マテリアル


知恩寺のコーヒーカップ

 そのコーヒーカップは知恩寺のフリーマーケットで買い求めたものだった。高さ6cm、飲み口直径8cm、底の直径5cm。取手はない。こげ茶色。全体的にゴツゴツとしていて、妙な具合に歪んでいる。口をつける部分だけ滑らかな素材が使われている。粗い造り。芸大出の若者が親の財力にものを言わせ、興味本位で始めた工房で制作してみましたといわんばかりの出来栄えだ。“湯のみ”と呼んだ方が正確かもしれないが、コーヒーばかり飲む私にとって、それは“コーヒーカップ”であった。
 私は毎月1日に開かれるそのフリーマーケットに数ヶ月に1度は通う。何か目的があって行くわけではないが、散歩ついでになんとなく行ってしまう。その日も朝の散歩がてらにぶらりと訪れた。時計や、わけの分からない首飾り、木製のスプーンやフォークの横にそれは置いてあった。私はそれをなんとなく手にとって眺め、500円と書かれた値札を見たり、手触りを確かめてみたりした。気になったのだ。こういったものの良し悪しが判るわけではないが、出来栄えは良いとはいえない。ただ良く晴れた朝、小説片手にこれで珈琲を飲んだら気分がいいだろうなと思ったのだ。それは本当に何気ない思いつきだったが、値段が安いこともあって購入することにした。
 家に帰り、片手鍋(この鍋との付き合いも長い。彼是10年以上になるだろうか。ぼこぼこになっていて今にも穴が空きそうだが案外もつものだ。持ち手のネジを何度も締めなおした覚えがある。)に水を入れて火をつける。引き出しからペーパーを取り出し端を折る。棚からペーパードリップ式のドリッパーを下ろし、ペーパーをセットする。冷凍庫からマンデリンブレンドを取り出す。さじ擦り切れ一杯。・・・お湯が沸く。鍋を傾けお湯を注ぐ。豆全体に湯が行き渡ったら湯を注ぐのを止め20秒蒸らす。(この間にコーヒーカップにお湯を注いで暖めておく。)しかる後、ゆっくりと確実に、のの字にお湯を注いでいく。一杯分の珈琲が落ち次第さっとドリッパーをはずす。コップのお湯を捨て、珈琲を注ぐ。私はこの儀式的な所作が好きだ。そしてまたこの過程がコーヒーの味に変化を与える。・・・うむ、良い香りだ。
 大正期の有名な職人の手による窓際の机。帆船模型と古書が置いてある。アールトの椅子。珈琲を一口。うむ、うまい。ふわりとフルーティーな香りの中、ほどよく酸味が効いている。コーヒーカップの具合も良い。買いたてのコップで飲むときには、口元に違和感を感じるものだが、それがない。良い買い物をしたかもしれない。10年前に古本市で購入して以来本棚の肥やしとなっていた「存在と時間」を広げる。
 以来、私はそのコーヒーカップを愛用するようになった。茶もジュースも酒もあまり飲まない私は、家では専ら珈琲を飲むため自然とコーヒーカップの出番も多くなる。水洗いされた後、乾く間もなく、次のコーヒーで満たされる。マンデリン、トラジャ、モカと移り変わっていくがコップはいつも同じ。使っているうちに愛着も湧いてくるというものだ。こうして“知恩寺のコーヒーカップ”は私の生活の一部となっていった。


下宿

 私が住む下宿は吉田の路地裏にある。大正年間に建造された建物で、改修・改築を繰り返している。ベニヤやトタンが多用されており、雨の日はなかなか賑やかだ。瓦でしっかりと葺いてあるところもボロボロで、1枚1枚の瓦は屋根から振り落とされまいと、力一杯しがみついているように見える。
台所、洗面所、トイレは1階。2階は下宿人の部屋6部屋とリビング1部屋。大家さんは1階に住む。大家さんは好々爺といった感じで、80代後半といったところか。よくコーヒーを振舞ってくれる。これがなかなかうまい。引退前は洋菓子屋を経営されていたらしい。
玄関から上がってすぐのところにある階段は変な具合に歪んでいて、上ると体が右に傾く。廊下の軋み音もなかなか堂に入ったものである。冬になるとスキマ風が狂った怪獣のように部屋を闊歩し、私を震え上がらせ、夏になると部屋はそれ自体特殊な保温装置なのではないかといぶかる程暑くなる。だが、そうしたこと全てが私の目には好ましいものに映る。それはこの家が吸い込んだ時間に私が居心地の良さを感じるからに他ならない。
 そういうわけで私はこの下宿に寄生しているのだ。もちろん家賃が2万円とリーズナブルであることも他の下宿に移れない理由となっているのだが。


父は金物屋を営んでおり、母はビルの清掃で少ない父の収入を補っている。私は地元の有名公立高校を卒業した後、京都の大学の法学部に入学。今の下宿に住み、法律の勉強を始めた。授業はそれなりに真面目に出席していたし、単位をとることは難しいことではなかった。サークルや部活をやっていたわけでもなく、週一回家庭教師のアルバイトをして最低限のお金を得て、空いた時間で好きなだけ本を読んだ。そうして滞りなく卒業し、司法試験に臨んだが失敗。次は受かるさと翌年2回目の受験に臨むも失敗。一度実家に呼び戻され、家族会議が開かれた。次は絶対受かるから、受けさせてくれと強く言った。母は応援してくれたが、父は何も言わなかった。そして3回目の試験に私は見事失敗したのだった。私はここぞとばかりに涙を見せ、後1回だけチャンスをくれと親に言い放つだけの厚顔を持ち合わせていた。生まれて初めて父の怒鳴り声を聞いたが、逃げるようにして京都にもどった。メールのやりとりだけになっていた彼女からメールの返信が来なくなったのはその頃だ。京都と名古屋で会いにいこうと思えばいつでもいけるのだが、メールも電話も通じない相手にわざわざ会いにいくこともない。だが、とはいえ何故彼女がそういった行動に出たのか聞きたいという思いは未練として残っている。いや、聞くまでもないか。
今は4回目の試験に向けて勉強している。母からの仕送りは未だ続いている。当然のことながら父はそのことを快く思っていない。就職して、働きながら司法試験の勉強をしているという話もあちこちで聞いたが、勤労意欲が人一倍薄い私は週1回のアルバイトを2回に増やしただけで、相変わらず好きな本を読んで日々を過ごしている。次の試験に失敗したら・・・。そう思うのが普通であろうが、私は不思議と平穏な日々を過ごしていた。何もかもがリアルではなかった。

ある晴れた日の昼下がり

 その日は久しぶりに朝早く起きた。5時。普段より2時間も早い。カーテンを開けるとまだ外は薄暗い。ごみ袋を縛って外に出しにいく。4号室(部屋は全部で6部屋、ちなみに私は3号室)の李さんがごみ袋を引っつかんで部屋から出てきた。案外朝早いんだな。短パンにキャミ。相変わらずだらしない格好だ。「コンニチワ。」「おはようございます。」
 部屋にもどるともう柔らかい日差しが部屋を満たしていた。プレイヤーにレイ・チャールズのピアノセレクションをセット。壁に掛けたモンドリアンにふと目がいく。万年布団を上げて、窓の外で視界を遮るように横切っている物干し竿に掛ける。手元を誤れば即布団が一階の庭に落下してしまうため、多少の緊張感がある作業だ。木蓮の香りが漂ってくる。枕も乗せる。ジャーに残ったコシヒカリをお椀によそいレンジに入れる。ほうれん草のお浸しに納豆。伊勢たくわん。筍の味噌汁。
 飯を食い終わり、1階共同洗面所にて皿を洗い、別棟のトイレにて用を済ませる。パリッとした服に着替えて、散歩に出かける。日差しが強いな。まずは北大路白川まで足を伸ばし、そこから南へ向かう。ラブホテルの前を通って、工繊前を抜ける。今出川通りにぶつかって・・・今日は東に行くか。朝鮮学校のところ辺りまで行って引き返す。工繊までもどり、テラスにて読書に勤しむ。
 昼飯を食いに進々堂に向かう。中庭に面した席に座りカレーパンセットを注文。旨い。パンが良い。接客は年々質が低下しているが、黒田辰秋の机と椅子は健在。瀟洒なファサードにシックな店内は相も変わらず素晴らしい。む・・・客がいるのにモップがけはやめてもらいたい。
 店を出て、手馴れた足取りで吉岡書店に向かう。強い日差し。風が気持ち良い。遠くでサイレンの音が聞こえる。書店に入る。私は何度この店の暖簾をくぐったろうか。その回数を今ここで述べることはできないが、少なくともこれまでに食べたモズクの数よりは多いだろう。社会の欄を眺める。何度も見ているので何がどこにあるのかはある程度把握している。大澤真幸が売れたな。いつか読みたいと思いつつ手を出しかねていたが、買っておけばよかったか。百万遍の北のモスに入り読書に耽る。
本を読むうち、いつの間にか私の思考は本の内容を離れていった。今年で4年目になる司法試験のこと。成果の出ない私に延々と仕送りをしてくれる母の顔。そのことを快く思っていない父の顔。出来の悪い息子で申し訳ないし、だからこそ頑張ろうと心に火がつくときもある。もっとも、その火は小さく、すぐに消えてしまうのだが。連絡がつかなくなった元カノは今どうしているだろうか。
気がつくと窓から差し込む日の色がとろっとしてきた。さあ、そろそろ帰るか。

夕日に燃えた一辺の思い

 下宿は焼けていた。真っ黒。柱が何本か燃え残っている。李さんがパンティにブラという格好で消防士を誘惑している。やめなさい。浅煎りだったマンデリンブレンドは深煎りになったかな。デカルトは燃えてしまったか。ハイデガーも、レヴィ=ストロースも、フーコーも、ホワイトヘッドも。そうか冷蔵庫も電子レンジも燃えてしまったか。10年来の相棒であった鍋も失った。どうやら私に残されたものは、ハードカバー一冊と今着ている服、それとわずかな金だけのようだ。いいさ、形あるものはいずれ崩れる。買いなおせば済む。
ふと、視線が燃え残った柱の根元にゆく。そこには見慣れた陶器があった。それは紛れも無く私のコーヒーカップであった。しかし、それは四散、変色しており、無残な姿を晒していた。それはあまりに原形を留めていないため、今この世でそれをコーヒーカップと認識できるのは私のみであろう。とはいえよく考えてみると、それが完全な形、本来あるべき姿であったときでさえ、それは私抜きではコーヒーカップでいられなかった。私がそう呼び続けたからこそ、ただ私を通してのみそれはコーヒーカップであり得たのだ。それが今はなんだ。確かに私は、それが私と出会ってから消し炭になる寸前までコーヒーカップであったことを理解してやることができるが、しかし、今や私にとってすらそれはコーヒーカップではなくなってしまった。コーヒーカップとしてのそれは死んだのだ。
鼻の奥に刺激を感じた。珍しく私は感傷的になっているようだ。無常観か。いや違う。そんな大層な言葉を持ち出さなくてもよい。単なる喪失感だ。なにしろ京都に来て以来溜め込んできた、愛する者達を一時にして失ってしまったのだから、喪失感もある。
ともあれ私は生きている。私は私の持ち物をほぼ全て失ったが私が失われたわけではない。だがなぜ、私は生きているのだろうか。肺が外気を取り込み、ヘモグロビンが酸素を血液中に取り込み、心臓と全身を張り巡らした血管は体のいたるところに酸素と栄養素を送る。脳は脳の働きを、心臓は心臓の働きを、筋肉は筋肉の働きを律儀に文句なくこなしてくれる。だが、そのことが“なぜ”に応えているとは言えない。“なぜ”は目的を問うているのだ。なぜ自分の将来に何も求めていない私が生きているのだろう。何によって、何のために私は生きているのだろうか。それに答える術を持たない私はこれまで自分自身の存在を確かなものと感じたことはなかった。4回目の司法試験に向けて勉強をする自分。田舎の両親の顔を思い浮かべる自分。別れた彼女の事を思い出す自分。本を読む自分。本を読む自分は最も自分らしくあったし、どの自分も自分らしく、自分の生きる理由となっていそうではあったが、私がそういったものにリアルを感じられないで、ここまで生きてきたのも事実だ。
私は何かに生かされているだけなのだろうか。私の意志とは別のところに私を生かすメカニズムのようなものがあって、それゆえに私は生きているのだろうか。コーヒーカップが私無しにはコーヒーカップでありえなかったように、それ無しに私があり得ない、そのようなモノが何かあるだろうか。
いやいや、そんな言葉遊びで私の存在に対する疑問に的を得た解答を出そうなどと思っているわけではない。ただ、そんな考えを否定することも私には出来なかった。あまりに私は私の感情を持て余していた。私が私の感情を持て余しているということ自体を根拠として、私の理性はそんな考えを肯定する側に組していたのである。その理性は感情に支配されたガラクタのようなものなのかもしれない。だが、その“感情”。その“感情”こそリアルではないか。3回目の試験に落ちた時、彼女からのメールが返って来なくなったとき、いったい私はどれ程の感情を持ちえたであろうか。少なくとも私は私自身がそれらの出来事を冷静に受け止めたように思える。親への言い訳を考え、彼女の去った寂しさを“寂しさ”として把握した。
今、私の理性を支配する“感情”は私が私の愛したコーヒーカップを、鍋を、冷蔵庫を、下宿の廊下を、離れのトイレを失ったことから来るものである。そう断言する以外にない明白な状況がここにはあった。そう。私はそれらを失うことによって、初めて私のリアルがどこにあったのかを確認し、同時にそれが、たった今灰燼に帰してしまったことを理解したのだ。
私をこの世につなぎとめていたのは今年で4回目になる司法試験でも、田舎の両親でも、別れた彼女でもなかったのだ。それはただそこにあって、日々私と生活をしていた物達であったのだ。バカバカしいと笑う人間もいるだろう。それは正常な反応だと私は思う。だが私のリアルはまさにここにしかなかったのだ。だから私には、私が生きている証、私が生きていく目的、そうしたものが一時に失われたように思えたのだ。

夜の静寂の中で

私は素知らぬ顔で現場を離れ、近くの金物屋に寄った。ポケットからくしゃくしゃの1000円冊を2枚とりだし包丁を買う。もう日は落ち、あたりは暗くなっている。糺す森にて包丁を喉に突き立て、私はこの世を去った。

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