油紐ビッチ殺人事件


 高校二年生になって夏に入る頃、僕は病室で、ベッドに横たわる多井小太郎(おおい しょうたろう)と再会した。

「高校入っていきなり彼女ができてよ。五月病とかマジで馬鹿の言い訳じゃね?って思うぐらい俺はノッてたんだよ。すんげえ可愛いのに、あっちから告白してきたんだぜ。俺、もう舞い上がっちゃって。
 その子、野球が本当に心から好きなんだ。ケータイにも、ボールとかバットとか野村監督の生首とか、野球関係のストラップがジャラジャラぶら下がってんだ。俺が野球部で、一年にしてエースだったからなんだろうな。俺のどこが好きなのか訊いたことがあったんだけど、そん時は、送球フォームだって言われたよ。相当、筋金入りだとお前も思うだろ? 俺は俺で、その理由は別に何でもよくて、そういう思考回路の可愛い女の子がこの世にいてくれてありがとうって思ってたんだ。
 けどよ、俺、夏の合宿で右腕の関節をやっちゃってな。もちろん、治りはした。曲げたり伸ばしたりは普通にできるし、ボールを投げたりするのも、軽くなら全然平気だった。でも、あんまり酷使すると、すげえ痛みが走って、二、三日は引かなくなっちまうんだ。スイッチが切り替わるみてえに。ひどい時は高熱が出て動けなくてよ。なんでそうなるのか医者もあんまりよく分かんねーらしい。
 野球なんか、腕使ってナンボだろ。かばいながら騙し騙しやってたって、まともなプレイなんかできるわけねー。監督に言われなくたって、もう野球を続けるのは無理だってことぐらい分かった。別に俺はそれ“命”って訳でもねーし、スポーツ推薦で高校に入ったわけでもねーから、割とアッサリ辞めたんだ。
 他の部には入らなかった。腕が使えなきゃスポーツは軒並みダメだろ。かといって文化系に興味ねーしな。遊ぶ時間も取りたかったから、別にいっかと思ったんだ。
 でもな、急に運動しなくなったからさ、すげー太るんだよ。中学からずっと、野球の練習に明け暮れて腹減らすだけ減らして、バカみたいに食いまくってたからな。練習の方が消えたからって、食う方も消えるかっつったらそんなこともなくて、大して変わんなかったんだ。それに、自分の意志じゃない形で、長年続けてきた野球ができなくなったストレスってやつも、あったのかもしれないな。それで、体重が40キロぐらい増えてさ。
 ある日、彼女が別れてくれって言ってきた。覚悟はしてたよ。野球に関係のないものには興味がないって分かってるからな。それでも一応、理由は聞きたいと思って、訊いたんだ。
 そしたら、太り過ぎて気持ち悪いから、って言われた。野球を辞めたから、じゃないんだぜ。ショックだった。正直、俺なんかとは釣り合わない、綺麗な子だと思ってたよ。それでも、彼女は野球狂っていう、なんていうかな、ちょっとした病気のような性質を持ってしまっていて、それが足かせみたいになって彼女の格を落としていたから、俺の恋人に収まってても、世界の秩序みたいなものが俺の周りでだけ狂っているってわけじゃないと思ってた。そう思わないと、俺は納得できなかった。事実、彼女は、俺の野球に関することだけが好きだったんだ。俺のことが好きなわけじゃなかったんだ。そのはずだったんだ。
 なのに、彼女が別れたい理由は、野球じゃなかったんだ。野球を介して付き合っていたのに、俺が怪我をしたからその鎧がなくなっちまって、いきなり生身で致命傷を食らったみたいな気持ちになって……。
 わざわざ来てくれてありがとうな、五嶋(ごしま)。また今度、ボーリングにでも行こうぜ。俺は左手で投げるけどな」

 要するに多井は、野球だけが取り柄で彼女にそこを好きになられたけど野球しなくなったから好きじゃなくなられてもしょうがないよねと覚悟してたけど、案の定好きじゃなくなられたけどその理由は野球と全然関係なく、覚悟してたからといって苛々せずに済むわけじゃないのでショックを受けて拒食症になって体重が80キロから120キロになって40キロになって、自力で立つことができなかったり躁と鬱を激しく繰り返したりしてよくわからないダメージが色々あってしばらく退院は無理っていうか死にかけになっちゃったってことでしょ。
 すげえ、なんだそれ。かつては三年間も同じ空間で似たような常識を共有しながら生活していたのに、別々の場所に行ってしまうと途端に色々なものは変化してしまうんだなあ。
 でももう僕には僕の高校で友達もいるし、多井は多井で生きてるんだろうし、というかそもそも大して仲が良かったわけでもないし、今回だって母さんがたまたまジャスコで立ち話をしたから僕にもそれが伝わっただけだし、可哀想だけど明日は古典があって予習してないと田中先生はすっげえ怒ってノートを破り捨てるからな~ってことで、僕は病院を去った。



 しかし次の日の放課後、僕は多井の高校に潜入して、生徒から情報を集めた。
 ほとんどの人間は多井のことを知らなかったけど、たまに同級生を引き当ててさりげなく多井のことについて聞き出そうとすると、一様にバツの悪そうな顔をして口ごもった。もしや多井は入院直前に精神が参ったあまりにキチガイ行動をやって周囲の人間に引かれたのかと思ったけどそうではなくて、短期間で体型が風船みたいに膨らんだり縮んだりしていた多井の気味悪さを思い出して戸惑っていただけみたいだった。そりゃ不気味だわな。けどいくら不気味だったって言っても、別に何か事件を起こしたわけじゃないから、全校生徒の間で有名になるってほどじゃなくて、あくまでもクラスメートとか友達とかの狭い範囲に驚きを与えただけみたいだった。
 もちろん野球女のことについても訊いてみたけど、そいつらは女の情報はおろか、多井に彼女がいたことさえ知らなかった。徹底して多井が隠していたに違いなかった。同じ学校にいる恋人との関係を隠すことはとても難しい。よほど自分と彼女の釣り合いという点で自信がなかったんだろう。
 どうして多井はそんな風なんだろう。中学ではあの軍隊みたいな荒々しい野球部員たちの中で主将を張っていたし、高校でも入部してから辞めるまでは一年にしてエースの座をほしいままにしていたというぐらいなんだから、天狗になって可愛い彼女を見せびらかして非モテの怒りを買って裏サイトで叩かれるぐらいのことはやってもいいんじゃないかと思うけど。
 次の日の放課後、二回目の潜入では野球部にターゲットを絞った。というか、初めからそうしておけばよかった。多井は元野球部員で、女は野球狂なんだから、野球部に鍵はありそうだ。
 この学校は私服オッケーらしくて、制服の生徒はパッと見で3割ぐらいしかいない。昨日の僕が簡単に入り込めたのはそのお陰なんだけど、野球部とかサッカー部とか陸上部が活動しているグラウンドには当然ユニフォームだったり体操服だったりするやつばかりなので、あんまりウロチョロするわけにはいかなかった。
 しょうがないので部室棟らしき建物の近くに隠れて、野球部員が通りがかるのを待つことにした。僕は、多井の学校においては制服でも私服でもない僕の学校の制服を着替えなくてはいけないという事情もあり、まず家に帰ってから電車とバスに乗ってここに来ているので、もうとっくに部活は始まっており、話しかけるとしたら練習が終わって帰ろうとしているタイミングしかないのである。
 この学校の部室棟は三階建てで、廊下と部屋のドアが露出しているつくりなので、誰かが出入りすれば外からでもだいたい分かるようになっている。問題はどうやって野球部員を識別して接触するかだけど……。幸い、野球部のユニフォームは分かりやすいので、練習が終わる頃合いになったらそれを着たやつがどの部屋に入るかを確認して、後でそこから出てきたやつを狙えばいい。って言うとなんか暗殺者にでもなった気分だ。フヒヒ、寝首をかいてやろうか! 誰も寝てないけど。
 やがて夕焼けを通り越して暗くなるぐらいの時間になり、鞄やらギターケースみたいなカバーに入ったラケットやら柔道着やらを背負って帰ろうとする輩が往来して、ものすごく賑やかになっていた。つき始めた電灯は彼ら彼女らをほわわんと照らすが、僕が潜んでいる草むらまでは照らしてくれず、なんだかみじめだった。これでは暗殺者ではなくストーカーみたいだ。いや、僕がやってることはむしろストーカーそのものであり、活気あふれる往来とは対照的に気分は沈んでいった。
 辛抱強く待っていると、野球部のものだと思われる部室から、三人組の生徒が出てきた。頭にネクタイを巻いて繁華街を練り歩いている酒癖の悪いサラリーマンの集合みたいなテンションで、ゲラゲラと何かを笑い飛ばしながら大声で話をしていた。茶道部の僕としては、もう声をかけずにそのままうすぼんやりとスルーしてしまいたかったけど、ここまで来たんだからやるしかない。僕は意を決し、身なりを整えて草むらから出た。
「あのう、すみません」
「あん?」
「僕は、前まで野球部に入っていた多井の友達なんですが」
「多井? 多井の友達は多いの? なんつって」
「つまんねー!」
「つまんなくねーし!」
「つまんなくねーわけねーし!」
 ゲラゲラゲラゲラゲラ! 僕なんかそっちのけで部員たちは盛り上がっている。
「ご歓談のところ誠に恐縮なのですが、多井が部活を辞める前後で、何か気になったようなことはありましたら教えていただければと思いまして」
「何かって何だよ」
「いや、その」
「つーか、あんた誰? 俺ら初対面だよね」
「何部?」
「多井の友達なんだったら、多井に直接訊けばいいじゃん」
「わざわざ見ず知らずの人間に訊いてくるなんて、おめえ、なんか怪しいな」
 うおお、いきなり追い詰められている僕。っていうか、当たり前か。これが普通の反応なのかもしれない。今までの一般人は、見知らぬ人間から突拍子もないことを質問されるスリルっていうか好奇心から、親切にもあれやこれやとペラペラ喋ってくれたけど、その突拍子で話に出てきた人物が同じ部活動の身内となれば、それはたまたまクラスが同じでしたっていう関係性よりは親密であり、うちのモンに何か用かい、という警戒心が高まっても不思議はない。あわわ。
「えっと、多井くんは入院してしまってですね、一触即発っていうか気軽にあれこれと訊けないような雰囲気を醸し出しておりまして、本人に何があったのかを、いち友人としてですね、できるだけひっそりと、客観的に調べてみようと愚考しましたのですが、もしよろしければご協力していただけないかなあ、野球という崇高なスポーツを嗜む高貴な方々なら、と思い、いても立ってもいられなかったのです。ああ、野球は最高だ」
 慌てすぎておかしなことを口走ってしまった。もう駄目だ、簀巻きにされて川に流される、と思って震えていると、しかし強面の三人は、何やら難渋な表情で互いの顔や僕の方をちらちら見たりして、どうしたんだろう。
「おめえ、誰に多井の話を聞いたんだ」
 さっきまでの底抜けな明るさはどこに行ってしまったのか、部員の一人が苦々しい口調で問うた。
「え、多井に直接聞きました」
「病院に行ったのか」
「そうです」
「お前の名前は?」
「稲村です」(←大嘘)
「多井が入院してる病院の名前を言ってみろ」
「本能寺病院の403号室でしたよ」
 命乞いをするように僕は早口で答えた。三人はまた無言で顔を見合わせている。
「本当に多井の友達なんだろうな」
「え、はい」
「おい、話すんじゃねーだろうな」
「いいじゃん。友達って言ってんだし」
「そんなの分かんねーだろ」
「多井自身が言ってないんだから、俺らが口出すことじゃねーぞ」
 今度は内輪もめが始まった。どうやら僕に何かを話すべきか話さないべきかを迷っているようだ。まだ女の話に持ち込んだわけでもないのに、他にも何か秘密があるのか? それともまさに女の話なんだろうか?
「こんなの、いつまでも隠し通せるもんじゃねーよ。もう同じ部でもないやつのために、こんな窮屈な思いを続ける義理もねーだろ」
「…………」
「おめえ、口外すんなよ」
「はい」
 最初は威勢がよかったけど、やっぱりこの人たちも言いたくてしょうがないんだな。僕にとっては都合がいいからいいけど。
 こしょこしょと小声で、部員はささやいた。
「合宿はうちの学校でやったんだけどよ。他校と練習試合をした日があってな。そん時に、相手のチームに頭のおかしいやつがいて、多井の腕を金属バットで殴りまくったんだ」
「あーあ、言っちゃった」
「え……」
 何それ。
「嘘だと思うか?」
「いや、何というか、判断しかねますけど……」
「そうだろ。わはは、今のは嘘だよ。何も聞かなかったことにしとけ。じゃあな」
 喋っていた人が突然、ダダダッとすごい速さで逃げていき、その後を残りの二人も走って追った。取り残される僕。
 はああ~? ますますに意味分からん。
 もっと他の人にも話を訊きたかったけど、いつの間にか残っている生徒は少なくなってきていて、野球部の部室からは二、三グループぐらいしか出てこなかった。その人たちにも話しかけてみたけど、多井の名前を出した途端に無視されて取りつく島もなく、収穫なしで帰ることになった。



 次の日、僕のところに探偵がやって来た。
「五嶋さんですか? わたしは、こういう者です」
 下校しようとしたら校門で待ち伏せされていたので、ひょっとしたら昨日の話の野球部が口封じに来たのかと思って身構えたけど、渡された名刺には『探偵 乾 ハム三郎』(いぬい はむさぶろう)とだけ書いてある。
「昨日、自殺した秋原芽衣(あきはら めい)さんの件について調査をしておりまして、それに協力していただきたいのです」
 乾ハム三郎探偵は、タキシード仮面の格好をした男だ。まんま、タキシード仮面を思い浮かべてもらって構わない。
 っていうか、秋原芽衣? 知らないなあ。
「はあ。誰ですか、それは?」
「おや、ご存知ありませんか? 多井さんは、あなたに彼女のことを話したと仰っていたが」
「え?」
 聞いてないぞ。と思ったけど、もしや多井の元カノのことだろうか? え、自殺したの? 昨日? マジで? なんで?
 いやいや、落ち着け落ち着け。目の前にいきなりタキシード仮面が現れたりしたので僕は動揺していて冷静な判断力を失っている。でもタキシード仮面と校門の前で喋っている僕は相当に下校中のやつらの注目を集めているだろうから、これは社会的に損な状況だよなあ、できるだけ早く切り上げたいなあなどと考えている妙に落ち着いた自分もいて、ああマルチコアCPU。
 いや、そんな別ベクトルの冷静さはやっぱり混乱の突然変異にすぎないので、本格的に冷静になると、まず、こいつが本当に探偵なのか怪しい。昨日、一昨日と、身分を偽って情報を引き出す擬似スパイごっこみたいなことをしてきたので、猜疑心がにわかに高まっているのだ。
「多井って、誰のことですか?」
「おや、多井小太郎さんのことですよ」
 なんだ、その受け答えは。多井で分かるだろ、知ってるくせにすっとぼけやがって、とでも思っているのか?
「探偵さんも会って話したんですか?」
「はい。これが多井さんの依頼書です」
 タキ……ハム三郎はポケットから折りたたまれた紙を取り出して、僕に渡した。ポケットに入れてたくせに、クリアファイルに入れてたみたいに折り目や皺が全然ついてなくて不気味だなあ、と関係ないことを考えながらそれを開くと、紙とは対照的に鬼のように汚い、まさしくみみずの這ったような字が並んでいる。
 そこにはこう書かれていた。


 探偵 乾 ハム三郎 殿

 わたし、多井小太郎は、秋原芽衣のについての調査を、探偵
乾 ハム三郎殿にしてもらうことに賛同いたします。

                           6月17日
                           多井小太郎


「何ですか、これ?」
「ですから、多井さんの依頼書ですよ。賛同と書いていますから、賛同書と呼ぶべきかな」
 へえ。『』って何だ? 『死』のことかな?
「こんなの多井が書いたものかどうか、よく分からないでしょ」
「ならば、多井さんのご両親からの正式な依頼書をお見せしましょう」
「正式な、って?」
「わたしに秋原芽衣さんの自殺について、本当に自殺であるかどうかを調べるように依頼した方は、多井さんのご両親なのです」
「はあ?」
「守秘義務についてはご安心ください。このことについては、五嶋さんに限っては話してもよいと、了解を得ております」
 そんなこと、心配してねえよ。
 それから、最寄駅前のルノアールに行って依頼書を一応見て、印鑑証明やら身分証明書やら何やらも見た。でもどんな書類や何やらを見せられようと、僕が多井や多井の両親、つまり多井家の意志を本当に確認するためには、目の前で多井本人に喋ってもらうしかないんじゃないかなあ、と僕は思う。僕は多井の親なんて見たことないし、そもそもどっかの国の子供みたいにガリガリに痩せこけたあの多井が、僕の知ってる多井小太郎なのかどうかさえ怪しいのだ。
 でも翻って、そんなことはどうでもいいんじゃないだろうか。僕は当事者じゃないし、何を誰に言おうが行動しようが、関係あらへん。ああ、野球部員から口止めはされたけど、彼らだって口止めされてたっぽいけど僕に言ったんだし、「口外しないでね」って前置きしとけばその人も口外しないでしょ。あは、人の口に戸が立てらんないわけだねえ。
「多井さんとお付き合いをしていた女性が、秋原芽衣さんです」
 ああ、やっぱり。
「秋原さんは、自宅の庭にある物置の中で、首を吊って亡くなっているのをお兄さんに発見されました。昨日の夜、20時ごろのことです。自室の机の引き出しから、家族宛ての遺書が見つかり、警察は自殺としてその後の処理をしています。現時点でわたしの調査で得られた情報から判断しても、事件性はないように思えます。遺書の内容は分かりません」
 太って気持ち悪いと言って多井をメンヘラにした女、秋原芽衣。僕の中で、ダークサイドに堕ちたドラクエ3の遊び人みたいなイメージが確立されつつある。なんで自殺なんかしたんだろう? もしかして秋原芽衣もメンヘラだったんだろうか?
「そこまでは分かりません。わたしもまだ調査を始めたばかりなのです」
 探偵は苦笑した。
「多井さんは、ほとんどわたしに何も語ってくれないのです。依頼主は彼のご両親ですが、恐らくそのご両親が、多井さんから請われて探偵を探した結果、たまたまわたしに白羽の矢が立ったのでしょう。多井さんに面会に行っても、秋原さんの死について調べろと言うだけ。商売上、依頼の失敗は沽券にかかわりますので、粘りましたが……。秋原さんについて少しと、入院してからお見舞いに来た人の名前を聞き出した他は、さきほどの賛同書を取りつけることしかできませんでした」
 僕が行った時はあんなにペラペラ喋っていたのに、この人には何も教えなかったのか。もしかしてこの人、コスプレして病院に行ったのかな。もしそうだとしたら、そりゃ頑なに口を閉ざすわな。っていうか、よく入れたな。いやそれ以前に、なんでこの人はこんな格好してるの? 絶対に捜査に支障をきたすだろう。こんなの絶対おかしいよ。
「五嶋さんは、多井さんから何か聞いていませんか?」
「ええ~、そうですね……。確かなのかどうかよく分かんないんですけど、昨日、多井の高校の野球部のやつが言ってて……」
 さっそく口外している僕。大丈夫だろ。相手は探偵だし。野球部の人たちは僕が多井の友達ってだけで喋っていいってことにしたくらいだ。友達と探偵だったら、もちろん探偵の方が……、いや全然関係ないな。むしろ友達でもない探偵の方がまずくね? そもそも探偵って何だよ。確定申告とかしてんのかよ。得体が知れない。秘密を話す正当性、ゼロでした~。でもそんなの関係ねえ。というわけで僕は自白剤を飲んだみたいに、全部言った。飲んだことないけど。
「なるほど。相手の高校の名前は分かりますか?」
「さあ、そこまでは。途中でその人たちはどっか行っちゃったんで、詳しく聞けなくて」
「分かりました。そこはわたしが調べておきます」
 ハム太郎は分厚いシステム手帳に何事かをサラサラ書いている。この人の正式名称なんだっけ。忘れちゃったな。
「他には、何かありませんでしたか?」
「別にないです」
「そうですか」
 とりあえず、僕がやろうとしていたことは、野球女の秋原芽衣が自殺してしまったというアクシデントが起こったことを除けば、この探偵がやってくれるようだ。なら、僕はもうお役御免かな。
 じゃあそろそろ帰ろうかな、と思っていると、探偵が「そういえば」と言った。
「五嶋さんは、どうして多井さんのことについて調べようと思ったのですか?」
「え?」
「いえ、もちろん五嶋さんのことを疑っているわけではありませんよ。しかし、ここから多井さんの高校まではかなりの距離がある。それにもかかわらず、五嶋さんは二日連続で多井さんの高校に行っている。まだ秋原さんが亡くなっていないのに、です。どういう意図があったのかと思いまして」
 ああ、そうか。この探偵は、僕が秋原芽衣を殺したんじゃないかって疑っているのか。そりゃそうか。この人、それを調べてくれって多井に頼まれたんだもんな。それにしても、その疑ってますよって姿勢を僕に見抜かれてどうすんだ。下手くそだな、この探偵。急に不安になってきた。いや、格好からして元々不安だった。こいつに任せて大丈夫なのかな。
「そういうの、いいですよ。僕が多井を憎んでたとか、多井の彼女を奪おうとしたけどフラれて逆恨みしたとか、過去に秋原とトラブルがあったとかじゃないんで」
 探偵は虚を突かれたように身を強張らせた。こういう時、こいつの変態メガネは便利だな。視線が見えないから反応を読みにくい。それだけのためにこの格好するのは、トータルで損しすぎだけど。
「じゃあ、僕はこれで。また何か訊きたいことがあれば、連絡ください。あ、でも家はまずいんで、その時は今日みたいにしてください。よろしくお願いします」
 たぶん、こいつは役に立たないな。僕は僕でしっかりとやらないと、すべては明らかにならないだろう。



 と思っていたのだが、次の日の校門にも乾ボンレスハム次郎は立っていて、秋原を殺した犯人が分かったと言う。
「犯人は、秋原陽平(ようへい)。秋原芽衣さんの一つ上の兄です。秋原陽平は、家にいた両親の目を盗んで芽衣さんを物置に連れ込み、梁から下げたロープに首をかけさせて殺したのです。動機は、痴情のもつれとでも申し上げましょうか。
 秋原芽衣さんは、複数の男性と付き合う人でした。気になった男性がいると、その人の趣味に合うものを自らの周囲に配置して近づき、交際を持ちかけるのです。多くの男性は、芽衣さんの美貌もあってか、交際を断るようなことはしませんでした。断られても、あらゆる手段を用いて自分になびかせようとしました。
 例えば、既に交際相手がいたある男性のケースでは、芽衣さんは男性と交際していた女性に対して嫌がらせや脅迫を繰り返しました。その女性は男性に相談をしましたが、次第に芽衣さんのしわざであると勘づいてむしろ結束を固め、芽衣さんに対抗しました。しかしそれでも芽衣さんは手を緩めず、嫌がらせを続けました。執拗な嫌がらせで、やがて女性の方が疲弊し、男性と距離を置くようになりました。もちろん、そうなったからといって男性は芽衣さんと付き合ったりはしませんでしたが、芽衣さんはそれで満足だったようです。
 多井さんもそうしたケースの一つなのですが、兄の秋原陽平もまたそうだったのです。
 芽衣さんの知人の証言によると、秋原陽平と実際に肉体関係を持ったこともあるそうです。妹との禁断の愛、ですか。それが彼を陶酔させたのかもしれません。しかし芽衣さんはある日、突然に秋原陽平との関係を断ちました。彼女が多井さんにしたように、です。
 五嶋さん。多井さんの腕をバットで殴ったのは、秋原陽平です。そして彼は、あなたの学校の生徒で、野球部に所属しています。多井さんたち野球部が、合宿で練習試合をしたという相手は、あなたの高校の野球部だったのです。わたしは今日、秋原陽平に接触してみようと思います。あなたにも協力をお願いしたいのです。
 秋原陽平が、なぜ多井さんの腕を破壊したのかは分かりません。しかし我々は想像することができます。恐らく、」
 僕はその次の言葉を待たずに、乾ゴミ太郎を思いっきり殴った。ゴミは「キャン!」と犬の鳴き声みたいな悲鳴を上げて、尻もちをついた。変態メガネがどこかに飛んでいって、ケツの穴みたいに窄まった目が顕わになった。
「言いたい放題かよ。いい歳こいた社会人が、高校生のプライベートで盛り上がってんじゃねえ。恥を知れよ」
 ゴミは屁でもこくみたいにアナルのような目をしぱしぱして茫然自失だったので、今度は腹に蹴りをくれてやる。するとゴミはぶぅ~っと本当に屁をこきやがった。
「殺すぞ」
「はわ、わわわ」
 ゴミは萌えっぽくなりながら情けなく慌てて逃げていき、人混みに紛れて見えなくなった。
 胸の辺りがむかむかするので、僕は深呼吸をした。
 帰りがけの生徒が、立ち止まって僕を遠巻きに見ている。一人一人顔を見てやると、唖然とした表情だ。


 あんなキモいクソ探偵に話しかけられた時点で、僕の高校生活は終わっていたのだ。今さら、どうだっていい。ああ、さり気なく好きだった傅田美和子(でんだ みわこ)の笑顔が、走馬灯のように頭の中を流れて消えていく……。


 僕は野球部の部室に向かった。うちの学校には部室棟なんてものはなくて、代わりに主要な運動部には専用の場所としてそれぞれ小さな掘っ立て小屋みたいなものがグラウンドの隅っこの方に設けられている。野球部の場所は分かりやすく、バックネットの裏だ。
 小屋の周りにはユニフォーム姿の部員や、まだ制服のままでダベっている部員らしきやつらがたむろしていた。僕は構わず建物に向かってのしのしと歩いていき、扉を勢いよく開けた。
 中には数人の部員がいて、一斉に僕を見た。
「……誰だ?」
 椅子に座っている男が、僕を睨みながら言った。火のついた煙草を手にしている。
「秋原陽平」
 端的に名前だけを言った。どいつが秋原か分からないので、僕は神経を尖らせて反応を窺う。椅子の男が、煙草を灰皿に押しつけた。
「秋原は風邪で欠席だ」
 身体の力が抜けて、少しフラッとした。なんだ、休んでるのか。でもそりゃそうか。妹を殺した昨日の今日で、平然と登校してたらすげえ、っていうか、やり慣れてる人だ、それは。肩透かしを食った僕は「そうですか。じゃあ、どうも」と言って去ろうとするが、男に呼び止められる。
「まあちょっと待てよ。お前、何年?」
 何年って、そんなことどうでもいいでしょうがよ。僕に興味があるのか? と一瞬思ったけどそうじゃなくて、そうだ。煙草吸ってんの見られたからか。うわあ、面倒くせえ。いやあんたらの非行はどうでもよくて、そういえば多井の高校の野球部が僕に『何部?』って訊いてきたのと対照的にうちの野球部は『何年?』って訊く辺り、部活動に対する意識っていうか熱の入り方みたいなものが見て取れるねってそれの方がどうでもいいけど、あんたら、同じ部員に殺人者がいるんだよ? 煙草がチクられるとかチクられないとか、ついでにこいつから今後、みかじめ料でも徴収しようかな~みたいなことは宇宙から見れば塵芥みたいなもので、あ、じゃあ秋原陽平が何しようと関係ないか。
「三年じゃねーな。見たことねー。目上のもんの質問にはシャキシャキ答えんかい!」
 男がガーンとテーブルを叩いて灰皿がはねて灰が飛び散る。周りのやつもニヨニヨしながらススッとドアに移動して閉めてしまって、僕の退路を断つ。ああ、面倒くさいぞ……。
 と戦いていると、外からぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおという叫び声が聞こえて、全員がギョッとする。
 出入口を塞いでいるユニフォームの部員がドアを開けて確認すると、そこにはなんと背の低い男が人を刺している光景が!
「なんだ、うお、秋原!?」
 え、あれが秋原? 僕はてっきり北斗の拳の最初の方でリンを横にしてフィギュアみたいに掴んでいた荒くれのような人だと思っていたのだけど、実際はまるっきり違ってプラスティック・ツリーのボーカルみたいな線の細い優男だった。
 秋原が深々と刺していた得物を抜くと、刺されていた――恐らくさっき部室前で駄弁っていた制服の人は、ふぁさっ……とティッシュペーパーみたいに倒れる。秋原は武士みたいに得物を振って血を払った。ってあれ、ダガーナイフじゃん。おいおいおい規制はどうしたの?
 ドアを開けた部員の人が「わああああ」とか言ったせいで、秋原がこっちに気づいてグルンッと首を回して部室の中の僕たちを見て、にっこりと笑った。その顔がかなり怖かったので、部員は「ひぃ」と喉で悲鳴を上げてドアを閉めて鍵をかけるけど、それは逆に逃げ場所がなくなってしまうので愚かだった。窓もなければ内線電話なんかあるわけない。篭城して誰かが通報でもして秋原が捕まるのを待つしかないけど大丈夫かな。
 蹴破られるっていうか、バボーンと蹴り抜かれて、ドアごと秋原は入って来た。一瞬にして追い詰められてしまった。
 それでもこの部屋の中にいる屈強そうな野球部員三人と、僭越ながら幽霊茶道部員一人の力を合わせれば、秋原を取り押さえることぐらいはできたはずだ。しかし喫煙先輩を含め全員はビビってしまって、壁に背中と両手をつけて、とにかく秋原から遠い場所に行きたい欲求だけを表現していて終わっている。
 僕は三人とは違って、倒れてきたドアの先ぐらいの至近距離で、半ば腰を抜かした状態になってフリーズしていた。これが僕の驚き方なのである……と言う間もなく秋原のダガーは僕のみぞおちに吸い込まれていく! ぎゃあ、なんでこんなことになったのか、さっき見た傅田の走馬灯はこれを予兆してのプレリュードだったのかあ! 誰かが「うわっ」とか言う。なんか期待感がこもってるみたいな聞こえ方したんだけど、まさか間近で人が殺されるところ見れるとかいう気持ちじゃないだろうな。ギャ~! やめろ~、嫌だ~、シニタクナーイ!
 そこでギャーン!
 ナイフが止まる。秋原が止まる。部員たちも止まる。空気が止まる。時間が止まる。すべてが止まった。
 あれ、どうなってるんだ。
「間一髪でしたね」
 と天の声がこだまする。
「五嶋さん。わたしです。乾ハム三郎です。さきほどは見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした。五嶋さんの言う通り、年甲斐もなく、少しはしゃぎすぎてしまったようです」
 は? あんたの歳なんて知らねーよ。じゃなくて、ん? ハム三郎?
「はい。突然だったので驚いたかもしれませんが、急がなくては五嶋さんが殺されてしまう状況でしたので、説明が後になってしまいました。実はわたしは、超能力を持っていましてね。それを今、発現したのです」
 え、そうなの?
「そうなのです。超能力といっても色々な種類のものがありますが、わたしの能力もまた、色々な種類がありまして……。一つは、今まさに実践していますが、時間を止めることができる能力です」
 マジかよ。っていうか、なんか僕の心の声に返事されてるような気がするんだけど……。
「はい。それも一つで、遠くにいる人とテレパシーで会話することができる能力です」
 すっげえ。何それ。
「最初に説明しました能力ですが、特定の人物だけを時間停止の対象から外すことができるのです。なので、今のうちに五嶋さんは安全なところに逃げてください」
 え~……。
「何かご不満ですか?」
 いや別にそんな不満じゃないけど……。命あっての物種だし。ありがとうって思うけど、同時にさっき殴ったやつが命の恩人になるっていうのと、あんたに僕の心の中での考えが丸分かりっていうのが嫌っていうか……。
「安心してください。さっきのことは、わたしは全く気にしませんから。それに、この能力は普段遣っていません。有事の際にだけ、使っています。わたしはこの能力に気づいた時に、そうすることを誓ったのです」
 え~、じゃあ有事の時だったら僕が下衆なことを考えててもバレるじゃん。
「それでも、わたしはそのことをあげつらったりしませんよ。封印します」
 そういうことじゃなくてさ。まあ、もうそのことはいいや。そんなことより、超能力って、そんなのあり得ないじゃん。もしかして、僕はもう死んでて、完全に脳が死ぬまでの間に変な映像を見てる状態なんじゃないの?
「そんなことはありませんよ。現時点ではその誤解を解く術がありませんが、もし仮に五嶋さんが生きていて、これが現実のものだとすれば、逃げないと死んでしまうのですよ」
 それは確かにそうだ。僕はふらつきながら立ち上がり、固まっている秋原に蹴りを入れて、部室の外に出た。
 さっき駄弁ってた刺されていない方の部員が、グラウンドにいる人たちの方に向かって走って秋原の凶行を報せようとしていたと思われる体勢のまま固まっていた。背中に触れてみたけど、びくともしない。超リアルな彫像みたいで不気味だった。
 よく考えると、空気もこの人みたいに固まってたら僕は動けないっていうか息もできなくて死ぬと思うんだけど、そこのところはどうなってるの?
「そこは大丈夫です。わたしの能力で解決されていますから」
 都合いいなあ。この際、何でもいいか。
 一応、僕は安全な場所に逃げれたと思うけどさ。これからどうすんの?
「っていうか、普通に喋ればいいのか。これからどうすんの?」
「秋原陽平は、いずれ逮捕されるでしょう。芽衣さんの死についても、秋原陽平が逮捕されれば再捜査されて、恐らくは彼の犯行であることが明らかになるでしょう。わたしの依頼主は多井さん―――多井さんのご両親ですから、そのことを報告して、仕事を終えるだけです」
「そっか。じゃあ、このままでいいんだね」
「はい。しかし部室をそのままにしておくと、中にいる三人の命が危険ですから、秋原陽平以外の時間の停止を解除します。その後、秋原陽平を捕まえることのできる状況になってから、彼の時間停止も解除します。そうすることで、これ以上の犠牲は出さずに済むでしょう」
 その辺はよく分からないから適当にしてほしかった。
「ええ、そうですね。うまくやっておきます」
 しまった。心の声が読まれてるんだった。
「あはは。五嶋さん、お疲れ様でした。今日は家に帰ってゆっくり休んでください。後のことはわたしがやっておきますので」
「……そうすか。じゃ、僕は帰ります」
「あっ、そうだ。くれぐれもわたしの能力のことは他言しないでくださいね。あと、今後また事後処理の段階で五嶋さんに連絡する時があるかもしれませんが、その時はご協力をお願い致します」
「あ~、了解です……」
「いつかの校門の前で、お会いしましょう」
 そんなことしなくても、テレパシーでやれば早いんじゃないの……。
「それはできません。あくまでも有事の際だけです」
「そういえばそうだっけ。じゃあ、もう今の僕は有事じゃないんで、やめてほしいんですけど」
 それきり、探偵の声は聞こえなくなった。そして全力疾走の体勢で固まっていた野球部員が動き出し、ものすごい速さでグラウンドを駆けていった。
「本当に聞こえてないんだろうな」
 呟いてみたけど、返事はない。
「……帰ろう」
 部室の様子が気になったけど、あの秋原がまだいると思うと、近づきたくはない。
 本当に帰ろう。
 僕は門の方に向かって歩いた。歩きながら、多井のことを考えていた。
 もう一度、お見舞いに行こうかな。
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