勘違いスパイラル
勘違いスパイラル「あいがねえ」
俺は小さく呟いた。その声はおそらく小さすぎてテーブルの向かい側に座る彼女には聞こえていなかっただろう。たとえ聞こえていたとしても気にしなかったかもしれない。
俺がそれに気がついたのは夕飯に彼女の手料理を食べたときだった。むしろそれまで気づいていなかったことがおかしかったのだ。とはいえ、今ここで気が付いてしまった以上、俺はここを出て行かなくてはなるまい。
「俺はちょっと出かけてくる。ひょっとしたら戻らないかもしれない」
箸をテーブルに置き、おもむろに音を立てながら立ち上がる。一瞬椅子が壊れてしまわなかったか心配したが、別に問題はなかったようだ。
「椅子壊さないでね。意味不明だけどまあいいや。適当にいってらっしゃい」
とてもそっけない感じで手を振る。椅子のことは心配したもののまったく俺のことを気遣っている様子はない。彼女にとって俺は椅子よりも価値のないものなのだろうか。
俺は空しいものを感じながら荷物を適当に見繕って扉を開けて家から出て行った。
向かう先はどこか。それはもう決まっている。黒々とした死と病の匂いが漂う場所だ。そこでこそ俺の求めているものが見つかるはずだ。そこでならきっと、いや必ず俺は失ったものを手に入れて帰ってこれるはずだ。
俺はその場所へと一歩一歩足で地を踏みしめていく。進むたびに気持ちが沈んでいくのが自分でもよく分かった。
とても暗い夜だ。そして夜風がひんやりとして冷たい。俺の心を映し出したかのように雲が深く淀んでいる。深い雲に月は覆い隠されてしまってその姿を現さない。
あるのはヒトによって造られた少しばかりの街頭の明かりと、他人の家から漏れる冷たい光だけだ。他人の家からはたびたび談笑のようなものが聞こえてくるが今の俺には心苦しいものでしかなかった。
「さて、まず俺は無事にあの場所までいけるか、というもだ」
正直俺には自信がない。この暗い夜道、安全に、いや、安全でないにしても辿り着くことが出来るのか。
「まあ、やるしか道はないわけだが」
できなければ俺は死んだも同然だろう。というか、文字通り死ぬだろう。失くして生きていけるものではない。仮に生きていけたとしてもそれは管を全身に取り付けられた操り人形のような状態でしかないだろう。
「ぐふっ」
不意に腹に衝撃を感じる。そして俺は肺にたまった空気を一気に吐き出した。周りに人がいた覚えはない。
ここで倒れるわけにはいかない。意識がしっかりとしているうちに走らなくてはいけない。なんとしても辿りつかなくてはいけない。
俺はそう考えると痛む身体をほとんど気遣うことなく駆け出した。身体を気遣うというのは身体能力の一部を低下させることに繋がる。そんなことをしている余裕はもうなかった。
心臓が痛む。
呼吸が乱れる。
身体が軋む。
さっき食べた内容物がいまかいまかと出るときを窺っている。その衝動を空気を呑んで無理やり抑えながら足を動かし続ける。
薄暗い月のない世界を一心不乱に走る。
そして俺は痛む身体に拍車をかけてようやく辿りついた。たちこめる死と病の臭い。窓から漏れる泣き声。冷たい灰色のコンクリート壁。堂々としていてなおかつおどろおどろとした雰囲気を兼ね備えている大きな建物だ。薄青い光が建物のいたるところから漏れている。生まれきて死する場所。ここなら俺は失ったものをきっと取り戻すことが出来る。
不意に身体が傾く。
突如世界が暗転する。
何がいけなかったのだろう。明滅する思考の中そう考える。
それはとても簡単なことだ。辿りついたというだけで安堵してしまった。それがいけなかったのだ。
どこからか聞こえる喧騒を耳にしながら意識が途切れた。
「私はヒトを切り刻むのが好きでね」
耳元で男の声がする。俺はその声を聞いてすぐさま飛び起きる。俺の上半身は裸だ。今にも切り刻まれそうだったということだろうか。
「おやおや、起きてしまったのか。そのまま気絶していれば痛みも感じなかっただろうに」
薄暗い部屋の中、男はくっくっと低く笑いながら両手にはめた手袋をしっかりとはめなおしている。起きるのがわかっていてやっているような雰囲気だ。そもそも起きて困るのであれば寝ている間に拘束しているはずだ。
この部屋には俺とこの男の二人だけのようだった。俺が寝ていた手術台のようなものと壁際においてある冷たい金属で出来た机だけがこの部屋のオブジェクトだった。壁には窓が一つもない。ポスター一枚貼っていない。そしてなにより壁紙がされておらず冷たい灰色のコンクリートがむき出しになっていた。ここはこいつの実験室といったところなのだろう。
「いや、どちらにせよ痛みで起きていたか。そしてまた痛みで気絶するのだ。それを延々と繰り返す」
男は衣服でほとんど覆われていて肌が見えない。頭には帽子、目には眼鏡、口にはマスクをつけていて表情がまったく分からない。
これを死神というのだろうか。老若男女、女であれ子供であれ泣かし、わめかしてきたそういった存在なのだろう。
「そして狂うのが先か、死ぬのが先か、楽しい精神の防衛反応と生命力の駆けっこが始まるわけだ。楽しいだろう?」
楽しいわけがない。いや、あるいは自分がその対象でなければ楽しいのかもしれない。現にここに一人それを楽しんでいる人がいるのだから。だが俺はそんな人間になりたいと思ったことはないし、正直出会うのもゴメンだった。だが出会ってしまった以上否が応にも対峙しなくてはいけない。
「俺はここで死ぬわけにはいかない。失ったものを取り戻すためにも!」
俺は腰を低くしてファイティングポーズを取る。そんな格好を取ってみても俺は武術の心得なんて少しも持っていない。授業で柔道を少しやったもののあとは漫画やアニメの見よう見まねだ。そんなほんの少しの知識でもないよりはマシだった。だが奴から見たらそれはとても滑稽な様子に見えているに違いない。
「逃げる獲物を狩るのもいいが、噛んでくるネズミを切り刻むのもまた趣があるという。ものだ」
いつのまにかに男の手元には刃物がある。薄い銀色の刃、端から端まで銀色でどこまでが刃でどこからが柄なのか分からない。鈍く光るあの刃は触れられただけで簡単に切れそうだ。
「そちらから来ないのなら私から行くとしよう」
男はよほど自分の能力に自信があるのか優雅な足取りでこちらへとやってくる。だが優雅な足取りではあるがスキだらけというわけではない。むしろスキがまったくなく、整然とした物腰といってもいい。ただその足取りには余裕が垣間見られた。わざと生んでるかのように見える無駄があったからだ。おそらく挑発して心を揺さぶっているのだろう。
不意に奴の姿がぶれる。急いでその姿を目で追う。奴の身体は床すれすれの体勢でこちらに駆け寄る。
銀の閃光が薄暗い部屋を貫く。
「おやおや、思ったよりイキがいいですねえ」
かろうじて避けて飛びのき距離をとった俺に奴は楽しげに話しかけた。奴にとって俺は実験体のモルモットか何かでしかない。その様子を観察し、いじくりまわし、反応を見て笑い、その笑いに対する反応をまた見て喜ぶ。そういうことを楽しみにしているのだろう。ひょっとしたら研究者らしくノートかなにかに書き留めていたりするのかもしれない。
だがそんな奴とは対照的に俺は談笑している余裕などほんのすこしたりともない。いまの一撃はおそらく相手からしてみれば様子見程度の一撃だっただろうが、俺にとってはほとんど必殺の一撃だった。あの攻撃が一つでも当たればたちまち俺は動けなくなり、ばらばらにばらされて何も抵抗できない虫けらのように死んでいってしまうだろう。
「さて次は逃しませんよ」
くっくっくと肩を震わせて笑う。奴は本当に愉快そうに笑う。それが己の生きがいであると俺に語りかけるように。そしておそらく俺を恐怖のどん底に陥れるために。奴は見せ付けるようにゆっくりと両腕を下げて体勢を低くする。いつの間にかに両腕に刃物を引っさげている。
先ほど一本だけでやってきたのは完全に様子見だったというわけだ。それと、二つに増えたことをわざと見せ付けて恐怖心を抱かせようという魂胆なのだろう。頭で理屈が分かっていてもなかなか恐怖はぬぐいきれない。なにより刃が二本に増えたという物理的事実はまったく揺るがない。
俺の手元には武器はない。そして武器になりそうなものはこの部屋には見当たらない。どうしようもこの決定的差の中でせめて精神だけでも落ち着けなければいけない。
武器がなく身体能力が低い俺と武器を持ち身体能力に長けた男、もし勝てる要素があるとすれば心の隙を付くほかない。そのためにも集中力を欠いてしまってはダメなのだ。
男が海面を駆けるサメのように床すれすれを駆けて間合いを詰める。ほんの一瞬のうちに間合いはみるみるとなくなっていく。
次の瞬間には奴は俺の目の前にいた。
一陣の風が伏せた俺の頭上を駆ける。俺は通り過ぎた右腕を上げたままの男の腹をめがけてこぶしを突き出そうと力を込める。その刹那奴の左腕が俺の膝めがけて突き出される。俺は腕を引いて横転して避ける。
これではダメだ。これでは奴には勝てない。
横転して回避した俺を奴は逃さない。再び体勢を低くしてハイエナのように俺を追い、突撃するスピードをまったく落とさず再び右腕をしならせる。奴の寸分の迷いもない銀の刃が体勢の悪い俺の膝へと吸い込まれる。
暖かい液体が飛び散る。
どさっという大きな音が部屋に響く。
奴の右腕は正確に俺の膝を切り裂いた。
ぱっくりと切り裂かれた膝から血が泉のように湧き出ていく。だが倒れたのは俺ではない。奴が倒れたのだ。
あの瞬間、奴は俺が前回と同様一発目を避けてくると思ったのだろう。足を刃物で斬られればただではすまない。避けて体勢が崩れたところを畳み掛ける予定だったのだろう。だが奴の意に反して俺は避けなかった。はじめは奴の攻撃はほとんど必殺の攻撃だと俺は考えたがそれは間違いだ。あの技とスピードなら喉や心臓、腹であれば必殺だ。だが膝ならさすがに必殺とはいかない。俺の避ける方法を限定するための一撃だったのだろうが、それをまったく避けようとしなかった俺の拳が奴の喉元を突いたのだ。単なる俺の一撃だけなら奴は倒れなかったかもしれない。だが奴はとても高い身体能力の持ち主だった。その騎突の速さが自分を貫く衝撃を倍増させてしまったのだ。いわゆる作用反作用の力というやつだ。偶然にも俺は奴の速さを利用する形になったのだ。
「ふう、なんとかなったか」
突如世界が暗転する。
また、俺はやってしまったのか。
薄れゆく思考の中でそう思う。
ついさっきミスをしたばかりなのに。こんなんで俺は再び戻ってくることが出来るのか。
思考が完全に暗闇に落ちるその瞬間、彼女の声が聞こえたような気がした。
「やっと起きたか。寝ぼすけだねえ」
彼女の声がする。彼女は半ばあきれたような様子でソファーに寝転がった俺を見ていた。
思考がはっきりしない。どうやら俺は家にいるらしい。
「まったく。なかなか起きないから頭を蹴り飛ばそうかと思っていたところよ」
彼女は腰に手を当ててふんと鼻を鳴らす。
これは比喩的な表現ではなく俺はこれまでに何度か蹴り起こされたことがある。
「あ、ああすまん。ぐっすり寝ていて読んだのに気づかなかった」
まったく働かない頭に再起動をかけながらゆっくりとソファーから起き上がる。
「もう夕飯の時間だよ。ほらさっさと席について」
ぼんやりとした頭のまま、おぼつかない足取りで彼女に言われるまま席に着く。
「今日の夕飯作ってくれたのか」
俺は彼女に尋ねた。どうも俺が寝ていた間にご飯が作られていたようで誰が作ったのかわからない。俺がこんな色とりどりの料理を作ることはないのだから、おそらく彼女が作ったのだろうが。
「そうよ。ぐっすり眠っていて、あなたじゃ夕飯の時間までに作れそうもなかったから」
彼女はあきれながら答える。食事の時間をしっかりと守る彼女にしてみれば夕飯の時間もぶっ通しで寝続けようとする俺は見ていられなかったのかもしれない。
「いただきます」
二人揃って両手を合わせた後、箸をつかんで芋の煮っ転がしを口に運んだ。
「あいがある」
なんだ、勘違いだったんだ。どこからが夢でどこからが現実かはっきりしない。
「そりゃあいくら胃炎で病院前で倒れたっていっても胃がなくなったわけじゃないよ」
彼女は苦笑しながらそう言った。
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