「なるほど……それ以来、肉が食べられなくなったということですか」

淡い青の壁の診療室で黒い椅子に腰掛けていた。
強めのアロマの香りが、私には少し不快だった。
私は目の前の若い男性心理カウンセラーに経緯を話していた。

「自殺現場に直面したショックによるストレス障害、回避反応ですね」

カウンセラーは淡々と語る。

「警察に事情聴取をされましたが、その時のことはあまり覚えていません」
「無理もありません、ショックな出来事があったのですから」
「私自身、こんなにもパニック状態になるとは思っていませんでした」

力なく、溜め息混じりに付け加える。
あの日に比べて、私は少し痩せた。顔色も悪い。碌に眠れてもいない。
私にとって何よりも大切で神聖な食事の楽しみを、あの一瞬で奪われたのだ。
あの男が忌々しい。そして、こうも簡単に食べることを拒否してしまう自身の体が腹立たしい。

「亡くなられた方とは、どの様な関係だったのですか? ご友人?」
「ええ、まあ……少々、特殊な関係ではありますが」
「と、言いますと?」
「肉体関係がありました」
「えっ、あっ、すると……同性愛ということですか」
「そうですね……と言っても私には恋愛感情はありませんでしたが」

あの男は、私の高校の頃の同級生だった。
高校卒業後、再開したのは去年の同窓会のことで、
何の話をしたのか覚えてはいないが――恐らく映画か何かの話をした。
その日、酔ってあの男の部屋に連れて行かれ、そのまま関係を持ったのが始まりだった。
私自身意外なことに、嫌悪感はなかった。性根が快楽主義者だからであろう。
肉体関係、と言っても、あちらが私の体を愛撫するだけのものであったが。
それからというもの、私とあの男の奇妙な関係は続いていた。

あの男は私のことを愛していると度々漏らしていた。

あの男は収入が高かったので、雑費を払わせたりしていた。
要するに、向こうの恋愛感情に付け込んで都合よく利用していたのだ。
騙していたわけではない。私は遊びであることを告げていたし、心を許すこともしなかった。
最も多く金を使わせたのは、やはり食事だ。
あの男は菜食主義者だった。
いや、何らかの思想を持って動物性食品を排していたのかは正確には知らないが、
とにかく肉を一切食べなかった。
食事を共にする時は、私が肉を食べる様子を、ただ、ニコニコ笑いながら眺めていた。
気色の悪い男だった。

私の要望なら何でも、忠実な部下のように聞く男。
いや、むしろ奴隷か。
あの男が私に金銭的な奉仕をする見返りに、私は少しばかりの『愛情』を彼に提供する。
そんな異常な関係に、私はいつしか慣れてしまっていた。
いつまで続くかも知れない関係。
いつ終わっても構わないと思っていたがまさかこんな形で終わることになるとは……
それにしても、何故あの男はあのようなことを……
私の心がいつになっても自分に振り向かないことを憂いたのだろうか。
そんなことは私の知ったことではない。そういう契約だったではないか。
私の気持ちはあの男に向くことはないし、彼もまたそれに納得していたのではないのか。
それとも、あの男は私が彼を愛さないことに対し密かに復讐心を抱き、
私の脳裏に自らをいつまでも焼き付けようとして――あんな行動に……
考えていると、またあの日の光景が思い出され、吐き気を催した。
もし、この推測が当たっているのなら、私はあの男の思う壺にまんまとはまってしまったのだ。
忌々しさに私の肩が震える。

「お願いです、私はまた肉が食べたいのです。私の唯一で最大の楽しみだったのです。
 このままでは、もう私が私ではなくなってしまう。鏡を見ても、もはや私ではない誰かが立っている……」
「落ち着いてください、落ち着いてください」

カウンセラーはまた淡々と語り始める。

「あなたの場合、恋人……あ、いや、ご友人の死に対してトラウマを負っているというより、
 ショッキングな光景を目の当たりにした、視覚的なストレスが原因なのでしょう」

当たっているのかも知れない。
私はあの男の死に憤りを覚えることはあっても、同情したり、責任を感じてはいない。
しかし、一方で、何故あの男が私の前で自ら命を絶ったのか、非常に気になってはいるのだ。
先ほどの推測のように、私の記憶に残るため、という理由はいまいちしっくりこない。
それほどドライな関係ではあったのだ。
あの男が不満を見せる様子もなかった――その表現方法すらわからない男だったのかも知れないが……
だが、わざわざ私の目の前で死ぬ、という行為は、明らかに異常なのだ。

「あなたは冷静です。恐らく一ヶ月程度で治る……一過性の摂食障害でしょう」
「一ヶ月、ですか」
「あるいは、もっと早く治るかも知れません。時間が解決してくれるでしょう」
「それが本当ならありがたいのですが、私にはそうは思えません……」

それには理由があった。
肉を食べる瞬間、あのグロテスクな光景が連想される。
これは確かにそうなのだ。視覚的なショックが要因である症状なのだろう。
だが、それだけではないのだ。あのイメージだけならまだ、いい。
私は食事をする際、視覚はそこまで重視はしていないからだ。
グロテスクなイメージを払拭して、肉を口に運ぶのは、可能だった。
しかし、その先に更なる地獄が待っていた。
口内で肉が潰れる感触、骨を伝って響くブチブチと千切れるような音、
生臭く鼻腔に広がる血の匂い、気持ち悪く食道に物体が衝突する感覚。
全てが以前のそれとは全く違った様相で、どうしても私の身体は肉を受け入れることはできなくなっていた。
ある一瞬から物の味が変わるということがあるのだろうか。
私の体があの光景を思い出すまいと、食べることを拒んでいるのではない。
その逆なのだ。
私自身の身体が、肉を食べるという行動により、あの光景、あの男の存在を記憶の淵から
掘り起こそう、掘り起こそうとしているのだ。
これは、カウンセラーのいう回避反応とは全く別の反応であるように思えた。

「なるほど、あなたの自己分析では、単に視覚的要因だけではないと」
「ええ、専門家の先生の前で素養のない私が言うのもおかしなことですが……」
「いえ、私どもは患者さんから話を聞いて、推測するだけですから。
 しかし、そうなると、一体何が摂食障害を引き起こしているのか、ですね」

診療室の机のアラームが静かに鳴る。

「と、今日はお時間です。また、お越しください。ゆっくり治していきましょう、お待ちしていますよ」

結局私の心にかかる靄は消えることがなく、その日のカウンセリングは終了した。
時間が解決してくれる、と彼は言っていたが……



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