落下する人~望月聡介と桐柄花奈のケース~

耳が痛い、鼻が痛い。頭の奥がキーンと鳴っている。呼吸もまともに出来ない。口の中に舞い込んでくる風で喉が閉められ窒息しそうだ。パクパクと口を動かすが酸素を取り込んでいる感覚がしない。恐怖が体を固くする。今にも酸素を求める肺が自ら口から出てきそうだ。
「起きろ!起きてくれ!寝てたら死ぬぞ!」
この場合起きていても死ぬかもしれないが、
とにかくこんな状態になっている理由経緯思い出などが欲しい。もし知っているのなら教えてくれ!叶うのなら打開策を!そしてこれが悪い夢なら僕の方を起こしてくれ!切実な思いを乗せ僕の愛する恋人の花奈を引っ叩き続ける。
 
何故か分からないが僕らは絶賛落下中だ。ここがもし地球であったのなら、空と言われる場所から地上と言われる場所へ落ちている最中というわけだ。だが、ここはどこなのか、何故ここにいるのか、どうすれば止まるのか皆目見当がつかない。少なくとも私は僕で、僕は望月聡介29歳男であることは確かだ。確かであってほしい。
目が覚めたら落ちていた。状況は理解不能。なんだろうか。夢だろうか。それにしては妙な現実感を持っている。夢にしては自分の意識が安定していて、一挙手一投足に確信がありすぎる。それに耳が痛い鼻が痛い、大量に舞い込んでくる風が喉に詰まって息が出来ない。今まで夢の中で空から落ちるという展開を何度か経験したけど、こんなに切羽詰まったものだったろうか。もっと悠々と落下を楽しんでいたような気がする。というか、落下が当たり前の事実として既に受け入れられていて、何をしようかみたいな余裕を持っていた。落下を中断して、手を前に突き出してグーを握り体を伸ばしてスーパーマンのように自由に空を飛ぶことも出来るし、体を横に倒し片肘を付き頭を支え涅槃仏のように空中浮遊も楽しめるという選択の自由もその夢の中にはあったはずだ。確か会社の同僚に聞いた覚えがある。夢を見ているときに目を思いっきり閉じて、パッと勢いよく開けると夢から醒めると。試してみるか。
視界に入る限りだと、周りは目線から上へ青が濃くグラデーションしていき真上は紺色をしている。その青のグラデーションの中に強い光が見える。眩しい。ここがもし地球であったのなら、その紺色は宇宙と言われる場所へ続いていて、強い光は太陽と言われる天体なんだろう。目線から下は青が次第に薄くなっていき、一面真っ白へぶち当たる。その白は、ここがもし地球であったのなら、雲と言われるものだろう。それ以外は何も見当たらない。青と紺と白以外色も見当たらない。その中を落ちている。おそらく落ちている。ここがもし地球であったのなら。
「起きろ!花奈!」ゆっさゆっさ
「目を覚ませ!」ぐいいいいい
「起きろって!なあ花奈!」ぎゅううぅ
「起きろ!いいかげん起きろ!」ぐわっ
「起きてくれ!たのむ!」ぎいいいいい
「起きてください!お願いだから!」ぶぁぢいいいいいん
肩を揺すっても頬を捻っても鼻をつまんでも目を無理やり開けても耳たぶ引っ張っても顔面思いっきり引っ叩いても起きない。
「起きろ起きろ起きろ!おきろおきゲホッお、ゲホッゴホッおきろおぎろぉおぎおおぎろお!ゲホッガホッグホッ……」
声を限りに花奈を呼ぶ。この落下の中声は届いているのかどうかは分からないが呼ぶ。揺するつねる叩く。起きない。それでも起きない。目はしっかり閉じられ、変わらぬ穏やかな表情をしている。いつだって花奈はそうだった。彼女はなかなか目を覚まさない。一緒に迎える朝。いつだって彼女はそうだったんだ。
目覚まし時計の無表情な電子音が鳴って反射的にベッドの頭に手を伸ばす。がちゃがちゃとリモコンや携帯ゲーム機などを弄った末にようやく煩いアラームを止める。その間約十秒。温かい体温と夢の続きを残した布団から上半身を起こすと隣でなんの悩みも汚れも知らない純真無垢な赤ん坊のような、もしくは悩みも汚れも全てを受け入れて尚愛に溢れる偉大な聖母のような穏やかな表情を浮かべて花奈が眠っている。
しばらく眺める。
静寂。
微かな寝息。
窓の向こうを電車が通り過ぎていく。
ガタタンゴトトン。
大きく欠伸を一つしてから、ゆっくり花奈の肩を揺らす。
「花奈。朝だぞ。起きろー。」
もちろん起きるわけないので、反応を待たずに頬をペチペチと叩く。
「会社また遅れるぞ。またあの嫌な上司に説教食らうことになるぞ。」
次は引っ張ってみる。
「まだ寝てるか?あとから慌てることになっても知らないからな。」
それにしても、なんの臆面もなく人の顔をここまで弄れることもなかなかない。やってみると結構面白いことだ。さあ次は何をしてやろう。
「おーきーろー。」
鼻を指でつまむ。口を手でふさぐ。呼吸を止める。目を瞑り、僕も呼吸を止める。頭の中で呟く。










花奈から手を離す。目を開け、呼吸を再開。それでも変わらず目を覚まさない。寝返りを打つどころか、表情一つ崩さず朗らかに夢の世界で遊んでいる。
さて、楽しんだし一応義務は果たした。これで言い訳も出来る。ここからはもうどうしようもないことなので、あと三十分だけ寝かせといてやることにする。自然に起きるのを待つしかないんだ。遊び疲れて腹が減ったら帰ってくるだろう。
三十分間。ふらりふらりとバスルームに向かい、熱いシャワーを浴びる。凝り固まった脳の芯がゆっくり溶けていく。体中を伝う湯が血管のようだ。血液が全身を起こしていく。バスルームから出ると歯ブラシを咥えながらトースターにパンを入れ、フライパンに卵を落とす。手持無沙汰になったので仕方なく歯ブラシを動かしながらベランダに出る。さあっと冷えた空気が体を包む。まだ湿り気の残る髪が揺れる。気持ちのいい晴天ではないけど、朝としてはまずまずの点数の空模様だ。足下には花奈が買ってきた花の種を植えたプランターがある。なんていう名前の花だったっけ。それにしてもいつになったら芽が出るのか。もう植えてから一カ月は経っているような気がする。土の中で腐っているんじゃないのか。そういえば花奈が水をやっている姿を見たことが無いな。
キッチンへ戻りフライパンに被せたフタを取る。遅かった。黄身が固くなった目玉焼きを皿へ移すとタイミングよくトースターからパンが飛び出す。一枚を花奈の皿へ、もう一枚を自分の皿へ乗せる。
「ねえ、ピンポン玉しか食べない象の話聞きたい?」
顔を上げると花奈の姿がある。寝室からよたよたと出てきて、目を擦りながら椅子に座る。
「またそんな変な夢を見たのか。」
「干し草やリンゴをやっても見向きもしないの。でもピンポン玉を与えると、プオーンって鳴いて長い鼻を使って吸いこんで口に運ぶの。すごくおいしそうな音を出すのよ。パリッパリッって。」
花奈が話している間に冷蔵庫を開け、牛乳のパックとバターを取り出す。コップを二つ机の上に並べ、牛乳をつぐ。花奈は一通り話し終えると静かに牛乳を飲む。こくっこくっと喉を通る音がする。一気に飲み干してしまうと、ふーと息を吐く。
「おはよう、聡介。」

「おはよう。」一人呟く。
抱き合っていた花奈の手にビクリと力が入る。甘やかな回想から、花奈の顔に視線を移す。ようやく起きたか。花奈の表情は恐怖、混乱、困惑、混濁、絶望に色を変えていく。背中に回っている花奈の手の力がグッと強くなる。背中が締め付けられる。声が出せない呼吸ができないその苦しみが更に恐怖を増長させる。
「花奈。大丈夫だ。よく分からないだろうが大丈夫だ。」
全然大丈夫じゃない。嘘をついている。花奈の視線がこちらに移る。
「そ……う…け………そう…す……け。」
声が微かに届く。
「変な夢…見てたけど……ま…だ…夢見てるみたい。夢なのに…息苦しいよ。」
夢ではない。これはきっと夢ではない。体中が妙な緊張感を持っていて、夢だと楽観視させてくれない。けれど、僕は何も答えられず、花奈の目を見つめ続けた。
「もっといい夢見たいな。ねえ、このまま飛べないの?私行ってみたい国があるの。動物たちが喋る国。そこへ飛んで行こうよ。私まず象と話してみたい。色々なものを象の前に差し出して本当に好きな食べ物は何か尋ねたい。みんながみんな干し草やリンゴが大好物なんてわけないでしょ。バナナだったり福神漬けだったりカルボナーラスパゲッティだったり。もしかしたら、私をその長い鼻で巻き付けて、ポイと口の中に放り込むかもしれない。おいしいのかな。また食べたいって思ってくれるかな。けどもう私はいないからその象は我慢して干し草やリンゴを仕方なく食べ続けるのかもしれない。そしてたまに、私の味を思い出してヨダレを垂らしてしまうの。だらしなく。飼育員に私をまた食べたいなんて言っても聞き入れてくれるわけない。象は頭がいいの。人間は何が理解出来て、何が理解できないかぐらいは分かっている。それが分かっているからだらしなくヨダレを垂らすの。象に食べさせてあげたいな。好きなものを。ねえ、だから行こうよ!一緒に!」
「だめだ!行かない!ここは夢の中じゃないんだ花奈!行けないんだ!そんな国なけりゃ、空も飛べない!ただ落ちていくだけなんだよ。落ちて固い地面に体を打ちつけて体中の有るもの無いものがそこにぶちまけられる!汚くて臭くて悲惨な場面だ。その落ちた近くに運悪くいた誰かは相当なショックを受けるだろう。数週間、酷ければ数か月何も喉を通らないだろう。後片付けだって大変だ。僕たちはとんでもなく高いところから落ちているようだ。そのエネルギーを持ってして地面にぶつかれば僕らがどれだけ散らばるだろうか。見たことない自分がそこらじゅうに飛び散る。そしてその僕らは腐って異臭を放つんだ。それが都会のど真ん中だったらどうする?僕らはあらゆる自分を見知らぬ人たちにぶちまけて汚してしまう。嫌な顔をされながら僕らは回収されていくんだ。そんな日常にあるんだ。」
「象牙を溶かして体中に塗ってそれを衣服代わりにして生活している国にも行ってみたい。とても温かいそうよ。それに虫が寄ってこないんだって。便利よね。けれどなによりアイボリーの体がとても神秘的で綺麗なの。」
「きっと散らばった僕らに残ったものは何もないだろう。だから棺に入れる体も無ければ葬儀場で焼く体もない。誰もが残された家族にかける言葉を見つけられないだろう。誰もが言葉に詰まり淀み、分けが分からない死に対して言葉を失う。悲しみも怒りもどれもが不適切なあるような感情がその場を包む。決して誰も泣かず下を向いて儀式を終える。きっと触れてはいけない死として処理していくのだろう。もう僕らの延長線上はそんなものなんだ。どこへも行けない!なにも見れない!」
「嫌だ!なんでそんなことになるの!私たちのこれからは行ったこともない場所や見たことないもので溢れていたはずでしょ!やめて!そんなこれからを勝手に決めつけないで!」
「ごめん!そうだ!その通りだ!僕はそんなこと望んでいない!僕が望んでいるのは……。」
僕が望んでいるのは。
 「結婚しよう!花奈!」
僕は言った。何かを口走った。
「花奈とのこれからを誓う!花奈とのこれから先の人生を誓う。ずっとずっと花奈と一緒にいる!動物が喋る国に行こう!象牙を服にしている国にも行こう!僕だって行きたい場所があるんだ!イタリアのパレルモにミイラを見に行きたいんだ!死んだ人を見に行きたい!そうだ僕にもあった!やりたいことが!なあ!だから結婚しよう!二人を繋いでしまおう!様々なしがらみで繋いでしまえばいいんだ。互いの家族や親類、職場の上司や友人。そしていずれ生まれる二人の間の子ども。そんな様々なしがらみで二人を繋ごう。ずっと一緒にいよう。ずっと一緒に縛られていよう!」
「うん。私も誓う!聡介とのこれからをずっと誓う!結婚しよう!」

その瞬間の思いを言葉にした。祈りを伝えた。それで二人のこれからを繋いだ。そして僕らは社会と繋がった。様々なしがらみが生まれた責任が生まれた。僕らはもう飛べない。けれど落下していくことはない。ここはもう地上。周りには同じ顔の色をした人たちが沢山いる。みんな僕たち二人を祝福してくれる。泣いている人もいる。頑張れよと固い握手を求めて来る人もいる。いいなあ私も幸せになりたいと言葉をかけて来る人もいる。おめでとー!と満面の笑みを浮かべて近づいてくる人もいる。共通しているのはみんな嬉しそうであるということ。ああ、僕は正しいことをしたんだ。選択を間違わなかったんだ。
あの空から落ちていく時間。二人の今までから連続性を持たせて一直線上に並べた。どれもこれもに尊さを感じて、愛おしく思った。そして祈った。そして誓った。その誓いが僕ら二人のこれからを作った。僕らはもう飛べない。その変わり落ちることもない。ここから下はあとは地面の下だ。いつか埋められるその日まで、僕はこの地上で生きていく。


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