――あのサチコとかいう女、私の正裕くんにベタベタと付きまとって腹が立つ。殺してやりたい。
 いつも気取っちゃってて、八方美人で鼻もちならないクズ女。確かに頭は悪くないし、顔もまあまあ見られる方かもしれない。友達もそれなりにいて(どうせ見せかけだけの付き合いだろうけど)教師からの信頼もあるみたいで上手くやってるけど、私は知ってるのよ、あんたが底意地の悪い性格のひん曲がった最低の人間だって。そのヘタクソな演技で大根役者を演じていても、周りがみんな愚図だから気付いてないだけ。そのうちすぐに化けの皮が剥がれるでしょうね。それはそれで楽しみだけど、今はとにかく私の正裕くんに付きまとわれるのが腹立つのよ。
 声をかけてるのを見るだけで腹が立つ。
 声をかけることにかこつけて肩を触ったりするのも腹が立つ。
 あの女が正裕くんと同じ空気を吸ってるって思うだけで腹が立つ。殺してやりたい。
 そうやって他の男どもにも愛嬌を振りまいてデレデレさせて、自分一人優越感に浸っているんでしょうね。本当、最低のアバズレ。男どもも男どもで、あんな見え見えの媚びに引っ掛かってバカなんじゃない。ちょっとでも考えればあの女がとんだ雌ギツネだって分かりそうなものなのに。あいつら、体育の授業では猿みたいにはしゃいでるけど、まともな人間の脳みそが入ってないの? 学校は動物園じゃないのよ。救いようがないわ。

 でも正裕くんだけは別。彼は全部分かってる。あのサチコとかいう女が子供だましの仮面をかぶってみんなを欺いてるって気付いてるから、下衆な誘惑にも引っ掛からない。

 あの女の正体に気付いてるのは私と正裕くんだけ。本当は今すぐにでもこの真実を周りに知らしめて、一刻も早くあなたと恋人になりたい。
 でもまだ時期尚早よね。あの女が自分からボロを出して、化けの皮が剥がれるまで待たないと。そうしてみんながあの女の醜さをようやく理解して、あの女は誰にも相手にされなくなり孤立するの。あの女に最悪の屈辱を味わわせながら、私たちは誰にも邪魔されず愛し合うのよ。

ああ、正裕くん。
好きよ。
好き。
大好き。
愛してる。
愛してる。
愛してるわ。

花の仮面



 桜はすっかり白桃色の花びらを散らし青い若葉を芽吹かせていた。四月も終わりが近付きゴールデンウィークを間近に控えた教室は、高校生活最初の連休に期待を寄せ浮き立っている。
下校前のホームルームが終わった一年D組でも、二人の少女がやはり、話に花を咲かせていた。
「ねえ、さっちゃん。今日これから時間ある? もうすぐ休みだし、今日はこれから遊びに行かない?」
「ん……私はいいよ」
「えー、さっちゃん付き合い悪くなーい? もしかして、また多田くんのこと?」
 そう言って、教壇近くで担任と話をする男子生徒を一瞥した。
 男子生徒の名前は多田正裕。容姿端麗、文武両道を絵に描いたような文字通りの優等生で、生徒会役員をやっている。
「カレ人気あるよねー。なんでも出来るし。競争率たかそー」
 さっちゃんと呼ばれた少女と多田の姿をちらちらと見比べながら言った。
「まあでも、さっちゃんだったら見劣りしないかな? さっちゃんも男の子から人気あるっぽいし」
「どうでもいいよ、そんなこと。多田くんにしたって、同じ生徒会役員だから話すことが多いだけだよ」
「ふーん、まあいいけど。でも今日はその委員会の集まりだってないんでしょ? だったらたまには一緒に遊びに行こうってー」
「あのねえ……きょんぴー、あなたこの前指導部から注意受けたばっかりでしょ。寄り道するなって」
「あ、さっちゃんやっぱり知ってたのね」
「当たり前でしょ。あと、その“さっちゃん”って恥ずかしいからやめてってば」
 その言葉を聞いて、きょんぴーと呼ばれた少女はむくれて反論した。
「なんでよー。あだ名のが親近感湧くじゃない」
「それだったら本名で呼び捨てられたほうがまだマシよ」
「だってあたしのことは“きょんぴー”って呼んでるじゃない。あたしにだって名前はあるのよー、矢木恭子って」
「あなたがそう呼べって言ったんでしょ。最初会ったときは矢木さんって呼んでたのに。私のことだって普通に本名で呼んでくれればいいのよ」
「普通にって、どう?」
「どうって、普通は普通よ」
「たとえば?」
「例えばほら、中学のときの後輩だったら“清河センパイ”とか呼んできてたわよ」
「ええー? やだよぉ、センパイなんて」
「ものの例えよ。私だってあなたからセンパイなんて呼ばれたくないわ」
 清河は手早く教材を鞄に詰め込むと、さっさと教室の外に向かった。
 廊下を歩きながら二人は話を続ける。
「あたしはさっちゃんって気に入ってるけどなぁ。可愛いのに。なんでそんなに嫌がるの?」
「別に、話したくない」
「もー、いっつもそれじゃん。たまには話してみ。言っちゃえばすっきりするよー。ホラ、おねえさん聞いてあげるからさぁ」
 喋りながら恭子は清河の顔をしつこく覗き込む。清河は立ち止まって少し考えると、困ったように小さくため息を付いた。
「……歌があるじゃない」
「え?」
「歌よ。う、た」
「うた?」
「何度も言わせないで」
「うたがどうしたの?」
「あの、さっちゃんって」
「うん、さっちゃんって?」
「だから、さっちゃんって」
 清河はそれ以上言葉を続けようとしない。
 恭子は何のことだか分からないような顔をしていたが、すぐその意味に気付いて吹き出した。
「ぷっ、ぷふふ……あぁー、うんうん。サッちゃん、サッちゃんね。ぷぷっ……サチコのサッちゃん。バナナ……うっ……くくく……バナナの好きな……」
 笑いをこらえ切れない様子で腹を抱える友人を見て”さっちゃん”は心底嫌そうに顔をしかめた。
「だから嫌なの。それで小学校のときいじめられたのよ」
「ふふ……ふぅ、ごめんごめん。でも、今はもうそんなこと言う人いないしいいじゃん……うふっ、ふふふ……」
 謝りながらも恭子は口の端がぴくぴくと震えている。
「もう知らない。勝手に遊びに行けば。先生には報告させてもらいます」
「ごめん、ごめんってばぁ。それじゃあこうしよっ。あたし、さっちゃんの新しいあだ名考えてあげるから」
 清河は呆れた顔で見返した。
「えーと、清河センパイねぇ……清河、清河……あっ、“清い”で“きょんぴー”とかどう?」
「…………」
 恭子は一人でけたけたと笑いだした。
「冗談よ、冗談。もー、怒らないでよぉ」
 恭子がふざけているうちに、二人は下駄箱に着いた。校舎の玄関口は帰宅する生徒でごった返している。
「それよりもきょんぴー、先生にバレるバレないは別にしたって、休み明けはもう中間テストだよ。少しは勉強した方がいいって」
 上履きを革靴に履き替えながら清河が続ける。
「成績悪いとまた呼び出しくらっちゃうよ。高校始まっていきなり目を付けられてたらかなわないでしょ」
「いーじゃあん。たまにはガス抜きしないとやってらんないんだから。家に帰れば親がうるさいし」
「あのねえ、ガス抜きってのは溜まってるガスを抜くからガス抜きなの。
 なんにも溜まってないきょんぴーからこれ以上中身を抜こうとしたら、大事なおつむが漏れてっちゃうわよ」
「うへー、さすが清河センパイは優等生。厳しいですねー」
 恭子はおどけた調子で返す。
「ねぇー、別にいいでしょ。さっちゃんが黙っててくれれば絶対バレないしぃー」
 清河はまた小さくため息をつき、あきらめた口調で答えた。
「もう……これは貸しだからね」
「いえーい! さすがさっちゃん、話がわかるぅ!」
 二人は校舎を出て校門に向かった。校舎から校門までは、校庭に沿って舗装された並木道が延びている。葉桜の緑は春の陽気も手伝って暖かなイメージを与えてくれていた。
 校門の手前に少女が立っていた。恭子はその少女に見覚えがった。
「あれ、あそこにいるの神田さんじゃないかな」
 少女は手持ち無沙汰そうに辺りを見回していた。そして二人の姿を認めると笑顔になり、胸のあたりで手の平を小さく振った。
「やっぱりそうだぁ。神田さーん」
 恭子は大きく手を上げて応えた。
 風紀委員である神田は、恭子にとってあまり得意な相手でなかったが、清河とのやり取りですっかり舞い上がり、そのことは失念していた。
 神田は二人の近くまでやって来た。
「清河さん、恭子さん、二人とも帰るところ?」
「うん、神田さんもこれから帰るの? いつもより早いねー」
「ええ、今日は委員の集まりが無いから。それに、用事もあったんだけれど思ってたより早く終わっちゃって」
「いつも大変だよねー。毎日毎日委員会とか、あたしなんか絶対無理」
 言いつつ清河の顔を窺ったが、清河は明後日の方向を見ていた。
「せっかくだから誰か知った顔の人が来ないかと思って、そこで待ってたの」
 一年生ながら神田の交友関係は広かった。
「もしお邪魔じゃなかったら私もご一緒していいかしら」
「えっ、これから? あの、いやぁー……今日はちょっと都合が悪くて……」
「あら、やっぱりお邪魔?」
「いや、そういうんじゃなくて、寄らなきゃいけないところがあって……」
「寄らなきゃ?」
 神田の眉がぴくりと動いた。素行不振の恭子が寄り道することを、風紀委員である神田に知られるのは良くない。
「あー……あははー、いや、あの……さっちゃんにね。その、清河さんに勉強教えてもらおうと思って」
 歯切れの悪い物言いに神田は疑いの眼差しを向けている。
「ね、さっちゃん?」
 恭子は同意を求めたが、清河の顔はまだ遠くを見ていた。
 視線の先には一人の女子生徒の後ろ姿があった。恭子には、清河がその女子生徒をじっと見つめているように見えた。
「清河さん?」
 名前を呼ばれ、清河がはっとしたように神田を振り返った。神田は不思議そうな顔をして清河の顔を見返していた。
「ああ……神田さん。ごめんなさいぼーっとしてて。えっと、なに?」
「あの、あたしとさっちゃんでこれから勉強しに行くんだよねーって話」
 恭子が慌てて説明した。その様を見て清河は合点がいったと見え、すぐに答えた。
「うん、矢木さんと家で勉強。この子勉強苦手だから」
 清河の返答は実に流暢なものだったが、神田はいまひとつ腑に落ちない様子だった。
「ふぅん……まあ、清河さんと一緒なら間違いは無いと思うけども」
「あのぅ、そういうことだから、本当に申し訳ないけど……」
「ううん、いいのよ。私の方こそごめんなさい。勉強がんばってね」
 神田は微笑むと、またね、と言って先に帰って行った。
「ばいばーい、神田さん。ごめんねー……ほんとスミマセン……」
 最後の方は消え入るように小さな声でつぶやくと、恭子は清河に向き直った。
「さっちゃーん、ありがとぉ。神田さんが悪いわけじゃないけど、やぶへびだったわー」
「別に。きょんぴーのためばかりじゃないよ」
 存外に冷たく返されたので、恭子は、清河がからかわれたことをまだ根に持っているのかと思った。

 校門を出たところで先ほど清河が見ていた少女のことを思い出した。
「あれ、さっちゃんがさっき見てた子、だれ? うちのクラスだっけ? 見覚えはある気がするんだけど。なんかまだみんなの顔と名前ちゃんと覚えられなくって」
「うん? うちのクラスだけど……」
 清河は少し声のトーンを落とした。
「なんだかあの人、私たちを追い抜いて行くとき、こっちをずっと見てた気がして」





――今日の帰りもあのサチコとかいう女がいた。
 こっちはずっと無視してたのに、どうもあの女は私に気付いたらしい。私を見ていた。死んだ魚みたいに濁った目で人を見ないでほしい。こっちまで腐りそうだから。いつもあんな腐った目で正裕くんを見ているかと思うと許せない。殺してやりたい。隣に立った時は自分を抑えるのでいっぱいだったわ。いっそあのまま殺してやれたらどんなに良かったか。
 でもそれは駄目。別にあの女を殺すことは構わないけれど、あそこは人が多すぎるし、なによりあの女に屈辱を味わわせられない。よしんば殺したとしても、あの女に骨抜きにされたやつらがこぞってあの女を悲劇のヒロインに仕立て上げようとするでしょう。そしてまるでピンボケの正義感を振りかざして私を非難するでしょう。自分が騙されていたことも気付かず、あわれに。
 それでも正裕くんは私を分かってくれるはずだけど、二人の周りにうるさいコバエが飛び回るのは嫌だものね。
 二人の間には何も邪魔に入ってはいけない。だからまだ駄目。まだ我慢。
 とにかく、今日はあの女も正裕くんにまとわり付かずさっさと巣に帰るみたいだから、そっちは安心だけれど。

 それにしてもなに? さっきのあの会話。さっちゃん? きょんぴー? バカじゃないの。いつまで中学生気分でいるのよ。
 いや、中学生気分なんて言ったら中学生に失礼ね。いまどき、小学生でもあんなやり取りしないわ。
 それにいくら連休が近いからって、頭が悪いくせに中間テスト間近に遊びに行くとか調子に乗りすぎ。
 やっぱりバカはバカなのね。死ぬまで治らないでしょうね。





 翌日、恭子は教室に入って、ようやく昨日の少女の正体に行き当たった。その少女は清河のひとつ後ろの席に座り読書をしていた。
(あ、どうりで見覚えあるわけだなぁ)
 少女が恭子に気付き顔を向けてきたので、恭子は笑って挨拶をしようとした。しかし少女は不審げな顔をして目を逸らすと、また読書に戻ってしまった。
 恭子の笑顔は宙をさまよった。
(ヘンな子……調子狂っちゃう)
 恭子は気を取り直して窓際の自席に向かった。
(でもなんて名前だっけ。さっちゃんの後ろだから、カ行の終わりかサ行の頭か、そのへんだったと思うんだけど)
 席は名前の五十音順で機械的に割り振られている。清河の席は廊下側から窓側に向かって二番目の列にあり、その列の先頭は神田だった。神田はすでに席に着いており、なにやら書類にペンを走らせていた。
 恭子が椅子に腰かけ一息付いていると、作業が一段落したのか、神田が「おはよう」と声をかけてきた。
「恭子さん、昨日の放課後私のこと探してたの?」
「え? そんなことないけど、なんで?」
「ううん、今朝、他のクラスの友達から聞いたんだけど……あなたが私の名前を呼んでたって。勘違いだったのかな」
 そう言って神田は不思議そうな顔をした。それを見て恭子は昨日の一件を思い出し、少し決まりが悪くなった。
「変なこと聞いちゃってごめんね。気にしなくていいから」
「いや、そんな……」
 私が謝られるようなことじゃないのに、と恭子は思ったが、口にはできなかった。
(やっぱりあとで本当のこと言っておこうかな)

 ほどなくして清河が登校してきた。
 清河が席に着くと、後ろの少女は清河の様子を窺っているようであった。



 昼休みになってすぐ、恭子は弁当を持って清河の席に向かった。清河のひとつ前の席が空いていたので、そこに座ると、恭子は大きく伸びをした。
「あー疲れたぁ。でも午後の授業が終われば連休だあー」
「疲れたぁ、って、なに言ってるのよ。あなた授業中ずっと寝てるでしょ」
「ふふん、侮るなかれ。今日は登校してから一睡もしてないのよ」
「ふーん」
「信用してないでしょー。あたしだってやるときはやるんだから」
 恭子が寝ていなかったのは事実だった。清河の後ろの少女が妙に気になってしまい、授業中もたびたび確認していた。そしてその少女も恭子と同じように、頻繁に清河の方に視線を向けているのであった。
 清河にこのことを話すべきか。恭子は迷ったが、わけもなく清河の不安を煽るのも良くないと思い、結局黙っていることにした。

 弁当を広げてすぐ、先頭の席から神田が近付いて来た。
「清河さん」
「ああ、神田さん。昨日はごめんなさい」
「清河さんは悪くないわ。それより、唐突なんだけれど放課後お時間もらっていい? 連休明け以降の行事予定で書類を見てもらいたくて」
「私と二人で、ってこと?」
「ええ、もし都合が悪ければ他を当たるけれど」
「他って……多田くんとか? それ、生徒会役員じゃないと駄目でしょ」
「ええ、そうね。清河さんじゃなければ多田くんになるかしら」
 清河は口元に手を当てて少し考え、答えた。
「いいよ、私が残る。多田くんばかりに任せるのも悪いしね」
「本当? どうもありがとう」
 そこまで話すと、神田は恭子に振り返った。
「恭子さんもごめんなさい。清河さんのこと、今日も引き止めちゃうけれど」
「いえいえ、あたしは構わないよー」
 昨日から神田さんに謝らせてばかりだな、と恭子は思った。
「じゃあ、さっちゃん、あたし今日は先に帰ってるね」
「……え? あ、うん」
 清河の返事はなんとなく気が抜けていた。
「そう言えば、昨日あのあと勉強は捗った?」
 突然の質問に、恭子はどきりとした。
「あー、うん、まあ……おかげさまで」
「ふふ、良かったね。五限は担任の渡辺先生だから、休み前に少しでも汚名を返上しないとね」
 恭子にとっては心も耳も痛い話だったので、曖昧に笑って返事をした。
「それじゃあ私は用があるから。清河さん、放課後よろしくね」
 神田はそう言い残し、教室を出て行った。
「神田さんっていい人だよねえ、人当たりが良いと言うか。仕事にも積極的だし」
 清河は、そうね、と短く答えると、茶化すように続けた。
「きょんぴーも人当たりの良さだけは一人前だよね」
「えー、なによそれぇ。他のことは人並み以下って言いたいの?」
「せめて、そのお弁当も自分で作れるくらいの器量はあってもいいんじゃないかな」
「あっ、自分は料理ができるからって。このっ」
 そうやってしばらくふざけ合っていたが、ふと清河の後ろの少女に目が行くと、恭子は不自然に黙ってしまった。
 少女はいつの間にか自席に戻っており、朝見たときと同じように本を読んでいた。
「どうしたの? きょんぴー」
 清河が問うてきたが、恭子は、なんでもないよ、と笑ってごまかした。





――矢木恭子はやっぱりただのバカね。あのサチコとかいう女に親しみを感じてるみたいで何も気付いていない。
 でもまあ、そんなことより、いい話を聞いたわ。今日、あの女は校内で一人になるかもしれない。これはチャンスよ。千載一遇のチャンス。あの女を殺すための。
 今のところあの女がボロを出す様子は無い。私が何もしなくたって、きっと化けの皮が剥がれるときは来るはずだけれど、もしかしたら、このままあの女の正体が知られないまま高校生活を終えてしまうかもしれない。ここにいる人間は愚図ばっかりだから、あの女に騙され続けるかもしれないわ。もし万一そうなったら私は正裕くんと恋人になることは出来ないし、ここは大事を取って殺しておくのが一番確実かも。でも、それだとしたらやっぱりまだ時期が早いかしら。もう少し様子を見て……

「――それじゃあ次の問題。えー、今日は28日だから……2足す8で10番。北村、答えてみろ」

――でも今回は滅多に無いチャンスよ。あの女と二人きりになれる機会は、もう二度とやってこないかもしれない。
 いつでも殺せるように包丁は携行している。今日だって。

「北村ー? ああ、今日は休みか。本当に病欠か疑わしいもんだな――それじゃあ次、11番、古賀、答えてみろ」

――いえ、やっぱり駄目よ。まだ早いわ。今殺してしまってもあの女の美談になるだけ。きっと、これからだってあの女を殺す機会はめぐってくるし、そうでなくたって私が殺すまでも無く馬脚を露すはずよ。だから今は我慢しなきゃ駄目。それよりも今日は、連休中の正裕くんの予定を……

「おい、古賀! 聞こえてないのか!」
「えっ? あっ、はい。聞いてます」
 反射的に立ち上がる。
 私は正裕くんを想うあまり、自分の名前が呼ばれていることに気付いていなかった。それどころか授業の内容すら頭から聞いていない。
「よーし、じゃあ今どの問題やってるか言ってみろ」
「え……えっと……」
 当然のことながら私は答えることが出来なかった。
 クラス中が好奇の視線で私を見てくる。とんだ晒し者だ。
「……すみません。聞いてませんでした」
 屈辱だった。掃き溜めの中で土下座をするような屈辱。
「あのなあ、北村といい古賀といい、明日からゴールデンウィークで浮かれるのは分かるが今日はまだ登校日だ。高校生にもなったんだから、きちんとけじめを付けて行動してくれないとこっちだって困るぞ」
 この渡辺とかいう教師はなおも私を辱めようと言うのか。図体ばかりでかい木偶の坊のくせに。
 あちこちで私を嘲る笑い声が聞こえる。私は怒りと恥ずかしさで、顔を赤くしてうつむいた。目の端で正裕くんの席を見ると、彼も笑っていた。
「じゃあ次、12番鈴木」
 私は下唇を噛みながら椅子を引き寄せた。そして腰を下ろす途中、ふと顔を上げた前の席に、あの女の横顔が見えた。
 あの女も笑っている。

――決めた。
殺す。
殺す。
殺してやる。





 会議室は二人だけで使うにはあまりに広く、清河と神田は半ば寄り添う形で座っていた。
「これ、体育祭と文化祭と、あと創立記念式典に関する書類ね。生徒会の押印がほしいの。大した量じゃないからすぐ済むと思うわ」
「うん、分かった。ちょっと待ってて、印鑑出すから」
 そう言うと、清河は鞄の中身を机の上に広げ始めた。
「……清河さんはお料理好きなの?」
「……まあね。でも、なんで?」
「ふふ、それ」
 神田が指さす先に、清河が鞄から出した料理のレシピ本があった。
「家庭的なのね」
「別に。そんなに珍しいことでもないよ」
 清河はしばらくの間、鞄の中を探っていたが、印鑑は見つからなかった。
「あ……ごめんなさい。今日は印鑑持ってきてなかったかもしれない」
「え、本当? 印鑑の代わりに清河さんのサインじゃ駄目?」
「私は一役員だし、さすがにそういうわけにはいかないかな。印鑑には学校名が入ってるし」
「そう……じゃあ仕方ないわね。でもどうしよう。これ、今日中に済ませときたいんだけどな」
 神田は困ったように考え込んだ。しかし、すぐにはっとした表情をすると、清河に聞いた。
「その印鑑、役員だったらみんな持ってるはずなのよね? 多田くんだったら持ってるんじゃないかな。彼、まだ教室に残ってるかも」
「私、見てこようか?」
「そんな、いいわ。私が行く。さすがにそこまでお願いするのは悪いもの」
「そう。じゃあ私ここで待ってるから。もう一度鞄の中探してみる」



 恭子は学食の自動販売機で缶コーヒーを二本買うと、会議室に向かった。
 先に帰ってるとは言ったものの、やはり友人のことは気にかかる。連休前最後の登校日くらい清河の予定に合わせて時間を潰してもいいだろうと思っていた。もっとも、それはねぎらいの気持ちばかりでもない。昨日神田に嘘を付いたことへの後ろめたさもあった。
(いま顔を出したら邪魔になるかな……うーん、まあ大丈夫だよね。たぶん)
 あれこれと考えながら階段を上っていた。会議室は三階の、廊下を曲がってすぐの位置にある。
 踊り場に着いたところで、会議室の脇に見覚えのある横顔が見えた。
「あれ? あんた……」
 恭子に声をかけられたのが予想外だったのか、少女はびくりとして振り向いた。
 朝に顔を合わせた時とは異なりその表情に不審げな色はない。むしろ心配そうな顔をしている。
「あ……矢木さん……」
「えっと、確か鈴木さん……だっけ。さっきの授業では大変だったね」
 恭子に話しかけられて、少女はそわそわしているようだった。それが、朝の無愛想な態度へのバツの悪さからなのか、はたまた何か急ぎの用事があるからなのか、恭子には判然としなかった。
 階段を上がり切ったところで、担任の渡辺が、四階に続く階段から小走りに下りてきた。
「あれ、先生も? 何やってんですか、こんなとこで」
 渡辺が口を開けて言葉を発しようとしたところで会議室の扉が開き、神田が姿を見せた。
「あら、恭子さん」
「あ、神田さん」





――なぜ。
 なぜ。
 なぜ。
 なんで。
 なんで!
 なんでよ!!
 なんで矢木恭子がここにいるの! それに渡辺まで!
 せっかく、誰もいないところでこの女一人の隙を付けるチャンスだったっていうのに!!
 いまさら中止する? でももう駄目よ、我慢できない。この女は正裕くんの名前を気安く呼びやがった。今だって正裕くんのところに行こうとしている。こんな女、生かしておけるわけがない。
 もう駄目、もう堪えられない。殺してやる。この包丁を突き立ててやる。その薄汚い後頭部――首筋に。





 恭子はひとけの無くなった校舎の玄関に立ち尽くしていた。つい先ほど起きた出来事が現実だとは受け入れられなかった。



 鈴木から事情を聞かされていた渡辺に取り押さえられ、古賀清河(こがさやか)の殺人は未遂に終わった。不幸中の幸いか、被害者である神田早智子を含め、一人も怪我人は出なかった。

 鈴木は、ひとつ前の席の清河が神田への怨嗟の言葉を独り言のようにつぶやくのを、何度か耳にしていた。最初は聞き違いだと思い半信半疑だったが、ある時鞄から覗いた包丁の柄に気付き、強く疑いを持つようになったと言う。
 そして今日、清河と神田が二人きりになることを聞いた。よもやとは思ったが、万一のことを考えて担任の渡辺に相談を持ちかけた。ただの誤解であればそれで良かった。

 事件後、呆然と座り込む神田の前で、清河はうつぶせに押さえこまれていた。恭子は、なぜこんなことをしたのか、なぜ自分に相談してくれなかったのか清河に尋ねた。
 清河は、図に乗らないで、と吐き捨てるように言った。その後の言葉は、およそ恭子の知る清河のセリフではなかった。
「なんであなたみたいなのと仲良くしてみせていたか分かる? あなたみたいなバカは扱いやすいと思ってたからよ。まあ、バカでも私の引き立て役くらいにはなってたかもね」
 清河は口の端をゆがめて笑った。



 午後6時を知らせるチャイムが鳴った。
 うす暗くなった並木道で、葉桜の緑色だけがを鮮やかに萌えている。桜の花はもう散ってしまった。往時の面影は無い。
 連休が明ければ間も無く新緑の季節を迎える。そうして、美しく咲き誇っていた桜は皆の記憶から忘れられるのだろうか。

 恭子の手の中で、缶コーヒーは既にぬるくなっていた。

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