どれだけ走っても姿を捉えることができない。
心臓が今までにない動悸を繰り返しているのを感じている。さっきからずっと鼻水をすすっているのにそれが一向に収まってくれない。呼吸が乱れて辛い。
体中にうまく酸素を供給できていないみたいだ。頭の方に血液が集まっていく感覚。自分の目が充血しているのが分かる。同時に涙も出ているせいで視界はめちゃくちゃだ。
元々運動は苦手だ。最後に走ったのはいつだろう。小学校高学年の運動会が最後だったかもしれない。
私は私なりの理由で体育の授業の出席からいつも逃げていた。体操服の薄い生地がとても嫌いだった。
運動神経なんてものが退化して久しいそんな私が今まさに全速力で走っているのだ。
自分の走り方が普通の人と違っていて可笑しくないだろうかとほんのちょっぴり不安になる。
でもそんなことに構っている場合かと自分を叱咤させる。
今はとにかく走ること!手と足が同時に前に出ていてもいい。非効率な走り方で内臓に負担がかかっていてもいい。私は今それでも凄く幸せな気分なんだ。
唯一問題なのは早く走って追いつくこと――。それだけが今の私に為せること。為すべきことだ。
「よー種ちん!今日の調子はわっつあーっぷ」
「その俺のあだ名なんとかなんねーのか。調子の方は絶好調ってとこかな。サビのトップの声が出ねえのとギターソロがコケるのとMCの内容をまだなんにも考えてないこと以外は」
「あたー!ナニソレ!それで絶好調ときたもんだよこの素寒貧!ま、凡庸な日常なんざファッキンだ!貴殿のその毅然とし、それでいて堕落した態度!さすがは我が盟友であるぞ、うんうん」
「ほーう?じゃあ俺は今から出番まで煙草吸って携帯ゲームやっててエロ雑誌読んで涎を垂らしててもいいわけか?非日常万歳カミサマカミサマー万歳!今日という日に出会えて幸福至極でございます。南無南無」
「南無南無って違うだろ、おい。あーそうだな、まー演奏はどうでもいい。だがMCだけは考えとけよ。俺はな、スムーズにMCが出来ない不器用気取りのボーカルが大嫌いなんだよ。これお前にもう100万回位言ったかな。まあいいや、んじゃそこんとこ頼むよ」
「分かった。イかすMC考えといてやるよ。あ、笑いに走っても俺を恨むなよ」
それを聞いた熊田は、さも満足そうに唇を吊り上げにやりと笑い、目を細めて両手でグーサインを出す。そして控え室から急ぎ早に出て行った。
さて、MCを考えねば。でもその前に一服しよう。一本取り出し火を灯す。
今日はホームのライブハウスでの定期イベントにお邪魔させてもらう。
あまり無様を晒すわけにはいかないが、自分たちのバンドのことを知ってる人たちが大勢いる。
実際種田と熊田は全く持って緊張などしていなかった。
「種田くん」
「おっ、ムラ遅いぞ。今日はスティック忘れたとか馬鹿やってないだろうな?」
「忘れた」
「……まー持ってきてるなんて俺はこれっぽっちも思ってなかったけどな。今のは今日もいつもどおり忘れてきてるかどうかの確認だ。お前がスティックを
持って来るなんて日にゃ俺はライブ中にギターの弦が全て切れ、シールドが首に巻きついて死ぬ。熊田は良くて心臓発作。そしてお前はスティックで全部の
ドラムセットを粉々にして回るんだ」
「悪い冗談だよ」
「当たり前だ」
「いつも練習で使ってるスティックは駄目なんだ。練習だと思って僕は遊んじゃう。だからいつも新しいのじゃないと駄目」
「でも新品も駄目なんだろ?」
「駄目。新品はどんな動きするか分かり難い。暴れそうで」
「あーはいはい。分かった分かった。ハーピーんとこのドラムもう来てたぞ?いつもどおりスティック貸してくれって頼んどけよ。あとなんかお詫びの品とか持ってっとけよたまには」
「それは良い冗談だ」
「いやいや、本気だぞ、おい」
ムラは一度首を傾げると、ちょっと不満そうな表情のまま控え室を出て行った。全くもってつかみようのないスリーピースバンドである。
とはいえこんなバンドでも地元のライブハウスを埋めるくらいのことは出来るのだ。文化の力ってのはよく分からないね。
そんな我がバンドのパフォーマンスを際立たせるMCを考えるのが今の俺の至上命題。
種田は紙とペンを探し始める。結局吸い終わらない内にうずうずしてしまい、席を立ってしまったのだ。ただ、煙草は咥えたままだったが。
「お、これでいいか……」
ぼろぼろになったギターケースについている大きめのポケットに手を突っ込んでみるとくしゃくしゃになったノートの切れ端を見つけた。
しかし切れ端にしてはえらく綺麗な形の長方形をしている。それでいてB5サイズには遠く及ばず、広げた掌の上に収まるか、という大きさだ。
「んー?これ……こんなの持ってたかあ?俺」
見ればそれはノートの切れ端ではなく、レターセットに入っているような手紙だった。手紙の角はうっすらと緑色になっていて紙の持つ無機質感を上手く誤魔化している。
長い間そこに忘れ去られていたのであろう。萎びていてすこし黴臭い気がする。水気を吸っていてあまりずっと持っていたくはなかった。
「とりあえず書ければいいだろうこんなもん」
幸いペンは控え室の机の上に置いてあった。パイプ椅子を長机の前までガタガタ引っ張って来て逆向きに座り、背もたれに頭を項垂れる。
顎についた金属の骨組みの部分がかなり冷たかった。その冷たさが今は心地良い。頭の中がすっきりする感じだ。
手を伸ばし、吸い終わった煙草を灰皿に押し付けペンのキャップを外す。
種田のMCは彼のバンドのファンや、その界隈のライブハウスによく来る客から密かに熱い支持を受けていた。
普通、ライブのMCといえば曲と曲の合間に他愛もない話や茶々を入れ、頃合を見てじゃあ次の曲は――、という流れが一般的である。
しかし凡庸な日常なんざファッキンこと熊田がいうにはそんなMCはゴミクズ以下らしい。
そんな種田らのバンドのライブでのスタイルは独特でまずライブ入りしてから5分から10分間は種田の単独MCが始まるのだ。
それが終わると出番が終わるまでは曲のエンドレス。
ファッキン熊田がいうには「これが現代の合理的なロックライブスタイル」らしい。意味不明。
ともあれ、種田自身はこのやり方に文句を言うつもりもなく寧ろ歓迎している。
曲が始まってしまえば自分も客もあとはライブに集中できるのだ。自分の中に音楽を染み込ませていき、それに合わせ客は跳ねる、踊る、歌う。
無心になれるのだ。もっとも種田のMCにもそれと負けないくらいに期待されていることは本人は気づいていないようではあるが。
「あらら、今日は何にも思いつかないねえ。つーか毎回ライブでこんなMCやってたらそりゃあネタも尽きるよなあ」
筆が進まなければどうしようもない。とはいえ逼迫しているわけでもなくライブの出番まではまだまだ
沢山の時間がある。
ゆっくりいいアイディアが生まれるまで待つのもありだろう。果報は寝て待ての精神だ。
寝るのはさすがにいき過ぎと思うけど。
2本目の煙草に火をつけ目の焦点も適当なまま机の木目をぼんやり眺めていると我を忘れる。
木目の模様がぐにゃぐにゃと次々に形を変えていき、様々なものに見えてくる。
時間にして10分ほど経った頃、机の木目が全てドーナツと錯覚し始めていた。
「腹ぁ減ったなぁ」
空腹でお腹が音をあげ始め、我に返った。
見ればせっかく見つけ出した紙が得たいの知れない落書きで埋まっている。
「おいおい、紙これしかねーんだったわ。大事にしないと」
仕方なく裏側にMCの内容を書いていくことにする。
すでにくしゃくしゃになっている手紙を両面使うとはどことなく惨めに感じられて虚しい。
ぐっと吸い込んだ煙を一気に吐き出し2本目の煙草を灰皿へと放る。
ペンをきゅっと握りなおし手紙を裏返しさてやるかというところでおっかなびっくり。
問題発生。
「ほうかご、中にわで話がある。ぜったいにひとりで来てほしい。だいじな話だ。おまえにたいするおれのきもちを伝える唯一無二のチャンスかもしれない。たのむ」
?????
何の冗談でどういう偶然だろうか。豆鉄砲をくらった。しかも不意打ち。全方向からの一斉射撃だ。心臓に悪い。思わず声を漏らしてしまう。
「はぁ・・ぁ?」
思わず持っていた紙から手を離してしまう。こっちが赤面してしまうくらいのラブレターだ。
好きだの愛してるだのアイラヴユーといった分かりやすい単語は見当たらないが、この手紙を見て
「うおー熱い友情がほとばしる手紙だー!やっぱり持つべきものは友ってやつなのかあねえ?よっしゃこいつとガッチリ絆を結ぶためにいっちょ中庭に乗り込むかー」
とか思っちゃうやつはいないだろう。
そんなやつは、生殖機能が衰退してしまったご高齢の方々か、ゲイだろうゲイ。いや手紙の文面からしてこの場合ゲイの方が正しいのか。
つーかよく考えればこれ書いてるのどう見ても男だよな。
思考が混乱する。
まるで解法が分からない知恵の輪に力任せで挑んでいる気分だ。
汗は噴出し、心拍数はあがり、焦燥感の波に飲まれそうになる。
落ち着け。ゆっくり考えよう。ゆっくり吸ってゆっくり吐き出す。……。
まずこの手紙は俺が書いたものじゃない。なんだってこんな平仮名ばっかりの稚拙な文章を俺が書くのか?
そして俺が手渡された記憶もないし、ギターケースのポケットに仕舞った記憶もない。
つまりこの手紙は俺以外の誰かが書いたもので俺以外の誰かが俺のギターケースのポケットに入れたものだ。
何時ごろから入っていたかはわからない。このギターケースは親父が使っていたギターケースを確か中学2年の頃に貰った物だ。
その時点からもう既に入っていた可能性もないわけではないだろう。
だが親父はギターを外に持ち出しているところは見たことがない。恐らくは俺が学校やらライブハウスやらいろいろなところにギターケースと一緒に出歩くようになってから
入れられたものと考えていいはずだ。だとしてもこれは俺宛ての手紙なのだろうか。
文面から見てどうやら男が書いたものだろう。男である俺に男が求愛の申込書……?
考えると少し寒気がする。今すぐにベルトを締め直したい衝動。
だが、どうにも腑に落ちない。
今まで俺に言い寄ってきたような男に心当たりはない。いやあってたまるか。熊田はやたらに俺をお目付けし、よくべたべたしてくるが考えたくないので棄却。
そもそもあいつとの付き合いはまだ3ヶ月も経ってない。それに大学が同じというわけでもない。
「放課後」だの「中庭」といった単語はどうもしっくりこない。放課後に中庭と来ればやはり中学時代か高校時代だろう。
そのどちらかの間にこの手紙が出された可能性は非常に高い。それにしてもなぜ名前が書かれていないのだろう。こっちとしては混乱させられるばかりだ。
差出人不明ではこの手紙に対する返事すら返答できないかと思ったが、その問題は単純に解消できる。
つまり俺が律儀にマメにこの手紙に気づき、読み、迅速に中庭に行き、当人と会えばそれでよかったはずなのだ。
もし中庭に行かない場合は誰からのラブコールだったのかを知る由もないし、当人はそれを本人に気づかれることもない。
それが果たして精神衛生上やさしいものなのか辛いものなのかの差異はまあ人それぞれだろう。
俺としては手紙を出したのにそれに対するレスポンスが一切ないなんて、完全に無視された気がして最高に最悪な気分になるだろうが。
……つまりは俺はまさにその最高に最悪な対応をしてしまったというわけだファッキン!
あと最も気になるのはこの部分だろう。
「おまえにたいするおれのきもちを伝える唯一無二のチャンスかもしれない」
これはどういうことなのだろう。告白に失敗したらもうそこですっぱりと諦めるということだろうか。
しかしそんなことをここの文面に載せる意図は別にある気がする。
もしかすると差出人にとって言葉どおりの意味で最初で最後の機会だったのだろうか。いずれにせよこの文面だけで得られる情報は少ない。
俺のおつむじゃこれが限界ってことだ。
さて、MCを考えている暇なんて無くなったみたいだ。熊の野郎にあとで謝んないとなー。
この好奇心を満たさない限りはどうせMCなんてまともに思いつきやしない。
この差出人が誰かはっきりさせてやろう。まずは俺の腐った記憶を呼び戻すことからか。手紙を握りジャケットのポケットにつっこむ。
書置きをしようと思ったがその髪がない。と、控え室にホワイトボードがあるのにそこで初めて気づいた。
最初からこれでMCを書けばよかったかと思ったがその場面に誰かが入ってくると非常に気まずいだろう。
とりあえずは熊に今日のライブをすっぽかす可能性があることも書いてしまおう。
「熊へ!俺は非凡なる日常から脱却すべくちょいと散歩してきます ごめんなさいね 種」
尻切れトンボよろしく申し訳なさ満点の雰囲気を後半にかけて醸し出しておく。完璧だ。
卒業アルバムでも見直してみようか。
ギターもケースもピックもその他小物も置き去りしたまま控え室を飛び出し通路を走って階段を駆け下りる。
目指すは我が根城。アルバムはどこにしまっておいたんだっけか。最初の足がかりは誰でもいい。とりあえずは情報を集めないと駄目だ。
もう4月というのになんという寒さなのだろう。いつも通りの起床時間に目が覚め白い服を着た人がいつも通り部屋のカーテンを開けていく。
窓際の真横にある俺のベッドに少しだけ日光がかかっている。目覚めは良くも悪くない。
そもそも毎日のように同じ時間に起こされるし生活リズムも変わらないとなればどんなやつでも、寝起きの気分の上下幅なんざ小さくなる。
日々に慣れてしまう。初めは刺激を求めその欲求が満たされぬ現実との葛藤に苦しむが、時間と共に諦めという毒がまわっていく。
即効性はないが確実な効き目を及ぼし、人生に生き甲斐をくれる、希望とか夢とかそういったスパイスを根こそぎ奪っていく。
俺はとっくに毒が全身にまわって体中の意志伝達機能が破壊されている。
平坦でつまらない毎日をただ目的もなく継続していくだけだ。
1日2回の検診と3回の食事。他の患者との接触は出来る限り控えるように言われている俺はコミュニケーション能力も低下し、今や上手く日本語を使えるかどうかも怪しい。
最近はどうやら記憶力も低下しているらしく半年前以前の記憶が曖昧になっている。
自らの母校の名前を完全に失念していた自分には驚きと共に、「ここまで来たか」という感想を抱くくらいだった。
とりあえず脳を覚醒させるために顔を洗いに洗面台へ。毎日見る同じ顔、同じ服、同じ表情。みんな目と口と鼻はついてるがそれぞれが何の役割も果たしていないんじゃないかと思うくらいそれらに変化がない。
俺の病棟には突発的な発作を起こす患者もおらず、平和そのものだ。
洗面器に溜めた冷水に顔を突っ込んで息を止める。洗面台が低い位置にあるせいで頭に血が溜まっていくのがわかる。
ぐんと頭が重くなる、小さいころからこの顔の洗い方で水を使いすぎだとよく母親に怒られた。
しかし子供の頃の習慣は中々治らないものである。かれこれ……何年間続いているのかはよく覚えていないが。
水が床に滴るのも気にせず一気に顔を洗面器から上げる。頭に溜まっていた血が心臓を通り体の隅の方へ伝っていく感覚。
立ちくらみが体を襲い一瞬倒れそうになるが必死に洗面台の淵を掴み堪える。
「このくらいの刺激はいいよな、死にそうになる感覚あるけど」
どうもそれくらいはないと今の俺は退屈でやっていけないらしい。
いつもと同じ薄緑色のタオルで顔を拭きベッドに戻って朝の回診を待つ。
特にテレビも雑誌も興味はない。そんな温い刺激なんてとうに飽きている窓からは眩い光が入ってくるだけで景色なんて今更見ようとも思わない。
こういうときはどうも嫌な思い出巡りをしてしまうのが俺の悪い癖だ。
自分に自信を持てなくなり始めたのはいつからだったか。
自分の存在に靄がかかり始めたのは何がきっかけだったか。
アンビバレンツな感情のジレンマの摩擦が激しくなっていった経緯とか。
そういった考えてもどうしようもないことがぐるんぐるんと頭の中を回り支配しはじめる。
体は脱力していき酷い倦怠感を覚える。
俺はこの状態の最中に何度か失禁してしまったことがあるほどだ。
一度失禁した時は恥ずかしくて誤魔化そうとしたが看護士にすぐ看破されてしまった。
それ以来俺は医師に目を付けられてしまった。
「田之村さん、また心ここにあらずの状態でマイナス思考をしているでしょう。駄目ですよ。あなたの良くないところです」
思わず「ひゃっ」と変な声を出してしまう。
それにしても意識を沈めすぎたようだ。
「すいません今なんて?」
「マイナス思考は、よくありませんよ」
聞き直すんじゃなかった。そんなこともう耳にタコが出来るほど言われた。余計に気分が重くなる。ちくしょう。
「今日の分のお薬はちゃんと飲みましたか」
「はい」
「結構」
だが俺の状況は全然ダメダメで結構ではなかったようだ。なぜならどうやらまた失禁していたらしい。格好悪い。
「セルシンを投与しましょう。少しは楽になるはずです。田之村さん、過去のことで何か楽しいことを考えてみてください。なんでも結構です。思い出すのが難しいのであれば……そうですね、スポーツの経験はありますか?
なんでもいいです。そのときのこと。或いは自分が好きな物を食べているときのことや」
「記憶がないです」
「……そうですか。でも少しは努力をしてみてください。何がきっかけでよくなるかは私らでも確定的なことはわかっていないんですから……。それでは朝はこれで失礼するよ。何かあれば気軽にコールボタンを押しても
らって構わないですから」
そう話しながら私の瞳孔と脈を手際よく検診し回診を終えた医師は酷く丁寧な口調で俺に話しかける。
まるで「ワレモノ注意!」と書かれた荷物を慎重に運ぶかのようだ。それくらい気を遣っている。全く持って気持ち悪い。
看護士が新しい患者用の服を持ってきてくれた。シーツも変えるのでしばらくベッド寝床から離れなければならないようだ。
恥ずかしさと申し訳なさと不甲斐なさでの3連鎖が心をちくちくと苛んでいく。
「ああ、それから」
なんだまだ俺を追い詰めたいのかよ、と我慢できずに思いっきり嫌な顔をしてしまった。まあ謝る気なんてありませんが。
「田之村さんに面会したいという方がいらしていましたよ。本来面会は謝絶させてもらってるんですけどね。断っても帰ってもらえそうにないので特別に許可しました。
他の患者さんもいますのでこちらにお呼びすることはできませんので、ロビーで待ってもらっています。忘れないように行ってあげてください。たまにはこういう刺激も必要でしょう」
おお、なんだ分かってるじゃん。今長年の付き合いの溝が少しだけ狭まり――。
「ただ、その前にシャワーは浴びていったほうがいいですね」
前言撤回。カッと顔が赤くなったのがわかる。地獄に落ちろ。
それにしても俺に面会……一体誰だろう。
経済的援助以外は全て見放されているから両親ではないだろう。
似たような理由でその他の親族も却下。
……まあいい。どうせロクなやつでもないのは確かだろう。
期待を裏切ることなく本当にロクなやつじゃなかった。
「よう、久しぶりだなー。えーっと田之村?だよな?あーちょっと待ってそっから動くなよー……写真と照合すっから」
ガサガサと鞄から取り出したるはA3サイズくらいの高そうな青い本。表紙はただの紙じゃなくて絨毯みたいな手触りのようだ。
まったく何なんだこいつは。俺の顔を見るや否や一瞬あれ?っていう期待はずれな顔したかと思うと今度は目を細めてじとっと見つめてきやがった。
わざわざ遠路遥遥ご足労願ったクソ面会野郎少年Aはデリカシーに掛けた俺と同じ年くらいの男だった。特徴は神が緑色。おえー!
「だいぶ雰囲気変わってっけどやっぱお前田之村だろ?いやー人間変わるもんだねー。卒アル一応持って来ててよかった。ナイス俺」
「俺に一言『突然失礼しますが、田之村さんでお間違いないですか?』って聞けば解決したんじゃねーのかよ」
「それはまあ……いや……そういうやり方もあるけどさ!やっぱ俺シャイだからなーそういうの苦手なんだよ」
お前がシャイだったら世界のシャイ人口の50%は人間恐怖症で死んでるよ。
「つまりはその発想がなかったわけかよ」
「はい!うるさい!黙りなさい!シャッザファックアップ!」
ぴしゃりと言われてしまった。
ふーん。面倒臭いやつかなとは思ったがちょっと印象に修正が必要だ。
この退屈な灰色の病院には、少なくとも俺の病棟には、いないタイプだ。暇を潰す相手にはかなりいいかもしれない。気に入った。
などと浮かれていたせいかこいつが言ったことを今俺は完全に聞き流していた。
頭の隅っこのほうでこいつの発言を反芻していたら黄色信号が点灯した。空港の保安検査場で金属探知機が鳴ったみたいに警報が頭の中になり響いて――。
えっと今……こいつ……なんて言った?
「そのときさーお前が横山に切れちゃって」
「おい、お前さっきなんて言った?」
「え?」
「お前……卒アルって言ったよな?」
「うん?あー俺の備えはやっぱり完璧だって話か?」
「お前、俺と同じ学校だったのか」
「あ?」
「同じ中学校だったのかって聞いてんだよ!」
「……なんだよ俺のこと覚えてくれてねーのかよ。学校どころか同じクラスだったろうが!2-4の種田翔太だよ!まったくもって――」
ザザザザザザザザザザザザザザザザザ。
あれ?
ザザザザザザザザザザザザ。
頭が……
ザザ……ザザザザ……ザザ。
種……田……?
ザザ……ザ……
――。
「おいっ!」
「ひゃっ!」
種田の声で体が跳ね上がるほど驚き我に返る。
息は上がり、嫌な汗で体がべとついている。
「大丈夫か?やっぱ体のどこかが悪いのか?あ、でもそういやあこの病院――」
「ちょっと!……外に……外の、空気を……吸いに行こうぜ……」
「……ああ、そうだな」
「屋上に行こう」
頭の中で警報がうーうーと鳴りっぱなしだ。
おまけに遠くの方でガンガンという音もする。非常にまずい。セルシンが効いていないんだろうか。
種田に肩を借りながら階段を昇っていく。
心臓が動悸が激しくなる。
途中何度も種田が心配してくれたが大丈夫の一点張りで貫徹する。
ここで倒れるわけにはいかない。
幸い、屋上の鍵は開いていた。
フェンスに寄りかかり地面に直座りする。種田は煙草を吸おうとしたが、病院であることを自覚したのか咥えていた煙草を戻した。
俺はまだ心臓の鼓動が収まらない。さっきからガン!ガン!という音も酷くなってきた。
「なんかフェンスが高いな」
「それはまあほら、こういう病院だからね、不測の事態は予防しないとさ」
「……なるほど」
会話が続かない。重苦しい。生ぬるい風が吹く。気持ち悪い。吐き気も催しそうだ。
種田は南の空をずっと見つめている。
俺はとりあえず深呼吸をする。まずは呼吸を整えないと。
「少し話しても大丈夫か」
「大丈夫大丈夫、何とも無い、こっちはすぐに落ち着くから」
本当はそんなこと微塵にも思ってない。やばい。死の危険すら迫っているかもしれない。
でも精一杯強がる。何が俺にここまでさせているのだろう。一際大きくガン!という音が頭に響く。
頭が割れそうなほど痛い。
「じゃあ……話すよ。……俺さバンドやってるんだ、今。ほら、俺中学の頃から俺ギターやってたの覚えてるか?」
ガン!
「……ああ、勿論、覚えてるさ……」
嘘だ!覚えてない!こんなやつの趣味なんて知ったことか!
顔だって覚えてなかったのに!
名前だって覚えてなかった!
そんなやつがギターを弾いてるなんて情報が一体どこから――
「そんで今日の夜、ライブするんだよ。結構でかいライブハウスでやるんだ。結構客も来るんだぜ」
「そりゃめでたいな……」
まずい段々手足の感覚がなくなって来ている感覚がある。視界がぼやけてきた。
目を擦ってみるが変わらない。
「うん、ありがとう。でな、今日ちょっと探し物をしてるときにさ、俺自分のギターケースのポケットの中身をひっくり返したんだ」
ガン!ガン!ガン!
「……それで?」
「そしたらさ、何が出てきたと思う?ラブレターさ。多分俺宛てなんだ。誰が書いたのかは・・・・・・まあいいとしてさ」
ガンガンガンガンガンガンガン!
「俺そういうの一旦気になりだしたらとことん気になっちゃうタイプでね。どうしても誰が書いたのか突き止めたくなった」
ガンガンガンガンガンガンガンガン!
「そんでさ、リハーサルすっぽぬかして家に戻って俺の学生時代のアルバムを捲ってたんだ。最初は高校の卒アルを見たんだ。でもそれからは何もわからなかった。
で、次は中学校のアルバムを捲ってみた。俺がギターをやり始めたのは中学校だったからな」
ガンガンガン!ガンガン!ガンガン!
「……」
「で、遂に見つけた。2-4のアルバムの写真を見てる時にな。思い出したんだよ。パズルのピースがパチッとはまったんだ。俺にはなその頃あんまり女友達ってのがいなかった。
こう見えても昔は本当に俺シャイだったんだよ。笑っちまうかもしんねーけど」
ガンガンガン!ガンガンガン!ガガガガガガン!
「……あぁぁあぁ」
「でもな、中2の時、俺初めてちょっとだけ仲良くなった女の子がいたんだ。そいつは女の子だけどノリがいいやつでさ。
すごい話やすいというか、まあ打ち溶けやすかったんだな」
ガガガガガガガガガガガガガ!
「で、さっきのラブレターの話なんだけどさ、俺、その娘に貰った気がするんだよね。いや、自意識過剰かもしれない。それは認める。
でもさ、なんつーかな、第6感っていうのかな。もうそんな気がしてならないんだよね、俺。で、このラブレター書いたやつなんだけどさ、お前――」
「お……俺ちょっとトイレ!」
「は?おいちょっ――!」
もう限界だ。駄目だ。無理だ。奪われる。壊れる。種田の馬鹿。馬鹿馬鹿。なんなんだよアイツ。くそっくそっ。頭が割れるがががががががが。
3段飛ばしで階段を駆け下りる。トイレは下の階だ。どうせ種田のヤツ追ってくるんだろう。
でももうとりあえずあいつから逃げたい。今のままじゃ……。
階段を降り切る。すぐ後ろから種田も階段を飛び降りてくる音が聞こえた。
ここを右に曲がれば――!
早く早く飛び込まないと――
そこで私の思考回路はショートした。
トイレの目の前までは来た。だけれど、どっちに行けばいいんだっけ?
「ぇ……ぁえ?……私……あれ?ぁ……ぁあぁぁぁぁあぁぁああああああああああああああああああああああああぁぁぁああああああああああああああああ!」
ガン!バリン!ザザザザザザ。ずずずずずずず。
容赦なく俺は舞台から引き摺り下ろされた。抗うことなんて無駄、無理、不可能。だって今この時、俺は俺でいられなかったのだから。
「種田さん、お待たせしました」
「先生!田之村は?」
「大丈夫です。種田さん、落ち着いてください。あなたまで倒れられちゃ私が困ります」
「すいません……」
「……種田さん。よく聞いてください。今から私は犯罪を犯します」
「え?」
「いいですか。田之村さんのご病気の事はご存知で?」
「あ、いえ……確かなことはあまり……推測でしか」
「それを今からあなたにきちんと説明します。わかりますね?これは完全に患者のプライバシー侵害です。それでも私の医者生命をかけてもいい。あなたに話しておきたい事があるんです」
「……先生、俺はあいつの身内じゃないんですよ?」
「分かっています。だからこそお願いしているのです。田之村さんは……彼女は、両親からはもう見限られていると言っていいでしょう。あれは酷い・・・・・・。親なんて存在ではもうないんですよ」
「……」
「いいですね、彼女はもうぼろぼろの状態なんです。私は10年間彼女の治療を続けてきました。一生懸命に努力もしたつもりです。しかし一向に解決策がない。それをあなたに託すべきだと私は思うんです」
「……10年……」
「ただ一つ、あなたに確認したいことがあります。あなたは彼女のことをどう思っていますか?どういう存在として認識していますか?」
思わず息を呑む。口の中も唇も乾いて喋り辛い。深呼吸して咳払いを2回。よし。
「正直なところ……曖昧な気持ちです。好きとかそうじゃないとか愛してるとかそんな気持ちはわかりません。今の俺は逃げているだけなのかもしれません」
「……そうですか」
「でも、それでも、俺は絶対にあいつをこのままにしたくない。見捨てない。必ず救い出してやる。俺の中のあいつは中学2年ときのまま止まってるんです。そこに置いて行ったりは死んでもしたくない。
それからはっきりしていること、それは中学2年の時俺は確かにあいつに恋をしていたということです。それを思い出したのはつい何時間か前ですが・・・・・・」
「……結構です。ありがとうございます。では今から話すことはくれぐれも内密にお願いいたします。そしてどうか彼女の力になってあげてください」
半田と名乗るその医者の先生はゆっくりと本当に丁寧に話してくれた。
分かったことは沢山ある。だが俺は馬鹿だから専門的な話はよく分からない。噛み砕いて頭のなかで反芻する。
田之村には中学入学時点で女性ホルモンと男性ホルモンの分泌バランスが崩壊している節があった。この時点で医者に相談はしていたらしい。
その後性同一性障害、或いはその症状に近いものを発症した。
その為自我の性の境界があやふやなままの日々の中、多重人格症状を併発。
そこで新たに生み出された多数の人格の内、男性の自我が徐々に主導権を握り始め、最終的に本来の女性としての自我が希薄な物になっていったということだった。
中学2年の途中、田之村は転校したと聞いた。しかし実際はそこから10年間、この精神病院で入院生活を続けていたのだ。男性の人格がほぼ完全に主導権を掌握したのもその頃だということがわかった。
田之村は恐らく自らの女性としての人格が崩壊する直前に、必死に男性の人格に抗いながら俺にあの手紙を書いてくれたのだ。
恐らく意識がふらふらだったに違いない。あの男口調でありながら平仮名だらけの文面が、拙い文面が、俺の心に深く突き刺さった。
聞いている途中、俺は溢れてくる涙を止めることがどうしてもできなかった。
大事な話を聞き零すまいと俺なりに頑張っていたが感情の波は簡単に堤防を越えてしまった。
俺は嗚咽を漏らし、半田医師に縋った。手紙を握りしめながら。病院全体に泣き声が響くほどに大声で泣いた。
今こそ俺は彼女に報いる時だ。
目が覚めた。知らない病室にいた。頭にずきずき疼くような鈍い痛みがある。ここはどこだろう。そして私はどれくらい眠っていたんだろう。
なんだか凄く長い間眠っていた気がする。でもここに来る前の記憶は少し前の物みたいだ。ただぼやけていてはっきりしていない。
……わからない。今はあまり物を考えることができそうにない。とりあえず覚醒したい。この蕩けたような感覚から抜け出したい。
顔を洗おう。私は起きたんだ。起きたらまず顔を洗って……っ!?
「なに……これ……」
両手と両足に丸い輪の拘束具が付いている。起き上がることが出来ない。
「なんで……?」
必死に手を拘束具から抜こうとするけどがちゃがちゃと不快な音を立てるばかりで外せそうにはなかった。
(そっか…私……もう頭がどうにかなっちゃって何かいけないことをしたんだ。だからこうやって動けなくされてるんだろうな)
そう思うと少しだけここに来る前の記憶が鮮明になった。誰かが私を追いかけてくる。私の体を揺すってる。誰だろう。この男の人――。
「おはよう」
――!?
誰?誰だろうこの人は。あれこの男の人。さっき――。
「明美。俺が分かるよな?」
明美?私のことだろうか、いや、そんなはずは、でも、昔その名前で呼ばれていたような。
ガン!
違う。俺の名前は明美なんて名前じゃない。冗談きつい。そいつは俺のことじゃない。
「ち違うよ、俺、俺は――」
「違う!お前は出てくるんじゃねええええええええええええ!」
――!
「……明美を出せ」
「明美ィ?俺、俺は太一って言うんだよ、田之村太一。覚えやすい名前だろ?なあ」
「た・の・む・ら・あ・け・み!お前の名前は田之村明美!少しボーイッシュで楽しくて話しやすくてノリがいいキュートな女の子で俺にラブレターをくれた田之村明美だ!」
ガンガン!
「ラブレタァ?俺は俺俺俺俺はお前なんかに、こここ恋文なんて出したことなんてねえよ!」
「ここにそれがある!」
種田は見ろと言わんばかりにその手紙を突き出してくる。
「どどどどこに俺が書いたって証拠が……」
「証拠ならある」
「なんだと……」
「ここにはお前の名前が書いてある」
「?、どこに書いてあるんだよ」
「……」
「オラ!どこにも俺の名前なんて――」
「最後の文章を見ろ。この『たのむ』の部分だ」
「!……」
「俺は最初『頼む』だと思ってた。しかしそれは違う!俺が裏に落書きしたおかげでもう一文字が浮かび上がってきたんだよ。
裏から塗り潰していけば一目瞭然だ。『たのむ』の後にはな、しっかり『ら』って名前が入ってたんだよ!」
「はは!た、確かにそこにはたのむらって書かれてたかもなあ!」
「何だよ」
「だ、だからさ、なななんでそんな重要なことを明美ちゃんはわざわざ消しちゃったんだよ。そんなことする理由がねえだろうが!その理由をお前が説明できないならただの書き損じ
ってことも――」
「簡単なことだろうが」
「く……」
「この平仮名だらけの文章がその謎を解く。彼女は半ば錯乱状態の中この手紙を書いているんだ。なぜか!?太一、お前という存在と明美が自我を奪うためにまさにこの手紙を書いている時に戦っていたからだよ!
だからこんなに拙い文章なんだ。お前も恐らく必死だったんだろう。彼女は死ぬ気で抵抗したんだ。だから文章を書かせることを止めさせられなかった!そこでお前が最後の差出人の名前の部分
だけを消すことにしたのさ。これで全て理由づけは可能だろうが!証明終了!さっさと明美に戻りやがれぇぇぇぇえええぇえええええ!」
さっきの太一との戦いから何分経ったのだろう。時計の針が進む音だけを聞いている。怖くて時計を見ることが種田はできなかった。
時計を見てしまえば明美が戻ってこない長い長い時間を確認してしまうことになってしまうだろうから。せめて明美が戻るまではこのまま手を握って神にでも縋っていたい。
人事は尽くした。後は天命を待つのみだ。
(頼む……頼む……。俺はもう精一杯やった。精一杯やったんだ。頼む戻ってきてくれ……。明美。)
「――翔……太……」
「明美!」
「……私……」
「いい。何も言わなくていい。ありがとう。そしてすまなかった」
「ごめんね。私は自分の心が欠陥品で、弱くて、ぐちゃぐちゃだから……ごめんね」
「いいんだ……もういいから……今はゆっくり休んでくれ」
目が覚めた。二度寝してしまったようだ。なんだか不思議な夢を見た。大事な人と私が喧嘩してる夢。
でもそんなに嫌な気分はしない夢だった。それにしても良く眠れた。なんだか体の調子がいい。
ベッドから体を起こしてうーんと背伸びをする。骨がばきばきと鳴る。ちょっと女の子としては恥ずかしくて赤面してしまう。
「ってうわあ!」
「……?、た、田之村さん、あんた……本当に……?」
「半田センセーじゃん!なーに私のベッドの横で寝顔見てやがんだよーこの馬鹿ヤロー!変態!」
「痛い痛い……蹴らないでくれ……」
そういう半田先生は何故か笑いながら涙を零していた。この先生マジ大丈夫なんだろうか。ドMなのかな。
「あ、そうだ、先生、翔太は?」
「種田くんか、彼は用事があるといって一旦帰ってしまったよ」
「えー!アイツ何考えてんのー!私が奇跡の復活劇を遂げたこの瞬間にいあわせてないとかー!がるる」
「はっは!そう言ってやるな。そうだ、種田君がこんな物を置いていったぞ」
「なにこれ。ライブのチケット?」
「うむ。種田君のバンドが出るそうだ」
「ふーん……」
「行くんだろ?」
「え?行っていいの?」
「どうせ私が止めたって行くんだろう」
「にしし。超行きますけど!ってちょっとまったーこれ開演まであと40分しかないじゃん!翔太いつここ出たの?」
「君が起きる3分前くらいだったと思うが」
「おいーーーー!半田先生それを先に言ってくれよなー!ダッシュでいけば追いつけるよね?じゃー先生またね~!」
「あ!こら服くらい着替えていかんか!」
む、確かにライブに行くのにこの患者専用服はどうなんだろうと思ったけど、まあ関係ない。
早く翔太に追いつかなきゃ。でもあんまり実は走るの得意じゃなかったりして……。
「どうよ熊!、今回の俺の力作は!涙の感動巨編ドキュメンタリー!ってあ痛ーーーー!」
「バーカ種田バーカ!お前こんなもんMCで喋ったら俺ら曲やんないまま終わるだろうが!」
「悪い冗談だよ全く」
「おー?ムラお前まで言うかー?うるせー!凡庸な日常なんざファッキンなんだろうが!これぞザ・非日常!」
「却下!書き直せこのアホ種ちん!っていうかこれに付き合ってたせいで俺らの出番までもう時間ねーじゃん!」
「今回は全て種田の責任だ」
「俺一人が悪いってのかー?まー安心したまえーチミタチー。俺がナイスでクールなアドリブかましていつも通りやってやるよ!」
「よーしじゃあそれで……。っと思ったけどやっぱりだめー!」
「あん?何が不服なんだよ熊コラァ」
「いつも通りは駄目だっつってんだ。凡庸な日常なんざファッキンだ。だがな、そのポリシーに俺らは囚われすぎてるんじゃねえのか?
つまり!非日常と日常が入れ替わりすぎると逆効果ってわけだ?言いたいことは分かるよな?」
「オッケオッケー!じゃあ今日は不器用にボーカルやって1曲2曲やるたびに他愛も無い茶々話いれりゃいいんだな?そんで次の曲は~~です!痺れるなあおい!」
「そういうこった。日常を忘れちゃあな、どーにもなんねんだよ。おら時間だ行くぞ!」
「「おう!」」
ステージはスポットライトで照らされて熱気を帯びている。客はもう既に前のバンドで盛り上がったみたいでいい感じに汗をかいてるようだ。
すでにエンジンは温まってる。その中に一人、この場所に相応しくない全身水色の患者衣を着ている女の子がいた。
しかしステージから見ると人はすし詰めのようになっていて、その女の子を種田は見失ってしまった。誰が何を着ていようがどんな人間だろうが分からない。
みんなが今音楽を通して一つになろうと意気揚々だ。
種田は叫びつつ、人差し指と小指を立て、ピースサインを頭上に突き出した。すると観客もそれに合わせてピースサインを突き出す。
その中に、水色の患者衣の袖が伸びているのを確認してから、種田はもう一度叫びドラムのムラに振り返りカウントのアイサインを送った。
感想
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