「レヴィアたん」



 酒とは末恐ろしいものだ。
 初めて飲んだ時から恋をしている。ゴクゴクと飲むたびに、幸せのパラメーターが1m
mずつ増加していく。じわじわと幸せに酔いしれる。うまい。しかし、この世は度を超す
と一転して不幸せになる法則があるらしく、私の場合は、記憶がなくなる。




 目が覚めると、見知らぬ小部屋にいた。
「またやっちまったかー」と頭を掻いて、反省しているポーズをとる。酒に飲まれてこう
なったであろうことは何となく体が覚えている。
 ここはどこなのか。灰色の空間に机が一つにパイプ椅子が二つがあるだけだ。とりあえ
ず立ち上がって椅子に座り、飛んでいってしまった記憶を追いかける。昨日は新宿に行っ
て、飲んでいたはずだ。記憶の断片を探る。ふと誰かと携帯の番号を交換した瞬間を思い
出した。
 はっと思い、体を調べる。携帯、携帯。ない。ポケットに何も入っていなければ、鞄も
どこかに消えている。青ざめる。というか、ここはどこだ。寝惚けた頭が少し働き始める
と共に、危機感も湧き上がってきた。
 綺麗な立方体になっている部屋。たった一つの出入り口であろう、ドアが正面にある。
ドアを眺めながら、嫌な汗をわき腹に感じた。ドアの向こうに何があるのか。そもそもド
アが開かなかったら。
 似たようなシチュエーションのホラー映画が自然と思い出される。男が密室に閉じ込め
られ、残虐非道なゲームに参加させられるという悪趣味なものだった。アルコールに荒ら
された胃の不快感とは別の嫌な感覚がにじり寄ってくる。誰かに見られている感覚がある。
どこかにカメラがあるのだろうか。あるいは。



「おめー、おしゃれって漢字で書けるか?」
 酒で潰れ、目覚めたばかりの私に対して、ビール先輩がかけた言葉を思い出した。
 ビール先輩は最初に酒で記憶をなくしたときに知り合った人で、部屋がビールの空き缶
だらけだからビール先輩だ。本名は知らない。





 初めて、記憶がなくなったのは大学の入学式の日だ。入学式後の音楽サークルの新入生
歓迎コンパで、酒がタダで飲み放題という待遇に私は感激した。ヴォーカルをやっている
という綺麗な女の人が注いでくれる日本酒が美味しかった。料理も美味しく、ぐびぐびと
飲み込んでいった。
 徳利に入った酒を空にするたびに「ザルやね~」とその女の人が喜んでくれるのが心地
よかった。途中、トイレに立ち上がったとき、酒でダウンした者たちを見て、どうやら自
分は酒に強いらしいと知り、「薔薇色のキャンパスライフが始まったな」「ああ・・・・・・」
と鏡にうつる自分にニヤリとした。
 そのニヤリ以降、記憶の糸はぷっつり切れている。後日、綺麗な女の人と大学で再会し
たときに、完全に無視された。ろくでもないことをしでかしたらしい。




 初めて記憶を飛ばした気分は最悪だった。気がつくと見知らぬ廊下にぶっ倒れていた。
状況の掴めぬまま、起き上がってドアを開けると、小さいおっさんがゲームをしていた。
彼がビール先輩である。

「書けるか?おしゃれ」
 私が起きてきたことに気付いたビール先輩は背を向けたまま、そういった。
「えーと、あれですよね。酒から一本線をとった字に落ちる、でしたっけ」
「知ってんじゃん」
「はぁ」
「一線超えたら、洒落にならないんだよ、酒は」
 ビール先輩はガハハと1人喜んでいた。部屋を見回すと、ビールの空き缶だらけ、タバ
コの灰がそこらじゅうに散らばり、壁は黄ばんでいた。部屋の隅にはレコードの山があっ
た。昨日の音楽サークルの飲み会にいた人だっけ、と記憶の扉を叩く。扉の番人は首を横
に振って、「ニヤリ」のシーンだけをまた見せつけてきた。

「えっと、迷惑かけてすいません。俺昨日のこと何にも覚えてなくて」
「リヴァイアサンって知ってるか」
「へ」
「リヴァイアサン」
「蛇みたいな海の怪物でしたっけ」
「そう。旧約聖書に出てくる。正式名はレヴィアタン。かわいいだろ?で、トマス=ホッ
ブズは読んだことあるか」
「いえ」
 部屋にはレコードの他に『イエスの復活』『超新約聖書』『始まりの福音』などいかに
もな本が積まれている。宗教にお熱な人なのかと警戒した。
「まぁそう身構えるなって。知りたいだろ?昨日何があったか」
 悪い宗教家というものは人の弱みにつけこんでくるものだ。小さいビール先輩はゲーム
を辞めると、タバコをくわえ、火をつけた。
「トマスなんとかは知ってますけど、読んだことはありません」
「いいか。俺もよくしらねーけどよ。酒を飲んで出てくるのは人間の自然状態だと俺は考
えてる」
「自然状態?」
「そう。皆が自然状態のまんまでは万人の万人による闘争が起こる。酔っ払いの喧嘩を思
い出してみろよ。あれが人間の本来の姿なわけだ」
「はぁ」
「そこで登場するのがリヴァイアサン。みんなのアイドル、レヴィアたんだ。人々は闘争
をさけるために、契約を結んだ。そして生まれたのが国家であり、その国家をホッブズは
リヴァイアサンと呼んだ。レヴィアたんに人々は自然状態である権利を譲渡するんだ。そ
の結果、秩序が生まれ、闘争は避けられたってわけ」
 昨日の出来事について早く知りたかったが、ビール先輩の話には妙に惹きつけられた。
「それと昨日のことと何か関係があるんですか」
「アリだよ。おおあり。こあり。レヴィアたんは酒に弱いんだ。お前の中の抑圧された気
持ちや思いが酒によって大きく育ち、やがてはリヴァイアサンを追い出し、元の自然状態
へと戻る。飲酒ってのは契約破棄未遂なんだよ契約破棄未遂。だから未成年は飲んじゃだ
めなの。お前の場合、未遂じゃねーけど」
 ビール先輩はクスクスと笑いながら、タバコの煙を吐き出した。
「いいか。リヴァイアサンは天に昇り、神に告げ口をする。お前は罰として記憶を失った
わけだ」
 自分の中からリヴァイアサン、海の怪物が飛び出ていく瞬間をイメージした。おそらく
本当にリヴァイアサンが出て行ったのだとしたら、「ニヤリ」のときだろう。またしても
自己嫌悪に陥った。
「反省してますよ。もう二度とこんな思いしたくないです」
「みんな罰を受けるたびにそう言うさ。胃が苦しいだろ。やばい胃酸、りばいあさん。な
んつって」
 またガハハと喜び、タバコを吸い始めた。

「ところでここはどこなんですか。どうやってここに私はきたんですか」
「ここは天国だよ。ビールもあるし、タバコもあるし、ゲームもあるし、本もある。見渡
してみろよ」
「汚い天国もあったもんですね。で、どこなんすか」
「杉並区」
「すぎなみ!?」
「うん。ちょっと歩けば荻窪駅~駅チカなんでヨロシクぅ」
 ビール先輩のノリには慣れてきた。しかし、驚いた。昨日飲んでいたのは立川で、杉並
区とは結構な距離があるはずだ。
「どうやってここまで来たんですか」
「お前、運ばれて来たんだよ。ここまで」
「どうやってですか」
「レヴィアたんに運ばれて」
「ちゃんと教えてくださいよ」




「ちゃんと教えてくれるかな」
 灰色の立方体の部屋は、殺人ゲームの舞台ではなく警察署の一室だった。呆然とパイプ
椅子に座っていると突然ドアが開いて、制服を着た警官が入ってきたのだ。

「ですから、お話した通り、新宿で飲んだこと以外、何も覚えていないんです」
「君自分が何をしたかわかってる?」
「わかりません。教えてくださいよ。なんで僕が警察署に留置されてるんですか」
「人が死んだんだよ。新宿で」
 全く訳がわからない。

「君がその人と一緒にいたって証言があるんだよ。弁護士を呼んでもいいけど長引くよ。
早く帰りたいなら全部話して」
 状況が飲み込めない。胃が痛む。記憶が無いだけにどうすればいいのか見当がつかない。
「まったく覚えてません。思い出したら話すんで、帰らせてください。あと僕の鞄知りま
せんか」
「何も持たずに倒れていたよ。もっとも彼女の殺害現場の近くに君の鞄は落ちていたそう
だ。証拠として預かっているよ」
「彼女?誰のことです」
「大山一美。君の大学の1個上の先輩だよ。美人なのに可哀想なことを」
 聞いたことのない名前だ。誰だ。
「誰ですかそれ」
「ジャズサークルに所属だってよ」
 警官は手元の資料をこちらに向けた。急激な吐き気と眩暈がおそってきた。
「おい、大丈夫かね君」
「はきそうです」
「トイレに案内するから、我慢して」
 連れられるままに留置されていた室を出ると、広い空間が広がっていた。刑事なのであ
ろう人たちが数名、忙しそうにしている。
「2番、4Aです」
 近くに座っていた刑事に警官はそう告げた。トイレにつれていくという意味の暗号だろ
うか。広い部屋の横に留置室が4つほど併設されている。刑事たちのいるところを通らな
ければ、絶対に廊下には出られない仕組みになっているらしい。私の入っていた留置室が
端から2番目だから2番だったのだろう。眩暈と吐き気の中で、どこか冷静な自分がいた。
胃が痛い。

「仮に君が殺してなくても、酔っ払って街中に倒れていたんだ。すぐには帰せないよ」
 トイレの前でそう告げられた。個室便所に入り、胃にあるものを全て吐き出そうとした。
吐しゃ物から昨日、何を食べたかわかるかもしれないと期待したが、出てくるのは胃液だ
けだった。
 個室から出て、顔を洗った。トイレの中に小さい窓があった。鉄格子がついていて、と
てもじゃないが人が出るのは不可能だ。徹底している。
 そのとき、窓の外を何かが通った。巨大な何かが蠢き、こちらを見張っている。もう一
度、顔を洗う。鏡にうつった自分は青白い顔をしている。一瞬ニヤリと笑ったように見え
た。


「刑事さん、ここってどこですか」
「どこって警察署だよ」
「そうじゃなくて、どこの警察署ですか」
「どこって。荻窪警察署だよ。君、新宿からここまで来たんだろ」
 事態が飲み込めない。本当は私はまだ寝ていて、悪夢でも見ているのだろうか。さっき
見た写真の女は、あの音楽サークルの飲み会のときの女の先輩だった。しかし、あの日以
来、無視されていてばかりで話はおろか見向きもされていない。確かに無視しやがってと
いう思いはあったが、殺そうとは――ビール先輩のリヴァイアサンの話が甦る。万人の万
人による闘争。胃の痛みと冷や汗が止まらない。

「それじゃあ、事実関係がはっきりするまで、留置所にいてもらうからね」
 私はまたあの灰色の立方体に閉じ込められた。さきほどから何かに見られている感覚は
なくならない。警官にもらったお茶を一気に飲み干す。

 
 酒とは末恐ろしいものだ。
 好きだったのか、嫌いだったのかわからなくなり、殺したかったのかどうかさえもわか
らない。いや、殺してない。自然状態の自分に問うが、またも記憶の番人は首を横に振る。
出てくるのはニヤリと笑う自分の顔だけ。もう寝よう。





 悪夢のような出来事の中、私は夢を見た。空を飛ぶ夢だ。東京の遥か上空を飛んでいる。
実に気持ちがいい。こっちが現実ならいいのに。どこかこれは夢だと理解していた。いつ
からか自由に飛べなくなった気がする。この世は生きるには窮屈すぎる。
 ビール先輩が魅力的なのは自由に生きているからだ。

「おーい、おんぶしてくれー」
 ベロベロに酔っ払ったビール先輩がすぐ口にする台詞である。おんぶしてくれーともう
一軒いっとくかを繰り返す姿は自由すぎる。
「おんぶはしませんよ」
「頼むって、おんぶおんぶー」
 いつもしつこさに負け、背負うことになる。小さいおっさんだけにビール先輩は軽い。
「うおっしゃー。いっけー」
 と背中のうしろから叫んでくる。
「なぁ、酒飲むとさー、空も飛べるって気がしてこないか」
「今、ビール先輩が楽なのは飛んでるからじゃなくて、俺が運んでるからっすよ」
「ちげーよ。飛んでんだよ!飛べるんだよ人は。酒を飲めばな」
「空に放り投げましょうか」






「――て、おきて」
 警官に肩をゆすられて目が覚めた。気持ちのいい夢と一緒に、懐かしい記憶が甦った。
胃の具合も良くなっていて、嫌な感じもなくなっていた。
「良かったね。君、無実だったよ」
「へ?」
「新宿の方で真犯人が捕まったみたい。君を新宿で見たって証言した男。彼が殺したって
目撃者と物的証拠があがったらしい。君はもう帰っていいよ。新宿署に行けば、すぐ鞄返
してくれるそうだ。以後、酒には気をつけるように」
「あ、はい」
 安心した。殺してなかった。どうやら酔っ払った私は真犯人に利用されてしまったよう
だ。あの美人の先輩だ。おそらく交友関係で何かあったのだろう。とにかく安堵した。
 ズキリと胃がまた痛んだ。末恐ろしいのは酒ではない。思いを寄せていた知人が亡くな
ったというのに。


 警察署を出ると、真っ暗だった。時間の感覚がなくなってしまった。空がゴロゴロと音
をたてた。暗闇の中で雲が蠢いている。
 蛇が何かを乗せて空を飛んでいるように見えた。
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[本文はここまで]

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