愛・輝き


「昨日のテレビ見た?爆笑ネタ38連発っていうの」
「いや、見てないな」
「そう……面白かったのに」
 彼女は残念そうに呟いて、ソファに背中を預けた。隣には男が腰掛けていた。
 何の感情も伺えない表情で、じっと部屋の壁を眺めている。30歳くらいだろうか。
 太いフレームの黒縁眼鏡を掛けて、無精ひげを生やしている。やつれたような顔をしていた。くたびれたTシャツから伸びた首が細い。
「英語は喋れるようになった?」
「No,I can't! That's so difficult for me!」
 大げさなジェスチャーで拙い英語を話す彼女を見て、男はすこしだけ微笑んだ。
「ふふっ。全然ダメ。ちっともついていけないの」
「じゃあ、ちゃんと勉強しないと」
「だってぇ、そんな時間ないんだもん」
「夢を叶えるためなんでしょ」
 彼女の夢は、輸入雑貨のお店を開くことだ。自分で海外に買い付けに行く時の為に、去年の冬から英会話教室に通い始めたのだが、あまり順調ではないようだ。
「そうなんだけどね……」
 彼女は立ち上がって歩き出すと、冷蔵庫の中からビールを取り出した。男は、ちら、と壁の時計に視線をやった。
「飲む?」
「いや、そろそろ帰るよ」
「もう?まだ時間あるでしょ?」
「明日、朝早いんだ」
「そう……」
 男は立ち上がると、リュックサックを手に取った。彼女は机にビールを置いて彼に近づいていった。

「じゃあ」
「うん、またね。ばいばい」
 男は振り返ることもなく部屋を出ていった。ばたん、と閉まったドアをしばらく眺めた後、彼女は鞄の中から煙草を取り出して火を付けた。そして灰皿を掴んで傍らに置くと、缶ビールを開けた。

 男は家に着くと、すぐにリュックサックを肩から降ろして玄関に置いた。ユニットバスのドアと、使った形跡のない小さなキッチンの横を抜けて、雑然とした部屋に入った。
 ブラウン管テレビとシングルベッド。目につくのはそれぐらいのもので、あとは本棚と散乱した衣服だけだった。
 着ていたジーンズを壁際にぽい、と投げ捨ててスウェットパンツに着替えると、ベッドにそのまま倒れ込むようにして寝ころんだ。
 枕元に置いてあるリモコンでテレビを付けたが、ただ眺めているだけでプログラムの内容は頭に入ってこなかった。
 しばらくぼんやりと光を見つめた後、目を閉じて眠りについた。


「今の女、超かわいかったな」
「マジすか!?教えてくださいよー」
「しかもすげえ巨乳だったぞ」
「マジすか!?ちょっと見てきてもいいっすか?」
「駄目に決まってんだろ、バカ」
「俺マジで巨乳好きなんですよー。あ、ちょっと田中さん」
 休憩に入ろうとしていた男を、同じバイトの横川が呼び止めた。茶髪は本来禁止のはずだが、店長と仲が良いので大目に見てもらっている。
 男は目を合わせないようにして返事をした。
「……はい」
「ちょっとだけ俺の代わりやっといてもらえません?すぐ戻ってくるんで」
「いや、でも今から休憩だから」
「お願いしますよ!マジすぐなんで!」
 そう告げると、男の同意を待つこともなく走り出してしまった。
「しょうがねえやつだな、あのバカ」
「……」
 店長は苦笑いをしていたが、無表情で立っている男を見ると白けたように笑顔を消した。
「代わりやっとけよ」
「……はい」
「イヤならはっきり断れよ、バカ」
 店長は奥に引っ込んでしまった。横川はしばらく帰ってこなかった。
 男の休憩時間が終わった頃、ナンパに失敗したらしく不機嫌な顔をして帰ってきた横川は、「あ、どうも」とだけ言って男と交代した。

「元気ないね。なんかあった?」
 彼女はわざと何でもないような声で尋ねたが、男は黙ってしまった。
 隣に座って顔をじっと見つめてみても、表情は伺えない。それでも彼女は、彼がどういう気分なのか分かるようになっていた。
 声の大きさや仕草で、今日は落ち込んでいるのではないかと感じたのだ。
「別に」
「そう?」
 それ以上は何も言わなかった。男は自分のことをあまり話さない。その代わりに彼女の話を聞きたがった。
 どういう家庭で育ったのか。どんな学生生活を送ったのか。どういう趣味を持っているのか。どんな夢を持っているのか。
 過去の恋愛の話と、本当にプライベートなこと以外は全て話した。
 彼女自身、自らを省みて語ることで未知の自分に出会うことが多く、次に男に会った時には自分の何を話そうか、話の構成まで考えるほどになっていた。

「でね。この間その辺を歩いてたら、その友達に会ったの!」
「偶然?」
「そう!すごくない?その子のこと考えてたら目の前にいたんだよ」
「すごいね」
 今日は、中学の時の友達の話をしていた。彼女がしゃべり続けるのを、男は短い相づちを打ちながら聞いている。それが彼らのいつもの光景だった。
「その子ね、左手の薬指に指輪してたんだ。聞いたら、去年結婚したんだって」
「へえ」
「いっぱい話したんだけど、旦那さんの話しかしないの。しかも褒めてばっかり」
「……」
「もう、のろけまくり。すごく幸せそうだった」
 相づちがなくなった。彼女がふと男の方に目をやると、じっとこちらを見ていた。髪が少し伸びすぎているように思えた。
 男が何を思っているのかは彼女にもよく分からなかった。その表情のまま、男は口を開いた。
「羨ましかった?」
「ううん、別に」
「どうして?」
「私にはもっと大切なものがあるから……」
 しばらく見つめ合った後、彼女は男の手を握った。
「ねえ今日も、その……」
「そろそろ帰るよ」
 男はそっと彼女の手を払いのけると、立ち上がった。
「あ、うん。ごめんね」

 男は無言で去っていった。彼女は煙草とライターを取り出して灰皿の前に座ったが、吸うのをやめて鞄の中に戻した。


 バイトの休憩中、男は彼女にメールをしていた。今日、会いたい。用件だけを伝える簡素なものだった。
「彼女っすか?」
 いつの間にか背後にいた横川が携帯を覗いている。男はすぐに携帯を閉じた。
「女の名前でしたよね。今日会いたいって。彼女なんでしょ?」
 にやにやと嫌らしい笑いを浮かべながら横川が隣の椅子に座る。男は動揺した。どうやら全て見られてしまったらしい。
 どう答えてもよかったのだが、否定した方が根ほり葉ほり聞かれるような気がして「そうです」と答えた。しかし横川はちっとも信じていないようだった。
「マジすか?女いたんすね。写メとか見せて下さいよ」
「持ってないんだ」
「えー、なんでっすか。学生っすか?いくつ?」
 結局質問責めにあってしまった。男が適当にあしらいながら答えていると、携帯が揺れた。
「お、返事来ました?今日デートっすか?」
 メールを確認すると携帯を閉じた。男は曖昧な返事をして誤魔化した。やがて横川は興味を失ったように自分の携帯をいじり始めた。

 午後9時。男はホテルの部屋で一人、彼女がくるのをじっと待っていた。やがて携帯が1コールだけ鳴ったので、ドアを開けて彼女を迎えた。
 彼女はキャミソールにミニスカートという、薄手で露出の高い服装だった。
「お疲れー」
「お疲れ」
 彼女はブランド物の鞄を置いてソファに座ると、すぐに携帯を取り出してどこかに電話をかけた。
「あ、お疲れさまですー。着きました。はい、お願いしまーす」
 事務的な挨拶を終えて携帯を切ると、男に向き合った。
「今日もよろしくね」
「うん、よろしく」

 男は、一度も女性と関係を持ったことがなかった。どう見てもモテるタイプではなかったし、自分から積極的になったこともなかった。
 一年前のある日ふと思い立って、試しにデリヘルを呼んでみたところ現れたのが彼女だった。
 生まれて初めての恋は、一目惚れだった。どうしていいのか分からず、しかし客として奉仕されることには抵抗を覚えた。
 初めて会ったその日、男は彼女に言った。何もしなくてもいいから、僕に君のことを話してほしい。
 お金を払えばひとときの時間だけは一緒にいられる。男はただそれだけでよかった。
 それから2週に1度は彼女を呼んだ。彼女は初め、戸惑っていた様子だったが徐々に慣れていった。喋り方も敬語だったのがフランクな言葉遣いに変わっていった。
 男は彼女と会話するこの時間を、何よりも楽しみにするようになった。

 今日も彼女が自分のことについて喋って、男はそれに相づちを打つ。繁華街の外れにあるラブホテルの一室は、とても親密で、自然な空気を感じる部屋になった。
 楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまう。男はリュックサックから財布を取り出して彼女に時間分の料金を払った。
 彼女は受け取った金をしばらく見つめた後、男に言った。
「ねえ、今日は一緒に帰らない?すぐそこまでだから」
「……うん、いいよ」
「わあ、やった!」
 彼女は嬉しそうに帰る準備を始めた。それを見て、男は心が揺れるのを感じた。

 2人で部屋を出てエレベーターに乗っている間、彼女ははしゃいだ様子で男に寄り添って喋っていたが、ホテルを出てしばらく歩いたところで急に立ち止まった。
 もう少し行くと飲み屋街があって、その先に地下鉄の駅がある。二人はそこで別れる予定だった。
「どうしたの?」
「うん……ちょっとね」
 彼女は俯いて、何かを言おうとしているようだ。何の話なのか男には見当も付かなかったが、この為に2人で帰ろうと言い出したのかな、と思った。
 彼女はしばらくの間躊躇っていた様子だったが、やがて意を決したように口を開いた。
「大切な話があるの」
「なに?」
「私、お店を辞めようと思う」
 男は、頭を殴られたような気分だった。彼女がまだ何か言っているようだったが聞こえなかった。
 今までの彼女との時間と、彼女がいなくなってからの自分が、目の奥をぐるぐると回った。
 一緒にいたい。男は心の底からそう思った。自然に言葉が口からこぼれ落ちた。
「いやだ、辞めないでほしい……」
「え?」
「辞めないでくれ!」

「ギャハハハハハ!」
 下品な笑い声が響いた。
 男が振り返ると、そこには店長と横川がにやにや笑いながら立っていた。酒に酔っているようだ。顔が赤い。
「ダメっすよ、店長。完全にバレちゃったじゃないですか」
「だってお前、バカ過ぎるだろ。辞めないでくれ!って」
「偶然いいもん見れましたねー。お別れの瞬間っすよ」
 店長と横川は男に近寄ってきた。男は俯いてしまった。
「なーにが彼女だよバカ野郎。完全に風俗嬢じゃねえか」
「あ、でも結構かわいいっすよ。俺もお願いしようかなー」
 彼女は、好き勝手なことを言う2人に、激しい怒りを覚えた。男の腕を掴むとぐい、と側に引き寄せて言った。
「私、彼女です」
「え?」
「田中さんと付き合ってるんです、私」
「いやいやいや、デリヘルなんでしょ?」
「そうですよ。でも今日で辞めるんです。田中さんの為に」
 男は驚いた。店長と横川も驚いたが、信じてはいないようだった。
「客の為にそこまで言うの?いい娘だなー。マジで今度指名するから店と君の名前教えてよ」
 彼女は名刺を差し出した。店名と源氏名、それに電話番号が書かれている。
「どうぞ。明日電話してみてください。もう私辞めてますから」
 そう言い放つと、男の腕を引いた。
「行こ」
 男は戸惑ったまま彼女に引かれていった。残された2人は、ぽかんとしてそれを見送った。


「どうぞ、入って」
「……お邪魔します」
 男は、何が何やら分からないまま彼女のマンションに来ていた。ピンクで揃えたかわいらしいインテリアが置かれた部屋に、所在なさげに座っている。
 彼女がキッチンからコーヒーを2つ持ってきて、片方を男の前に置いた。
「あんまりじろじろ見ないでね」
 照れた様に笑ってコーヒーを飲んだ。男もコーヒーを飲んだ。味が分からなかった。
「ごめんね。変なことになっちゃって」
「いや……」
 何と言えばいいのか。男はまだ混乱していた。代わりに彼女が喋った。いつもそうしていたように。
 最初は変な客だとしか思っていなかったが、毎回色んなことを話しているうちに段々と男に会うのが楽しみになっていた。
 それからは他の客の相手をする時も男のことを考えてしまう。いつしか男のことが好きになってしまったのだと思う。まず店を辞めて、それから告白をしようと決意した。

 一気に話し終えた彼女はコーヒーを飲んだ。話している間、相づちは無かった。男はいつの間にか泣いていた。
 しばらくは鼻をすする音しか聞こえなかったが、やがて男はぽつりぽつりと自分のことを語り始めた。
 子供の頃はいじめられていた。がんばって勉強をしたのに受験に失敗して第2志望の大学に入ったが、気が入らずに1年ちょっとで辞めてしまった。
 就職しようともしないことを親に責められ、逃げるようにして実家を出た。その後はアルバイトを転々としながら生きるだけの生活をしていたら、いつの間にか30歳になろうとしていた。
 焦るというより、この先も自分には何もないのだろうと思うと生きている意味を感じられなくなっていた。

「辛かったんだね」
 ただそう言われただけで、また涙が溢れてくるのを抑えることができなかった。心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ねえ、ちょっと来て」
 突然そう言って立ち上がると、彼女は引き戸を引いて隣の部屋に入った。ベッドが置いてある。寝室のようだ。男は、ごくりと唾を飲んで彼女の後について入った。
 何やら甘い匂いがする。お香か何かだろうと思ったが、女性の家に上がったこともない男は、もしかしたら女性の寝室はこんな香りがするものかもしれない、と考えた。

「これを見てほしいの」
 そう言うと彼女は、おもむろにクローゼットを開いた。
 衣装ケースの隣に、いくつかの電球がデコレートされた棚が入っていた。中央に30cmほどの白い像が置かれている。
 人の顔をしているが魚の体を持っている。さらに鹿のような角と鷲のような羽根が生えている。奇妙な姿だ。
「これは……?」
「これはね、ポッタンゴ様が現世にお出でになる時のお姿なの」
「ポッタンゴ様?」
「そう。これも見て」
 彼女はクローゼットの引き出しからパンフレットを取り出した。表紙には「ポッタンゴ様の愛・輝き」と書かれている。
 中を見てみると、ポッタンゴ様の歴史や、現れた時に起こした奇跡、そしてそれを証明する品々が写真付きで紹介されていた。
 うさんくさい内容に、男は眉をひそめた。
 そんな男の様子を気にも留めず、彼女は朗々と説明を始めた。男は相づちを打ちながら聞いた。彼女の話を聞くのは得意だった。
 初めは仕方なく聞いていた男だったが、ポッタンゴ様の素晴らしさについて真剣に語り続ける彼女にだんだん引き込まれていった。
 一通り話を聞き終わった頃、男は部屋の香りがなくなっていることに気づいた。さっきまでは甘ったるい香りが充満していたはずなのに。
「ねえ、ポッタンゴ様を見て!」
 彼女がクローゼットの中を指さした。その先を見た瞬間、男の全身に電流が走った。
 ポッタンゴ像がぎらぎらと光り輝いていた。その目はぎろりと男をにらみつけていた。
「ああああああああああああ」
「聞こえるでしょう?ポッタンゴ様の声が!」
 男には、はっきりと聞こえた。
 音声ではない。心の中に染み入るように流れ込んでくる。
 目から。耳から。口から。全ての毛穴から。先ほど散々流した涙が、またぼろぼろとこぼれてくる。
「どう?ポッタンゴ様の愛を感じるでしょう?あなたの魂を包んでくれているのが分かるでしょう?本当に必要なものが何なのか、今なら理解できるよね?」
「わあううううううううううううう」
 分かる。全てを与えてくださるのはポッタンゴ様の愛なのだ。理解した。
 涙と鼻水と涎が止まらない。辛く長い人生は今終わりを告げた。安らぎはここにあったのだ。
 その後、2人はポッタンゴ様に見守られながらセックスした。意識がなくなる程ぐちゃぐちゃに溶け合って一つになった。


 それから男の人生は輝かしいものとなった。店長に叱られても、横川に馬鹿にされても気にならなかった。毎日働けるだけ働いた。
 週末には彼女と一緒に道場へ行ってポッタンゴ様に祈りを捧げた。
 道場に行った日は必ずセックスをした。初めのうちは彼女の部屋でしていたが、彼女がポッタンゴ様に見られるのを恥ずかしがるので、ホテルでするようになった。
 彼女は一旦辞めたデリヘルでまた働きだした。泣きながら謝る彼女を、男はすぐに許した。
 道場に月謝を払わなければならなかったし、魂のステージを上げる為には更にお金が必要だと理解していたからだ。

 今日も道場で祈りを捧げた帰り道、ホテルの部屋でお香を焚いてセックスをした。2人でどろどろになるまで愛し合った後、彼女は用事があるらしくどこかへ行ってしまった。
 男は自宅に帰ってきた。リュックサックを置いて、ジーンズを脱ぎ捨てる。
 部屋は以前と少し違っていた。玄関の靴箱の上にはパワーストーンがいくつか置かれている。部屋の壁にはポッタンゴ様のポスターが張ってある。
 テレビは捨てて、空いたスペースに祭壇が作ってある。その中央に、彼女の部屋にあったものと同じポッタンゴ様の像を置いた。寝る前と目覚めた後にお祈りを捧げると、晴れやかな気分になるのだ。

 その日も男は祭壇の前に正座して10分ほど感謝の言葉を綴ると、彼女のことを思いながら眠りについた。
 安らかに寝息を立てる男を、ポッタンゴ像が温かく見守っていた。
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