「世界は愛で満ちている!」

 なんて事を、スカートを揺らしながら声高に友人は叫んだ。
 まだ眠気も抜け切らないぼんやり顔の学生たちが校庭を横切る午前八時過ぎ、その教室で、である。
 朝の挨拶を交わし、昨日のテレビの感想などを面白おかしく談笑していた二十を超える瞳が、いっせいにこちらを向いた。

「この世の中、右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、街中に飛び交う声を聞いてもどこからともなく流れる音を聞いても! 全部! そんなのばっかり!」

 微妙なパフォーマンスを自信満々に続ける大道芸人でも見るような奇異の目が集まっても、友人は一切気にすることなく、むしろ誇らしげに声を上げた。こんな空気の中で堂々としていられるのは何かの才能なのか、心の隅でその図太さをうらやましく思う反面、目の前でやられると迷惑に思う気持ちの方が強い。むしろ、友人のキラキラした視線がこちらを向いているとなればこれはもう、自分は被害者といってもいいんじゃないか。
 こっそりと、友人に見咎められては面倒だから、分からないように小さくため息を吐いてみた。……分かってはいたが、何の慰めにもならない。

「でもっ! でもねっ!」

 ダンッ、と友人は両の手の平を強く机に叩き付けた。

「なんで、私の周りにはないの……?」
「知らないよ……」

 こちらを見つめる薄茶色の瞳の奥で何を考えているのか、全く検討もつかなかった。





 その友人、絵里子は、昔からどこか変なところがあった。その絵里子との関係は、いわゆる「幼馴染」というやつだ。
 同じ幼稚園を出て、同じ小学校に入り、同じ中学校を卒業して同じ高校に合格した。自分でも疑問に思うほどずっと一緒にいて、大抵の思い出の中には自分の隣に、その肩で切り揃えられた黒髪が映っている。……が、大抵の思い出の中で突拍子もない行動をとっているのもまた、彼女だった。
 まあ、さすがに高校一年にもなって、それほどおかしな行動をとることも無くなってはきたのだが、思い出したようにまた何かを言い出すのが、彼女の彼女足る所以といったところなんだろう。

「でさ、最近のでも懐メロでも、だいたい好きだの嫌いだのって出てくるよね」

 絵里子は椅子に座ったまま振り向いて、人の机に断りもなく肘を置いた。どうやら、一限目を間に挟んでも話題は持ち越されるらしい。

「どっかの偉い人も言ってるわけよ。『自分を愛するように、隣にいる人も愛してあげましょう』って。……だったら私だって愛もらえるんじゃないの!」

 どうしてこんな朝から、彼女の愚痴を聞かされないといけないんだろう。正直、返す言葉を考えるのが面倒で、逃げるように視線を目の前の友人から窓の外へと移す。
 そんな露骨な態度でも、長い付き合いである彼女には特に効果がないらしく、絵里子は何やらよく分からないことを立て板に水というように喋り続けていた。

 そんな絵里子の言葉に「ああ」とか「うん」とか、適当に相槌を入れてその場をやり過ごそうとしていたのだが――ふと、絵里子の流れるような言葉が止まった。

「……?」

 疑問に思い、窓の外に向けていた視線を戻せば、絵里子は教室の一角を眺めているようだった。後ろを向いていて、その表情までは伺えない。彼女の見ているだろう方に目を向けても、数人のクラスメイトが各々に休憩時間を過ごしているだけだ。特別、彼女の言葉を遮るほどの何かがあるようには思えなかった。

「どうした?」
「……え?」

 その後頭部に声をかければ、彼女にしては珍しく、はっとしたような顔でこちらを見た。
 十年近く絵里子の近くにいたにも関わらず、たまに、絵里子は表情の読めないときがある。そんなとき、彼女は今のような反応を示す。それは彼女が何か特別な事を考えている証だったりするのだが、それが何なのか、彼女の瞳を覗いてもやはり読み取れる気がしなかった。

「う、ううん、なんでもない」

 絵里子はちょっと慌てたように手を振った。


 ――なんでもないわけないだろうが。


 思ったが、口には出さない。曖昧な笑顔で隠そうとしたのだから、口に出したところで理由を教えてもらえるわけがない。

「それでさ、今度、愛を深く理解するためにラブソングでも作ろうと思うのよ――」

 そうしてころりと、いつもの必要以上に明るい表情に塗り替えてまた話し出す絵里子。その姿を見ていると、ふいに、心に重いものが沈んでいくのを感じた。
 友情に時間は関係ないという。ならば、長い時間を過ごしたところで、だから距離が近い、という結果に至るかどうかは分からないのかもしれない。

「ドラム顔してるしドラムやってよ、ドラム! 私キーボードやるから!」

 心の中にもやもやとした何かが生まれつつあるのを感じながら、スパン、と絵里子の右頬を、スナップを利かせた平手ではたいておいた。「あだー!」と大げさに叫ぶ絵里子を見ながら、思う。
 ドラム顔って、なんやねん。





 ずっと変わらない、と思っていたものが、唐突に変化の兆しを見せ始めたとき、それをもろ手を挙げて歓迎できるだろうか。
 自分はそんなに器の大きい人間ではない、と思う。
 もちろん表面上はポーカーフェイスを気取るだろう。子どもじゃないんだ、変わらないものなんてない、それくらい知っている。

 じゃあ本音は?

 ……当然、戸惑う。
 戸惑うし、寂しいし、納得したくないし、怒りすら覚えるかもしれない。
 しかし、だからといって、それを相手にぶつけるというのはどうだろう。それはまあ、いくらなんでも自分勝手が過ぎる。たとえ、


『佐山君へ』


 絵里子がよく分からないことを口にしだしてから数日、そう宛名が書かれた可愛らしい淡い色の封筒を、絵里子の鞄の中に見てしまったとしてもだ。
 その一文が目に入った瞬間、なんだか見てはいけないものを見た気がして慌てて視線を逸らした。
 愛らしいハートマークの散りばめられた、薄いピンクが目に優しい小さめの封筒。その中身など想像に難くない。所謂……ラブレターというやつだろうか。

 ――あの絵里子が?

 疑問と驚愕に額に汗が浮かぶのを感じる。
 彼女という人間をよく知っている者ならば、全く同じ感情を抱くことだろう。

 ――信じられない。

 あの、恋愛映画よりもアクション映画を好み、トレンディなドラマなど見ようものなら五分で夢の世界へ旅立つ、あの絵里子がだ。
 思い返してみればここ最近、彼女はそんなことばかり言っていた気がする。またいつもの戯言だろうと聞き流していたが、彼女がそういった感情に目覚めたからだとすれば……。
 それに、封筒にあった佐山という名前。
 佐山と言えば、クラスメイトである佐山雄一のことなのだろうか。少なくとも、自分の知っている中に佐山という名前は他に存在しない。であれば、絵里子の知り合いにも佐山なんて苗字の人間は、その雄一しかいないということだ。
 佐山……彼は特別顔がいい訳じゃない。悪いとは言わないが、まあ十人並みといったところか。自分の知っている限り、部活動などで結果を残したなどの功績もないはずだ。頭はいいのだろうか、よく分からないが、利発そうな顔立ちかと言われれば、首を傾げる。明るい性格でいつもクラスの中心にいる、ということもない。

 総合すれば、地味。

 ……だが、そこが逆にリアルだ。絵里子が世間で言うイケメンに興味を示したところは見たことがない。ならば彼女の理想のタイプは、そういった地味な顔なのかもしれない。
 そういえばあの日、会話の途中で様子のおかしくなった絵里子の姿が、ずっと頭の隅に引っかかっていた。一度話し出すと誰かが止めても飽きるまでひたすら喋り続ける絵里子が、言葉を切ってまで眺めていた教室の一角、その視線の先には、佐山の姿があったのではないか。会話の途中で目の端に佐山の姿を見つけ、それで視線が流れてしまったのではないか。そう考えれば、おかしかった態度にも納得が――


 と、そこまで考えて、はっと我に返った。

 ――なんでそんな考え込むことがあるんだ。

 いくら幼馴染のことだとはいえ、絵里子にだって自分というものがある。彼女には彼女の考えも、思いもある。
 ならば、そのことで自分が悩むのは間違っているのだろうし、色々と邪推を重ねるのも失礼な話だ。
 子どもを心配する母親でもあるまいし、絵里子が誰かを好きになったと言うなら、それを応援してやるのが幼馴染の役目というものだ。うん、そうに違いない。

 そう結論付けたそのときに、ズキリと小さく胸の奥が痛んだ気がしたが、それには気づかなかったことにした。





 ……絵里子の視線の先が気にかかるようになったのは、そのときからだ。
 登校中の通学路、朝の教室、ホームルーム。
 授業中は絵里子が目の前の席に座ってることもあって、かなり視線を追いやすい。狭い教室の中、どの方向を向いているのか分かれば問題ない。
 休憩時間も昼休みも放課後も、とにかく神経を尖らせた。
 自分でも、なんでここまで躍起になっているかは分からない。自分が何を求めているのか、何がしたいのか。自分を納得させる理由が、自分の中のどこにも存在していなかった。
 だが、おかしいとは思っていても、こんな意味のないことは止めようと思っても、それでも止まらなかった。
 彼女の視線の先に誰がいるのか、何を見ているのか。

 ……そして、その答えを見つけ出すのに、それほど時間はかからなかった。

「佐山……」
「え、なに。どしたの」
「ああいや、なんでもない」
「ふーん……」

 思わず口から漏れた声を聞かれたらしく、絵里子のじとっとした目がこちらを覗き込む。吸い込まれそうな薄茶色の瞳から、反射的に少し視線を逸らした。

 案の定というか、絵里子の視線の先にいたのは、件の佐山雄一だった。
 なぜか知らないが、それに気付いた瞬間、ため息が口の端から溢れ出た。
 そもそも、手紙の宛名を見たときに、気付いていたはずだ。だというのに、それでも明確な答えを見つけ出そうとしていたのはなぜなのか。そしてなぜ、


 ――自分がこれほどにネガティブな気分に陥っているのか。


 もう一度ため息をつく。そして思う。
 別におかしなことじゃない。絵里子が誰かに好意を抱くなんてことは、あって当然のことなんだ。
 誰が誰に好意を持つかなんて、そんなものは偶然の産物。「何となく」としか言いようがないような感情の発露。きっかけはあれど、必然なんてものはない。

「なあ、絵里子ってさ」

 気付けば、口を開いていた。

「好きなやつとか、いるの?」

 言うつもりも必要もなかった言葉が、勝手に飛び出していく。
 絵里子の頬に、僅かな朱が滲んだ気がした。

「え、え、なにいきなり。どこの修学旅行の夜よ」

 柄にもなく、小さく動揺したように視線の泳がせる絵里子。
 まあ、その反応で十分だ。

「いや、なんでもない……」

 こんなに分かりやすいやつだったのか。
 彼女の新たな一面を見つけた反面、その彼女がまたほんの少し、遠くに行ってしまったことに気付いた昼だった。





 そして、ある日の放課後。

「今日は用があるから、先に帰ってて」

 夕闇が不気味に覆う教室で、耳を疑う言葉が目の前の女から放たれた。
 その女とは間違いなく、友人であり変人でもある絵里子のことだ。

「じゃ、また明日ねー」

 手を振ることもなくさっさと踵を返し、用事の内容について詮索されたくないかというように僅かに早足で絵里子は教室を去っていった。
 それ見送る自分の顔は、とても間抜けなものだっただろう。
 
 ――あの絵里子が、先に帰っててくれ……?

 例えこっちに用事があるといっても、無理やりにでも付いて来ていろいろ邪魔をするあの絵里子が。
 そして、彼女の鞄の中の封筒を思い出し、背筋がぞわっと寒くなった。

「まさか……」

 封筒の中身が、直接言葉を伝えるものだったのか、どこかに呼び出す旨のものなのか、中身を確認したわけではないから細かいことは分からない。
 だが、あの明らかにいつもと違う態度の絵里子。あれで何か隠したいものを胸に抱えていないと考える方が無理な話だ。そして、彼女にして何を隠しているのかといえば、あの封筒でしかないだろう。

「……っ!」

 咄嗟に、駆け出しそうになって、思いとどまった。
 なぜ追いかけようとする。
 例え幼馴染で友人だといっても、個人の交友関係なんて深いところに土足で踏み入っていいわけがない。
 無関係だ。
 あいつがどこで何をしていようとも、知ったことじゃない。
 そう考え、自分の鞄を手に帰路につく。

「……」

 人もまばらな薄暗い廊下を一人で歩く。それは、とても奇妙なことのような気がしていた。
 あの常にうるさい友人が隣にいないというのは、これほどまでに静かなものだったのか。


 ――物心ついたあたりから、ずっとあいつは隣で笑っていて。


 かつん、かつん、と廊下を叩く自分の足音が、酷く大きく響いている。
 頭の中がぐるぐるしていて、自分が何を考えているのかよく分からない。
 要は、自分は突拍子もない出来事に弱かった、ということだろう。まったく思いもよらないことが起こって、だから混乱しているのだろうか。

「絵里子……」

 無意識に漏れ出た言葉は、とても弱弱しいものに思えた。
 




 父の転勤で元いた町を離れ、両親とともに知らない土地へやってきた。
 右を見ても左を見ても、慣れ親しんだ場所はない。
 当然、新しく通うことになった幼稚園にも、居場所なんてものはなかった。そう、思い込んでいた。

「はい」

 差し出される手。その上には、小さいカップケーキが乗っていた。

「……なに?」
「他の組で残ってたやつ。先生たちの部屋行って持ってきた!」
「どろぼうしたの?」
「うん! あとクッキーとねえ、ちっちゃいチョコレートと……」

 数分後、勝手に持ってきたのがバレて、その子は先生に拳骨を貰っていた。

 この日から、絵里子とはずっと一緒にいる。あのとき、なんで声をかけてくれたのかを聞いてみたことがあったが、「なんとなくかな」という答えが返ってきた。
 だからこそ、一緒にいられたのかもしれない。
 自然体で、何となく引かれ合う。どれだけ一緒にいても、息苦しさを感じない。隣にいることが当たり前で、そうでないときを想像するのが難しいような……。

 そういうものを、「幼馴染」と言うのだろう。





 気付けば昇降口に向かっていたはずの足は、逆方向へ向かっていた。
 自然、歩幅は広くなる。
 絵里子がどこに行ったかは知らない。が、一度教室に戻って見てみれば、彼女の鞄が置きっ放しにされていた。となれば、この学校の中にいるのは間違いないし、教室にも戻ってくるつもりなんだろう。
 だけど、おとなしく待っていることができず、自分も鞄を置いて駆け出していた。

 学校の中というのは存外に広く、探す場所が多いという事実は、想像以上に体力を奪っていく。走り出してしばらく、思ったよりも早く息が切れはじめた。普段運動を積極的にしていなかったせいもあるだろう。自分の怠けを後悔する。

「絵里子……!」

 何でこんなに必死になってるのか、それはよく分からないが。それでも、ここで帰ってしまってはいけない気がした。
 教室の中を覗いては、見つけられない落胆と、そこに佐山とイチャついている絵里子の姿がないことに安堵する。そして隣の教室へ向かい、同じことの繰り返し。
 今まで、これほど廊下が長いと思ったことはない。
 すでにほとんどの生徒が帰ってしまったのか、どの教室を見てもそこはもぬけの殻で、窓から差し込むオレンジの光に照らされて並ぶ机が物悲しい雰囲気を醸し出している。だが、そんな情景に胸を打たれる暇もなく、とにかくいろいろな教室を見て回った。



 ……三十分は探し続けただろうか。
 一向に彼女が見つかる気配もなく、焦りが強く首をもたげてきたころ。とりあえず一度、自分の教室に帰ってみることにした。

「あれ、どしたの。先に帰っててって言ったじゃん」
「……絵里子」

 教室には、絵里子がいた。

「何、もしかして私のことが気になった? ん?」

 その声色に普段と違う感じはなく、至っていつもどおりといった雰囲気だ。逆光で表情は見づらかったが、絵里子がニヤニヤといやらしい笑い方をしているのは分かった。
 息を整えながら、頭の中で次に出す言葉を探す。
 聞かなきゃいけないこと、言わなきゃいけないこと。ぐるぐると取り留めなく、頭の中を飛び回る。

「えっと」
「ん?」

 一度、唾を飲み込んで、覚悟を決めた。

「佐山――」
「……っ」

 その名前を出した瞬間、小さく絵里子が目を見開くのが分かった。

「その、どう……だった?」

 なんとか搾り出した言葉は、そんな曖昧なものだった。
 躊躇い、それもある。はっきりとした答えを聞くのが、少し怖かったのかもしれない。

「知ってたの?」
「ああ、絵里子の鞄の中に手紙入ってるの見たから」

 そうなんだ、と絵里子は小さくため息を吐いた。そして、少し時間を置いて恥らうように、

「うん、上手くいったよ」

 そう言った。

「……そうなんだ」

 ズキン、と一度大きく胸が痛んだ。言いようのない喪失感が湧き上がる。
 予想はしていた。だが、実際に直面すれば、それはどれだけ大きな変化だろう。自分の隣から絵里子がいなくなる。それは、まさに半身を失うようなものだろうか。
 目の前の絵里子の姿が、ほんの数メートルも離れていないそのシルエットが、手を伸ばしたくらいじゃ届かないくらい遠くにあるように感じた。

「はっきり言ったら分かってくれたよ。佐山君、思ったよりも物分りがよかったみたい」

 絵里子の言葉一つ一つで、心に重石が圧し掛かっていく。
 絵里子が佐山と付き合うならば、もう自分が絵里子と共にいられる時間はあまりないのかもしれない。そして、時間が経つごとに、自分と絵里子の二人の進む道はどんどん離れていくだろう。
 幼いあの日のように、絵里子が手を差し伸べてくれることはもう……。

「さ、もう結構暗くなってきたし、帰ろっか。帰って水戸黄門見ないと――」


 ――駄目だ!


「絵里子!」

 脇を通り過ぎ、教室を出ようとした絵里子に向けて思わず叫んだ。
 振り返る。
 驚きに目を見開いている絵里子がこちらを見ていた。

「なんで、言ってくれなかった? 佐山とのこと」
「えっと、それは……」

 しっかりと、絵里子の目を見て問いただす。
 こうやって思ったことをそのまま口に出してみて、ようやく、段々と自分の気持ちが分かってきた気がする。

「せめて相談とか、してくれれば良かったろ。何も言わずに隠しごとなんて、らしくない」
「……」

 絵里子が押し黙る。

「幼馴染だろ。絵里子の様子がおかしくて、心配にもなるし。もうちょっと、こっちのことも考えて――」
「……してくれたんだ」

 ボソリと、絵里子の口が動いた。

「心配、してくれたんだ」
「あ、当たり前だろ。急に、らしくない態度とかとるから……」
「なんで、心配してくれたの?」

 す、と絵里子が一歩、こちらに踏み込んできた。

「私が、幼馴染だから?」

 互いの距離が、およそ三十センチまで近づく。

「それとも、もっとそれ以上の……?」

 異様な迫力が、絵里子の背後から圧し掛かってくるようだ。それに押されるように、思わずこくんと頷いていた。

「嬉しい」

 薄暗くなってきた教室の中でも、それだけ近づけば今まで見づらかった絵里子の表情がはっきりと浮かび上がる。それは花が開いたような、笑顔だった。

「昔から口数が少なくて、表情にもあんまり出ないし。私のことどう思ってるのかとか、全然わかんなくて。……正直、不安だった。でも――」

 さらに一歩、絵里子が近づく。
 鼻が当たりそうな距離。軽く赤みを帯びた頬。
 絵里子の潤んだ瞳の中に、自分の姿が映っている。

「ちょ、ち、近いって!」
「いいじゃん、幼馴染なんだから。これくらい」

 一歩後ろに下がれば、絵里子もまた一歩、距離を詰める。

「そ、そういえば!」

 そのあまりにもな距離感に圧され、耐えられずに声を上げた。

「佐山はどうしたんだ。その、一緒に帰ったりとかしないの」
「そのことなら、大丈夫」

 絵里子の声が艶っぽく響く。

「もう二度と、あなたに近づいてきたりはしないから」
「……え?」

 そう言って、絵里子は悪戯っぽく笑った。まるで、自分の仕掛けた罠に獲物がかかったことを喜ぶように。

「ちゃんと言ったら、分かってくれたから。あなたの前には二度と姿を現さないから。もう学校にも来ないんだって。そこまでしなくてもいいって私は言ったんだけどね、あいつがそう決めたなら仕方ないよね」
「え、ちょまっ」

 笑いながら、心の底から楽しそうに語る絵里子。しかし、その瞳が全く笑っていないことに気付くと、背筋を冷たい汗が滑った。

「だから、もう邪魔者はいない。……高校に入って何か変えたいとは思ってたっけど、まさかこんな形で望みが叶うなんて!」
「お、おい、待て待て待て!」
「待たない! もう止まらない! 何年待ったと思ってるの! 相思相愛だなんて分かったら、我慢なんてするわけないでしょ!」

 ぐいぐいと、絵里子が強く体を押し付けてくる。その動きは、まるで目の前の人間を床に押し倒そうとしてるような――

「さあ、さあさあさあ! 行こう! 彼方まで!」
「ちょ、ま、やめっ! 服に手を入れるな!



 私ら女同士だろうが!」



 叫んで、なんとか絵里子を突き放す。乱れたスカートとシャツを直しつつ、急いで立ち上がり絵里子から距離を取る。

「あのあなたをずっと視姦してやがったムッツリクソ野郎はもういない! 何も躊躇うことはないはず!」
「いや躊躇えよ性別とか大事だろ!」
「そんなもの、十年前に乗り越えてるわ!」
「私は乗り越えてねえよ!」

 目の前の絵里子は、血走った瞳で獲物を狩る狼のようにこちらを見ている。
 ……なぜだ、なぜこうなった。
 私はこんな展開を望んでいたわけじゃない。黙って私を置いておこうとした絵里子に腹が立って、寂しくて、でもそれが大人になることなのかなとか納得して祝ってあげようと思っただけなのに。

「さあ、行こう子猫ちゃん……うふふふふ」

 じりじりと距離をつめてくる絵里子。
 私はそれから逃げるように後ろへ下がり――とん、と背中に何かがぶつかった。

「え……?」

 窓だ。
 急展開に忘れていたが、私の背後には窓しかない。高さは四階。とてもここからは逃げられない。

「神は言いました。『自分を愛するように、隣にいる人も愛してあげましょう。骨の髄まで、しゃぶりつくすように』」

 訳の分からないことを言いながらゆっくりと迫ってくる絵里子を眺めながら、私は現実逃避気味に、この後の予定を考えた。
 ここから逃げて家に帰ったら、本屋に行って聖書を買おう。できるだけ分厚くて重いやつがいい。
 それを使って、絵里子の左頬を叩いてやるのだ。


 ――どうか神様が、私を助けてくれますように。
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