モコ

モコ

 私は物静かな子供だった。体だけは人一倍大きく小中学校では同じ学年に、私より背の高い者はいなかった。学校では一人宙に浮いている感じで、クラスに馴染めずいつも一人で過ごしていた。辛くはなかった。それが当たり前のことと思っていた。幸いにも、体が大きいことで周りから怖がられていたのか、避けられてはいたがいじめに発展することはなかった。
 太陽が空の真上に昇り、じりじりと地面を焼いていていた暑い日の午後。その日、私の小学校は開校記念日で休みだった。私は遊ぶ友達もなく、平日の昼のテレビも退屈で、いつものように一人で外に出た。
 両親が共働きで、家に一人でいても何もする事がなかった。外に出ても友達がほとんどいないので、鬼ごっこや、かくれんぼなど、複数いなくては成立しない遊びもできなかった。だから、「冒険」という、一人だけでできる遊びを私はしていた。その冒険は町内から出ることはなかった。だが、通学路から外れた細い路地に入ったり、山に登ってみたりと、子供ながらに本物の冒険をしている気分だった。
 こうして書いてみると、普通の子供なら誰でもしていた探検ごっこだ。他の子供と違うのは、それを一人でしていたことと、その回数が多かった事だろう。その頃の私は、その冒険を毎日のようにしていたしとても楽しかった。
 冒険している時は、何でもできるような気がしていたのだ。小説に出てくる主人公になった気分だった。それに、ただ単に町内を歩き回るだけでなく目的もあったのだ。
 その目的は押し花を作るための花を摘んでくる事である。この歳の男の子には珍しいだろうが、私は押し花が好きだった。小学校に上がる前は母と一緒に野原に行き、よく作っていた。その頃から押し花の魅力に取り憑かれ、今までずっと押し花を集めている。
 一人で冒険に行くのは、押し花を作っていることを他人に知られたくないからでもあった。

 開校記念日のその日はいつもの冒険とは違い、隣町まで行こうという気になった。私の家は、私の住んでいる町と隣町とのちょうど境界線辺りに建っている。なので、隣町まで行くと言っても歩く距離はいつも通りだったと思う。隣町に足が向いたのはただの気まぐれか、今となっては思い出せない。
 存分に未開の土地を冒険し終えた私は、家路につこうと夕日が射し始めた道を引き返し始めた。
「隣町と言っても、自分の住んでいる町とあまり変わらないじゃないか。これからもこの町を行動範囲に入れよう」と、考え、遊び場が広がったことを喜び、未開の土地を自分が冒険している姿を想像し胸を高鳴らせながら歩いていた。

 その帰り道の途中、通りかかった公園で自分と同じくらいの歳の女の子が2,3人の男の子に囲まれているのを見た。この町の小学校に通っている子供たちだろう。囲まれている女の子はうずくまって泣いていた。明らかにいじめだと思った。
 普段から私は、警察官で熱血漢の父から「困っている人がいたら助けろ」「いじめはするな。しているやつがいたら止めろ」などと躾けられていた。しかしいじめはしないにしても、止めろと言うのは自分では無理だと思っていた。
 だが、その時は気が大きくなっていた。見知らぬ土地を一人で冒険した自分は何でもできると思っていた。一人で見知らぬ土地を歩いていた事に、自分と同じクラスの子より大人になったのだという優越感のようなものも持っていた。そのいじめの光景が目に入った瞬間、カァっと頭に血が上り、叫び声を上げながらいじめっ子達に突進して行った。
 最初いじめっ子達は、見ず知らずの子供がいきなり突進してきた事に驚いていた。だが、私がいじめっ子達に敵意があると理解した瞬間いじめっ子達は私に向かってきた。私は頬を殴られた。痛みでうずくまった私に、いじめっ子達は何発か蹴りを入れて去って行った。去り際に何か言われたが、初めて人に殴られたことにショックを受けていて聞き取れなかった。
 私は人を殴ったことも、殴られたこともなかったのだ。そんな私が、複数を相手にケンカで勝てるわけがないのだ。うずくまっていた私は殴られたショックと自分の頭の中で描いていた、「物語の主人公よろしく颯爽と現れ、いじめっ子を叩きのめす」と、いう妄想と現実の差に打ちひしがれていた。

 肩を触れるものがあった。いじめられていた女の子が、私を心配しているのだと分かった。恥ずかしかった。助けるつもりが、逆に心配されている。私は顔を上げた。大丈夫だと示そうとしたが、言葉が出なかった。痛みのせいではない、驚きにより声が出なかった。女の子は私と同じ位の歳だったが、顔の右半分が爛れていた。右目は垂れ、皺の様になっており、頬は皮膚の下に小さい虫が潜んでいるかのように凸凹していた。
「大丈夫?」
 ガラガラとした、ノイズの入ったような声だった。喉も少しやられているらしい。
 その夕日に照らされた、醜く爛れた顔が僕を心配そうに見ていた。だが、私が女の子の顔に驚いているのが伝わったらしく、女の子は目を逸らし、申し訳なさそうに下を向いた。そこでようやく私は自分の過ちに気付いた。
「ご、ごめん。大丈夫だよ。」
 やっとのことでこれだけ言い、私は逃げるように走った。

 その日以来、私は頻繁に隣町まで出向くようになった。彼女に謝りたいという気持ちがあった。幸運にも会うことができ、それからも一緒に遊ぶようになった。彼女の家も、私の家と同じように町と町の境にあり、意外と近かったので私の家に呼び、押し花も見せ、作り方も教えた。
 彼女は様々な種類の押し花を見た途端、目を輝かせて喜んだ。ノートに挟んで保存してあった押し花をひと通り鑑賞した後、彼女から作り方を教えてほしいと言ってきた。男らしくない私の趣味をバカにすることなく、あんなにも押し花を見て喜んでいる彼女を見て、私は彼女に会えて本当によかったと思った。
 彼女は私にとって一番の友達になった。彼女は、顔の怪我のせいでいつも俯いていて暗く、物静かだった。しかし私にとってはその位がちょうどよかったのだろう。一緒にいて居心地がよかった。彼女の怪我については一緒に遊ぶ内に気にならなくなり、怪我の経緯ついて私は聞こうとしなかった。聞いてしまったら、もう二度と遊べないと子供ながらに思っていたのだろう。私は彼女の家にも遊びに行った。彼女の両親も、初めて友達を連れてきたと喜んでいた。
 これが、小学生までの私と彼女の関係である。

 今の私は高校生で、彼女の家にいる。遊びに来ているのではない。彼女が死に、葬式に来ているのだ。やはり彼女には友達が少なかったのだろう、葬式に参列しているのは同じクラスと思われる女の子が2,3人すすり泣いているだけで、あとは親戚数人と彼女の両親だけであった。母親は、目も当てられないほど取り乱していた。棺桶にしがみ付き、髪を振り乱し大声で泣いている。父親の方はまだマシだったが、嗚咽を漏らし呻いていた。棺桶の中の死に顔は見ていない。

 私が中学校に上がるとさすがに押し花を作らなくなったが、町を歩き回るのは続けていた。小学校の時のように、小説の中の勇ましい主人公になる想像もしなくなり、ただ何も考えず歩いていた。正直言うと、中学でも友達ができなかった。私の中学校は、隣町の小学校と合同になることもなく、小学校のメンバーがそのまま中学校に上がっていく。友達が少ない私は友達が少ないままで、いつも一人で過ごしていた。
 家にいづらくなったこともある。親からのプレッシャーに耐えられないのだ。勉強は得意ではない。これは小学校の時から変わらなかったが、中学になったら急に親からの期待が大きくなったような気がする。今思えば気のせいかもしれない。もしかしたら、私自身が勝手にそう思い込んでいたのかもしれなかった。
 私は自分に自信がなかったのだ。勉強も、運動もできず、秀でたものが特にない。こんなダメな自分が親に申し訳なかった。しかし親は優しく接してくる。その優しさが、私にはプレッシャーに感じられた。
 だから歩いて時間を潰していた。彼女とも変わらずに会っていた。彼女も私と同じ境遇だったのかもしれない。自分の居場所がない。だから、外に行く。だが外にも居場所がない。歩き回り、さまようしかなかった。

 彼女は髪を長くして顔の右半分を隠していたが、普通にしていても暗いのに長髪が彼女の印象をさらに暗くしていた。よく花を手に持っていた。まだ押し花を作り続けているのかと、私は思った。いつも彼女は、右手が林で左手が崖になっている、人の気配が全くしない場所にいた。顔の傷のせいであまり人が多い場所に行きたくないのは分かるが、なぜこんな危険な所にいるのかと、聞いたことがあった。彼女の答えは、この先に花がたくさん咲いている場所がある、ということだった。私はなんだか、押し花を作るのをやめてしまったことが、申し訳ないような気がした。
 彼女は私に会うと笑顔になった。髪を伸ばしても、隠し切ることのできない傷が夕日に照らされ、彼女の顔に奇妙な陰影をつくる。しかし私の前では傷のことは気にならない様子で、満面の笑みを顔に浮かべた。
 私たちは会う度に取り留めのない話をした。彼女はいろいろな事がしたいと話す。遠くに行きたい、おしゃれな店に入ってみたいと言う。顔の傷が妨げになるのだろう。そんな普通の女の子ならいくらでもできそうなことを夢物語のように話す彼女を見て、私はいつか連れて行ってやると彼女に言う。彼女は喜び、私の腕に抱きついてくる。醜い顔の爛れが腕に触れるが、私は気にしなかった。小学校の時に比べたら少なくなっていたが、彼女の家にも行っていた。
 これが、中学生までの彼女との関係である。傍から見ると、仲のいい男女、もしかしたら付き合っていると思われただろう。私はそう思われてもいいと思っていた。

 葬式が終わった1か月後、彼女の父親から電話がかかってきた。電話の内容は、次の休日に家に来て欲しいということだった。彼女の母親が落ち込んだまま回復する様子がないので、このままでは精神的に参ってしまうと心配した父親が、気晴らしに彼女の事について一緒に話をして欲しいということだった。彼女の事を話したら余計辛くならないだろうかと言ったが、どうしてもと言うので気が進まないが、会う約束をした。

 高校生になると、彼女と同じ高校になった。家から一番近い高校を選んだら、偶然彼女と一緒になってしまった。彼女と会うときは、進路の話など全くしなかった。かなり人数の多い学校だから入学式の時は気付かなかったが、入学式から2,3日経ったある日、友達から
「C組に、すげー顔の女がいる。」
 と、話を聞いたのだ。よくよくその子の特徴を聞いてみると、彼女の事だったのだ。私はその時、
「ふーん。そうなんだ。」
 と、わざと気のない返事をした。
 私にも、ようやく友達らしい友達ができていた。今まで怖がられてきた原因の身長も、高校生になると逆に羨ましがられるようになっていた。下手に彼女との関係を知られてしまったら、自分まで彼女の同類として扱われ、せっかくできた友達が離れていってしまうかもしれない。そう私は思い、学校生活では彼女に近寄らないようにしようと思った。

 入学して2か月が過ぎた。私はバスケ部に入り、休日も仲間と練習し、オフの日は一緒に遊んだ。ぶらぶらと、町をさまようことはなくなった。これまでの人生で一番心が満たされていた。満たされない心を意識しないように、町をさまよう必要はなくなった。しかし彼女の心は満たされてないままだろうと思った。今まで、彼女の人生において何か楽しいことがあったのだろうか。遠くから見た、夕日に照らされた彼女の悲しげな醜い横顔。私と一緒に話すときだけは彼女の心は満たされるようで、その瞬間は目に光が宿る。小中学生のときの私も、彼女と会話している瞬間だけ生きていると実感できていた。

 休日、友達から遊びの誘いもないので、彼女に会いに行こうと考えた。長い間、彼女に寂しい思いをさせた罪滅ぼしのつもりだった。彼女はいつもの場所に座り、夕日を見ていた。小学校の彼女と比べるとやはり変わった。身長が伸びたことはもちろん、体の形も大人に近づいていた。
 私が声をかけると、驚いた様子で振り向いた。顔の傷だけは変わらない。この傷さえなかったら、彼女にも普通に友達ができていて、こんな悲しい思いもすることなく普通の女の子として生活できていたのだろう。声をかける前に見た、彼女の悲しげな横顔も変わってなかった。
 私はまず、しばらく会いに来なかったことを詫びた。彼女は気にしていないと、首を横に振った。それからいつも通りに取り留めのない話をした。彼女はまだ押し花を作っているらしい。私が作り方を教えた押し花。町をさまよい、押し花を作ることにで、彼女は自分の満たされない心をごまかし続けているのだ。私はそんな彼女を見て可哀そうになり、これからは定期的に会いに来ると約束した。彼女は喜んだ。

 だが、私は一度もその約束を守ることはなかった。友人との関係が壊れるのを恐れたのだ。初めてできた友達を手放したくないという理由で、彼女のことに気が向かなかった。私は友達のご機嫌取りに頭が一杯になっていた。更に学校で彼女と会うことも恐れ、次第に彼女の存在が邪魔になってきていた。

 彼女の父親と約束した日、約束通り私は彼女の家を訪れた。家の中は薄暗く、本当に人が住んでいるのかと疑わしいぐらい、火が消えたようにひっそりとしていた。出迎えてくれた父親は幽鬼の如くやつれており、顔色は青白かった。たったひと月で人はこんなにも変わるものなのかと、ぞっとした。
「今日は来てくれてありがとう。家内もきっと喜ぶよ。あいつは明るい性格だったのに、あの子がいなくなってから外にも出ず、誰にも会わないようになってしまったんだ。君と一緒にあの子の思い出話でもしてやってくれ。」
 私は取りあえず頷いた。
「あいつには誰かと話すことで、元気を取り戻してほしい。そして、あの子が死んだことを認めてほしい。いつも仏壇の前で泣いているんだ。」
 そう話しながら、仏間に通された。仏壇には彼女の写真が飾られていた。幼稚園ぐらいの写真だろう、私と初めて会ったときより幼い感じがした。この写真に写っている彼女の顔にも傷があった。仏壇に飾られている写真が幼いころの写真しかないということは、彼女は写真を嫌ったのだろう。この傷では、それもしょうがないことだと思った。

 彼女の母親は仏壇の前ですすり泣いていた。その姿は、父親と比べものにならないくらいひどい状態だった。髪は伸び放題で肌は荒れ、眠れていないのか目は充血していた。葬式で見たときより、10は歳をとったのではないかと言うほどやつれていた。
 父親が宥めてから私が来たことを説明した。私はその間どうしたらいいかわからず、所在なく立っていた。ここから出ていきたかった。話しかけられても何と答えていいのか、とても心配だった。
 座布団を勧められ、しょうがなく座った。しばらく沈黙が続いたが、母親が口を開いた。彼女の小さい頃の思い出から話し始めた。それから私と会ってから明るくなったこと。家ではずっと私の話をしていたこと。
 思い出話が終わると、私が関係していたことばかりを話した。一方的に話すので、私はただ頷くだけでよかった。死んだ者の人生を聞かなければならないのは、苦痛以外の何物でもなかった。私は一刻も早く帰りたいとばかり思っていた。

 彼女と久しぶりに会ってから長い時間が経った。彼女の事は忘れかけていた。あえて彼女を意識しないようにしていたのかもしれない。楽しかった、友達と過ごす時間が。さらに私には付き合っている女の子もできていた。この時間を彼女と言う不穏分子で壊されたくなかった。今思うと彼女との会話は何も生み出さない、マイナス同士の会話だった。願望ばかりの空想話ばかりだった。
 しかし今の私にはその願望が実現の物にできる。付き合っている子といろいろな店に行ける。部活での合宿や、隣の県の大会に参加したりして遠くに行ける。普通になれた。やっとプラスの存在になれたと感じた。

 学年が変わる頃には、もう彼女の事は忘れていた。噂にはいじめられていると聞く。しかしそんな事はどうでもよかった。そもそもの彼女との出会いは、彼女をいじめから助けたことが切っ掛けで始まったのだが、今の私には彼女を助ける気はなかった。助けた理由も、彼女を思ってやった訳でもない。ただ私が調子に乗っていただけだった。今そんな調子に乗って目立ったりしたら、皆から白い目で見られてしまう。そうして私は友達の事を最優先に考え、日々過ごしていた。

 友達と一緒に、いつも通りバカ話をしていた休み時間、私は急に後ろから声をかけられた。あのノイズ交じりの聞き取りづらい声だった。
「なんで助けに来てくれないの。」
 クラスは静まり返った。その問いかけが私に向かって発せられているのは明白だった。私はぎこちなく振り向いた。なるべく平静を保とうとしていたが、恐らく顔が引きつっていただろう。彼女が扉のそばで私を見つめていた。彼女はひどい有様だった。いじめによってできたのだろう、手には絆創膏が貼ってあり、傷のなかった左顔には青痣ができていた。私が一番驚いたのは、髪が短くなっていた事だった。その髪はとても雑に切られていた。無理やり切られてしまったのだろう。そのせいで、醜い顔がはっきりと見える。
「なんで会いに来てくれないの。」
 そう、光のない目で私を見つめながら近づいてきた。
 私は金縛りにあったように身動きが取れず、言葉も出なかった。じりじりと彼女が近づいてくる。右顔は赤く爛れ、左顔は青く腫れている。そんなますます醜くなった顔で、私をじっと見ている。私はこの状況を打開しようと何か言おうとした。しかし何も出てこなかった。彼女との関係を知られてしまった限り、何を言っても何の言い訳にもならないだろう。友達をすべて失ってしまう、そのことが頭をよぎって頭が真っ白になった。ただ口を金魚のようにぱくぱくさせていた。
「何訳の分からねえこと言ってんだ!とっととここから出ていけ、鬼婆ァ!」
 そう言ったのは隣にいた友人だった。それを皮切りに、いきなりの出来事に固まっていた友人たちが次々と暴言を浴びせ始めた。彼女は思いもしない暴言を浴びせられ、立ち竦んでいた。
「おい!」
 友人の一人が前に出た。
 ついに彼女は怯えて出て行ってしまった。
「何だったんだ、気持ちわりぃ。おい、大丈夫か。」
 そう声をかけられて、私は我に返った。彼女の行動は、ただの気味の悪い行動として彼等の中で処理された。いじめが耐え切れず気が狂ったと言いだす者も出た。たしかにあの眼は正気じゃなかった。
 昔の私なら同情していただろうが、今の私は彼女に対して怒りが湧いていた。下手したら私の人生が台無しになるところだった。友人が勝手に勘違いしたからいいものの、あそこで誰も反応しなかったら私はどうなっていたことか。彼女を思いやる気持ちは微塵もなかった。

 家に帰っても怒りは治まらなかった。私は家を飛び出した。彼女に一度、きつく言ってやるつもりだった。彼女が私に直接会いに来ることは初めてだった。しかしそれが学校であったのがまずかった。二度と私のところに来ないようにと忠告しに彼女のとこへと向かった。

 やはり、彼女はいつもの崖の傍で座っていた。昔はあの醜い顔も気にならなかったが、今は視界の隅に入るだけでも不快になる。彼女に近づいて声をかけた。彼女の振り向いた顔は笑顔だった。やっと来てくれたと、今にも抱きつかんばかりの笑みだった。しかしその笑みも、醜い顔をさらに崩すだけで、とても気分が悪かった。
 彼女は私の顔に怒気が含まれているのに気づき、表情を曇らせた。私が彼女を助けに来たと勘違いされたら、面倒くさいと思っていた。なのでこちらに敵意があることを彼女が早々に気付き、その笑顔が消えたことを私は好ましく思った。
「もう、近づかないでくれないか。お前と俺が知り合いだってばれたら、友達が減る。今日は友達が勘違いしたからよかったものの、もう一度お前が来たら知り合いということが確実にばれる。お前は大人しく一人で押し花でも作っていればいいんだ。」
 彼女は呆然としていた。私がいつもと雰囲気が違うと思っていたが、ここまで言われるとは思わなかったのだろう。
「お前なんでいじめられてるか分かってるのか?お前の顔が原因なんだよ。もう学校に来るな。一人じゃ何もできないだろ、学校に来るより家にいる方がましだ。それに勉強したってお前の顔じゃどこの会社も雇わねえし、彼氏も一生できねえよ。学校に来る意味がないだろ?それにお前が学校にいると俺に迷惑がかかるんだ。学校に来ないでくれ。」
 彼女は顔を歪ませ、泣いていた。少し言い過ぎたかと思った。泣くと益々醜くなる、こんなに醜くなるなら泣かせない方がよかった。

 これだけ言えば、もう彼女は学校に来なくなるだろう。そう思い私は帰ろうとした。彼女に背を向け歩き出そうとしたその時、彼女が私の背中に抱きついてきた。
「行かないで。私を助けてよ、昔みたいに。ねえ、助けてよ。」
 何度も何度も助けてと繰り返した。私は彼女に触れられている部分に鳥肌が立った。虫唾が走る。汚物がついたみたいに不快だった。振りほどこうにも彼女は頑なにしがみ付いている。その間にも彼女は壊れたスピーカーのように助けて助けてと、繰り返していた。
 私はそんな狂った彼女に恐怖心を抱き、強く突き飛ばした。彼女はその衝撃に驚き目を見開いていた。そしてそのまま、崖の下に消えて行った。

 彼女が地面に衝突する音を聞いた。私は立ち竦んでいた。前に腕を突き出したら、彼女が崖の下に落ちて行った。私が彼女を殺してしまった。彼女は、私の視界から消える最後まで助けてと言っていた。もう何もかも手遅れだった。
 気が付くと、もう日は沈んでいた。暗くなった崖の上で我に返った私は、自分のした事の重大さに気付き、逃げるように走った。

 私は彼女を殺したことが何時ばれるか戦々恐々としていた。しかし私の心配を余所に、彼女の死はいじめを苦にした自殺として処理された。自殺として処理されたことを知り、彼女を殺したことにより、もう彼女に怯える必要はないと喜んだ。もう友達に見捨てられることはないと安心し、私は以前よりも性格が明るくなった。昔からの宿怨を、自分自身で断ち切ったと勝ち誇ったように思っていた。これで私は真のプラスの存在になれたと感じた。
 そして、彼女の遺体が警察から返ってきたので葬式をするから、参加してくださいと、彼女の父親から連絡があり、私は葬儀に参列することになった。
 これが、高校生の彼女との関係である。

 私が、彼女を殺した。

 彼女の母親が話を終え、黙り込み俯いてしまった。父親はいつの間にかいなくなっていた。沈黙が続く。この家にはまだ彼女の気配が漂っているようで、昔の自分に戻った気になってしまう。早く帰りたかった。
 母親が何も言わないので帰ろうと腰を浮かせかけたとき、急に顔を上げた。
「ああ、あの子の部屋を、見てほしいの。あなたにはぜひ、見て行ってほしいの。お願い。」
 まだ何かあるのかと、うんざりした。しかしここで我慢すれば、もう完全にこの家とは縁が切れる。もう少しの我慢だと自分に言い聞かせ、部屋を出て行こうとする母親についていった。
「あの子が死んでから、まったく手を付けてないの。掃除したら、あの子が私の心の中からいなくなってしまう気がして。」
 そう言いながら彼女の部屋の扉を開く。壁一面に押し花が貼り付けてあった。四方の壁、天井、本棚の側面、机、椅子など、床以外の隙間と言う隙間に押し花が貼り付けてあった。部屋中に押し花の饐えたような、甘ったるいような臭いが充満していた。
「あの子はあなたを愛していた。あなたが教えてくれた押し花、ずっと作っていたの。あの子の世界にはあなたがいつも中心にいた。ねえ、よかったら、またあの子に会いに来てくれない?そうしたらあの子も喜ぶわ。」
 私は、彼女が死んだ日に彼女がいきなり抱きついてきたときと、同じ不快感を抱いていた。いや、それ以上の不快感かもしれない。こんなにも押し花を作るのは狂気の沙汰だ。やはり彼女は狂っていたのだ。
「そうだ、今日泊まっていかない?この部屋で寝てくれるなら、あの子も喜ぶわ。だって、あの子が愛した人がここで寝るんだもの。」
 また母親は一人でしゃべっている。彼女が私のことを愛していただって?冗談じゃなかった。もう我慢することができなかった。
「私は彼女が嫌いでした。」
 母親は私が何を話しだしたのか、理解できないようだった。
「私は彼女が嫌いでした。彼女が私を愛していたなんて、やめてください。気持ちが悪い。私は彼女の存在が鬱陶しかった。しかし彼女は勘違いして、私に好意を向けた。いじめられているときも私が助けてくれると思っていた。バカなんですあいつは。待っていれば人が助けてくれると思っている。それが気に食わなかった。彼女は誰からも愛されていませんでした。もう金輪際この家に呼ばないでください。」
 それだけ言って、私は家を出た。私が門を出たところで、すさまじい叫び声が家の中から聞こえた。

 私は心が穢れているのだろう。彼女は心がとても綺麗だった。彼女は一途に私を待っていた。綺麗な心で、私の事を何も疑わずに。しかし彼女の綺麗で脆い心は、いじめに耐えられず崩れてしまった。私が殺さなくても何時か自殺していただろう。しかしその前に私が殺してしまった。あの醜い顔が、本当に醜く見え始めたのはいつからだったろう。

 彼女が死んでも、私には楽しい日々が待っている。夕日に照らされた真っ直ぐな道を私は歩く。部活も後輩ができたことにより、一層力を入れるようになった。地道に貯めたバイト代で、付き合っている彼女と遠くに出かけようと計画を立てている。
 私はこれから待っている明るい未来に思いを馳せ、歩いていた。視界の隅に映る、夕日に照らされた醜い顔を意識しないように。



感想  home