ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ――

あれから一週間が経つが、時間が解決するばかりか、症状はより悪化している。
肉だけではない、穀物、野菜、ついには味のついた飲料までも、身体が受け付けなくなってしまった。
更に体重は落ち、私の顔はもはや見知らぬ顔となってしまった。
恐ろしい。恐ろしい。
もう、私は自覚するどころではない。
崩れていく。自我と共に人間であることすら、この身体は忘れてしまっているようだった。
口が渇く。
ミネラルウォーターを流し込む。
水が喉を通るたび、顎の骨が軋む。
もう、物質が消化器官を通過する楽しみなど、一切感じることなどできなくなった。
あの心理カウンセラーは、相変わらず暢気なものだった。
「様子を見ましょう」の一点張りで、私はその度に苛立ちを募らせていた。
自室でベッドに腰掛け、俯いたまま息を整える。

そうだ、この一週間で、あの男のことを少し調べた。

大学卒業後、ごく一般的なIT企業に勤める会社員であることしか知らなかった。
それ以上、興味がなかったし、あの男自身も告げなかった。
趣味や、交友関係、会社での立場、その他一切私は知らなかったのだ。
最も、調べたところで私の中の彼の人物像と相違のないものばかりだったのだが。

ただ一点を除いては。

あの男は、『ミドリの朝』という新興宗教、いや……カルト宗教の信者だった。
加入したのは、ちょうど去年の同窓会の一、二ヶ月前の頃らしく、
私と会っていた時期も随分熱心に会合に通っていたらしい。
あの男がカルトにはまっていたとは、にわかには信じがたかった。
没個性という言葉を具現化したような男が、
世間的に良い目で見られてはいないカルト宗教に……
しかし、納得できる点もいくつかはあった。
いつも気持ち悪いくらいにニヤニヤと笑っていること、
これは『ミドリの朝』の掲げる標語で「笑顔で人に幸せを分け与えよう」というものがあるためだろう。
そして、この組織は、信者に動物の血肉を食することを禁じていた。
そのため、あの男も肉を口にすることがなかったのだろう。
そして、その件について気になる所がもう一つあった。
あの忌々しい事件の日の直前に、あの男は教団から脱退していたのだ。
調べれば調べるほど、露骨すぎるくらいにあの自殺とこの教団の関係性が浮かび上がってきた。

よからぬ想像が脳裏を駆け巡る。
あの男はこの教団に殺されたのか?
それとも、元々あの男は自殺願望があり、教団に加入することでそれを紛らわせていたが、
やはりそれを止めることができず、自殺に至ったのか?
しかし、私の目の前で命を絶った理由は、未だわからない。
できれば関わりたくはない。だが、私は切羽詰っていた。
あの男の真意を、とにかく知りたいと考えるようになっていた。
私は藁にも縋る思いで、『ミドリの朝』の入会窓口に連絡していた。


「……はい、結構です、ようこそいらっしゃいました、『ミドリの朝』へ」

私はカルト教団『ミドリの朝』の会合にきていた。
都市部からは離れた閑静な住宅街、そこに位置する公民館のようなところで、会合が行われていた。
受付をはじめ、周りにいる信者の連中はやはり、あの男と同じ笑みを浮かべていた。

「顔色がよくありませんよ、大丈夫ですか?」
「え、ええ」
「心に不安を抱えているのでしょう、でももう心配はいりませんよ。
 あなたの変わりたいという気持ちは、必ず成就します、私たちと共に幸せになりましょう」
「はあ……」

私は元のように食事を、私が私であると自覚できる食事をしたいだけなのだ。
私にとってはそれが幸せなのだ。それだけでいい。
お前達が思っているような崇高な悩みや不安は私は持ち合わせてはいない。
だが、お前達には私の苦しみはわかるまい。
私は、心の中でそう叫んだ。
あの心理カウンセラーと付き合っていく上でもわかったが、
こう上辺ばかりの心配をする相手はとことん信用できない。
……こんな考えが浮かぶとは、まるで反抗期の中高生に戻ってしまったようだ。

「さあ、こちらへどうぞ、もうみなさんお集まりですよ」

意外にも、会場いっぱいに人間が集まっていた。
老人、中年、若者、親に連れられた子どもまで、様々な人間が犇いていた。
その顔が、一斉にこちらを見た。
皆、笑みを浮かべていた。

席に着くと、隣の主婦風の女性が、この集会ははじめてか尋ねてきたり、
緊張しなくてもいいやら、自分の身の上話やら、およそどうでもいいことばかり話しかけてきた。
そうするうちに、集会がはじまる。
代表らしき中年男性が姿を見せた瞬間、会場は拍手に包まれる。
先ほどまで私に執拗に話しかけていた女性は、涙まで流していた。

「みなさん、おはようございます。今日もお集まり頂き、私は幸せです」

代表の男が口を開くと、信者である観客も、
「おはようございます」「私も幸せです」「ありがとうございます」と、口々に呼応する。
気味の悪い光景だった。
その後も、代表の男は自分の思想、作り話のような美談、そしてこの国の行く末を語る。
そして、その全てに信者達は呼応する。
皆、大きく相槌を打ったり、ぶつぶつと賞賛を述べたりしていた。
ありがたい言葉を忘れないよう、メモを取る者もいた。

こいつらは家畜だ。私は思った。
飼い主に餌を与えられ、それを貪り、何度も何度も自らの内で反芻する。
自分が飼い主に利用されていることも知らず、ただ身を肥やしている家畜である。
やはりここにも答えはないのか。
取るに足らない、ただ信者から金を毟り取る、詐欺まがいのカルト集団だったのか。
そう思っていた時、にわかに話題が変わり、教団の規模拡大の話になった。

「本日は、新しいお仲間がいらっしゃっています。一番後ろの席をご覧ください」

また、一斉に顔がこちらを向く。
私は顔を歪めた。面倒なことになったと思った。

「この方は、先日惜しくも犠牲になられた黒渕さんのご友人で、
 今回は黒渕さんのお誘いでお越しになったのです。みなさん、暖かい拍手を」

なんだって?私は耳を疑った。

黒渕とは、あの男の名だった。
お誘い?そんな事実はない。そして、私が彼と知り合いであることも告げていない。
どうして私とあの男の繋がりを知っているのだ?
犠牲とはなんだ?やはりあいつはこの教団の利益のために命を絶たれたのか?
私ははじめからこの教団に狙われていた?
私をここに来させるために、あの男は私の目の前で……?

恐ろしくなり、私は席を立つ。途端に、拍手は止んだ。
私はその場を逃げ出した。
後ろから大勢の人間が何か叫ぶ声が聞こえたが、気にせず走った。
会場を脱出し、とにかく夢中で走った。
道など覚えていなかった。
走り疲れ、よろよろと道路に座り込む。

あの男は――
私は――
あの男を軽視していた。私のことを愛していると言うあの男を。
利用しているつもりでいた。私が常に優位に立っているのだと。
私は欺かれていたのだろうか?
利用されていたのは、私だったのだろうか?
私の心の中にはいなかったあの男が、今どうしてこんなに私の心を蝕んでいるのだ?

お前にとって、私とはなんだったのだ?
私にとって、お前とはなんだったのだろう?



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