車窓から見える景色は徐々に緑を濃くして行き、車内に見える人影は徐々に減っていった。
一定のリズムで刻まれる振動がボクの体を揺さぶる。
ボクはいったいどのくらいの間この電車に乗っているのだろうか。
まだ一時間しか乗っていないかも知れないし、半日以上乗っているかも知れない。
少し傾き始めた日の光が、すでにボク以外誰もいなくなった車内を照らす。
ボクは、独りぼっちだ・・・


結局目的の駅に着いた時には午後4時だった。
朝の6時に家を出発したはずだからもう10時間は経っていた。
もう帰ることのない家。
誰もいない家にもきっと今頃西日が差し込んでいるだろう。
ボクは今日からここで暮らす。
その経緯をいったいどこから話そうか。
ボクの父はまだボクが幼い頃に亡くなってしまった。
あまり覚えてはいないが、記憶の中の父はいつも笑顔だった。
仕事熱心だが、休日は家族サービスも欠かさない。
きっと多くの人が理想とする父親だろう。
そんな父は病気で亡くなった。
まだボクが小学生になる前の出来事だった。
それからの母は女手ひとつでボクを育ててくれた。
母の名前は田淵夕子。
母は優秀なデザイナーだった。
何度か母が取材を受けた雑誌を読んだことがあるが、どの記事も賛辞の嵐だった。
そんな母に支えられながらボクは中学で陸上競技部に入った。
意外と才能があったらしく、ボクはいつの間にか陸上部の長距離エースになっていた。
そんな陸上競技に打ち込んだ三年間はやがて過ぎ去り、ボクは高校生になっていた。
高校でも陸上部のエースとして活躍して、部員や顧問の先生からの期待も厚かった。
家に帰れば母と二人で食卓を囲み、今日一日何があったかを二人で話す。
しかしボクは気づいていなかった。
その幸せな生活がいかに脆く、儚く、そして尊いかを。


あの日ボクは母と二人で隣町のショッピングセンターまで車で買い物に出かけていた。
ボクはいつも通り荷物運びをやらされる予定だった。
そんなことに対する些細な愚痴を口にしながらもボクは笑顔で母と楽しく車内で談笑していた。
そんな二人の会話を突如として衝撃と破壊音が切り裂いた。
ガラスの割れる音と金属と金属が高速でぶつかり合う音。
それと同時にボクの隣から何かがボクに覆いかぶさるように飛んできた。
母だった。
そしていったい何が起きたのかをボクはそれから数十秒、あるいは数分後だったのかもしれない。
とにかくすぐには理解できなかった。
大型車との正面衝突。
ボクの意識はそれを認識した所で一回途切れてしまった。
目覚めるとボクは病院にいた。
脳みその代わりに鉛を詰め込まれたような気分だった。
視界は霞んでいて、何も考えることができなかった。
指一本動かす気力もなく、ボクはうめき声を出すのが精一杯だった。
そしてそれに気づいたナースが先生を呼んでくれた。
それからしばらく経ってボクはようやく交通事故に巻き込まれたことを思い出した。
ボクはそれを思い出すと同時に叫んだ。
「母は!!母は無事なんですか!!」
先生は一瞬驚いたような顔をした。
そしてその顔は徐々に暗い深海の底に沈んでいった。
やめてくれ・・・そんな顔をされたら、わかってしまうじゃないか・・・
先生は何度か迷ったような素振りを見せた末にやっと答えてくれた。
母は、もうこの世界にいなかった。
どうやら即死だったようだ。
ボクを庇うように亡くなっていた。
もし母が覆いかぶさってくれなければボクは死んでいたかもわからなかった。
しかしボクの体にも後遺症は残った。
ボクは、もう二度と陸上選手としてあのトラックに立てなくなっていた。


あの悲劇としか呼べない事故はボクから色々なものを奪っていった。
夢、希望、生きがい、家族・・・
そしてボクは奪われた分を埋めるようにただひたすら怒りと悲しみで心を満たした。
ふつふつと煮えたぎるような赤い怒りと、冷え切った鉄のような色をした冷たい悲しみ。
それは生み出そうとしなくてもひとりでに沸いてきた。
やがて怒りも悲しみも生まれなくなってくると、徐々に心は空っぽになっていった。
そしてボクはそのとき気づいた。
ボクの心にはぽっかりと大きな穴が空いていた。
どんな感情も漏れ出してしまうような大きな穴。
ボクは未来や家族だけでなく、感情すら失ってしまったのだ。


葬儀はすぐに終わった。
幸い母は友人も多く、何十人もの人たちが手配してくれたようだ。
しかし問題はそのすぐ後にあった。
ボクは家族を失った。
これからどこに住めばいいのだろう。
誰がボクの面倒を見てくれるのだろうか。
ボクの祖母と祖父はもう他界してしまっていた。
親戚と呼べる人もボクはほとんど知らなかったし、
居たとしてもこれからお金がかかる高校生を養える程余裕がある人はいなかった。
別にもうこのまま路上でのたれ死んでもいいかな・・・
その時のボクは本気でそう思っていた。
そんな時名乗り出てくれたのが母の親友であった斉藤優子さんだった。
優子さんは母の中学時代からの親友で、農業を営んでいた。
更には余った土地で賃貸も経営していたので金銭面に余裕があった。
ボクは最初遠慮したものの、母が遺してくれたお金も高校卒業まで足りるか足りないかギリギリだったことと、
ケガのことを考えると誰かと暮らしたほうがいいことは明確だった。
やがて優子さんの説得に応じてボクは一緒に暮らすことを決意した。
そしてボクは今日から優子さんの家にお世話になる。
何度か訪ねたことがあるが、とにかく広かった覚えがある。
広い家と広い庭。
照りつける太陽と青い空。
優子さんの家族とボク、そして母で野菜を収穫したこともあったな・・・
そんな風にボクが過去に思いを馳せていると、その光景をクラクションの音が吹き飛ばした。
音のするほうを向くとそこには白いワゴン車が停まっていた。
ボクはそのワゴン車に向けてボストンバックを引きずるようにして歩き出した。
「よう!久しぶりだな!!」
勢いよくドアが開くと、車内から明るい女性の声が飛び出してくる。
「お久しぶりです、茜さん」
ボクは車に乗り込みながら答える。
「相変わらず堅苦しいやつだな」
満面の笑みを浮かべながら運転手の女性が笑う。
この人は斉藤茜、優子さんの一人娘だ。
小麦色に焼けた肌に短めのポニーテール。
白いTシャツから伸びた腕は、いかにも農家の娘といった感じだ。
茜さんはボクより4つ年上で、今は実家の手伝いをしている。
ボクは幼かったころ、よく茜さんに遊んでもらった。
二人で山にセミ取りに行ったり、鬼ごっこをしたりしたものだ。
ボクがドアを閉めると再び茜さんは訊ねた。
「どうだった、遠かっただろう?」
茜さんは無邪気な笑顔を浮かべながら言う。
「はい、思ってたよりもずっと」
「だろう?だから迎えに行くって言ったのによ」
「いえ、茜さんは忙しいでしょうし、迷惑をかけるわけにはいきませんから・・・」
ボクはエンジン音とタイヤの音で消えてしまいそうな声でつぶやく。
刹那、茜さんがボクの頭を小突く。
「あのなぁ・・・」
茜さんは頭を掻き毟りながら答える。
「いいか?私と二つ約束しろ。
ひとつは私のことはさん付けするな、呼び捨てでいい。
喋るときも敬語を使うな」
「そんな、年上を呼び捨てにしてその上タメ語なんて」
「じゃあせめて昔みたくちゃん付けで呼んでくれ。
なんでこれから家族になるってのに他人行儀にさん付けなんだよ。
後敬語使うたびに一発殴るからな」
なんて暴力的な。
しかし確かに茜さんが言うことも一理あった。
ボクらはこれから『家族』になるのだ。
その『家族』が例え形だけのものだとしても、ボクらは一緒に暮らすのだ。
だとしたらボクも少しずつでいいから歩み寄らなければならない。
「わかったよ、茜ちゃん」
「よし。
それから二つ目だけどな、はっきり言っておくとお前がうちで暮らすっていうのはもう既に迷惑なんだよ」
ボクの心にその言葉がずしりとのしかかる。
そうか・・・やっぱり茜ちゃんだってボクなんかと一緒に暮らすのは・・・
「だからいまさら迷惑だからとか考えんな。
大体家族に何か頼むとき迷惑だからとか考えないだろ?
家族ってのは互いに迷惑かけあってそれでチャラなんだよ。
お前が迷惑かける分、私もお前に迷惑かけるからな」
茜ちゃんは悪戯っぽく笑いながらボクの頭をクシャクシャと撫でた。
懐かしい感触。
まだボクが幼い頃にもこうして頭を撫でてもらった覚えがある。
そうか、ボクはこんなにも茜ちゃんに想ってもらっていたのか。
ボクは勝手に独りぼっちだと思い込んでいた。
でもそれは違った。
ボクには失ってしまった家族があり、それとは別に新しい家族ができていた。
名目上でなく、本当の意味での家族。
新しいボクの心の拠り所。
はるか彼方で輝く太陽が車内を煌々と照らす。
その太陽も沈みかけている。
「さ、急ぐか」
茜ちゃんがアクセルを踏み込むと車は加速した。
「家族が待ってる」
ボクはただ静かに頷いた。


車に揺られること約一時間。
やっとボクは目的地である斉藤家に到着した。
もうあたりは闇に囚われていて、斉藤家から漏れ出す光だけが回りを照らしていた。
「ただいま」
茜ちゃんが玄関の引き戸をガラガラ鳴らしながら開ける。
「おい、何やってんだ、早く入れよ」
ボクは迷っていた。
何といいながらこの家に入ればいいのだろうか。
『ただいま』なのか、『お邪魔します』なのか。
そして少しの間悩んだ挙句、『ただいま』を選んだ。
家の中には斉藤家の人間が勢ぞろいしてくれていた。
「お疲れ様、長旅大変だったでしょう」
優しく声をかけてくれたのは優子さんだった。
「どう?ここら辺も随分変わっちゃったでしょ?」
「はい、駅前も、ここに来る途中の道も、随分変わっちゃってましたね。
でも、この家は昔のままみたいで安心しました」
「時は止まんねぇからな。
この前まで豆粒みたいだった遥だって今はこんなに大きいしな」
声の主は優子さんの婿旦那、斉藤鉄郎さんだ。
名前通りまるで鋼鉄に身を包んだような筋肉と立派なヒゲはいかにも農家の婿といった感じだ。
「ホホホホホ、そうねぇ。
本当にまぁいい男になっちゃって」
今度の声の主は斉藤家の最長老で、優子さんの母、ウメ子さんだ。
「とにかく今日は疲れたでしょ?
お夕飯の用意してあるから食べましょう」
そういって通された居間には所狭しと大皿が並んでいた。
から揚げや刺身、サラダに煮物など様々なものが並んでいた。
そしてボクにとって久しぶりの誰かと一緒の夕食はボクの身も心も温めてくれた。
「どう?美味しかった?」
さっきまでまるで敷き詰めるように盛られていたおかずも無くなり空になった皿を集めながらおばさんが訊ねる。
「はい、こんなに美味しいごはんは久しぶりに食べました」
「あらあら、そこまで言われちゃうと明日からハードルが上がっちゃうわね」
笑いながらおばさんが答える。
「今日は遥が来てるから気合入れてたみたいだけどね」
「もう!!!あんたは余計なこと言わないの!!!
あんただって遥君来るからって朝からそわそわしてたじゃないの!!!」
「ちょっ!!!!母さん!!!!!」
茜さんは顔を真っ赤にしながら優子さんに飛び掛かった。
「はははははは!!!まあ俺らもお前が来るのを楽しみにしてたってことだよ。ね、お義母さん」
「そうねぇ。私も今朝からドキドキしてるわ、ホホホホホ」
こんな風に斉藤家の人間は楽しく談笑をしながら食後の団欒を楽しんでいた。
ボクにもこんな温かい時間を過ごしていた時があったはずだった。
それは決してそんなに昔のことのはずではなかった。
しかしボクはそれをほとんど忘れてしまっていた。
そんなことをぼんやりと考えているうちにその団欒も終わっていた。
「おい、ついてこいよ遥。お前の部屋に案内するからよ」
「・・・え?あ、うん!」
ボクは茜ちゃんの3歩後ろをついて歩く。
「土地だけは大量に持ってるからよ、遠慮なく使ってくれ」
そういって通された部屋はボクが以前住んでいた部屋よりだいぶ広い部屋だった。
畳が敷かれた七畳間に布団と机だけが置いてあった。
「いいの?こんないい部屋使っちゃって?」
「だから言ってるだろ?土地だけは大量にあるってよ。こんぐらいの部屋ならいくらでも使ってくれ」
そう言い残して茜ちゃんは部屋を出てった。
ボクは荷物を床に置き、布団に寝転んだ。
長旅の疲れと、先ほどの夕食による満腹感から目をつむればすぐにでも寝てしまいそうだった。
「今日は本当にいろんなことがあったなぁ・・・」
そんなことを呟きながらボクは布団に横たわった。
ボクは今日からここで暮らすのか・・・
なんとなくだが実感が沸かない。
まだ母さんは生きていて、ボクは元居たボクの家で母さんと自分の分の夕飯を用意する。
そして帰ってきた母さんと夕飯を食べて談笑して・・・・・・・・・・・・


いつの間にか朝になっていた。
まるでも物語のような目覚めだった。
小鳥の鳴き声が聞こえ、ボクは大きな欠伸をひとつしながら起き上った。
「おはようございます」
「あら、おはよう」
優子さんが笑顔で答える。
「よく寝たわねぇ、もうお昼よ?」
時計を確かめると確かに12時を過ぎていた。
「お昼ごはんもう少しでできるから、顔洗ってらっしゃい。あ、昨日お風呂入ってなかったわね。
お風呂先に入ってきちゃって」
ボクは優子さんの言うとおりに先に風呂に入ることにした。
まだ半分眠っていたボクの脳みそを熱いシャワーがたたき起こしてくれた。
居間に戻ると斉藤家の人間が勢ぞろいしていた。
「お前学校は明日からだろ?今のうちにここら辺散歩しとけよ、忙しくなるしな」
鉄郎さんが納豆を勢いよくかき混ぜながら言う。
「そうだな。案内してやりたいところだけど今日は私も忙しいしなぁ・・・」
「大丈夫、一人で行けるよ茜ちゃん」
確かにこのあたりに何があって何がないのか、高校はどこら辺にあるのかを確認しておく必要はあるかもしれない。
そう思ったボクは近所の散策に出かけることにした。
「とりあえず高校までの通学路を把握しておかないとな・・・」
そう呟きながらボクは歩き出した。
初夏の陽射しがボクを照り付け、色の濃い影を産み落とす。
それから約一時間。
目的地である高校に辿り着いた。
『県立東雲高校』と威厳たっぷりに記されたその校舎はこの町で見たどの建物より立派だった。
目的地である校舎を確認したボクはそのまま目的もないまま歩き回ることにした。
そうしているうちにいつの間にか見覚えのある風景を見つけた。
「あぁ、昔もここら辺を散歩したんだっけか」
まだボクが幼かった頃、母さんと二人で散歩していた時に通った道だった。
「もう何年も昔なのに全く変わってないな・・・」
ボクは懐かしさを感じながらその道を歩く。
大量の木々が両端にならび、剥き出しの土と石を飾ってくれている。
微妙に角度のついた斜面。
確かここをまっすぐ行くと公園があったはずだ。
「・・・あった」
色褪せたブランコと錆びた鉄棒。
木製のベンチと狭い砂場だけの小さな公園だった。
柵に囲まれたその公園は、その柵を越えるとすぐ真下が海だった。
断崖絶壁に作られたその公園にはボク以外にもう一人の女の子がいた。
その女の子は水色のワンピースに身を包み、絹糸のような黒髪たなびかせていた。
そんな絵に描いたような恰好をした女の子は、絵に描いたような美少女だった。
「・・・・・・」
その少女は何も言わずボクのことを見てきた。
まっすぐに伸びた視線はボクの眼を捕えている。
思わずボクは視線を逸らしそうになってしまう。
「・・・・こんにちわ」
ついに彼女が言葉を発する。
なぜか彼女の瞳は涙で濡れていたような気がする。
「お、おう。何してたの?」
ボクもぎこちなく答える。
「・・・海を、見ていたんです」
彼女は静かに答える。
確かにここからは海が綺麗に見える。
「なるほど・・・確かに綺麗だね」
ボクは答える。
「あなたは?」
「え?あ、ああ。ボクは田淵遥。昨日ここに引っ越してきたんだ」
「なるほど。初めて見た御方だったからちょっとビックリしちゃいました。
あんまり大きい町じゃないから大体みんな顔見知りなんです。特に自分と同世代の人間は。
まだ観光客が来るような時期でもないですし。田淵君も東雲高校に通うんですか?」
「うん。君も東雲高校の生徒なの?」
「はい。私は雨宮奏。東雲高校の2年生です」
「2年生か。じゃあボクと同学年だね」
「凄い偶然ですね。同じクラスになれると嬉しいです」
彼女は屈託のない笑顔をボクに向けながら言った。
「それじゃ田淵君は都会に住んでたんですね。いいなぁ・・・」
「雨宮が思ってるほど都会じゃないよ」
「でもここよりは都会なんでしょう?私もまだ小さかった頃は都会に住んでいたんですけど、
ちょっとした事情でここに引っ越してきたんです」
「へぇ・・・」
なんとなく。ただなんとなくボクらはお互いに引っ越してきた理由を訊ねなかった。
それはボクらが出会ったばかりだからとかそういう理由ではなく、
なんとなくお互いにそれが触れてはいけない傷口だということを感じとっていたのだろう。
少なくともボクはそうだった。
「もうだいぶ日も暮れちゃいましたね」
雨宮が海を眺めながら言う。
さっきまでは地上を照り付けていた太陽も西に傾き、オレンジ色の光で海を照らしていた。
「じゃあそろそろ帰ろうか。もしよかったら送っていこうか?」
「いえ、大丈夫です。ここから大して距離はありませんので」
「そっか。それじゃあまた明日学校で」
「はい。同じクラスになれるといいですね」
彼女は最後に微笑みながら言う。
ボクも微笑みながら頷いた。



その後家に帰ったボクは再び美味しい食事と団欒を味わい、風呂に入るとすぐに眠りについた。
「明日はいよいよ初登校だからな。一発ぶちかまして来いよ!!」
「そうだぞ遥!!お前ならテッペンとれる!!お前はその器がある!!」
いったいボクが何をしに学校に行くつもりだと思っているのだろうか。
とにかく鉄郎さんと茜ちゃんの喝を受けながらボクはその日を終えた。


翌朝、ボクは6時ごろにはもう身支度を終えていた。
新しい制服に身を包んだボクは朝食を摂りながら朝のニュースを眺めていた。
「よく似合ってるね~~、遥ちゃん」
ウメ子さんが言う。
「本当。まるでモデルさんみたいよ!!」
優子さんも続く。
「モデルはいくらなんでも言い過ぎだろ。ま、でも確かに似合ってるよ」
「はははは!いいぞいいぞ~~!!初陣には相応しいや!!」
居間に入ってきた茜ちゃん、鉄郎さんがさらに続く。
「そんなにからかわないでくださいよ」
ボクは少しはにかみながら言う。
「ははははは。そうだ、とりあえず朝の分の仕事終わったから車で送ってやるよ」
「え?いいよ茜ちゃん。どうせ大した距離じゃないし」
「お前初日に言ったろ?遠慮するなって。それに大した距離じゃないって一時間はかかるんだぞ?」
「そうだぞ遥!!だいたいテッペン狙う人間が普通に歩いていくんじゃ威厳ないだろ」
鉄郎さんが真顔で言う。
いったいこの人はボクが何をしに来たのだと思っているのだろうか。
まあでも確かに車で送ってもらえるのであればそれはありがたかった。
「じゃあお願いするよ、茜ちゃん」
そういうと茜ちゃんは満面の笑みで頷く。
茜ちゃんも東雲高校の出身らしく、購買のあのパンが美味いとか、授業をサボるのにはどこでサボるのがいいとか、
数学の井上先生は実はヅラなどの貴重な情報を得ることができた。


学校に到着すると、ボクはとりあえず職員室に行く。
「お、転校生か?」
職員室に行く途中一人の先生から声をかけられる。
40代くらいの男の先生だ。
肩幅が広く、胸板も厚い。シャツの袖から見える腕はまるで丸太みたいだ。
「はい、そうです」
「おお、ちょうどいいタイミングだ。俺はお前の担任になる牛島博だ。生物を担当している」
「田淵遥です、よろしくおねがいします」
「ああ、よろしくな。まあこの学校は特にいじめとかないし、田舎の学校だからフレンドリーな人間が多い。
とにかくあんまり気張らず頑張れよ」
「はい」
その後ボクは牛島先生に連れられて自分の教室へ向かう。
『2-C』と書かれたプレートの下でボクは先生に呼ばれるのを待つ。
「よ~~し、お前ら。ホームルームをはじめるぞ~」
「は~~~い」
「じゃあまずさっそくだけど今日は転校生を紹介する」
刹那、教室はざわつき始める。
「それじゃ入ってこい」
「はい」
ボクは扉をスライドさせ、教室内へ入る。
ざわめきはより一層大きくなり、室内へ響き渡る。
「黒板に自分の名前を書いて、簡単な自己紹介でもしてくれ」
ボクは頷き、黒板に自分の名前を書く。
「田淵遥です。色々な事情があって東京からこっちへ引っ越してきました。
この辺のことに関してはまだ全然知らないことも多いので、教えてくれると嬉しいです」
「はい、よくできました~」
牛島先生が先陣を切って拍手をすると、クラス中の人間がそれに続く。
その中に見覚えのある顔を見つけた。
雨宮だ。
「え~っと、お前の席はあの窓際のあの空いてる席な」
ボクは頷き、その席に近づく。
「おお、なんかなかなかのイケメンやんか!」
自分の席に着くと右隣りの男子生徒が話しかけてくる。
「ああ、どうも」
「俺ん名前は鬼塚、鬼塚天馬や。よろしくな。」
「よろしく。鬼塚は関西出身なのか?」
「ん?何言うとんねん。俺は生まれも育ちも東雲町やで」
「じゃあ何で関西弁を?」
「そりゃお前かっこいいからやろ」
・・・なんかあまり関わらないほうがいい部類の人間っぽいな。
「こいつとは喋らないほうがいいよ、田淵君」
「なんやと!このメガネゴリうぶぅ!!」
多分鬼塚から『メガネゴリラ』と仇されているであろう女生徒は、まるで閃光のような右ストレートで鬼塚の腹を抉った。
「私は藤崎鈴。一応このクラスの委員長をやってるの。何か困ったことやわからないことがあったら遠慮しないで言ってね」
「え?あ、じゃあ今の右ストレートって・・・」
「え?あ、あれね。あれは、そのぉ・・・私のお父さんが空手道場で師範をやってるのよ。それでちょっとね・・・」
「なぁ~にがちょっとね♪だよ気持ちわりぃ。おい田淵、騙されんなよ。全国で2番目に強い女子高生だからな」
「もう!!あんたは余計なこと言わないでよ!!」
すげぇ・・・ていうか全国2位でこれだけ強いなら1位はどんな奴なんだよ・・・・
「あ、もう授業始まっちゃうね。それじゃあ私は自分の席戻るね」
彼女は最後に微笑みながら自分の席に戻った。
そういえばあまりに色濃いメンバーたちのせいで忘れてしまっていたがこのクラスには雨宮がいたはず。
彼女はどこに行ってしまったんだろうか?
そう思っていた矢先、背後から声をかけられる。
「田淵君!」
「あ!雨宮!」
「本当に同じクラスになれるなんて、凄い偶然ですね」
「ああ、本当に。今までどこに行ってたの?」
「え~と、私は花瓶の水を変える係なんです。今までその作業をしてて・・・」
「おいおい田淵~、もう雨宮と仲良しなんか~?意外とやるやんか~」
「あ、鬼塚君。おはようございます」
「雨宮はこのクラスでもアイドルやからな。噂では親衛隊も存在してるそうやで」
そんな人と二人きりで長時間話してたのか、ボクは・・・
「もう鬼塚君!そういう冗談はよしてください!」
「しかも雨宮の家はちょ~金持ちなんやで?どんだけ勝ちグハァッ!!」
突如として飛んでくる消しゴム。そしてそれは鬼塚の右目にクリーンヒットした。
飛んできた方向を見ると委員長が鬼の形相で鬼塚を睨んでいる。
「あんたはまたそうやって他人の個人情報をやすやすと開示して!!」
「だからって目はやめろ目は!!」
「大丈夫ですか?鬼塚君?」
「雨宮さんもそいつに優しすぎるよ」
「消しゴムが思いっきり目にぶつかった人間の心配するくらい普通だと思うんやけど!!」
そんなやりとりをしているうちに授業の開始を知らせるベルが鳴った。
授業の内容自体はボクが前いた学校で既に終わらせていたので楽だったが、
隣にいる鬼塚がしきりに「わからへん、いやいやこんなん高校生がやっていいレベルちゃうで・・・」などと呟くので、
あまり集中できなかった。
そしてそんなことが4時間分終わると、いよいよ昼休みに突入した。
「やった~、やっっっっと昼休みやで!!おい田淵!お前弁当なんか?」
「え?俺?あ、ああ。俺はここで何か買って食うけど」
優子さんが今朝「お弁当より学食のほうが青春っぽくていいでしょ?」といい、ボクは購買で食べることになったのだった
「ホンマか!?よっしゃ、ついてこい!!俺がここの学食で一番美味いもん教えたる!!」
「騙されないほうがいいわよ、田淵君。こいつが食べてるパン、こいつ以外この学校で誰も食べてないパンだから。
なんで購買のおばちゃん達も仕入れてるんだか・・・」
「なんやと!!俺の悪口はまだええ。せやけどマンゴーキムチパンの悪口だけは絶対許さへんで!!」
「あ、それここに来る前に茜ちゃんが絶対にそれだけは食うなって言ってたやつだ」
「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
「茜ちゃんって誰ですか?」
雨宮も会話に参加してくる。
「茜ちゃんっていうのはまあボクの姉みたいな人かな、ここの卒業生なんだよ」
「え?その茜って人の名字、もしかしたら斉藤じゃない?」
委員長がビックリしたような顔で訪ねてくる。
「うん、そうだよ。斉藤茜って言うんだ。知り合いなの?」
「知り合いも何も私の師匠みたいな人よ!たまにお父さんの道場まで来て空手を教えてくれるの!!」
「へ~、じゃあ茜ちゃんって強いんだ?」
「もちろんよ!!私なんか相手にならないくらい!」
「へぇ~お前茜さんと知り合いなんか。ええよなぁ~茜さん。
出るところは出る!!締まるところはしまブルバハァアアアアア!!!!!」
「茜さんをそういう目で見るんじゃないわよ!!」
ボクには何が起きたのか理解不能なほどのスピードだったが、どうやら鬼塚は見事な上段蹴りを貰い、
十数メートル吹き飛んだようだった。
「茜ちゃんって有名なの?」
「うん。今言った通り美人だし、空手も強いからね。それにしてもなんで茜さんと田淵君が知り合いなの?」
委員長が訪ねてくる。
・・・なんて答えようか。
「田淵君・・・?」
雨宮が心配そうにボクの顔を覗き込む。
「あ、ああ。大丈夫。そうだなぁ・・・実は俺親が二人とも死んじゃってさ、それで茜ちゃんの家で世話になってるんだ」
少し迷ったが真実を話すことにした。
どうせいずれはすべて知られてしまうだろう。
「え?・・・・ごめんなさい・・・・」委員長が謝る。
「そんな事情が・・・」雨宮もそれに続いて呟く。
委員長が俯きながら謝ってくる。
「そ、そんな!謝らないでよ。どうせいずれは皆に話さなきゃいけないことだったんだし」
「でも・・・」
「まあ本人が気にするな言うとんのやから気にすることないやろ。な、田淵?」
復活した鬼塚がボクの肩に手を置きながら言う。
「うん、鬼塚の言うとおりだよ委員長」
「う、うん。ありがとう」
「それより早く行かないとマンゴーキムチパンが売り切れてまうで!!」
「売り切れないわよあんなの!!じゃあ行きましょうか、田淵君」
「うん。あ、雨宮はどうするの?」
「私はお母さんがお弁当を作ってくれてるので、だから三人で行ってきてください」
そういいながら雨宮は微笑んだ。
心なしかまた雨宮の瞳は涙で濡れていた気がした。


茜ちゃんと委員長絶賛の焼きそばパンとカレーパン。そしてお茶を買ったボクは教室に戻り、
雨宮、委員長、そして鬼塚と談笑しながら昼飯を食べた。
ちなみに鬼塚が買ったマンゴーキムチパンを少し食べさせて貰ったが、きっとあれを二度と食べることはないだろう。
というか視界にも入れたくないし、名前も聞きたくない。
そんなこんなで学校は終わった。
「私は委員長の仕事があるから、また明日ね」
そういいながら委員長とは教室で別れた。
その後帰る方向が一緒の雨宮とボクは、鬼塚と別れて二人で帰ることになった。


「どうでしたか、今日は?」
不意に雨宮が訊いてくる。
「フレンドリーな人が多そうで良かったよ。何とか上手くやっていけそう」
これはボクの心からの感想だった。
「雨宮はどのあたりに住んでるの?」
「え~っと、斉藤さんのお宅より少し海の方に行ったあたりですね。
ベランダからは海が見えるくらい近いんです」
「へ~、じゃあいつでも海を眺めることができていいね」
「・・・・はい」
しばらくの間沈黙が流れる。
「・・・田淵君」
「うん?」
「もし良かったら少し寄り道しませんか?」
「え?・・・うん」
「じゃああの公園まで行きましょう」
そういうと最寄りの公園に向かって歩く。
ボクは雨宮の少し後ろをついて歩く。
その公園は昨日ボクらが出会った公園の2倍ほどの広さがあり、
小学生や近所の主婦で賑わっていた。
ボクらはどちらが言うとでもなく近くのベンチに腰掛ける。
「・・・あのね、今日田淵君がここに来た理由話してくれたでしょう?」
「え?・・・ああ」
「だからね、私だけここに来た理由を話さないのは不公平だと思うの」
「そんなこと気にしてないよ」
「うん。田淵君はそうかも知れない。私がここに来た理由なんて田淵君にとっては何の意味も持たないかもしれない。
だからこれは私の勝手な自己満足です。だからもしつまらなかったら言ってください」
「・・・わかった」
ボクが頷くと彼女はゆっくりと語り始めた。


「私は、脳の病気を患ってるんです・・・
ESDって言って、脳が徐々に死んでいく病気なんです」
「脳が・・・死んでいく?」
「はい。それは単純に機能しなくなるとかそういうことではなくて、死滅していってしまうんです。
そして徐々に体の自由が利かなくなり、死んでしまう・・・」
ボクと雨宮の間には重い沈黙が流れた。
「凄く珍しい病気で、専門に調べてるお医者さんも少なくって、治療法も見つかってないんです。
それで・・・私はESDによって色が識別できなくなってるんです」
色が・・・識別できない?
「ええっと、そうですね・・・簡単に言うと私にとって世界は漫画のように見えてるんです。
それとも少しだけ違いますけど。
だから私海があまり好きではないんです。
こんなこと言うの田淵君が初めてなんですけど。
皆は海が綺麗だって言うけど私にはただただ灰色の何かが揺れているようにしか見えないんです。
それで色が識別できないと都会で生きていくのは厳しいし、
ESDについて研究してるお医者さんが東雲町から2時間離れたところに住んでるので、
東京よりここのほうが色々と便利だったんです」
・・・ボクは正直なんて言えばいいのかわからなかった。
同情すればいいのか、あるいは今まで通りの態度で接すればいいのか。
「・・・最後まで聞いてくれてありがとうございました。
つまらない話でごめんなさい」
雨宮はまた瞳を潤ませながらボクの眼を見つめてきた。
初めて出会った時のように。
初めて出会った時・・・
その時ボクの中で何か違和感が生まれた。
なんであの時雨宮は海を眺めていたんだ?
あの断崖絶壁の公園で、瞳を潤ませながら・・・
その時ボクの中で一つの仮説が生まれた。
できることなら不正解であって欲しい仮説が。
「あのさ、雨宮」
「え?」
「さっき海が嫌いだって言ったよね?」
「はい」
「じゃあ何でボクらが初めて出会った時海を眺めていたの?」
「え!・・・それは・・・」
「もしかしたらあの時・・・
あの時雨宮は・・・
あそこから身を投げようとしてたんじゃないの?」
・・・・・・・・・またもや深い沈黙が生まれる。
雨宮は顔を伏せる。
ボクはただ雨宮の言葉を待つ。
「・・・・うん、そう・・・・・・・
凄いですね、田淵君は。まだ出会って二日目なのに。もう私の考えることを当てられるなんて・・・・」
雨宮の視線が僅かだが上を向く。
「私はあの時死のうとしてた・・・
この白と黒で描かれた世界が嫌で、
いつ爆発するかわからない爆弾を抱えている私が嫌で、
もしかしたら死ぬより辛いことを経験しなければならないかもしれない未来が嫌で・・・」
雨宮は淡々と語る。
しかしその声は徐々に涙声になってくる。
「だから・・・滅多に人の来ない場所だから、
最後の最後になら海が好きになれるかもと思って海の見えるあの場所を選んだんです」
「でもボクが来た」
雨宮は静かに頷く。
「だから田淵君は私の命の恩人なんです。
もし田淵君があの時来てくれなければ私は死んでいた」
「・・・なんでそう思うの?もう自殺する気はないの?」
「はい。あの時あんな絶妙なタイミングで滅多に人が来ない場所に人が来た。
馬鹿らしい話かもしれないですけど、もしかしたら神様が私に生きろって言ってるんじゃないかな?って思ったんです。
都合のいい話ですよね?」
雨宮が自嘲気味に笑う。
「・・・都合のいい話だと思うよ、本当に」
ボクはただただ心の底から沸いてくる言葉を紡ぐ。
「雨宮は自分が死ねばそれで終わりだからいいかも知れない。
でも他の皆の中では雨宮の存在は終わらないんだ。
それはとても・・・とても辛いことだよ」
ボクは母さんのことを思い浮かべながら言う。
「・・・うん。
あの時の私は少しおかしくなっちゃってたんだと思うんです。
あの日の午前中、お医者さんに言われたんです。
『もしかしたらこの病気は治療法がないかも知れない』って・・・
お医者さんも研究は続けるとは言ってくださったけど、
それでも私の心に傷を負わせるには十分すぎる一言だったんです。
失望しちゃいましたか?」
雨宮は訊ねてくる。
ボクは何と言ったらいいのかわからなかった。
雨宮が何を求めているのか。
同情か、叱咤か、建前か、本音か・・・
「・・・守るよ」
「え?」
「雨宮が自分の弱い部分を俺に見せてくれたんだ。
だから俺はその弱い部分を守る義務がある」
「そんな!そんなつもりで言ったんじゃないです」
「わかってる。雨宮は自己満足って言っただろ?
だからこれもボクの勝手な自己満足だよ」
ボクらの間に生まれた約束。
とある町のとある公園で生まれた小さな約束。
でもボクにとってはとても大きな、
そして今後のボクの人生を変える程、大きな約束だった。



その後雨宮とボクは互いに言葉を交わすことなく家に帰った。
明日何と言って顔を合わせればいいのだろうか?
よく考えたらあれって告白的な見方もできないか?
うわ・・・思い出したら恥ずかしくなってきた・・・
「おい遥、どうしたんだ?」
食卓の向こう側から茜ちゃんが訊いてくる。
「へ?あ、ああ。なんでもないよ」
ボクは情けない声で返す。
「・・・あのさ、茜ちゃん」
「ん?」
「茜ちゃんは誰かに守ってほしいと思ったことってある?」
「ハァ???」
茜ちゃんが箸を落としながら聞き返す。
いや、確かに変な質問だけどそんな顔しなくても・・・
「おいおいどうしたんだよ遥。あれか?新手のプロポーズか?
まあ遥にならうちの娘はくれてやってもいいな」
鉄郎さんが満足気に言う。
「ちょ、親父!!何言ってんだよ!!」
茜ちゃんが顔を真っ赤にしながら言う。
「ったく、誰かに守ってほしいと思ったかだっけ?
あ~~、遥は知らないかもだけど、私空手習っててな」
・・・よく存じております。
「まあそんなこんなで結構強いんだよ、私。
だから守ってほしいと思ったことはないな。
だいたい遥の狭い背中じゃ人を守るなんてできねえだろ?」
茜ちゃんが意地悪な笑顔を浮かべながら言う。
「こら、茜!!失礼でしょ!」
「いいんです優子さん、事実ですから」
「そうだな、確かに遥は貧弱だ」
鉄郎さんが言う。
いや、誰も貧弱とまでは言ってないけど・・・
「ただな、貧弱は貧弱なりに何かを守れるもんだ。
強い奴は少し強い奴を、少し強い奴は弱い奴を、弱い奴は貧弱な奴を、貧弱な奴はもっと貧弱な奴を。
そんでもっと貧弱な奴はたま~に強い奴の支えになってやればいい。
要は自分の守れる範囲の奴を守ればいいのよ」
鉄郎さんがこれまた満足気に言う。
「そうね、たまにはあんたもいいこと言うじゃない。
遥君も守れるものを増やすためにいっぱい食べなさいね」
最後には優子さんが締めくくった。
多分この家で一番強いのは優子さんだろうな、なんてことを考えながらボクは夕食を食べ終えた。



それから二か月が経った。
日は以前より長くなり、蝉が順位を競うように鳴きはじめた。
ボクは約束通り雨宮をできる範囲で守っていた。
そして夏休みが来た。
今日は夏休みが明けるとすぐに来る文化祭の準備で、ボクは学校へ行かなければならない。
ボクの仕事であるトマトの水やりを済ますと、
制服に着替えて学校へと向かう。
「あ、田淵君、おはよう」
背後から声をかけられる。
「雨宮、おはよう」
朝から照り付ける太陽から身を守るためか、雨宮は白い日傘を差していた。
「いよいよ夏本番だなぁ・・・」
ボクは太陽を見つめながら呟く。
蝉の鳴き声は何重にも重なり、熱さをより一層引き立てる。
「そうですねぇ・・・」
雨宮も呟く。
その後ボクたちは談笑しながら学校へ向かった。



学校へ着くとボクはすぐに自分の仕事に取り掛かった。
ボクらのクラスはお化け屋敷をやる。
委員長指揮で男子たちは大道具を、女子たちは衣装や小道具の作成にとりかかる。
「いや~~~、こんな熱いのにやってられへんで」
鬼塚がトンカチで釘を打ちながら言う。
「まあそういうなって。
だいたい手間暇かかるってわかっててお化け屋敷やろうって言い出したのお前だろう?」
一緒にトンカチを打っていたクラスメイトが言う。
「そうそう、わざわざ貴重な高二の夏休みをこうやって消費するハメになったのも・・・」
「本田が出した『メイド喫茶』の案が無くなっちまったのも・・・」
「全部お前のせいなんだよ、鬼塚あああああぁぁぁぁあああああ!!!!!」
ついに熱さにやられた数名の男子生徒に追い回される鬼塚。
そして何故かそれを止めるでもなく参加している委員長。
委員長って本当に鬼塚のこと嫌いなんだな・・・・
昼になると購買へ向かう。
夏休みでも文化祭の準備をする生徒や部活をする生徒のために購買はやっているのだ。
「おばちゃん!俺マンゴーキムチパンね!!」
鬼塚が元気に注文する。
しかしおばちゃんの様子が変だ。
「あ~~~・・・・
あのね天馬ちゃん。
うちのパンって業者が作ったパンを卸売してるんだけど、その業者がね、作るのやめちゃったのよ・・・
マンゴーキムチパン・・・・ごめんね?」
おばちゃんが言いにくそうな顔をしながら説明する。
ていうかこいつ、下の名前で、しかもちゃん付けで呼ばれてんのか。
鬼塚の顔から血の気が引いていく。
「なんで!!どうして!!あんなに美味しいパン、ほかにはないのに!!」
いや、結構あるぞ、あれより美味しいパン。
「ホントにごめんね。でもしょうがないのよ、これも時代の流れというか・・・」
いや、単純にマンゴーキムチパンがまずいからだと思うけど・・・
しかし鬼塚はこの妙な意見に納得したらしく、おとなしくブリ味噌パンを注文した。
どっちみち凄いセンスだな・・・
ていうか夏にブリって・・・
「はあ~~~~、時代は流れるんやなぁ・・・」
教室に戻り、ブリ味噌パンを齧りながら鬼塚が言う。
「そうだなぁ・・・そういえば将来設計の紙書いたか?」
夏休みの宿題としてボクら2年生は将来設計を紙に書いて提出しなければならなかった。
「俺はまだ書いてないぞ、田淵は?」
「俺もまだ」
「田淵、お前将来の夢とかあるか?」
「ボク?・・・ボクは昔陸上選手に憧れてたんだけど、例の事故でもう走れないんだよ」
「あ・・・・ごめん・・・」
「いいよ、別に」
ボクの母親が死んだこと、そしてその原因となった事故のことはもうクラスメイトの大半が知っていた。
「まあまだ人生長いからな。やりたいことなんかすぐに見つかるやろ。
・・・・俺も今見つかったしな」
「お、鬼塚。ついに何かやりたいこと見つけたのか?」
「ああ・・・俺は・・・パン屋になる」
「「「・・・・はぁ?」」」
その場にいた鬼塚以外の3人が皆首をかしげながら言った。
「俺はパン屋になる。そして・・・あのパンを・・・・マンゴーキムチパンを復活させるんや!!!」
「はいはい、よかったね」
「そんじゃ作業に戻りますか」
「そうだな」
「え!え!お前らもうちょっとないんか?おい!おいいいいいいいいいいい!!!!!」
鬼塚の叫び声が教室に響き渡る。
そして委員長の「うるさい!!」という声とともに鬼塚は吹っ飛んだ。
将来の夢・・・か・・・・
陸上選手以外にやりたいこと・・・・・
そうだな・・・
ボクは・・・雨宮をこの先も守っていきたい・・・
いつの間にかボクの中で雨宮は大きな存在になっていた。
自分の将来設計に現れるほどに・・・・



それから再び数日。
今日も文化祭の準備だ。
今日は珍しく曇り空だった。
ボクが教室に着くとまだ誰も来ていないようだった。
「まだ誰も来てないのか・・・」
そう呟いた後、誰かのカバンが置いてあるのに気づく。
「・・・これ雨宮のだ。雨宮?いるのか雨宮?」
・・・返事がない。
なんだか嫌な予感がする。
ボクは急いで校舎中を探し回る。
そしてついに見つけた。
雨宮で倒れていた。
「雨宮!!」
その姿を見たボクはすぐに駆け寄る。
「雨宮!!大丈夫か、雨宮!!」
返事がない。
騒ぎを聞きつけた牛島先生が駆けつけてくる
すぐに救急車が呼ばれて雨宮は病院に搬送された。
ボクと先生が救急車に乗る。
ボクは状況の説明を要求されるが上手く話せなかった。
「雨宮は!!雨宮は助かりますよね!!」
ボクは救急隊員に訊ねる。
「安心して、大丈夫。
絶対に助けるから」
救急隊員は力強く答える。


しばらくして病院に着くと雨宮はすぐに手術室に運ばれる。
ボクはすぐそばのベンチに腰を下ろす。
雨宮・・・どうか無事で・・・
どうやら雨宮の家族と主治医にすぐに連絡が行ったらしく、すぐに両親と主治医が駆けつけてくれた。
ボクは両親に軽く会釈をする。
「あなたが田淵遥君?」
「え?・・・・はい」
「そうか、娘がいつも君のことを話してるよ、とてもいい人だと」
父親と思われる人が話し出す。
「娘は君に逢って変わった・・・ありがとう」
「ありがとう」
雨宮の両親が頭を下げる。
「そんな、頭を上げてください!!ボクだって・・・ボクだって雨宮には・・救われました」
そうだ。
ボクは母さんが死んだ時、感情が空っぽになってしまった。
でも雨宮に出会って、いや、この町のみんなに出逢って変われた。救われた。
だからボクは・・・ボクにも何か・・・
そう思った時ボクは病院を飛び出していた。
急いで家に戻る。
いったいどれくらいの時間走っただろうか?
本当は走ってはいけないのに・・・
足がすぐに痛む。
そんなの関係ない!!
もっとスピードをあげる。
もっと・・・・もっと・・・・・・もっと・・・・・・!!!!!






「雨宮?」
「・・・田淵君?」
あれから手術は終わって雨宮は病室に移された。
「おはよう、よかったよ、無事で」
「田淵君のおかげです。もし田淵君が見つけてくればければ・・・また助けられちゃいましたね」
雨宮が呟く。
「まだだ・・・」
「え?」
「まだボクは雨宮を完全には助けられてない」
「田淵君?」
「雨宮、これ見てくれ」
そういってボクは1枚の紙を渡す。
将来設計の紙だ。
「これって?」
「読んでくれ」
「う、うん。田淵遥・・・将来の夢・・・医者?・・・これって・・・」
「雨宮・・・俺将来医者になる。
それでお前の病気を・・・ESDを治す。
もう雨宮が海を嫌いにならないように。モノクロの海を見ないで済むように」
「田淵君・・・」
「だから・・・ボクが雨宮の病気を治したら・・・・その時は・・・その・・・」
「その?」
「雨宮・・いや、奏さん!!」
「え?あ、う、うん・・・・え!?」
急に下の名前で呼ばれて困惑する雨宮。
「もしボクが君の病気を治したら、ボクと結婚してください!!」
いったいボクは何を言ってるんだろうか。
まだ高校2年生の分際で、知り合って数か月の女の子の結婚を申し込んでいる。
なんと滑稽だろうか。
でも雨宮は、奏はそんなボクを嘲笑することもなく、やさしい笑顔でこう言ってくれた。
「・・・はい、その時は結婚しましょう、遥さん」




人が他の動物と一番違う部分はなんだと思う?
夏休み前に授業で牛島先生が訊ねたことだ。
先生はこう答えた。
火を使うことでも、頭がいいことでもない、それは人愛することができることだ。
無償で人に尽くし、誰かが笑うだけで元気がもらえる。
こんな生物は他にはいないと言っていた。
ボクは全くその通りだと思う。
母さんはボクを愛してここまで育ててくれた。
優子さん、ウメ子さん、鉄郎さん、茜ちゃんはボクを愛するが故に引き取ってくれた。
そしてボクは奏を愛するが故に・・・・
「お~~~い、遥く~~~~~ん」
「奏、こっちこっち」
波音が聞こえる。
「・・・・綺麗な海だね・・・」
「・・・・うん。やっとわかったよ、みんなが海を綺麗だっていう理由」
「奏、ボクが高校時代にした2つの約束覚えてる?」
「・・・・うん」
「一つは奏を守ること。そしてもう一つは・・・」
そう言おうとしたボクの唇を奏の唇が塞ぐ。
ボクはそっと目を閉じる。
奏の唇がそっと離れていく。
ボクらは黙って海を眺める。
決して一色には染まらない青。
視界には木々の緑も見える。
町の方には色取り取りの屋根が見える。
赤、青、黄色・・・今日も世界はカラフルだ。


                     fin.
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