カーニバル
硬く白い椅子に腰掛け、パンを噛み、肉を噛み、咀嚼する。紙で口を拭く。
炭酸飲料を喉に流し込み、それまで口に含んでいたものと一緒に胃に送り込む。
フライドポテトを二・三本同時に摘まみ、噛む。過剰に付着した塩を口の中でざらつかせ、咀嚼する。
塩辛さを紛らわせるためにまたハンバーガーを口に入れる。飲み込む。
食事中はなるべく無心に、胃の中に物質が侵入していく感触だけに集中する。
私はこの時間を何より大切にしている。
視覚、嗅覚、味覚……ほとんどの人間が食事中に働かせる感覚はこの三つである。
これに時々、何かが焼ける時に生じるジュウゥーという音や、
飲料が容器に注がれる音を察知する聴覚が加えられる。
だが私は更に、触覚を働かせることを重要視している。
これを聞くと、口の中での歯ごたえだとか、舌触りだとかいう類のものを想像する人が多いだろう。
私が言いたいのはそれの先なのだ。
食道と食物が摩擦する感覚、胃に食物が収納され、その重力を認識する感覚、
消化液によって食物をドロドロに分解する感覚、栄養素を体内に吸収する感覚……
これらの行為は、ほぼ全ての人間にとって無自覚のうちに行われる。
私はその一連の流れを、全て感じ取る。自覚することができる。
自分の摂取した物が、自分の血となり肉となるその瞬間。
この時だけしか、私は私であることを自覚することはできない。
多くの場合、人間は自分が何者であるか自覚していることはないのだろうと思う。
何故なら、求められないから。
社会が、と言うと何やら大事に聞こえるが、単純に人間の集合体といったものが個人に求めることは、
それが集団の一部であると自覚することなのである。
個人が個人であるということを自覚することは、特には求められていない。
それを自覚したところで、褒められることはおろか、役に立つこともない。
人間は無自覚でいいのだ。
私は私が集団の一部であるということだけを自覚するために、街を歩く。
雑踏の中をただ人間の流れに従って歩く。
血液中を流れる赤血球のように、私も流れる。
ただ、先ほどの昼食を消化している間、私は自信に溢れている。
自覚した人間として。
消化行為は、私にただただ感情的で神秘的な時間を提供してくれる。
肉体を生成するというフィジカルな事象が、精神を満たすスピリチュアルな保養と直結するのだ。
食事と同じだけ質量の増えた私は、他の人間とは違う人間であるという錯覚を覚える。
或いは、錯覚ではなく事実なのだ。
やがて待ち合わせの場所に到着した。
約束の相手はまだいなかった。私は軽い違和感を覚えた。
これから会う男は徒に律儀な男で、待ち合わせとなると私より遅く来たことはなかった。
いつでも私より先に約束の場所にいて、ニコニコ笑いながら私を迎えるのだ。
私の到着が約束の時間を大幅に過ぎてしまった時も、あの男は笑みを浮かべてそれを許容した。
妙な男である。
私はその男を軽視していた。
常に他人の顔色を窺い、場に波風が立とうものなら自分に非がなくとも真っ先に謝罪する。
彼もまた、自分が何者であるかを自覚せず、集団の一部であることだけを求める人間なのだろう。
それ自体は悪いことではないし、集団から求められることを忠実にこなしているのであるから、賢い行動なのだろう。
だが、だからこそ、面白みはなく、彼は私の興味の対象外だった。
不意に私の携帯電話が震えた。
あの男からのメールだった。
約束の時間に現れなかったことに対する謝罪だろう。
携帯電話を開き、内容を確認する。
『ごめんなさい』
一文だけのメール。
相当焦っているのか、どれほど遅れるのかくらい書けばいいのに。
それとも、手が離せない用件が出来て、今回は会わないということなのか。
私はすぐに折り返そうとした。
……その時だった。
近くでドサリと音がした。
鈍い、低い音だったが、確かに周囲に響く重い音だった。
私は視線を左右に平行移動させる。胸騒ぎがしていた。
何か黒い物が横たわっていた。自分の目を信じたくはなかったが、すぐに人であるとわかった。
そして、その人物は、あの男だった。
「……お、おい」
動悸を抑えながら、そろそろと歩み寄り、声をかけてみる。
すぐ、赤黒い血の水溜りが広がっていることに気がついた。私の靴に血が触れた。
私は血の生臭い匂いで頭が痛くなり、
先ほど咀嚼した物を全て地面に吐き出していた。
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