雲の流れる季節


重量なことは“どうして”ということではない。人はたいていの事実に理由や
原因を求める。でも大切なことは“愛”という真実。人は何故それを愛するのか
あまり深くは考えない。それは自然に芽生えるものであり生まれるものであり、
決して作られたもの、強要されるものではないから。それは風が吹いて、木々に
茂る葉が揺れるのと同じくらい自然なことだから。何故それに愛を感じるのか、
愛するのか。理由はあるようで曖昧で、探せば五万とある。しかし人はそんなこ
とは気にも留めない。大切なことはそこに愛が存在しているという真実そのもの
だから。
 重要なことは“何か”ということではない。人はたいていのものにそれが何な
のかという答えを求める。でも大切なことは“愛”という真実。人は愛が何なの
かをあまり深くは考えない。それは自分にとってそれが何なのかを知っているか
ら。それはどうして空が青いのか考えるのと同じくらい漠然としているから。何
が愛なのか。それは具体化することが難しく、まるで霧のようでいて光のように
輝いているものだから。大切なことはそこに愛が存在しているという真実そのも
のだから。
 人は愛を求める。愛が何なのか、どうしてそれを求めるのか、それを考えるこ
とはあまり意味がない。愛があるということがすべてだから。


Ⅰ しげる
前略
私は明日戦地へ行きます。先程両親にもあいさつを終えました。後は日が昇るの
を待つだけです。今晩は眠れそうにもありません。雨戸を閉めて小さな光の中で
こうして鉛筆を持て余しながら、あなたに手紙を書こうかどうか、この手紙を最
後まで書こうかどうか迷っています。でも、どうしてもあなたに伝えておきたい
ことがあるのです。あなたとは幼いころからずっと一生でしたね。あなたは体が
弱くて、なかなか学校の教室で机を並べることはできませんでしたが、あなたの
部屋でよく一緒に読書したことが思い出されます。お母さんが作ってくださるふ
かしイモの味には忘れがたいものがあります。私の夢は、いつか立派な医者にな
ってあなたを元気にしてあげることでした。あなたの笑顔を見ることが、あなた
を笑顔にすることが私の幸せです。私はいつのころからかあなたのことを好きで
した。いえ初めから、表通りにあった自転車屋で初めてあなたに会ったときから
、私はあなたのことを好きだったのかもしれません。あなたはきっと私の言う好
きの意味がまだ理解できていないでしょう。つまり、あなたに恋をしているとい
うことです。あなたを愛しているのです。心から愛しているのです。何度あなた
をこれ以上好きになってはいけないと、自分に言い聞かせてきたことでしょう。
しかしそれを止めることはどうしてもできなかったのです。きっとこの手紙があ
なたに届くころには私はここにはいないでしょう。いえ、むしろそのほうがよい
のかもしれません。この思いはきっと誰にも理解されることはないでしょうし、
許されることはないでしょう。そして、こういったことがなければ、私は一生、
この思いをあなたに伝えることすらなかったと思います。まして、あなたにも同
じように思われたいと、私に対して同じような感情を抱いてほしいと願ってしま
ったことなど、誰にも打ち明けることもなかったでしょう。非常に不謹慎ですが、
そういった理由からも、今は戦地へ赴くことができてよかったとも思えるのです。
 今年の夏は暑くなりそうですね。私は幸いにも体が丈夫でしたから、あなたの
いるこの日本を守るために頑張ることができます。これから日本の暮らしはもっ
と辛いものになるかもしれません。今まで以上に薬を手に入れることも難しくな
るでしょう。でもあきらめずに、あなたはどうか生き抜いてください。誰かと結
婚して、子供をもうけて、たくさんの孫に囲まれて、そんな素晴らしいことがい
つか未来に起こるかもしれません。いつかはきっとこの戦争も終わるでしょう。
その眩しい笑顔をどうか忘れないでください。そしてくれぐれもお体にお気をつ
けて。
                                  草々

Ⅱ さゆり
 携帯をベッドに放り投げて、彼女はひんやりとしたフローリングに横になった。
携帯には“さゆり”と表示され、また着信のランプが点灯している。今日は彼女
の16歳の誕生日。夏が始まったばかりのギラギラした光が、カーテンの隙間から
風と共に部屋へ入ってくる。彼女には付き合って3カ月の彼氏がいる。初めてでき
た恋人。初めのうちは何をするにも彼と一緒だった。一緒に居たかったし飽きる
こともなかった。しかし最近といえばもう彼の存在が鬱陶しいそのものだった。
彼のことが嫌いか?その質問に対する答えはNoだ。けして嫌いなわけではない。
どういう訳か、彼の気持ちに押しつけがましさ、恩着せがましさを感じるように
なってしまったのだ。彼の態度は付き合い始めから何ら変わりはない。ただ、彼
女自身の気持ちの変化、彼女の彼女自身に対する考え方の変化が、彼に対する気
持ちにまで変化を及ぼしてしまったのだ。こんなことをしていたらいけない。そ
んな暇はない。最近はそんなことばかり考えるようになった。別に体を病んでい
るわけでも、何か罪を犯したわけでもない。ただ何となくぼやっとした焦りを感
じるのだ。まるで握りしめた手にじわっと広がる汗のように、徐々に心の中を侵
食する。この感情をどこにぶつければよいのか彼女には分からない。初めは小さ
な火種のような、風がちょっと吹けば消えてしまいそうな、その程度のものだっ
たのに、今は彼女を飲みこまんばかりの炎になってしまった。もう押さえつける
ことはできなかった。
 彼女は一つ小さなため息をつくと、その薄暗い部屋を抜け出し、近所の公園へ
行くことにする。お気に入りの靴と帽子。背中まで伸びた黒い髪を一つに束ねる
と、首筋にうっすらかいた汗がキラキラ光っていた。外は少し心地よい風が吹い
ていて、とても気持ちの良い昼下がり。少し日焼けした彼女の肩に太陽の影が落
ちていた。

Ⅲ ゆう
 今彼女は焦っている。同乗していた車が事故を起こした。車との衝突ならまだ
よかったのかもしれないが。人を轢いてしまった。轢かれた少女は20メートル以
上突き飛ばされ、夏の熱されたコンクリートに横たわっている。車はそんなにも
スピードを出していただろうか・・・?それよりも少女は息をしているのだろう
か・・・救急車が遅すぎるのではないか・・・?運転していた彼はまだ携帯電話
で話をしている。こんな状況でいったい誰と話す必要があるのだろうか。とりあ
えず何をしたらよいかも分からず、とにかく少女を仰向けに寝かせる。その柔ら
かい胸にぬくもりを感じる。少女の長い髪のあいだから血がにじみ出るのが見え
る。顔を近づけると擦りむけた皮膚の間から白い何かが覗いているのがはっきり
とわかった。その細い腕をゆっくりとどけて、胸のあたりに恐る恐る自分の耳を
あててみる。どくん。どこかで聞いたことのあるような鼓動が遠くから伝わって
くるように。どくん。大丈夫。まだ心臓は動いている。それが自分の鼓動なのか
少女のものなのかは分からない。でもこれは少女の命の音に違いない。そう彼女
は自分に言い聞かせるように思う。その地面を打つような低い音を聞きながら地
面から彼の姿を探す。彼はまだ電話している。さっき警察へは電話した。救急車
も呼んだ。保険会社だろうか。どうしてこんな時に。急に腹立たしさを感じる。
呼吸をしているかどうかもわからない少女の隣で彼の姿を遠くから見つめる。実
際に離れている距離よりも彼を遠く感じたのはこれが初めてではない。あれはい
つだったか。ゆうが入院していた時のことだ。手術を控え、彼女もゆうも不安だ
った。そんな難しい手術ではなかったが、彼女は不安だった。その気持ちを分か
ってほしいと強く願っていたのに。彼が彼女たちと気持ちを分かち合っているよ
うには到底思えなかった。病室には来てくれてもいつもどこかうわの空で何を考
えているのかあんなにも分からなかったことはなかった。どうして彼が病室に来
てくれるのかが分からなかった。あの白くて表情のないベッドに横たわるゆうを
見ていると、胸が締め付けられる思いだった。病院にいるとどうしてもじゅんの
ことを思い出してしまって、苦しかった。また同じことが起こるのではないか。
自分の大切な人がまたいなくなってしまうのではないか。その不安が今にも彼女
を飲み込んでしまいそうだった。自分だけがこんな気持ちなんだと思うと腹が立
って仕方なかった。ゆうのことをお荷物としか思っていないのではないか?自分
のことさえ。彼女は疑心暗鬼に陥っていた。しかし時がたってみればあれは些細
なことだったのかもしれない。結局彼女はまだ彼と一緒に居る。相変わらずゆう
とも親しくしてくれる。以前よりも彼のことを分かっているつもりだし、彼も自
分のことを分かっていてくれると感じる。これを愛というのなら、そうなのかも
しれない。ただ、ゆうと彼、どちらのほうが大切なのか、そう聞かれたら自分は
どう答えるだろうか?ときどき彼女はそんなことを考えるようになった。答えは
出せない。それはいつまでたっても変わらない事実だろう。しかし、ゆうと彼の
どちらかの命しか救えないという状況に迫られれば、彼女は確実にゆうを救うこ
とを選ぶだろう。そんなことを思っているうちに救急車やパトカーが到着する。
どこかぼんやりした感情が胸に沈んだ。彼が警察と話をしているのを彼女もどこ
か他人事のように見ていた。

Ⅳ わたし
 ここへは毎年来ている。必ずこの日に。雷の日も、心地いい秋風が吹いている
こともあった。ふかしイモが美味しくなってくるような季節だね。かおる、今日
もふかしイモを持ってきたよ。君はこのふかしイモを忘れがたい味だと言ってく
れた。あれは実は私が作っていたものなんだと前にも言ったね。ここへ来るとあ
のころを必ず思い出して懐かしい温かい気持ちになる。今日はよく晴れてるね。
空を見上げるとゆっくりと雲が流れる。銀杏の木が地面を黄色く染めて、きらき
らと見える。そうだ、娘が再婚することになった報告をしないといけないね。や
っと和郎さんの思いが通じたみたいなんだ。もう5年近くも彼のプロポーズを渋
っていたのは知っているね?でもやっとだ。僕もはらはらしたよ。孫の優だって。
小学生のころから和郎さんにお世話になっていたのに、いつまでたっても小百合
がはっきりした答えを出さないから。優も今年で18歳だ。建築に興味があるらし
いから、きっと将来は建築家だろうか?とかぼんやりと想像することもある。こ
の十数年、小百合も色々と辛いことがあったのだと思う。なかなか子供ができな
くて、やっと優が生まれて、そしたら今度は淳君がガンで急になくなって。あの
ころの小百合はもう見ていられなかった。気丈にふるまう小百合を見ているのが
辛かったよ。もう結婚はしない。一人で優を育てて立派に生きていく。淳君の葬
儀の日、小百合の目にはそんな決意が滲んでいた。あんなにも愛し合っていた夫
婦に、どうしてこんな仕打ちをするのか。こんなにも不条理なことがこの世にあ
っていいのかとこぶしを握ったよ。小百合にはもう二度とあのころの幸せは戻ら
ないかもしれない。今もそう思うことがあるけど、きっと大丈夫だ。和郎さんは
小百合も優も愛してくれている。いや、そう感じるんだ。それが彼女たちに伝わ
っているかは分からないが、彼の眼差しには愛がある。数年前に事故を起こして、
二人の関係ももう終わってしまうのではないかとも思ったけど、それも乗り越え
た。あの二人なら大丈夫だ。君には何も言わなかったけど、きっと分かっていて
くれていたんじゃないかと、今はそう思うよ。ああ、それにしても君が帰ってき
たときは、本当にうれしかった。この長い人生の中で、あれほどうれしかったこ
とは他にあっただろうか。子供が生まれた時より、孫が生まれた時より、ずっと
ずっとうれしかった。君が戦争へ行ってしまう前に僕にくれた手紙を、今も大切
に持っているんだ。捨ててしまったと言ったが、あれは嘘だ。実は先日、優がこ
の手紙を見つけてね、僕のところに持ってきたんだ。おばあちゃんには相手がい
たんじゃないかって問いただすから、どうやって説明しようか困ったよ。でも、
ちゃんと説明できたと思う。今だから言えることだが、僕も君のことが好きだっ
たんだ。千人針は女の人が針を入れないといけなかったから、僕は本当はしては
いけなかったんだけど、こっそり針を入れていたんだ。君のために何かしてあげ
たかったから。僕は体が弱くて病気がちだったから家へ帰されたけど、君といっ
しょに行けたらよかったとずっと思っていた。結局、戦争が終わって、僕も君も
それぞれに家庭を持って、君は医者になったね。君はいつも眩しかった。君が生
きていてくれたから、僕も今までこうして何とか元気に生きているんだと思う。
生き物は不思議だね。いつも君が言っていたことだけど。体の弱い僕のほうが長
生きしてしまった。また桜が見れそうだ。もうそろそろ妻が迎えに来るころだ。
また来年も来るよ。このお寺は居心地がよさそうだね。僕がそちらへ行くころ、
ここへお墓を作ってもらえるように遺言を書こうか。そうしたらまた君に逢える
ような気がするんだよ。


 それは美しいもの。人はその感情をさまざまなものに例える。それはすべての
色でありすべての季節でもある。そのじんわり温かいものを必要とすることもあ
れば、気丈にも必要ないと振る舞うこともある。他に代えようのないその美しい
感情は、時に人を苦しめ、歪ませることもあるだろう。そしてその感情を愛とは
違うものだという人もいるだろう。自分にはわからないものには拒否反応を示し、
自分のそれとは違うものであると、醜いものであると罵倒する。しかし大切なこ
とはその人の感情を完全に理解することだろうか。そこに存在する確かな心を認
めることだろうか。人はそれを信じることができなくなったり、見失ったり、自
分自身でさえ理解できなくなることもある。それは思いもよらない事故や環境の
変化、社会的偏見、自分自身の成長によって感じ方やとらえ方を変えざるを得な
い時でもある。それまで思っていた感情とはどこか違うそれに戸惑い、悩むこと
もあるだろう。一度経験したからといって、次にまた同じ感情が湧きあがるとは
限らない。それでも人はそれを愛することであると自分で納得していくのだ。新
しい感情に喜びと不安を感じながら、それを信じる道を選び、時にはそれと知り
ながら別の道を歩もうとする。
 何が正しくて何が正しくないのか。それはその人自身が決めることだ。人はそ
れを受け入れ、信じるとき、普段では考えられない行動をとったり、また、強く
なれる。その先に何が起こるか、どんな困難が待っているのか、そんなことは関
係ない。その感情に価値があるからこそ、自分自身を賭けることに意味を見出す。
その感情がそれぞれ同じでないからこそ、価値があるものなのかもしれない。


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