厳粛な喪服姿の葬列が煉瓦の街を練り歩く。その列が向かう先は街の中心の大聖堂だ。狭い棺に押しこめられた主役はもはや不平を言うこともない。あの女が死んでせいせいした、そんな酒場の陰口に石を投げることもない。ろくに神を信じたこともないその主役は、敬虔な僧侶同様、土にかえるまで沈黙を守るのだろう。
 その葬列に私の姿はない。なぜなら私は棺の中にいるからだ。自分の死ぬ夢を見ることが多くなってきている。心よりも、体のほうがやがて来るだろう時に怯えているのかもしれない。
 そして、大聖堂に棺は迎え入れられる。参列者には見知った顔もある。でも、そんな人たちはどうでもいい。今更、唾を吐こうが、来世の幸せを祈ろうが、私は呪いもしなければ、加護も与えない。私があなた方を痛めつけたのは事実だし、それを詫びるつもりもない。私はその罰を甘んじて受け入れるつもりだ。
 ただ、そんな私だけれど、許されるなら、最後に一つだけ願いを聞き入れてほしい。
 どうか、その葬儀にいとしいあの人の姿はありませんように。

   


「ずいぶん長くうなされていましたよ」
 柊(ひいらぎ)の声が聞こえたので、二時過ぎの午睡から現実に戻ってきたとわかった。柊はいつものように掛け布団の私の胸のあたりに手を置いていた。その手の熱が私に広がっていき、覚醒を促してくれる。
「また、死ぬ夢を見たわ。今は三時ごろかしら」
「いいえ、もう五時前ですよ。そろそろお夕飯の仕度する時間です」
 体を起こして時計を見た私は愕然とした。そんなに長く眠っていたつもりはないのだが。やはり、体は確実に弱ってきている。進行速度が思ったよりは遅いと喜んでいても、悪くなるのを止められるわけではないのだ。
「だんだんと眠りが深くなっているわね。こうして、そのうち、いつまでも目覚めなくなるんだわ」
 窓の外の暮れかかった弱い日を見つめながら、私は言う。昔は手入れの行き届いていた庭も今ではところどころに雑草が生えてきている。その雑草が咲かせた青い花を私は愛でるべきなのだろうか。
「ええ。もっとも、わたくしとしましては、もっと早くお嬢様にはお隠れになっていただく予定だったのですが」
 微笑みながら憎まれ口を叩く柊のことももう慣れてしまった。今更、体面を誰に対して取り繕うというのだろう。
「あなたが自由にお金を使える時間を少しでも短くしてやるわ。それも、どこまで持つかはわからないけどね」
「むしろ、すでにじゅうぶん長生きされていらっしゃると思うのですけどね。二十三歳のお誕生日も近づいていらっしゃるでしょう。お医者様の話では二十歳を迎えるのも厳しいというお話しでしたのに」
「そうね。私も同じ意見だわ」
 棒きれのように細くなった腕はそれでも血が通っていて、私は人の言葉を話している。あと何か月、あるいは何日耐えられるかはわからないけれども。
 少し胸がむかむかとした。長く寝過ぎていたせいだろう。体のリズムが崩れてきているのだ。このままでは一日外に出ないままになってしまう。
「少し、庭を散歩したいわ。車椅子を出しなさい」
「おおせのままに」
 私のことを見下しながら、柊は優雅に微笑んだ。

   


 私が柊を拾ったのは、今からちょうど十年前のことだった。私の体は早くもひずみが現われてきており、他人にはわからない痛みで毎夜、目を覚ましていた。母がその前年、三十二歳で亡くなったことを考えれば妥当な兆候だった。
 寝不足は顔をオオカミのような猜疑心の強いものに変え、屋敷の人間からも気味悪がられていた。彼らには私の姿が死神のように見えたのだろう。お付きのメイドとも折り合いがつかなくなり、私は別の召使を手に入れることにした。自分に絶対服従で、自分以外の誰にも従わない、そんな召使を私は欲していた。長く生きられない宿命を背負っている私は、当時から心身ともに不健康だったのだ。
 孤児院に行けばていのいい人材が見つかるだろう。そんな見通しもない考え一つで私は近くの施設を見に行った。ちょうど桜の花のきれいな、悲しいほどによく晴れた日だった。車で川を渡ると、水面に朱色の花びらが血のかたまりのように浮いていた。
 施設に入ってすぐに私は強い悪臭を受けて、手で鼻と口を覆った。不快な甘ったるい臭いが狭い建物の中に広がっていた。体をろくに洗ってもいない人間の体臭と、尿の臭いも混ざっているのかもしれない。施設の職員が、赤ん坊のような幼子も多いのでと申し訳なさそうに説明した。
 品定めの目つきで私はその中をゆっくりと歩いた。彼らはみな薄汚れた体で、しかも未開の野蛮人のように未来を知らない顔をしていた。今を生き延びるのに精いっぱいで、他人を導くような力はないのだ。そのことを率直に告げると職員は、必要以上に頭を下げてから言った。
「お嬢様のお話しされるとおりでございます。もちろん、生きる力にあふれておる者もいるにはいるのですが、そういった者は早くに自立し、巣立っていってしまい、ここには残りません」
「どこでも強者は逃げていくということね」
 私は疲れた顔で、二階の階段をあがった。一階はもう諦めていた。これでめぼしい子供がいなければ、ほかを当たるしかないだろう。私に必要なのは不遜なほどに強い力を持った人間なのだ。といっても、二階も一階の子供と大同小異で、私は帰り支度を考えていた。そして、心が諦めに変わりはじめていた時、強い視線を感じた。
 その娘は遠くから私のことを睨みつけていた。衛生のために髪の短い孤児が多い中で、梳いた美しい髪をしていた。年は私と同い年ごろだろうが、発育の悪い私より頭一つ分背が高かった。
「貴族の娘が何の用だ」
 その娘は、よく通る硬質の声で言った。
「召使候補がいないかなと思ってね。でも、なしのつぶてだわ。みんな、卑屈なんですもの。神は誰に対しても祝福を与えてくれるというのはウソなのかしらね」
「ふざけるな。生きるための苦労も知らない人間に言われたくなどない。お前、北の城の領主の一族だろう。この五百年、お前らほど最低な支配者はいなかった」
 娘を止めに入ろうとする職員を私は制して、そばまで近づいていった。
「よくご存じじゃない。私は最低な一族の中でも、さらに最低な人間よ。名前はエリザベータ」
 私はその強気な顔に手を伸ばした。娘はくすぐったそうに、顔をそらそうとしたが、私は許さなかった。
「そんな最低な一族を乗っ取るつもりはない? あなたはしばらくの間、私に仕えるだけで富を手に入れられるわ」
「何を考えている。お前は家に虎を入れるつもりか?」
「虎でもいいわよ。どうせ、こんな一族、どうなろうとかまわないから」
 生きるために日々を過ごしていた娘には、死ぬために日々を過ごす人間の気持ちなどわからなかっただろう。
「私はいずれ死ぬわ。今日明日ということはないでしょうけど、長くて十年ぐらいかしらね。そしたら、私が与えられるだけのものをあなたに残すわ。歴史をあなたが継げばいい。伝統を守る以外のことを何も知らない重臣たちは私が追い出してあげる」
「ただし、それなりの代価を要求するんだろう?」
「仕事は簡単よ。私が死ぬまで、あなたは私に忠誠を尽くすの。後世に美談として残るほどにね。それを守るつもりがないなら、すぐに暇を出すわ。毒を盛る小間使いを雇うぐらいなら、私が毒をあおるもの」
 命は有限だ。そして、私の命はたいていの人間よりもさらに短い。その生を価値あるものにするため、私は最高のしもべを一から作らないといけなかった。だから、私は自分の寿命と金で「忠実」なしもべを買う。
 女の心に損得のはかりが揺れ動いているのを私は見た。
「ああ、それとね、私がいよいよ息を引き取ろうとするその時にね、こう言ってほしいの。『あなたを愛しています』と。職務は以上よ」
「そんなふざけたことをして何になる?」
「だって、誰からも愛されていないままの人生って、最悪じゃない」
 その時、どんな顔をしていたかわからないが、娘の顔がほころんだので、きっとよほど大真面目に言ったのだろう。
「わかった」
 長い沈黙の後、娘は言った。
「これからは柊と名のりなさい」
 私は葉にトゲのある樹木の名前を娘に与えた。娘の名前は尋ねなかった。過去に興味などなかったからだ。

   


 屋敷の庭は丘のてっぺんのほうまでずっと続いている。この丘の三つ先までは私の土地だ。街から離れた山から私たちはずっと庶民を見下ろしてきた。その傲慢さは資産の分散を防ぐための近親婚のせいで、いよいよ濃く深くなっていった。
 その丘のゆるやかな道を車椅子が通っていく。ところどころ、石が出張っているところもあるが、柊はそれを熟知しており、私をつまずかせるようなことはなかった。会った時から一目でわかったが、利口な女なのだ。
「皮肉なものですね」背後から冷たい、あきれたような声がする。「世界中を飛び回れるだけのお金があるのに、庭を見て回るほどの体力しか残っていないなんて」
「見てみたいところなんてないわ。私たち一族の世界はずっと昔から、この土地で完結していたのよ」
 私は手慰みに髪を弄んでいる。透けるような茶色と郎党が誉めたこの髪は、悲しいかな、病的な私の弱さのせいということだ。
「わたくしはピラミッドをぜひ一度見てみたいですね。ギリシアの神殿も」
「私が死ねば、好きなだけ暇ができるでしょう。どこへなりとも行けばいいわ」
 一族の者が聞けば卒倒するような会話だが、私たちにとっては日常茶飯事だ。どうせ、はらいもされていない敬意なら、本音をぶつけあったほうが手間が省ける。それに、お互いに何を考えているかぐらいすぐにわかってしまうのだから。十年というのは、そういう時間だ。必要な時だけ、完璧な召使を演じてくれればそれでいい。
「もとよりそのつもりですよ。こんな死の臭いの染みついた土地に住み続けたくなどありません。ここには生命の力がないんです。すぐに霧がかかり、土を濡らします。そして、住む人間の体を侵すのです」
「そうなのかもしれないわね。だから、私たちはすぐに死んでしまうの」
「なら、早く死んで下さいませんか、お嬢様。わたくしは早く約束の給金がいただきとうございます」
「化けの皮がはがれるのが少し早すぎるわよ、柊」
「ここでわたくしが出ていけば、お嬢様は風雨にさらされて死ぬことになりますよ」
 夕焼けの色が末期的な赤になっている、思っている以上に夜が近づいていた。私たちのひどい会話が早く夜を引き寄せているのかもしれない。
「それにしても、柊は強欲ね。生まれが悪いからかしら」
「お嬢様の一族ほどではありませんよ」
「まったく、そのとおりだわ」八代前の当主は土地めあてで醜い貴族の未亡人と再婚した。その当主は死後すぐに強欲公とあだ名されるようになった。その血を受け継いでいるのが私たちだ。「だから、私たちの一族は欲にまみれているのよ。血はろくに広がっていないしね。そして、遅い罰がようやくやってこようとしているというわけよ」
 私はすべてを呪うかのように笑った。この忌々しい家もやがて潰える。古ぼけた書物の中だけのものとなる。さあ、早く審判が来ればいい。
 どうせ、私たちに生きる権利などないのだ。
「お嬢様」
 柊の声の質が冷たいものに変わったのがわかった。また、いつものお小言か。私はつまらなさそうな声を出す。
「一度、教会で罪を打ち明けられてはいかがでしょうか。あとで後悔しても時間がありません」
「罪って、私の誰に対する罪よ。無辜の領民を磔にしたことなんてないはずよ」
「お父上にも、伯母上にも、執事様にも、この屋敷にいらっしゃったすべての方にお嬢様はトゲを持って接してこられました。それが皆々様を苦しめ、悩まされたことはわたくしから見ても間違いございません」
「この屋敷を乗っ取ろうとしている人間が吐くセリフではないわね」
「当初はわたくしもそのつもりでございました。ですが、ひとたび内側に入ってみれば、みな、慈愛の心を持たれた人たちでありました。もちろん、慈愛の程度によって、それがご家族の間にとどまったり、領民まで届いたりといったことはございましたが、少なくともそれが自愛でしかないなどということは決してありませんでした」
 私は何も答えなかった。無意味だからだ。懺悔を繰り返したところで、私が傷つけた人間にどれほどの意味があるだろうか。両親は私が心を開かなかったことを嘆いて墓に入った。
「コースを変えるわ。次の道を左に折れて、そのまままっすぐ」
 いつもの散歩コースとは違う道を指示した。背の高い木がトンネルのようになって、一足先に夜の暗さを演出していた。木々の陰にはイカリソウが小さな白い花を咲かせていた。春の花の中で私はイカリソウが一番美しいと思う。誰にも気づかれることなく、散っていくこの花には桜のような下品さがない。真に美しいものは誰の目にも触れないはずなのだ。人目に触れれば、美しいものは汚れてしまうのだから。
 顔をあげると、梢に巣を張った大きな蜘蛛が見えた。あの蜘蛛が降りてきて自分を刺してくれればいいのにと思った。途切れて死にそうになった話題を私はようやく拾い上げる。
「柊、あなたは私の召使なの。私のためだけに生きていればいいのよ。ほかの一族のことなど考えなくていいの」
 柊はもう口応えはしなかった。それが、私が柊を教育した成果なのか、柊の生まれもっての従順さのせいなのかはわからない。ただ、私は命令に従う柊に満足を覚える一方で、つまらなさも感じていた。
 猫ぐらいなら視線だけで殺せてしまいそうだった、柊のあの気高き心は十年の間に摩耗しているように思えた。それは現実を知ってしまったせいだ。十年前の孤児の柊は孤児院の中しか世界を知らなかった。だから、その他のすべてを憎むことができた。でも、今の柊は優秀な召使の枠にとどまってしまっている。口の悪さはまだ消えていないにしても。
 また、気分が悪くなってきた。寝すぎの害は外の空気を吸っても、なかなかなおりそうにない。深呼吸をしようかと考え、こんな陰気なところの空気など吸えば逆効果だと自分を戒めた。
 それから三分ほどの間、私たちは無言でその小道を進んだ。この奥に何があるのか、柊だってよく知っているはずだ。木陰の闇は私に染みつき、二度ととれそうになかった。自分から来ることを決めた場所なのに、心が波打っている。膝の上で両手を握りしめ、耐えようと決めた。
 そして、車椅子はゆっくりと停止した。
 目の前にはいくつもの墓標が整然と並べられていた。
 向かって一番手前の大きなものが初代の墓、その後ろが二代目、何代か続いて左の列に移って、前から三番目が四年前に亡くなった父親のものだ。すぐ横に母親のものもある。その他、血のつながりもよくわからない墓がいくつも建てられている。歴代の執事の墓は脇にそれた道の先にある。もっとも、私が最後の当主になった時点で残っていた連中にはみんな暇を出したから、彼らの墓は遠くへだたった終焉の地の近所になるだろう。
「この光景を見て、どうして悔いることなんてできるのかしら」
 私はゆっくりと車椅子から立ち上がった。
「私が生まれてからもこの墓は増え続けたわ。むしろ、早くこの仲間になりたいとでも言うみたいに、ばたばたと死んでいった。土地を守るためにいとこ同士でくっつきあって、血を濃くした結果がこのざまよ」
 自分の召使のほうを振り返り、睨みつけた。つまらない善人風を吹かせる人間になれなどと私は言っていないはずだ。私と一緒に悲しい一族を嘲り笑ってくれないといけない。そして、私が死ぬまで私を愛してくれないと。私が死んだ後には、もちろん笑い飛ばしてくれればいいけれど。
「私が生まれた時からこうなることは決められていたの。私が悪徳を貪ろうと、修道院で貞淑に暮らそうと、結末は同じなの。ここまで愚かしい一族をバカにしたところで、どこに咎められる理由があるの? どうせ、私の背後には死、死、死! 死しかないのよ! 死の鎖が私にもつながっていて、引きずりこもうとしているの!」
 悔いる気持ちはないけれど、情けなくて涙が出てきた。じっくりと墓碑を読むわけなんてないが、母親の墓碑には「命をつなぎなさい」という言葉が刻んである。私の代になって、ついに子供を宿す体力もなくなっていたと知ったら、あの人はなんと言うだろうか。
「そして、四年前についに私以外、みんな死んでしまった。ようやく、私は全権を手に入れたの。この富を、柊、あなたに残す力をね」
 こんな時に限って、ありがとうともうれしいとも言わない柊に腹が立った。
「私の過去はすべて終わっている。私の未来も、もうない。この血は誰にもつながらない。だから、せめて」
 私はバカみたいに立ち尽くしている柊の胸にしがみついた。こんな私の気持ちすらわかっていなかったというのか。そんなの、召使失格だ。
「せめて、私の召使ぐらい、私で選びたかった。どれだけ富と力があっても、私が決められるものなんて、それぐらいしかなかった! 誰にも負けないほど優秀で、出自も不明で私だけを愛してくれる召使を!」
 涙がこぼれてきた。とても人には見せられない姿だ。また一族の名に泥を塗ったかもしれない。むしろ、望むところだ。
「ごめんなさい」どうして、謝るのよ。それぐらい知っていたと言いなさいよ。「わたくし、お嬢様のお気持ちを汲むことができずに」
「私が死んだら、好きなだけ唾を吐いてくれていいわ。信じられないほど、性格の悪い女だと言いふらしてくれてもいい。でも、私が死ぬまでは私を愛していて。都合のいい言葉で私を騙して。そのために、私はあなたを――――」
 不意に息ができなくなった。興奮したせいだろうか。いや、もともと終わりが迫っていたのだ。意識がおぼろげになって、私は膝をついた。柊に引き上げられる感覚を最後に記憶が途絶えた。

   


 また、葬列の夢を見た。私の棺が運ばれるのは小さな教会に変わっていた。その教会の中に柊の姿があって、私はあわてて目を覚ました。
 私の手は柊に握られていた。いつもは冷たい手が、ふやけそうなほどの熱を帯びている。柊のせいかと思ったが、すぐに体が強く発熱していることに気づいた。体が内側から溶けてしまいそうだった。
「先ほどお医者様をお呼びいたしました」
 柊はそこで声を小さく下げようとした。その後は私が接ぐ。
「長くはないということでいいのかしら」
「今夜が峠だと」
 峠が明日になろうと一週間後になろうと、たいした違いはない。私の体は、借り物のようにまともに動かせなくなっている。これが、そのうち、まったく動かせなくなるだけのことだ。
「今までありがとう、柊。最後に恥ずかしいところを見せてしまったけれど、あなたを選んでよかったわ。私の生まれる前から屋敷にいるような老人たちに看取られるより、はるかにマシだわ」
 この広すぎる屋敷には私と柊しかいない。二人だけでは隙間を敷き詰めることはできなくて、庭に雑草がはびこったりもしているが、それでもこれが最善だと言いきれる。少なくとも、ベッドの前に郎党を並べておいおい泣かれるパフォーマンスなんて地獄に落とされても嫌だった。
「何か食べたいものはございますか? どうせ死ぬのだから、どんなものだって作って差し上げますよ」
「死ぬまでここにいて」
 微笑む柊に私は短く言った。
 タオルを濡らす桶も用意されていて、私はほっとした。自分が消え去るまで柊にはこの部屋から出ていってほしくなかった。
「わかっていますよ。眠ってしまってはまずいですから、何かお話しをしましょうね」
 私たちは、本当に心底くだらないことを語り合った。今年は凶作になりそうだとか、街で泥棒が多発しているだとか。どうせ、死んでからのことなんて話しても、まともに死後の永遠の生命も信じていない私には意味がなかった。永遠なんて死を言い換えただけのことだ。
「ねえ、柊、あなた、春のお花のなかで何が一番美しいと思う?」
「カタクリの花です。地に這いつくばるように咲く、あの様子がなんともけなげですよ」
「惜しいわね。一番なのはイカリソウよ」
「そうですわね、イカリソウはまるでお嬢様の一生のように儚いですわね」
 神も悪魔も死神もここにはいなかった。ただ、私と柊だけが二人には広すぎるこの屋敷を占領していた。心の中で私は死んでいった者たちに「ざまあみろ」と汚い言葉をぶつけた。すべて、私の思い通りになるのだ。
 安静にしているのに、熱は下がるどころか、徐々に上がっているようだった。このまま、私という人格を壊すまでにこの熱は上昇を続けるのだろう。柊がタオルを取り換える頻度も早くなっている。私の中で人でない部分の割合が増えてきているようだ。生きるとか死ぬとかいったことは、二つに明確に分離できるようなことではなくて、程度でしか示せないのかもしれない。
「いよいよですね」
 柊が豪華客船の出立を待つかのように言った。
「そうね、長い付き合いになったわ」
 まともに記憶もない幼子の頃を除けば、私の人生の大半は柊がいたことになる。その点では十二歳の私の計画はそれなりに上手くいったと言えるだろう。
「何か言っておきたいことはありませんか、お嬢様?」
「死にたくない」
 その言葉には私自身すらも驚いてしまった。これだけ死にさらされた生活をしてきて、それでも私は逃げたいと思っている。そこは完全な闇で、柊だっていない。
「そのわがままは、さすがのわたくしでも叶えられそうにないですね」
 新しいタオルを載せながら、柊は苦笑する。
「笑わないでいいわ。泣きなさい」
 だんだんと私はなりふりかまわず命令をするようになる。
「私が死ぬことをもっと悲しみなさい。お願いだから」
「努力しますが、すぐには難しいかもしれません」
「何を甘えたことを言っているの? あなたはこのために雇われたようなものなのよ。どうせ死ぬしかない私がせめて幸せに死ねるようにね」
 全身を使って声を出していた。そうしなければ、声が出なくなりかけていた。少しずつ、動かなくなっているところが増えている。
「じゃあ、私を愛していると言って」
 人間というのは、本当に独りになることを怖がる生き物なのね。そう、強く感じた。私はこの世の果てにある世界に、この世で得たものを持っていこうと、あくせく働いているのだ。
「ほら、最初にあなたを拾った時に約束したわよね。私が安楽に臨終を迎えるために、愛していますと言って」
「そういえば、そんなことをおっしゃっておられましたね」
「そうよ。ほら、早く私を幸せにして!」
 それがウソでもかまわないのだ。どうせ、死んでしまう私には、その後のことなんてわからないのだから。私は自分が選び取った召使に愛されたまま消えることができる。
 なのに――――
「嫌です」
 いつもと同じ調子で笑いながら、柊は言った。
「わたくしはたしかにお嬢様の御恩を受けてまいりました。ですが、わたくしはお嬢様を愛しているなどとは申せません」
 ふざけたことを言うなと訴える気力も湧いてこない。
 柊はこのタイミングを狙っていたのだ。十年かけて。私を奈落の淵に突き落とす瞬間を!
「お嬢様は傲慢で偏屈で、滅びゆく人間にすら心を許さず、傷つけてまいりました。そんな悲しいお気持ちを抱かれる確固たる理由があったとしても、わたくしはお嬢様を許すことはできません。たとえ、偽りの言葉であろうと、愛などとつぶやけるでしょうか」
「どうして……私に逆らうのよ」
「お嬢様の生き方は間違っていたということです。その証拠に、あなたは今、死ぬのを心から怯えている。それが人を傷つけてきた報いなのですよ」
 恐怖の上に絶望が塗り重ねられて、私は何も考えることができなくなってしまった。
 しかも、これは予想外の話でもなんでもなく、私自身がまいた種なのだ。一族も家来も信じられなかった私が、どうして一人の心を操れるなどと思いこんでいたのだろう。
「あなたはどこまでも歪んでいます。誰にも心を開かず、自分の気持ちを理解してもらうためだけに、召使を雇った。それも、死ぬまでは自分を愛していると言ってくれだなんて、ふざけたことを言って」
 これが報いか。私は息を吐いて観念した。人を傷つけて孤高を気取っていた結末が、これだ。今から私が傷つけたすべての人に謝れば許してもらえるだろうか。きっと、誰一人として許してはくれないだろう。
「どうせなら……もっと、はやく、教えなさいよ」
 自分の生が失敗だったと認めたら、急に気分が楽になった。失敗作は失敗作のままに消えればいいのだ。むしろ、せいせいするぐらいだ。私はさらに恥知らずなお願いを柊にしようとしていたのだから。
「さて、わたくしの気持ちはわかりましたね。残念ですが、お嬢様が死ぬまで、そばにいてあげることはできません」
「ええ、どこへなりとも行きなさい。私は寂しく、旅立つわ」
「いえ、そういうわけにもいきません」
 柊はポケットから数粒の錠剤をとりだした。
 私は完全に言葉を失う。それは、「もしも」の際に私が用意していたものだった。もしも、柊が私のことを心から愛していてくれた時のために。
「お嬢様のひきだしに入ってございました。毒薬ということで、間違いございませんね」
 許されるなら、私は柊と一緒に死にたかったのだ。ほかに自分が持っていけるものなどないから。
「毒を飲ませて、殺すの? いいわよ。どうせ、すぐ死ぬんだから……」
 私は最後の強がりで笑った。体中が痛みを発したが、そんなことどうだってよかった。生きることと笑うことは私の中で同義になっていた。
「このまま病に殺されるぐらいなら、柊に殺されたほうが、マシだわ。だって、それなら、私は私の選択で命を終えたことになるんだから」
「そんな無益なこと、いたしませんよ」
 しかし、いつもの笑みを浮かべて、柊はその薬を呑みこんだ。
 あっけにとられる私のことなど気にせず、柊はベッドに入ってくる。そして、私を静かに抱きとめる。これは夢なのだろうか。視界に靄がかかりはじめている。
「お嬢様は本当に最低の人間です。領民はおろか、家臣やご家族ですら愛そうとしなかった。神だって信じようとしなかった。あなたほど地獄がお似合いな人もほかにいませんよ」
 この熱は私の体から出ているものだろうか、それとも柊のものだろうか。同じグラスに注ぎ入れた二つの水のように区別はできない。
「そんな姫様の従者となったのが運のつきですね」
 目を開けるのもつらい。柊の声だけが私を撫でる。
「いったい、何のつもり?」
「愛していますと囁かれただけで満足するようなお嬢様の生が許せないのですよ。もっと、真剣に生きて下さい。人が恋しいなら求めて下さい」
 ふと、耳に柊以外の音が入ってきているのに気づいた。私たち以外に住む者なんているわけもないのに。あの世の音が耳に聞こえてきているのだろうか。私のすぐそばで滝が落ちている。それとも、落ちているの私自身だろうか。
「わたくしは、あらゆるものを憎んで孤児院で生きてまいりました。信じられないかもしれませんが、わたくしが人の尊厳を初めて見たのは、このお屋敷なのですよ。滅びゆく運命を前に、お嬢様のお父上も、その従者たちも、ただ、ただ、誇り高く生きていらっしゃいました。わたくしはこのお屋敷で初めて人間になれたのです。ですから、ここで最後の当主を守るのがわたくしの使命でしょう」
 ああ、この音は、屋敷に住み着いている幽霊の出すものなのか。幽霊ということは永遠の生命なんて得られなかったということか。
 私はこの家のすべてが嫌いだった。この家のすべてを傷つけてきた。それは何があっても変わることはない。私はその罪とどのように死んでいけるのだろう。
「一緒に地獄まで落ちてあげますよ」
 柊の顔が近づき、短いキスが私の唇を奪った。
「それに、こんな傲慢なお嬢様を愛してしまったわたくしも罰を受けるべきですから」
 柊がそっと私の手を握る。健康な白い手がやがて私と同じように止まってしまうことに腹立たしさを覚えた。
「あなた、本当にバカね」
「そうですね。でも、お嬢様の耳もとで愛を囁くなんて偽善はできませんから」
「たくさんの人を傷つけてきたけど、やっぱり、悔いはないわ」
「きっと、地獄に落ちますね」
 地獄にでもどこにでも落ちてしまえばいい。
 私が傷つけたありとあらゆるものに、言っておこう。私は悔いたりなどしない。そばに柊がいると信じられる限り、私はほかのすべてが無価値で無意味だと言い切る自信がある。きっと、これは信仰とでも呼ぶべきものだろう。
「死体、早めに見つけてもらえたらいいですね」
「腐ったら、死体って混ざり合うのかしら」
「もう、寝ましょう。疲れましたでしょう」
「ええ、そうね」
「遺言もさきほどこしらえておきました。すべて済んだのですよ」
 目を閉じると、淡い光のようなものが感じられた。地獄のくせに派手な演出だなと私は思いながら、意識を投げだした。
 どうか、私の葬儀に柊が参列いたしませんように。

   


 葬列は街の中心の大聖堂を目差して進む。二つの黒い箱が死刑囚を引き回すように運ばれていく。早くしてくれと私は思う。細かい式次第などどうでもよいのだ。どうせ、そんなものは生きている側の都合なのだから。
 たった一つ私が願うのは、最期に召使に書かせた遺言が無事に遂行されるかだけだ。
 ――二人は同じ墓に埋めて下さい。


終わり
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