その男、東条千暁(とうじょうちあき)は稀に見る大変な狼藉者であったことを、私のごく短い高校生活の中で記憶している。
 そこら辺にいる不良、例えばここ、山に囲まれた盆地の田舎町である「糸見」から数キロ離れた、若干のにぎわいをみせる市街地にいる、田舎の不良に毛が生えたようなしょぼくさい連中とはまるで比較にならない。
その立ち居振る舞いはまさに、傍若無人。とにかく我儘、人の気持ちを慮る気がまるでないその様はまるで独裁政治を振りかざし君臨する暴君の様相を呈していた。1ミリでも自分の気に食わないことがあれば、全力で相手を叩き潰しにかかる。まだ高校生らしくかわいらしくつっかかる、のではなく、完膚なきまでに叩き潰すのである。その方法は彼のその日の気分によりさまざま、例えば彼の生活態度に意見した女教師(新任)は、東条千暁のとても同じ人とは思えぬ罵詈雑言を浴びせられ、果ては彼女の家族までも貶められて、1週間で胃に穴をあけ、1ヶ月で辞職まで追い込まれた。もちろん暴力に訴えることも度々で、寧ろそちらのケースの方が多かった。彼の通う糸見高等学校にもそれなりにやんちゃな連中がいたりするが、どんな馬鹿でも東条に喧嘩を売ろうなどという身の程知らずはいない。彼の喧嘩の強さは折り紙つきで、その力の根源は彼が幼少の頃から稽古を続けている空手やら合気道やらの成果であるらしい。馬鹿に刃物とはよく云ったものだが、しかし東条は決して馬鹿ではない。寧ろ成績は常に上位、頭の回転は速い方だと言える。手のつけられない暴君に腕っ節と知能とは、神は何を思ってこのような類の人間をお創りになったのかと非常に理解に苦しむところだが、世の中とは得てしてこのように不平等なものであろう。
 そして私、霧島清香(きりしまきよか)は、自分で言うのも何だがどこにでもいる至極平凡な生徒であると自覚している。
 成績も中の中、運動神経も可もなく不可もなく、特筆すべき特技もなければ、容姿が特別整っているわけでもない。我ながら、すばらしく平凡である。そして、平凡とは、自らの世界の平和と同義であると考えている。私の平凡な世界には、規格外の出来事など起こり得るはずもない。しかしながら、そうやって一律にカテゴリ分けできないのが人の人生というものであるらしい。困ったことである。
今生最も深い謎であるが、私霧島清香は、どうしてか東条千暁に気に入られたのだった。


このせかいにさよならを。




特に私が何をしたでもない、東条の逆鱗に触れたこともなければ特別関わりを持ったこともない。もちろん何か、気に入られるようなことをした記憶もない。それなのに何故か、私はことあるごとに東条に絡まれた。絡まれたと言っても、因縁をつけてくるあれではなくて、普段の彼の所業からは考えられないくらい、至極好意的に接してくたのだった。
基本的に、東条千暁が周囲の人間にやさしく接することはない。目の前を通れば邪魔だと言って突き飛ばすし、所用でやむなく話かけようものなら虎のようなひと睨みで黙らせる。きっと彼は、自分以外の何者も、自分以下だと蔑み見下しているのだろう、と思っていた。彼の逆鱗に触れない自分の平凡さに感謝さえして、完全に蚊帳の外の私はただの傍観者のはずだった。けれど、万事そんな調子の暴君が、私が昼休み友人と向かい合わせで弁当を食べているところに突如現れ、目の前に座っている友人の襟首をやおら横からつかんで引き倒し、それまで友人が座っていた席について私の机に肘を立てにっこりと笑ったときには、今日で世界が終わるのかと思った。平凡で、平和で、穏やかな世界が脆くも崩れ去るのかと、にわかに戦慄したのだった。しかしそんなことはなくて、東条は今まで見たこともない穏やかな笑顔を終始顔に浮かべ、聞いたこともない穏やかな声で私に質問をした。普段の蛮行からはおよそ想像もできない、まるで善人の東条を見て、ある種の恐怖を覚えたが、東条本人(的に)は和やかに談笑すると、私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でて自分のクラスに帰っていった。その日を境に東条は頻繁に私の前に現れるようになり、比例するように友人は私から離れていった。いつもぽつんと一人で行動するようになった私に、度々東条は場所を選ばずに話しかけてきて、話が終わると決まって乱暴に私の頭を撫でて去っていった。去っていった友人たちに何故かした未練は残らず、今まで友人と過ごしてきた時間に東条がいるのは、不思議ではあったがどこか心地よくもあった。それは、誰にもなつかない猛獣が、自分だけには尻尾を振って寄ってくる、そんな感覚に似ていた。
 ちょうどそれが1年ほど前の話、私も東条も高校1年を半年ほど終えたところで、学年全体がまだふわふわと定まりきらない雰囲気を孕みながらも、同学年のほぼ全員が「東条千暁と霧島清香は付き合っている」という共通認識を持っていた。それが狭い糸見中に知られるのにもさほど時間はかからず、東条の蛮行を知る大人たちは皆一様に私に哀れみの視線を送り、母に至っては、どうしてあんな家のあんな息子に娘を疵物にされなきゃいけないのか、と私の前で泣く始末だった。確かに東条の家は日本でも有数の名家ではあったけれど、その評判は地の底を這う悪さで、現当主である彼の父にも悪い噂は絶えなかった。そんな家の息子と自分の娘が付き合っているなんて噂が聞こえたら、泣きたくなるのもわかる。
わかるけど、こまったことに私には、東条千暁と付き合っているなんて意識はこれっぽっちもなかったのだ。おそらく東条にも、そんな意識はなかったように思えた。確かに学校では昼休みは一緒に弁当を食べるし放課後は一緒に帰ったり時間があったら市街地まで出て買い物したりごはんを食べたりしたりもするけど、それは私に東条が近づいてくる前から友人たちとしていたことと一緒だし、いわゆる普通の恋人同士ならば至極短絡的に陥るような甘ったるい展開などただの一度もなかった。ただ、いつも横暴に振る舞う東条が、私の前では普通の男子高校生になるだけだ。でもそれが、どれくらい特別なことであるかを、そのとき私ははっきりと認識しきれてはいなかったのだけど。
 それでも、東条と関わりだしてから数カ月が経ってもなお、自分たちの関係に、あまりにも周囲の人間がいい顔をしないのを見ているのはやはり気分のいいものではないし、一切の危害を加えられてもいないのに家族に心配をかけるのも悪い気がしてきた。ここは東条との関係をはっきりさせて、公明正大彼とは恋愛関係にありませんということを宣言した方がいいのではないだろうか。しかし、それを証明するとして東条に何て言えばいいんだろう。「私たち、付き合ってるの?」なんて月並みな台詞、とてもじゃないが恥ずかしくて言える気がしない。それこそ思春期の女子中学生よろしく、枕を抱えてベッドでごろごろしてしまうような話だ。何よりも下手なことを言って、東条に嫌われることだけは避けたい。東条が私の傍に来たことによっていなくなっていった友人なんかはもうどうだっていいけれど、彼に嫌われたり疎ましく思われたりするのは、なぜかどうしても嫌だった。
そんなとりとめもないことを考え始めたその年の秋口の夜、唐突に東条から電話があった。お互いの家から同じ距離にあるコンビニに来てほしい、という旨をいつもの軽い調子ではなくどこか真面目なトーンで言われ、不覚にも心臓が高鳴った。ひょっとしたら、私が考えていたようなことを、東条も私に言うつもりなのだろうか。
 初秋の夜気はまだ夏の湿気を孕んで微かにべたつき、ほとんど舗装されていない砂利道を歩く私をなまぬるく包む。名前の知らない虫が鳴いていた。ふと、このままどこかへ行ってしまいたくなった。家に帰っても東条と私のことでノイローゼ気味になっている母がいるだけだし、このまま私がどこかへ行ってしまえばすべて解決するような気がした。その気持ちはしかし死んでしまおうかというほどシリアスになりきらず、方向性も定まらないまま私はコンビニの前まで来ていた。のっぺりと連なる田んぼの間にぽつんと白白しく蛍光灯の光を撒くコンビニ、車が2、3台停まってしまえばおしまいの狭苦しい駐車スペースの縁石に、東条千暁は足を投げ出して坐っていた。根元まできれいに染めた金髪が蛍光灯に照らされて鈍く光っている。近づいていくと東条はすぐに私に気づいて立ち上がり、へら、と笑って「よ、」と右手をあげた。
 「どうしたの」
 「別に、たいしたことじゃないんだけど」
 「たいしたことじゃないって、今夜中の10時過ぎなんだけど」
 女の子をこんな時間に出歩かせないでよね、冗談めかしてそう言うと東条は笑った。手を伸ばして、いつもみたいに私の頭をぐしゃぐしゃ撫でながら。
 そのときの東条は普段と何ら変わらなかった。いつも通りだったのだ。
 「ねえ、私も言いたいことがあるんだけど」
 頭を撫でられながら、気がついたらそんな言葉が洩れていた。
 頭の上の東条の手をとって、頭ひとつ分くらい上にある彼の顔を見る。子供っぽい双眸がこちらを見つめ返す。いつも理不尽に他人をねめつけるときの迫力なんか微塵もない、整った童顔にまるい目。
その口角がやおら吊り上がって、東条は笑った。
先ほどのへらへらした笑い方ではなく、どこか凄絶な、ぞっとするような笑顔。ああこの表情は見たことがある、気に食わない奴を殴り倒して見下ろしたときの、とんでもない罵詈雑言を吐く直前の顔だ。彼の蛮行の数々が頭を過ぎり、一足遅れて背筋にぞろりと鳥肌が立ったとき、予想に反して東条の手がふわりと頬に触れた。笑顔とは裏腹なやさしい感触に、私は思わず名前を呼んだ。
「……東条?」
「霧島、」
何か言おうとした、けれどそれを最後まで聞くことは叶わなかった。
唐突に襟首をつかまれて、放り投げられるように突き飛ばされた。突き飛ばされた瞬間に痛みはなく、4、5歩よろけて地面に尻餅をついた瞬間に初めて痛みを感じた。わけもわからず顔を上げる、目の前には、白い光に照らされた東条の姿。仇っぽい笑顔を貼りつけた顔がこちらを向いて

一瞬だった。

慌てる間も、叫び声をあげる間もなかった。ほんの一瞬の間に、東条千暁は呻りをあげて走ってきた自動車に、勢いよく撥ね飛ばされた。
私の眼前で、まるで夢のように、あるいは漫画のように、東条の身体は高く高く撥ね飛ばされた。そのようすはまるでスローモーションのように、嘘のようにゆっくりと私の眼に映った。車に東条の身体がぶつかって、嘘のように大きな音が響いた。目の前で起こったことが突然すぎて真っ白になった頭の、しかし片隅の醒めた部分では、こんなにも奇妙な音なのか、とやけに冷静に俯瞰していた。自動車はそのままの勢いであっという間に走り去っていき、ワンテンポ遅れて鈍い音とともに東条の身体が畦道に叩きつけられた。コンビニの明かりに照らされて、地面に横たわった東条の姿が薄らぼんやりと見える。それから、東条が跳ねられた衝撃音を聞きつけたコンビニの店員が出てくるまでのほんのわずかな間、私は東条に近づくこともできなかった。倒れて動かない東条の、妙に生白い首筋や不可思議な方向に曲がった手足を、眺めているしかなかった。ただ、思考だけが冷静に巡って、「ああ、これは死んだなあ」と、頭の隅で私ではない誰かが言った。



秋が深まり山が紅く色づいて、盆地が真っ白になる冬を越えて、ようやく糸見に春はきた。寒暖の差が激しく、ややゆっくりと季節がめぐるこの地にも当然のごとく春はやってきて、雪は融け、桜は咲き誇る。同じように人々の活動も始まって、私は高校2年生になった。何ごとも変わりなくやって来た春の、何ごとも変わりない日常だった。唯一、私の傍からいなくなったひとりを除いて。
結論から言ってしまうと、東条千暁は死ななかった。
あのあと、コンビニの店員が大慌てで呼んだ救急車に私も乗りこんで、東条は糸見の外の市街地の病院に運ばれた。担架に寝かせられ呼吸器のような装置を取り付けられた東条はやっぱり生きているようには見えなくて、彼が集中治療室に入ったあと、病院の真っ白な廊下の、横長のベンチに座っている間もずっと東条は助からないだろうとそればかりを考えていた。東条の死を考える脳内はやけに冷静で、あんな光景を目の当たりにしたというのに涙も出なかった。自分はおかしいのだろうか、あんなに衝撃的な場面にいたというのにこんなにも冷静で。しかしあの瞬間のことを思い浮かべようとすると、真っ先に思い浮かぶのは、撥ねられる直前の東条の悪戯っぽい笑顔だった。……もう、あの笑顔を見ることはできないのだろうか。そのことに思い至ったとき、初めて胸の奥が苦しくなった。自分でも驚くくらい唐突に涙がこぼれ始めて、ぼろぼろとジーンズの上に落ちた。このまま東条が助からなかったら。もう彼が私に話しかけることもない、頭を撫でてくれることだって、なくなる。最早止められなくなった涙を拭おうともせず、私は泣いた。けれど、何がこんなに悲しいのか、もちろん東条があんな目に遭ったことなのだろうけど、その感情の根源はもっと深いところにある気がして、その所在はわからないままだった。
けれど、東条千暁は助かったのである。とりあえず、命だけは。
手足の骨折は、若さもあってすぐに治るだろう。しかし、頭を強く打ったせいで意識は混濁状態にあり、言ってしまえば生死の境をさまよっている状態にある、言い方は悪いがいつ死んでもおかしくない、と、医師は穏やかな口調で淡々と説明をした。まだ意識は戻らないし、いつ戻るかもわからないから当分面会は無理であるということだけを告げられ、その日は大人しく帰宅するしかなかった。
けれどそのあと、東条に会うことはなかったし、ましてや退院したのかどうかすらも知ることができなかった。東条の事故のニュースは瞬く間に糸見中に広まって、さまざまな噂が飛び交い、皆一様にあんな奴さっさと死んでしまえばいいのにと嘲笑った。母は心底安堵したような顔をして、ここぞとばかりに、それでも言葉を選ぶようにやんわりと、もう東条には会わないようにと私に言い渡した。反発しようと思ったが、母の顔を見てやめた。乱暴者で皆から嫌われていた男が娘にちょっかいをかけていただけでも心配なのに、今は死にかけているその男に今度は娘がかまけることになったら、それこそ気が気ではなくなるだろう。そんな思いを隠そうともしない母を見て、私の方が惨めになってしまった。
ひとまず、東条からの連絡を待つことにした。東条の意識が戻っていたらきっと何かしらの連絡はしてくれるだろうし、退院したら学校にも出てこられるようになるだろう。そう考えて、私は待った。まわりの人間が話している噂は、なるべく耳に入れないようにした。東条を跳ねたのは東条の父親に恨みを持つ奴の仕業だとか、それくらいならまだよかったけど、もっと悪く言う人もいたから。確かに東条はいい奴とは言い難いけれど、東条があんな風になっているときにそんな話は聞きたくなかった。
しかし、待てど暮らせど東条から連絡が来ることはなかった。それどころか、東条は高校にも、糸見のどこにも姿を現さなかったのだ。2学期が終わり冬休みが過ぎ、あってないような3学期と春休みが半分ほど過ぎてしまっても、私は東条の容態を知るどころか、どこにいるのかすら知らないままだった。もう退院して家に帰ったのか、それともどこか別の場所にいるのか、さっぱりわからなかった。春休みももう終る頃、焦れて一度だけ東条の携帯電話にかけてみたがつながらず、メールもアドレス不明で戻ってきた。おかけになったでんわばんごうは、げんざいつかわれていないか、でんげんがはいっていないかのうせいがあります。携帯電話の向こうの、無機質な女の声を聞きながら、どうやら私は彼とのつながりをすべて失ってしまったようだと、唐突に思い知らされたのだった。


だから、始業式と新しいクラス分けの発表を終えたホームルームに、担任が東条を連れて現れたときは、心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。
それはほかの皆も同じだったようで、担任のうしろについて入ってきた東条を見た途端、一斉にクラス中がどよめいた。生きてたんだあいつ、隠そうともしない本音が教室中に飛び交い、担任が何度か声をあげてようやく静かにさせた。まだひそやかにざわめく教室の前に立った定年間近の担任は咳払いをし、苦虫を噛み潰したような顔で話を始めた。
「知っている者も多いかと思うが、東条は去年の秋に交通事故に遭って、つい最近まで隣町の病院に入院していた。快復に時間はかかったが、今は勉強にも運動にも支障はないらしい。が、まあ……話していくうちにおいおいわかっていくこともあるだろう。皆、今まで通り仲良く接してやるように」
担任が、仲良く、という部分を強調したところで、ざわめきが呆れたような笑い声に変わる。……今まで通り仲良く。そっちがその気ならな、と無遠慮に誰かが言い、さらに笑い声が大きくなり、私は言い知れぬ不快感に襲われる。
「静かに。……あー、それじゃあ、霧島の隣が空いてるな。東条、一番後ろの列の窓から2番目の席だ」
担任が私の隣を指差し、東条は会釈をするようにひとつうなずいて、こちらに向かって机の間を歩き始めた。
思えばこの時点で気がつくべきだったのだが、このときの東条は奇妙なくらい、おとなしかったのである。
東条が席に着こうとする間も、揶揄と好奇心の入り混じった言葉が交わされ続けていたが、東条はまるで聞こえないかのように、あるいは聞こえないふりをして、そそくさと指定された席に着いた。私の隣で猫背をまるめて坐る東条は、事故に遭う前とさして変わらないように見えた。怪我もきれいに治っているみたいだし、とても生死の境をさまよっていたようには見えない。だから、すぐにでもこちらを向いて、いつもと同じようにへらへら笑ってくれると思ったのだ。しかし、東条は机に視線を落したまま、顔を上げようとすらしなかった。何かがおかしい、と気づいたのは数秒あとで、私は東条の顔を覗きこむように顔を傾けながら、ちいさな声で呼びかけてみた。
「東条?」
「はい。なんでしょう」
反応は、あまりにも予想外だった。
驚きのあまり、周り中の人間が振り向くような声をあげて、私は大袈裟にのけぞった。慌てて体勢を整えて、咳払いをしてもう一度、東条の顔を見る。……今、こいつなんて言った?
「…え?」
声にならない声で訊き返す。東条は、そんな私に向かって笑顔を浮かべ、もう一度言った。
「どうかしましたか?」
東条は、にっこりとほほ笑んで私を見つめ返した。
その声を今まで聞いたことがないと思ったのは、東条が敬語を使っていたからだった。東条が誰かに対して敬語を使うところを、私は未だかつて見たことがなかった。そして、このまるで詐欺のような笑顔は、やっぱり見たことのないものだった。確かに、確かに東条は私の前だけではよく笑った。他の人には見せない笑顔で、でも他の人と同じように、さもないことでよく笑った。しかし、今目の前にあるこの笑顔は、以前彼が見せていた笑顔とは、まるで種類が違った。うまく説明できないけれど、どうしてそれが一瞬のうちにわかったのか。それは、東条が放った次の言葉が、確定的にすべての事実を物語っていたからだった。
「申し訳ありません。あなたのお名前を教えていただきたいのですが」



「記憶障害?」
その言葉はあまりにも不躾で、鸚鵡返しに訊いてしまったことを後悔した。
「去年の事故に遭う前までの記憶が断片的にないそうだ」
これまた直接的に、無遠慮に担任が言い放つ。
担任が何を言っても、東条が暴言を吐くことも殴りかかることもしないので、私はその奇妙さに恐れおののきながらも、ゆっくりと状況把握を試みる。要するに、東条はあの事故のせいで部分的に記憶をなくし、この性格の変化はその記憶喪失に起因するものらしい。しっかりと前を向き、穏やかな微笑みすら浮かべて話を聴く東条を、担任は奇異の視線を隠そうともせずに眺めまわす。
「そういうわけなんだ、霧島」
「はあ…」
「東条はまだ教科書類を揃えていないらしくてな。…ほら、こんな状態だしな。本屋の場所も分からないだろうから、連れて行ってやれんかな」
どうして私が、と言おうとして、面倒なことになりそうなので口を噤んだ。
おとなしくなったとはいえ、彼のことを知っている連中にしてみたら、東条はやっぱり東条なのだ。我儘で乱暴で、やさしさの欠片もなかった東条と、仲良くしていたのは私だけだったのだ。と、今更のように自覚する。だから私は、精一杯の模範生スマイルを顔に貼りつけ、ともすれば悪態をつきそうになる口で、こう言い放ってやったのである。
「わかりました。責任持って東条君を、連れて行ってあげますね」
担任の心から安堵した顔を、ああ、東条が殴ってくれないかなあと思いながら。


「すみません、何だかご迷惑をかけてしまって」
職員室を出、二人して学校の敷地から出て田んぼのあぜ道を歩きだしても、東条は他人行儀のままだった。聞き慣れない東条の敬語に、ひく、と顔が引きつった。
無理矢理笑顔を繕って、言ってやる。
「いいよそんなの。それに、同い年なんだから敬語とかいらないよ」
「いえ、でもお世話になっていますから。…そうだ。買い物が終わったら僕の家に来ませんか。お礼もしたいですし」
「っえ!? …い、いいよ。それこそ悪いし…(ていうか僕って)」
「でも、きちんとお礼をしたいですから。…あと」
言って、東条はにっこりと笑う。
「せっかくこうしてお話できたし、霧島さんとは仲良くしたいですから」
先ほどの、詐欺のような笑顔だ。彼には悪いが、私はこの笑顔を見るたびに鳥肌が立つようになってしまった。
担任から聞いた話によると、東条がなくしたのは事故に遭うまでの『糸見に関する記憶』だけらしい。つまり、今まで勉強したことや一般常識なんかは覚えているけど、糸見で生まれてから会った人や出来事の記憶だけが、ぽっかりとなくなっているというのだ。確かに、漫画やドラマなんかで見る記憶喪失っていうのはそんな感じだけど、実際にあるものなんだなあと、妙に感心して私は隣を歩く東条を眺める。私の視線に気づいた東条が、また笑う。私もぎこちなく笑い返す。今の東条はどこからどう見ても優等生で、そういえばこの男は黙っておとなしくしてさえいればただの優等生なんだなあと思う。それだけ東条がとんでもない乱暴者だったということも改めて自覚した。
4月とはいえまだ風は冷たく、畑いっぱいに咲いた菜の花を揺らしている。もう2,3日の間に桜は満開になるだろうけど、山から吹きおろす風ですぐに散ってしまうだろう。こうして二人で帰るのはずいぶん久しぶりのことなのに、不意にひどく寂しくなった。東条がなんのぎこちなさもなく流暢に使う敬語も、詐欺師みたいな笑顔も、全部私を忘れてしまった事実の証明だった。命まで落とさなかったのはよかったけれど、東条の中から糸見が消えて、私がいなくなったことが悲しかった。そう思った途端、鼻の奥がつんと痛む。……悲しいのだ。忘れられてしまうということは、こんなにも悲しいのだ。
しょんぼりと肩を落としながら歩いていると、急に東条がその場にしゃがみこんだ。不意をつかれて私も立ち止まる。
「ど、どうかしたの?」
訊ねても東条は答えなかった。よく見ると、肩が小刻みに震えている。
慌てる。傍目にはわからなかったけど、ずっと具合が悪かったのだろうか。うずくまってしまった東条の傍らに私もしゃがみこんで、背中をさする。
「東条…くん? 平気? 大丈夫?」
「……っ……」
「ほ、ほんと大丈夫? どこかで休もうか」
背中をさすりながら話しかけるが、それでも東条は返事をしなかった。
返事をしなかったのではなく、できなかったのであることを、私は数瞬ののちに知ることとなる。私がさすっていた背中が大きく揺れ、唐突に東条があぜ道に転がって大の字になった。何ごとかと思って彼の顔を見る。私の知らない持病か何かで発作でも起こしたのか、はたまた事故の後遺症なのか、考える間もなくそれは起きた。

「あっははははははははははははははははは!!!!!!!!!!」

冷たい青を湛えた空に、馬鹿笑いがぶちまけられた。
あっけにとられる。今の今まで具合が悪くてうずくまっていると思った男が、あぜ道に寝転がって腹を抱えて笑っている。……これも何かの発作の一種なのか? 一瞬そんな思いが頭を過ったとき、東条が笑い声の隙間から、こんなことを言ったのである。

「あははは、あいつらマジでおかしーな、霧島もそう思わない? あはははははは!」



私もひとつ忘れていたことがあった。この男、東条千暁は大変な大嘘つきでもあったのである。
教科書なんかどうでもいいから何か食いに行こうぜ、と言う東条について行ったのは、高校からそう遠くないちいさな駄菓子屋だった。「俺、朝から何も食ってねえの」東条はそう言って、店主の老婆にカップうどんに湯を注いでもらい、お腹がすくとかそれどころではなくなった私は、自販機でお茶だけ買った。店先の古臭い青いベンチに座り、カップうどんをすすりながら、東条は事の顛末を話し始めたのだった。
「嘘だよ、嘘。全部。演技演技」
「え、じゃあ、記憶がなくなったって言うのも」
「嘘。ちょっと記憶喪失のふりして礼儀よくしてたらすーぐ騙されんだモンなここの連中は。マジで馬鹿だよ、猿以下の馬鹿」
…否、十分不審がってはいたけどな、とこれは心の声である。
「ほ、ほんとに? じゃあ全部覚えてるの?」
「当たり前だろ。まああのとき頭は打ったけどね、精密検査でも異常なし。でも俺は思うところがあって医者の弱み握って脅して、記憶がなくなってることにしてもらったの」
カップうどんを半分ほど食べ、汁を飲みつつ東条は饒舌に語る。
さっきから衝撃の連続で頭が追いついていないが、とりあえず東条の記憶喪失は彼の考えた嘘ということらしい。……私のさっきの悲しみはなんだったんだろうか。急激な脱力感に襲われ、私は大きくため息をついた。こんなことをして、東条の考えていることはさっぱり分からないし何が狙いなのかもわからないが、この男がただ人を騙して驚かせる、なんて良心のあることをするはずもないのだ。……ここで多少の矛盾を感じるがこの際無視することにする。文句は全部あとで言うことにして、私は目下の一番の疑問を訊ねてみることにした。
「何だって、記憶喪失の演技なんかしたのよ、きみは」
「だーから、思うところがあったんだって」
残りのうどんを一気にすすりあげて、東条は小馬鹿にしたように言う。先ほどまでの優等生は見る影もないが、私としてはこちらの方がはるかに話しやすい。焦らすように言葉を切った東条に、続けて訊ねる。
「何よ、思うところって」
「あのさ、俺、親父と今決闘してるんだよね」
「決闘ぉ?」
今日日、漫画でもきかなくなったような単語を、東条はさらりと言ってのけた。
「そ。わかりやすく言うと喧嘩してんの」
「なによ、ただの親子喧嘩じゃない」
「去年の事故のちょっと前にさ、俺、親父に言ったんだよ」
私の言うことを無視し、東条は続ける。
「なんて」
「霧島を嫁にして、家を継ぎたいって」
「へえ……。はあ!? なにそ」
「そしたら親父がめちゃくちゃ怒ってさ、『お前みたいな性根の腐った未熟者にはまだ嫁を娶れる資格なんぞ無い!』って。それで親父と喧嘩したんだよ、一晩は殴り合ったかな。そしたら親父が朝方になってこう言ってきたの」
「あの、東条? わた」
「『今日から俺がお前に試練を与える。その試練を乗り越えてお前が生きてたらお前の勝ち、生き残れなかったら俺の勝ちだ』ってさ。まあそんなのいつものことだし、うちの親父のことだし殺しに来るだろうなーとは思ったけど、まさか車で突っ込んでくるとは思わなかったなー。実際死にかけたし。ははははははは」
そういえば、と思い出す。
東条を撥ねた自動車の運転手が、捕まっていないという事実を。
「ちょっと、なにそれ、いつものことってなに」
「それでまあ、とりあえず俺は生き残れたわけだし、これで親父との勝負に勝ったと思うじゃん普通は。でも親父のことだしまだ俺のこと殺しにかかってくるだろうなーと思ったの。俺のこの性格が変わんなきゃ、何も許してくれないだろうからさ。だからさ、記憶喪失のふりして行儀よくして、『ほかのひとからききました、ぼくわるいこだったんですね、はんせいしてます』とか泣き落とせば、親父も騙されて折れてくれんじゃねーかなーと思って、やってみたの。まあ親父のまわりの連中は面白いくらい簡単に騙されてくれたよね。医者も俺が脅したらすぐ言うこときいたし。問題は親父だったわけだけど」
「……」
「最初はまあよかったんだけどさ、親父すぐに見破りやがってさあ。俺完璧に演技してたつもりだったんだけどなあ……ま、それでやっぱり喧嘩になったわけよ。親を騙すとはどういう了見だ、今度ばかりは許さんその腐った根性叩き直してやるって。それで学校出てくるまでの数週間くらい家ん中でずっと殺し合いだよ」
口を挟む隙がなくて黙って聞いてたけど、さらっととんでもないことを言われている気がする。……否、明らかに言われている。
「今日はどうにか振り切って学校来たんだけどな。あ、学校でも記憶喪失のふりしてたのは、その方がいろいろやりやすいって気づいたから。親父と家の奴にはもう通じないけど、他の連中は結構わかりやすく騙されてくれてるもんなー」
「い、いろいろって?」
「ん?」
私の顔を覗きこんで、ゆっくりと言う。
「いろいろ」
ぼ、と顔が赤くなるのが自分でもわかった。
「そ、それはいいとして! なんか、きみすっごい聞き捨てならないことを最初に言ってた気がするんだけど?!」
べち、と手のひらで東条の顔を押し戻し、今度は私が問う。すると東条は、押しのけた私の手をとり、両手でぎゅっと握って正面から私の顔を見た。再び、顔が熱くなる。
「ちょ、ちょっと」
「霧島、俺と結婚してくれ」
「は、はあ!?」
「俺、決めてたんだ。霧島を初めて見たときから、俺、こいつと結婚しようって。こんな風に思うの、霧島が初めてなんだ! だから霧島、俺と結婚してくれ!」
「ちょ、ちょっと待って! いきなり結婚て何よ、結婚って!」
東条の手を振り払い、人差し指を突きつける。……人を指差してはいけない、と小さいころの私を叱ったのは母親だったか先生だったか、至極どうでもいい問いが頭を過る。
「え? 俺なんか変なこと言った?」
「言ってるわよ! 何を急にプロポーズなんかしてるのよ! 大体私たち、」
付き合ってもいないじゃない、という言葉を、しかし羞恥が邪魔して飲みこんだ。それを見た東条が、へらりと笑う。
「いいじゃん、俺、霧島のこと好きだし。それに俺、霧島には何があってもやさしくできるんだ。他の奴には死んでも無理だけど」
「え、」
「霧島が他の女と違うところは、俺がいらつくことひとつも言わないこと。俺が言って欲しいこと言ってくれるとこ。だから俺、霧島のこと大好きなんだよ」
「あ、あの、」
「霧島は、俺のこときらい?」
小首を傾げて私を見る、誰かに悪意を向けていない東条は妙にこどもっぽくて、なんだか小動物みたいだと思った。
「べ、別に、きらいじゃないけどさ…」
「じゃあ結婚しよ!」
短絡的にそう言い続けるようすも、まるでこどもだ。
「…あのねえ、そう簡単に返事できるわけないでしょ」
「俺、ちゃんと霧島のことしあわせにするよ?」
「お父さんと殺し合いする人にそんなこと言われても、全然説得力ないわよ」
そう言うと、東条ははたと気がついたような顔になった。
「当たり前じゃない。だいたい何よ、決闘とか試練とか殺し合いとか、漫画じゃないんだから」
「親父のやり方なんだよ、俺がちっちゃいころからそう。俺が何かしたいときとか、何かが欲しいときは決まって親父がふっかけてくる無理難題をクリアしてから。俺結構昔からひねくれてたし、そうした方が俺の性根も直るだろうと思ったらしいんだよね。まあ結果はご覧の通りってとこだけど」
「その無理難題が、車に轢かれて生き残れとか、そんなのばっかりなわけ?」
「親父のガードマンに寝込み襲われたりとか、崖から突き落とされそうになったりとか、川に突き落とされたりとか、いろいろだよ。まあ、霧島も見たからわかると思うけど俺強運みたいでさ、その度その度生き残れるんだよね。親父はそれが気に食わないみたいで、何回もデスマッチ仕掛けてくるけどね」
普段東条が見せる並々ならぬ強さとひねくれ具合の片鱗を、見た気がした。
「と、とにかく! お父さんとしっかり和解しなさいよ。大体、きみがそうやって端から騙そうとしたりする姿勢でいるからお父さんも怒るんじゃない。もっと平和的に解決できないの?」
「無理」
即答された。
「ど、努力くらいしなさいよ」
「だってむかつくんだよ、あの親父。ゲーム機欲しいって言っただけなのに小学生の息子川に突き落とすか? 普通」
「……」
それは確かに理不尽すぎる。
東条の若さで家を継ぎたいだの結婚したいだの言ったら、まあ親としては冷静になれって言うのが当然なんだろうけど、いきなり車で轢き殺そうとするあたり親子そろってどっかきれてるんだなあ、とは思う。思うけど、決闘だの殺し合いだの、こんなのあまりにも現実離れしすぎていないか。
「それは確かに怖いけど……でもお父さんなんでしょ?」
「一応、血は繋がってるけどね」
「そんなこと言わないでさあ……いるだけいいじゃん。お父さん」
私が言うと、東条はちらりと私の方を一瞥して何も言わなくなる。
不用意なことを言ったな、と私も黙る。私の両親は私が小さいころに離婚して、それからずっと母と暮らしている。そして、これはしばらく前に聞いた話だけれど、東条の母親は東条を生んですぐに病気で亡くなってしまったらしい。片親なんて珍しくもなんともないことだろうけど、お互いなんとなく触れずにいた部分ではあった。
手持無沙汰になって、制服のスカートの上で組んだ指を見つめる。指を何度も組み直しながら、結婚、と口の中で呟いてみる。……やっぱり、現実感がない。ただでさえ記憶喪失なんて言われたときも現実感などどこかに行ってしまっていたのに、言うに事欠いていきなり結婚とは。しかも、こんな田舎の田んぼの真ん中の、鄙びた駄菓子屋の前でプロポーズされるとは。
……人生、何か間違っている気がする。
「……間違ってるわ」
「ん、何が?」
「全部よ、全部」
ため息交じりに言うと、東条は一瞬間をあけてけらけら笑い出した。
「なによ」
「間違っててもいいじゃん、規格通りなんてつまんねーし」
「規格外のことがいっぺんに起こっても、規格内で生きてきた人間は対応しきれないのよ」
「ははは、それもそうか」
「規格外の人間がのんきなこと言ってくれちゃってもう」
またため息をつく、しかし洩らす吐息の最後は、笑いが混じっていた。
とにかくやることなすことすべて普通で、平凡な世界を生きてきた私が、どうして東条千暁というイレギュラーな存在を受け入れてしまったのか。最初に声をかけられたとき、友人を容赦なく押しのけて、目の前にどかりと座りこんだとき、ともすれば拒絶もできたろうに、どうしてそのあと仲良くおしゃべりできたのか。……そりゃあ、最初は東条が怖かったこともあるけど、心の底で私は待っていたんじゃないのか。自然の流れに任せるようになんとなくでできた友人ではなく、自分を本当に必要としてくれている人が、もしも現れたら。そんな乙女脳の白馬の王子理論が自分の中にあったとは驚きだが、きっと根底は同じことだ。もしも自分のことを必要としてくれる人が現れて、その人がどこかしら特別な人だったら。

現れたのは、この狭い世界の中で、もっともおそるべき暴君だったけど。

「…霧島のためだもんな、うん」
おもむろにうなずき、東条が立ち上がって、私の正面にまわった。
目の前に、しろい手のひらが伸べられる。平凡だった私の生活にずけずけと入りこんできて、一緒に大きな声で笑って、一緒に教師に対する不平をぶちまけて、一緒に帰り道を歩いた、その男が私に再び笑いかけて、言う。
「俺、親父のことどうにかするわ。霧島も一緒に来てよ、いいだろ?」
まるで、放課後に買い食いに誘うような軽い調子で、東条千暁は言ってのける。
そういえば、この男と付き合っているのか付き合っていないのか、はっきりさせなければと思っていた時期があったなあ、と今更のように思い出す。それすらも、彼の前では無意味だったらしい。端からこの男は、私の結婚するつもりでしかなかったのだ。そう言われると笑ってしまうくらい、おかしな話だ(今は苦笑にしかならないけど)。
……まあ、最終的に、本当に結婚に落ち着くかは、今は置いといてもいいとして。
「喧嘩なんかしないでよね、こわいから」
冗談めかしてそう言って、私は東条の手をとった。

運命の分かれ道。



呻りを上げて飛んできた何かを、東条に頭を押さえられて、間一髪回避した。
その何かは、数歩うしろの、いかにも立派な木製の柱に深々と突き刺さった、ひとふりの日本刀だった。再び思考が停止する、私の平凡な頭には、やっぱり規格外の処理能力など搭載されていないのだ。
……やっぱり、こんなの間違ってる。
……こんな人生、間違ってるってば!
「何をのこのこ帰ってきたあ! このどら息子が!」
日本刀が飛んできた方向から、同じくらいに凶悪な怒鳴り声が飛んできた。
「うっせーよくそ親父! いきなり刀投げんじゃねーよ振れよ刀なんだから!」
「父親に意見するとはお前も偉くなったもんだな? ええ? あまつさえ家を継ぎたいだの結婚だのと! その甘っちょろい考えを変えてから出直してこい!」
「ぐだぐだ御託はいいんだよ! 一人息子が家継いでやるっつってんだからちっとは喜べよくそじじい!」
「継いでやるとは何だ恩着せがましい!」
見ている方の胃が痛くなるような応酬である。
私は頭を押さえてうずくまりながら、前方で烈火のごとく怒っている男を見遣る。盆地の北の、高台の上にある東条の家は、映画にでも出てきそうな大きな屋敷だった。東条に促され、彼の家に上がって広大な家の中を歩いた。……東条はこんなに広い家に、お父さんと使用人の人だけで暮らしているのか。そんなことを考えながら、長く続く廊下を、東条の背中を見ながら進んだ。
そして、彼が奥座敷の襖をあけた直後に、今さっきの日本刀が確実な殺意をもって飛んできたわけである。すばらしきコントロールで日本刀を投げてきたのは当然のごとく目の前にいる男、東条千暁の父親であった。座敷の奥にいる彼を遠目に見ても、息子そっくりなことがわかる。広大な青い畳の座敷とは不釣り合いな、紺の甚平を着た彼が、まさしく東条の言っていた、口よりも先に手が出る親父、である。
二人はただ言い合っているわけではなかった。言葉を飛ばし交わすその間にも、さまざまなものが双方向から切れ目なく投げられている。さすがに抜き身の日本刀というのは今さっきの一撃だけのようだが、壺やら置きものやら日本刀よりは軽めの刃物やら、どこにあったのかパソコンのキーボードまで、ありとあらゆるものが空中を飛び交っている。
そのすさまじいとしか言いようのない応酬に、私はただただ呆然と飛び交うものたちを見つめるだけだった。

そして思う。
私は、単純に親子喧嘩に巻き込まれただけなんじゃないか、と。

「大体お前は性根が腐りすぎてるんだ! 人はいじめるし人の言うことはきかん、我儘放題に傍若無人、目も当てられない育ち方をしおってからに!」
灰皿が飛ぶ。
「それは親父も一緒だろうが! てめえが育て方間違えたくせにふざけたこと言ってんじゃねえぞ!」
重そうな置時計が投げられる。
「俺のどこが間違ってると言うんだ!」
金属製の熊の置物が飛んでいく。
「全部だよ!」
ハードカバーの分厚い本が襖をぶち抜く。
「何だともういっぺん言ってみろ!」
言葉と一緒に投げられる、鉛筆一本にも悪意が込められる。
飛び交うものから身を守りながら、しかし冷静に私は思う。……この二人、本当に救いようがないくらいこどもだ。東条も自分が正しいと思っているし、東条のお父さんも自分が正しいと思っている。双方譲らないから議論は永遠に平行線、お互い血の気は多いしそりゃあものも投げる結果になるのも無理はない。何から何までそっくりな親子だなあとも思うが、今は大変迷惑な話である。座敷にくるまでの間に幾人かいた使用人らしき人たちは残らず姿を消しており、この家に長らく仕えているであろうにこの親子喧嘩にだけは誰も手をつけられないのだ。
……まあ確かに、死因が飛んできた日本刀による刺し傷とか、強ち冗談とも言えないしな、これじゃ。
「つかあぶねえだろ! もの投げんのやめろ! 客がいるんだよ客が!」
「客だと?」
呆然としていると、ぴたりと応酬がやんだ。
おそるおそる顔を上げると、投げられ壊されたものが無残に散乱した、襖や障子は破れ畳は傷つき壁はへこんだ、最早見る影もなくなった座敷が目に映る。そしてその奥の、東条に数十歳年をとらせた顔をした、甚平の男も。
「こいつだよ、俺が嫁にしたいって言った、霧島清香」
横に来た東条に紹介され、私は慌てて立ち上がった。
「は、はじめまして。霧島きよ」
「女性に向かってこいつとは何だこいつとはあ!」
名前も言い終わらぬうちに、高級そうな一輪差しの花瓶が投げつけられた。
ひらりとかわした東条の横をすり抜け、花瓶は襖を突き破って外に飛び出す。ぱりいん、と派手な音が耳に届いた。
……いくらしたんだろう、あの花瓶。
「だからもの投げんなっつってんだろ! いいじゃねえかよ! 近いうちに俺の嫁にする奴なんだから!」
「口が悪すぎると言ってるんだお前は! こいつなどと、このお嬢さんに失礼だろうが!」
「てめえが知らねえずっと前から仲良くしてんだよ! 呼び方なんかもうどうでもいいだろうが!」
「お前仮にも将来の伴侶に向かって無礼だと思わんのか!」
……なんだろう、正論を言っているような気がするんだけど、なんか違う気がする。
……というか、東条のお父さんは結婚に反対しているんじゃなかったのか。何故結婚する前提で話が進んでいるんだろう。
……間違っている。やっぱり、間違っているんだ。
再び始まってしまったものと言葉の応酬を見、今度はため息ひとつついて、もうパニックにはならなかった。き、と前方を見つめる。まだまださまざまなものが吹っ飛んでくるが、かまわない。かまわずに進みだした。
確かに望んだかもしれない。自分の平凡すぎる世界に、白昼夢のようなフィクションに出てくるような奴が現れて、平凡から抜け出せずどこにも行けない自分を、どこかに連れて行ってくれるんじゃないか。誰もが一度は望むであろうそれは、今や妄想の域から脱して現実として目の前にポンと置かれている。
しかし、ものには限度というものがあるのだ。……記憶喪失? 親父の試練? 結婚? 親子喧嘩? 一番初めに限度を迎えたのは、私の頭の処理能力でも、ここから早く出たいという恐怖でもなく、
東条の真後ろまで行き、右の手のひらで、が、と彼の後頭部をつかんだ。東条は不審げな声を出すがかまわない、つかんだ東条の後頭部をそのまままっすぐ前に、突き飛ばすように押し出した。ちょうど、東条のお父さんの頭のあたりに。

「いい加減にしなさいよ、この馬鹿あ!!」

骨と骨がぶつかる、ひどく鈍い音が響いた。
そういえば、東条が車に轢かれて吹き飛んだときにもこんな音がしたなあ、そう思い出した私の脳は、このときもうとっくに、規格外の仲間入りをしていたのかも知れない。こんな風に誰かに対して怒りをぶちまけたのは初めてで、ごちゃごちゃと混乱していた頭の中がすうっと晴れていくような気がした。



東条と東条のお父さんが目を覚ましたのは、夕方の5時をまわったころだった。
二人がお互いの頭に頭をぶつけて気絶したあと、騒ぎがやんだことに気づいた使用人さんが幾人か戻ってきた。誰も私が二人を気絶させたとは思わなかったらしく、ただお怪我はありませんでしたか、と平身低頭謝られ、手際良く二人を別の座敷に運んで寝かせ、乱闘の繰り広げられていた座敷を片付けてしまった。そのようすがあまりにも場馴れしているようだったので、こういうことは本当に日常茶飯事らしいことがわかった。ここまでできるならもう少し、主人と息子の喧嘩をどうにかできるんじゃないかと思ったが、それは言わないことにした。
先ほどの奥座敷よりは幾分か狭い座敷で、痛むらしい額を苦しそうにおさえつつ呻きながら布団から起き上がる二人を横から眺め、私は今日何度目かのため息をついた。……本当に、どうしようもない。まるで子供の喧嘩に介入したときのような気疲れだ。
「いてて……あれ? 霧島?」
「あれ? じゃないわよ。きみ、自分がさっき言ったこと忘れたの?」
本当に首を傾げ始めるので、私は黙って彼の耳を思い切り引っ張った。
「いっててて! やめろよなにすんだよ!」
「それはこっちの台詞よ! 何よ、どうにかするってきみが言ったんじゃない! 何いつも通りに親子喧嘩始めてくれてんのよ! 死ぬかと思ったじゃない!」
「そ、それは……」
ばつが悪そうに下を向く東条、ふと見ると、東条のお父さんも同じように下を向いている。
どうやら、二人とも原因は違えど同じように罪悪感は感じているらしい。
「あの、私が言うのもなんですけど、お父さんもああいうのはどうかと思います」
「……はい」
ずっと年上の男の人から、存外素直な返事が返ってきて心底驚く。そういえば、父親という年齢にあたる人となど、ほとんど話したことがないことに気づいた。
「東条くんがこんなだから怒りたいのはわかりますけど、…えっと、何でもかんでも暴力に訴えるのはよくないというか、まして殺そうとするとか、そういうのはやめた方がいいと思います」
「仰る通りかと」
「…かっこつけてんじゃねえよ」
「ああ!?」
「やめてって言ってるでしょ」
「「はい」」
二人の声が重なる。もうひとつ、ため息。
ともすれば始まりそうになるこの親子喧嘩を、根本的に止める術などないのかもしれない。
「とにかく、もう馬鹿みたいな喧嘩はやめてください。試練だとか決闘だとか、殺し合いなんかしてたらそのうち警察呼ばれますよ。今度から、何かを決めるときは話し合いで。大体、こんなこともできなくてどうするんですか、いい大人が二人も揃って」
二人は俯き、神妙に私の話を聞いているらしい。
……本当、なんだってこの親子にこんな風に説教なんかしてるんだろうか、私は。
最早、意味がわからなすぎて笑えてくるレベルだ。もっと何か言葉を続けようとしたがそのあとは何も思いつかず、口を噤む。……帰ろう。無意識にそう思っていた。1日のうちにあまりにもいろいろなことが起きすぎたので、一度頭を整理したかった。ぐったりと疲れた体に力を振り絞り、どうにか立ち上がる。
「それじゃ私、今日はこれで帰りますから」
それだけ言って、ぺこりと頭を下げた。
座敷の外で聞いていたのか、使用人さんがすぐにやってきて、屋敷の入り口まで案内してくれた。座敷を出るときも、女子高生に説教を喰らった二人はわかりやすくしょげかえっていた。二人ともきっと、叱られ慣れていないんだろうな、と人ごとのように思った。
……まあとりあえず、今日はそんなことどうでもいいや。


外は薄闇に包まれ始めていた。遠くの空、山の端の向こうが赤く染まっている。まだ空は明るかったが紫に彩られて見える薄い雲を眺め、またため息ひとつ。すべてがどうでもいいほどに、疲れきっている。
……そういえば、私なんで東条の家に来たんだっけ?
背後にどっしりと構える大きな屋敷を振り返り、私は自問する。……あれ、ほんとになんでだっけ。何か、重要なことを言われてここまで来たような。
「霧島、待って!」
唐突に声が投げられた。
振り向くと、東条が玄関先にいた。息を切らして私に近寄る。
「…東条」
「霧島。今日はごめんな」
東条が手を合わせて謝る。ずいぶん今更だなあと思ったが、もうこれ以上怒る気力は起きなかった。
「いいよ、それはもう。ていうか、訊くの忘れてたけどおでこ大丈夫? 痛い? 私の方が謝らなきゃ、ごめん、いきなり」
「大したことねーよ、これくらい。霧島細っこいけど、意外と力強いのな」
「あ、あれは止めたくて必死だったから」
「わかってるよ。悪かった」
真顔で謝る東条はなんだかおかしくて、つい顔がほころんだ。……そういえば、彼が謝るところを見るのも、初めてのことだ。
今日は初めて経験することが多いなあ、と、これも今更のように思った。嘘ではあったけど記憶喪失なんて見たのも初めてで、当然のごとくプロポーズされたのも初めてで、人の親子喧嘩の仲裁に入ることも初めてだ。……困ることの方が多かったけど。
「でさ、霧島」
「うん」
「俺、今は無理かも知んねーけど、どうにかすっから。親父と喧嘩しねーように気をつけるから。他の連中にやさしくするとかは……しねーけど」
それを聞いて、思わず声をあげて笑ってしまう。東条も笑う。
「だから、やっぱり俺と結婚してくれよ、霧島」
さっきと同じ、真面目な顔をして東条が言う。
私も笑うのをやめて、彼の顔を見た。……やっぱり間違ってる。私が東条を受け入れたのは、フィクションの中の主人公になってみたいからでも、今まで生きてきた平凡な世界に何かしらの刺激が欲しかったからでもなかった。きっと私も、東条のことを知ってから、ずっとその気持ちはあったのだ。付き合うとか付き合わないとか、人に変な目で見られるとか、そんなことはおかまいなしに、ずっと思っていたのに目を向けていなかった。それだけのことだったのだと、ようやく気付く。
「俺、馬鹿でどんくさいここの連中は嫌いだけど、ここ自体は好きだし、霧島のことはもっと好きだから」
「あたりまえよ」
言って、東条の額を指ではじく。
「いって」
「車に轢かれて散々心配させて、記憶喪失なんて変な嘘ついて驚かせて、結婚してくれだなんて言って戸惑わせて、おまけに親子喧嘩にまで巻き込んで、きちんと責任とりなさいよね」
「霧島、」
「それに」
それを言葉にするのは、まだまだいかにも青臭く典型的な青春じみて恥ずかしかったけれど。

「あんまり認めたくないけど、私もきみのこと好きみたいだしね」

そう言ってのけてやると、東条はおもちゃをもらったこどもみたいに笑った。
そういえば、東条は、何かを手に入れると決めたらどこまでもまっすぐにそれに向かって突き進む男だった。その情熱は、昼休みにひらく購買部のメロンパンを手に入れるときも、私にプロポーズするときも変わらないらしい。彼の欲しがるものは、いつだって平行線上にある気がする。手に入れやすいものと、手に入れるのが難しいものの区別なく、同じように彼の目にうつる。

「約束するよ」

そう言って私の頭を乱暴にぐしゃぐしゃ撫でた、ああ、久しぶりだなあと思いながらその感触をたしかめる。

……どうやら私は、どうあがいても面倒くさい道を来てしまったようだ。こんな田舎の町で、どこにでもいる女子高生と同じように、普通に暮らしてきたつもりだったのに、まさか自分でそんな道を選ぶことになるなんて思いもしなかった。
どうなるかは私にもわからないけど……でもまあ、そういうのは明日考えるか。

今はとりあえず、東条が頭を撫でてくれるから、それでいいや。

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