最後の王に関する事柄を記すものであるが、その前に、なぜ国家が二つに分断されたのかについて触れておく必要があろう。

 そもそもの始まりは、最後から数えて九代前の王が突然に世を去った一月後、三六〇年三の月に勃発した内乱であった。次代の王について、先王の長子を推す者たちと、先王の弟を推す者たちとの間に争いが生じたのである。
 これまでの流れに従えば、直系の血を重んじて先王の子が即位するはずであった。しかしながら、王子は当時九歳になったばかり、成人もしていない年頃だったのである。また、不運なことに、先王が身罷ったのは即位してからわずか一年後のことで、王太子が正式に決定される前であった。
 結果から述べれば、新たな王位を獲得したのは、先王の弟であった。王子は二月続いた内乱の最中に病死し、もはやそれ以外の有力な選択肢が消え失せたからである。国民たちはこの新たな王を受け入れたが、決して歓迎したわけではなかった。得てしてそういうものである。
 しかし、国の歴史はこの新たな王の時代より大きく変わることとなった。今思えばそうであるというだけであって、このときにそう考えた者はいなかったに違いないが。
 三六三年、王の位を勝ちとった王は、隣国に攻めこむことを決めた。隣国といっても、海を渡った先である。この決定に異を唱えた有力者は一人残らず粛清され、最終的には誰もが沈黙した。
 同じく三六三年に、新たな王が即位した。つまり、海の向こうに攻めこんだ王は失敗し、国の独立を守るために代償として自らの命を差し出したのであった。
 資料によれば、この後から奇妙な風潮がうまれたようである。飢饉や大地震がこの国を襲ったときには、王が生贄にされたという記述が残されている。それによって大問題を解決した、と。
 つまり、君主制の意義は、体のよい生贄を用意できるという一点によって、その後百年余り維持されたといってよいであろう。実際のところ、王の権力は同じ君主制をとる他国と比較して明らかに弱く、執政は宰相や大臣たちによってなされていたようである。




 いよいよ王位を望む者がいなくなったかと思われた四九二年、逃亡した王に代わってその甥であった男が即位した。この王は、それまでの風潮を断ち切ろうとした。自らの強運、つまり生贄にされるような問題は起こらないという確信があったのかもしれない。王の権力を自身の在位時に回復させようと考えていたものと思われる。
 しかしながら、五四三年に大洪水が起こった。異様なほどに雨が続き、国の真ん中を通る大きな川の堤防がついに決壊してしまったのである。そして、その洪水によって国内三ヶ所に架かっていた橋がすべて流されてしまった。川は国の端から端を貫くように流れていたから、橋がなくなるとはつまり、国が二つに分断されるということをあらわす。もちろん船はあったが、橋があったころに比べて物流は滞り、人の往来も疎らにならざるを得なかったのであった。
 王は橋の再建を命じた。即位してから五〇年ほどが経過し、この王は権力を得ることに少しは成功していたらしい。その命を受けた役人たち、そして国民は、三つの橋を数年かかって再建した。
 ところが、である。再建された橋は、同じ年に起きた大洪水でまたも流されてしまった。強化したはずであった堤防も超えて、多量の水が町々を襲ったのである。そして、物や人の流れもまた、滞ることとなった。
 こうなってしまえば、人々が考えるのは生贄の件である。これまで幾度もそうすることによって危機を乗り越えてきた事実を、当然ながら誰もが知っている。国民たちの多くは、二度目の洪水が起きてしまったのも、王が直ちに生贄にならなかったせいであると考えた。
 しかし、王はそれを拒否した。僅かな供を連れ、僻地に建てた別邸へこもりながら、生贄になることを拒み続けた。人々はさまざまな手を使って王を引きずりだそうとしたが、このずる賢い王のほうが常に一枚上手であった。




 結局、国が二つに分断されたまま月日は流れ、五六一年にこの王は別邸で死を迎えた。王位を捨てず、生贄になることもなかったが、結局自身の王としての権力を回復させることはできなかった。

 さて、ここでようやく最後の王が登場する。人々が望むのは生贄になる王であったから、即位することはすなわち生贄として死ぬということを意味していた。ずる賢い王には幾人かの子がいたが、彼らは全員残らず逃げてしまっていたし、その他の王族ならびにそれに近しい者たちはなんだかんだと言い逃れていた。それも当然であろう。
 そんな中、まだ若い男が王位につくことを決意する。男はずる賢い王の、血縁からいえば従弟にあたる者であった。親しい者たちは反対したがその意志は揺るがず、国民の大半は生贄になって国が安定するのなら誰でもよいと思っていたから、そのまますぐに男は王座についた。それとほぼ同時に、三つの橋の再建工事が始まった。王が、そのうちもっとも大きな橋に生贄、この場合は人柱として埋められるのは、諸々の事情を考慮してちょうど二年後と、宰相によって宣言された。この新たな王は当時二三歳、国歴五六一年の春のことであった。

 その後の二年間、王の日常は平穏なものだったようである。例えば国賓を迎えるにあたっては形式上、王が出ていかねばならなかったが、普段は特段すべきことも与えられていない。ときどき開かれた名ばかりの御前会議は座っているだけで済んだし、政は宰相を中心にして滞りなくおこなわれていたからである。同時に、共和制へと転換する準備も。
 自ら望んで王座についた王は、残された日々を穏やかに過ごした。豪遊するわけでもなく、何かに八つ当たりをするわけでもなく、ただ、緩やかに過ぎていく日々を受け入れていたように思われる。そのなかでよく見かけられたのは、部屋の窓から市井の様子を眺める姿と、毎朝かならず庭の隅に建てられた温室へ赴く姿、そして、数少ない周囲の人々と語らう姿であった。
 客観的に見れば、この王は愚かな人物であったといえる。自ら王位を望んだという点に、その愚かさがあらわれている。しかしそれは、少なくとも前王のずる賢さなどに比べれば歓迎すべき性質であったし、実際そのように考えていた者たちも多かったはずである。ただ、宰相と侍女を除いて。




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