福を呼ぶ猫



 じりじりと照りつける夏の太陽は、どうして嫌われていることに気付いてくれないんだろう。ついそう思ってしまうほどの暑さだった。
「あー、暑いわね。もう限界よ、この暑さ」
「うん、暑いよね。でも、まだ六月だよ。これからもっと暑くなりそう」
「勘弁してほしいわ」
隣を歩く弘美は、手で汗を拭いながら、大きく溜息を吐いた。
 夏はまだまだ峠を越えてもいない。手加減なく照りつける太陽の熱と、梅雨のじめじめとした空気が相まって、サウナにいるような暑さを思い出させた。こんなにも暑いのだから、朦朧として判断力も落ちるのは仕方がない。だから、隣を歩いてる弘美の突然の質問も、最初は聞き間違いなのかと思った。
「ねぇ、由香里。アンタって好きな人いないの?」
「え、どうしたの突然」
一体どうしたというのだろう。恋愛には興味のなさそうな弘美がこんな質問をしてくるなんて。
「アンタ、好きな人いるのかなーって、何か気になってさ。ねぇ、どうなの?」
「う、うーん……。さぁね」
「なによ。教えてくれたっていいじゃない。でも、否定しないってことは、好きな人はいるってわけね。誰のことが好きなの?」
弘美になら教えても何ら問題はないはずだ。でも、突然弘美からこんな質問をされて動揺していたせいか、急に恥ずかしさが湧き起こってきた。
「……秘密」
「もうっ。意地悪なんだから。いつか教えてよね」
「……うん」
今まで、弘美が恋愛の話題を出したことはない。高校生にもなれば、恋愛にも興味が湧いてきてもいいはずだ。もちろん、私も良い年だし、そういう話には興味がある。だから、誰と誰が付き合ってるとか、誰が誰のことを好きかといった話を弘美に話したことがあった。でも、その時も弘美は興味がなさそうで、へぇ、とか、ふーん、といった適当な相槌を打つだけだった。
 もしかしたら弘美に好きな人が出来たのかもしれない。もし、本当にそうだったとすれば、それは歓迎すべきことなのだろう。でも、自分の知っている弘美がどこか遠くへ行ってしまったような気もして、少し寂しさもあった。自分にとって、弘美は唯一心が許せる親友だったからだ。だから、聞けなかった。「弘美は好きな人がいるの?」という、ただその一言が聞けなかった。
 なんとなく気まずい空気を感じながら、歩みを進める。汗がとめどなく溢れてくるのは、この暑さだけが原因でないことは明白だった。ただ、今という時間が少しでも早く過ぎ去ってほしい。そんな気持ちで歩いていると、いつの間にか、いつもの交差点に辿り着いた。
「じゃあ、また明日」
「うん。またね」
手を振りながら、いつものように同じセリフを二人して吐く。変わらない日常の一場面に、少しほっとした。

 宿題を済ませて、ベッドに倒れこみ、仰向けに転がる。ベッドで寝転がっていたソラを抱え上げる。
「今日ね、弘美が好きな人いるか聞いてきたんだ」
「にゃー」
「それでね、私、好きな人いること知られちゃった」
「にゃー」
「……弘美は、好きな人いるのかな」
「にゃ?」
ソラは少し眠そうに顔をこすり、ベッドの上で丸くなった。
「はぁ……どうなんだろう」
低くて白い天井を見上げながら、物思いに耽る。もし、弘美に好きな人が出来て、その人と付き合ったら、私はどうなるんだろう。弘美は良い子だし、明るいし、見た目も可愛い。異性との恋愛に興味を持ったら、すぐに彼氏が出来たっておかしくはないんだ。そうなったら、私はまた一人になってしまうのだろうか。
「でも、もし好きな人がいるのなら応援してあげよう。その方がいいよね、ソラ」
それが返事とばかりに、ソラは私の人指し指をペロッと優しく舐めた。

 今朝は雨だった。直接太陽が照りつけるよりかは幾分マシな暑さだったが、生ぬるいジメジメとした空気が不快感を増長させていた。汗で湿ったシャツの不快な感触を覚えながら歩を進め、いつもの交差点に行くと、既に弘美の姿があった。
「由香里、おはよう!」
「おはよう」
二人肩を並べて登校するのが、いつの間にか私たちの日課になっていた。
「雨降ってるだけ昨日よりはマシだけど、その分なんかじめじめして気持ち悪いわね」
「うん。汗でシャツ湿ってるしね」
「はぁ……。早く冬が来ないかしら」
「それ、半年も先だよ」
二人して笑う。こんな何でもない普通の毎日が楽しかった。だけど、聞かなくちゃいけないことは聞こう。
「ねぇ、弘美。昨日のことだけどさ……」
「ん? 何のこと?」
「昨日言ってた、その……好きな人の話」
「そういえば、そんな話したわね。で、誰なの?」
「えっとね、二組の石原健人君。去年同じクラスだったんだけど、覚えてる?」
弘美は一瞬驚き、戸惑ったような顔をしたが、すぐに明るい表情になった。
「あー、覚えてるわよ。へぇ、あいつかぁ……」
なるほど、とうなずく弘美。
「で、なんであいつなの?」
「去年の文化祭の時に、お化け屋敷作ったでしょ? あの時に……その、優しくしてもらったから」
「へぇ、そうなんだ。知らなかった」
弘美は少し驚いた顔をして、そう答えた。
「うん。でさ……」
勇気を振り絞る。決心したから。絶対に聞こうと思っていた言葉を口に出す。
「弘美は、好きな人いるの?」
「私はいないわよ」
「えっ?」
あれ? いないんだ。
「だって、なんかあんまり興味が湧かないし。良い年なのに、こんなんじゃだめだとは思ってるんだけどね」
苦笑いをしながら、少し照れくさそうに話す。
「そっか。弘美からそういう恋愛の話振られたの初めてだったから、好きな人でもできたのかなって思っちゃった」
「いないわよ。でも、確かにこういう話したのって初めてだったかもしれないわね」
弘美は思い出したかのように少し笑った。
「それにしても、あいつかぁ……」
遠くを見るように目を細めたその表情は、憂いを帯びてどこか寂しげに感じられた。
「まっ、私は精一杯応援するから。相談事とかあったらいつでも乗るわよ」
「ありがとう。あっ、これ弘美にしか話してないんだから、誰にも言っちゃだめだよ」
「もちろん分かってるわよ。心配しないで」
満面の笑みでそう答えてくれた。本当に弘美と友達でよかった。弘美なら信頼できる。心からそう思えた。

 いつも通りの一日を終え、弘美と帰る時間になった。私は掃除当番の弘美を待っている。掃除当番はグループごとに分けられ、毎日グループ交代で放課後に掃除をすることになっている。今日は弘美のグループが掃除当番だった。
「由香里、お待たせ。西田のやつがふざけてて掃除遅れちゃった」
「ははっ。西田君やんちゃだもんね。お疲れ様。じゃあ、帰ろう」
「うん」
そして、肩を並べて下校する。
 雨は結局一日中やむことはなく、二人傘を差して下校する。カラフルな模様の傘を差す私に比べて、弘美は少し落ち着いた色の傘を差していることに気が付いた。大人っぽいというのだろうか、弘美は清楚で落ち着いた雰囲気を感じさせる。でも、それは年相応かどうかという観点から見れば、あまりその点については気を払っていないようにも思えた。ファッションにもあまりお金をかけないと言っているし、化粧も全くしない。恋愛に興味を示さないことが原因なのだろうか。私たちが友達になってから、買い物にはほとんど一緒に行ったことがないことを思い出し、誘ってみようと思った。
「ねぇ、弘美」
「ん、何?」
「今度の日曜日、買い物一緒に行かない? 服とか一緒に見に行こうよ」
すると、弘美はすこしぎょっとした表情をした後、少し気まずそうな顔をした。
「あぁ……ごめん。週末は予定があるのよ」
「そうなんだ。じゃあ、仕方ないね」
「うん。ほんとごめんね」
弘美は手を合わせて、心底すまなさそうに謝った。
「大丈夫だよ。また今度行こうね」
「うん。ありがとう」
予定があるのなら仕方ない。それはそれで諦めがつくというものだ。でも、気を使って嘘を吐いたのだとしたら、やはりファッションにはあまり興味がないということになるのだろうか。まぁ、弘美に限ってそんな嘘は吐かないだろう。考えるだけ無粋というものだ。
 しばらく歩を進めて、いつもの交差点に到着する。そしていつもと同じセリフを吐く。
「じゃあ、また月曜日」
「うん。バイバイ」
手を振りながら、弘美とは別の方向に歩き始めて家路に就く。


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