アイシテクダサイ
 
 いつもどおりに門を抜ける。階段を上る。ドアを開けて、いつもどおりに。僕は何の新鮮味も感じないまったく新しい一日を終えようとしている。「同じなんて事はどこにもない」それはそうなのだろうが、知覚しようとせずとも理解はできる。ただ、実感はできない。こうやって新しくない新鮮な毎日の中で使い古された考え方を駆使して生きていくのか。いや、そうではない。このありきたりな思春期の少年の逡巡のようなものは自分へのごまかしに過ぎない。実のところ圧倒的に心を支配する寂寞の原因はすでに明白なのだ。「寂しい」ひとりごちた後、孝は自分が目を背けたい、と無意識に思っているものを直視しようと努力をする。口を開けたまま、見開かれている目はなにものをも捉えられてはいない。もし、この場に他者がいたなら彼を阿呆だと思うだろう。しかし、彼の頭の中は裏腹に様々なものが行き交う。
 一人が好きだと思っていた。そして、その見解はおおむね当たっているだろう。それは今でも間違いないと思える。だが、その好きな『一人』と、『一人ぼっち』はまったく別物であったことに、いまさらながら気づく。他人との摩擦は極力避けてきた。ある程度の距離感を持って、離れれば近づき、近づいてきたものからは離れ、一定の距離感を計っていたつもりになっていた。気がつけば、知り合いしかいない自分がいた。友ではなく、知り合い。知っているし、言葉も交わす。だが、友達ではないことは紛れもない事実。
 寂しさ、というものを漠然と感じていたのはもっとずっと昔のことかもしれない。ただ、圧倒的な重量感を持って心にのしかかり始めたのは、二十を過ぎてからだった。特に何か才能があったわけではない。その一方で、誰かに指を指されるような絶望的な問題点を抱えていたわけでもない。体は大丈夫とはいわないまでも、それなりに健康ではあった。それなのに、「何かが足りない」そうつぶやいた時。急に眩暈がした。

 「レミングを知っているかい」孝は声がするほうを向こうとする。が、方向がわからない。そもそも、自分のいる場所がまったくわからない。いや、これは存在しているのだろうか。視覚、聴覚、嗅覚、その他、確認はできないまでもおそらく五感の全てが失われている感覚。では何を感じているのか。一瞬小宇宙が頭をよぎるがもう一度冷静な思考を心がける。「レミングはね、集団で自殺するネズミだよ。群れの数が一定以上増えると突然集団で移動を開始する。その先に川があろうが海があろうが関係なくね」とりあえず自分の存在はよしとしよう。コギト・エルゴ・スム的なものだ。よく知りもしない哲学者を思い浮かべる。そこは問題ないのだが、相手がいる。これはどうやって知覚しているのだろうか。それはもはや感覚でしかない。しかしなぜか、相手が存在しているということを絶対的に、感覚は理解していた。とりあえずそこまで考え、(テレパシーのようなものだろうか)聴覚以外の器官で感じ取っている相手の声にこたえる。「テレビか何かで見たことがあるけれどそれがどうしたのだい」言ってから驚かされる。相手に対して違和感がない。孝は、自然に返事をしていた。そんなことは気にも留めず(気に留めていないかどうかは厳密にはわからないはずだが、なぜか孝は確信していた)相手はレミングについて語る。「何故そんなことをするのか、自分たちで増えすぎた全体の数を調節するといわれている」「それはニュースか何かで聞いた気がするけれど、だからそれがどうしたというのだい」相手は答えない。「魚には性別を変えるものがいるのを知っているかい」なんだというのだろうか。孝は、今度は黙って聞いた。「群れの中で数を合わせるのだよ」そんな話も聞いたことがあるようなないような。しかしそんなことではない。気がかりなのは相手の真意である。いったい何をしようというのだろうか。「蟻や蜂を知っているよね、彼らはそれぞれに職種が分かれていて、一つの集団が生きるために、それぞれ個が自分たちの使命を全うする」

 電車に揺られている。今のはなんだったのか。だが、嫌に冷静である。今この電車に揺られている理由も、これからすべきことも、全て知っている。日常の生活だ。ただ、謎の経験が挟まっていることをのぞいて。「コギト・エルゴ・スム、はデカルトだったか」なぜデカルトを思い浮かべようとして日本人である新渡戸稲造の顔を思い浮かべていたのかは自分でもわからない。それだけ冷静さを欠いていたのかも知れない。だが、「妙に鮮明だな」女子高生の短いスカートも今日は視界には入らない。
 家に帰り着く。また、孤独について考える。愛について考える。家族や友達、彼女について考える。自分について考える。どんなものでもいい。生きとし生けるもの全てに対するそれでもいい。ただ「愛が欲しい」また眩暈がする。小宇宙の予感。

 「バベルの塔を知っているかい」あの声だ。孝は返事をしない。相手の対応はもうわかっている。「バベルの塔を完成させようとしたため神の怒りを買い、人々は違う言葉で話すという罰を受けた。それは混乱を生んだのだ」言葉が違うことで、人々は分かり合えなくなったのだ。これもどこかで聞いた話だ。「君はどう思う」孝は驚いた。初めて自分に対して言葉が投げかけられたのだ。知っているかい。と問いかけているようにみせて相手は今まで、孝の答えなど求めていなかった。しかし、今回は確実に孝という個人に向けて意見を求めている。「僕は」久々に口(厳密には口ではないのだろうが)を開いたのでどもってしまう。しばらくの沈黙。それでも相手は聞く姿勢(五感では知覚できないのだが)を崩さない。孝はゆっくりと呼吸を整えて話す。「僕は、人は混乱すべきではなかったと思う。元々同じ言葉で話し、分かり合っていたのだから。言葉が変わってしまっても、相手は変わらない。心は変わらない。だから、分かり合えるように努力すべきだったのだ。そこで必要とされたのは混乱ではなく感じあうことだったのだと思う」われながら恥ずかしいことを恥ずかしげもなくよく言えたなと感心した。どちらかといえば普段斜に構えているほうである。そんな内なる驚きを相手は知ってかしら知らずか、表情のわかりにくい「そうか」という言葉で返した。

 徒歩十分程度、それが駅から家までの距離。いつもの帰り道。なるほど、謎がまた挟まっている。時系列、空間、それらがどうなっているのかわからない。ただ、今このときとは異なるどこかに自分はいた。間違いなく。そして「ここに帰ってきた」今をかみ締めている自分がいる。これは、幸せかもしれない。
 部屋でまた考える。他人に気を使うこと。気を使う必要はないし、相手のためを思って行動しても相手にそれが伝わらないときがある。ひどい時は逆に敵意を持っていると勘違いされるときさえある。しかし、それは自分が悪いのである。真実とは何か。自分が相手のことを考えている。それは一つの真実かもしれない。しかし、その思いが相手に伝わっていない。むしろ相手に苦痛を与えてしまっている。それも、紛れもない事実である。勘違い、とは何か。どちらが勘違いか。事実が現実である。真実は現実で厳然たる事実である。それは言葉というシンボルでしかない。理屈ではないのだ。伝えられるか。伝えられないか。ただ、それだけが重要なのだ。そう思う。「僕は、寂しい。僕は、癒されたい。僕は、一人ぼっちだ。僕を、愛してください」

 「深層心理はみな底の底ではつながっているという考え方を知っているかい」例の声。聞こえない耳を澄まし、発せられていない声を聞き取る。「人間というものが、種として保有する知識。共有する感覚。感情」これまで存在すら明確ではない相手の言葉に安心すら感じていた。しかし、ここに来て急に背筋が凍る感覚。相手の質は何も変わっていない。ただ、自分の気づきが、自分自身の感覚が、全力で恐れをなしている。だが、語りは止まらない。「みんな生き物は種としての生を持っている。全体でバランスをとる。それぞれが個の生を持ちながら、種としての生を重視する、これは当たり前のことなのだ」孝はこれ以上相手の言葉を聴きたくなかった。それでも、遮る事はかなわない。今まさに、五感は失われているのだということを痛感する。「人間は孤独を感じる生き物だ。種としての生を忘れかけている。だけどね。簡単なことなのだ。種としての生は失われない。何があろうと。忘れているだけなのだ。種として持っているもの。取り戻すのだ。みんな一つになるのだ。加害者も被害者もない。話し手、聞き手もない。共有。共通。共存。共生。同体。さあ、思い出してごらん。僕の記憶を。君のご先祖の記憶を。君の彼女の記憶を。今の君になら、できるはずさ。さぁ、思い出してごらん。君の記憶を」孝はあらん限りの力を、気力を振り絞った。「いやだ。そんなことは認めない。種としての生というのはわからなくはない。だけど、同じになることは種としての生を持つことではない。個としての生を殺すことだ。僕は、そんなのはいやだ」相手は笑いながら答える。「君は孤独なのだろう。愛されたいのだろう。そう、願ったじゃないか。だからここにいるのだろう。孤独はどこから生まれると思う。理解ができないというところだよ。相手の考えていること、思っていることが分からないからだよ。想像はできる。でも分かることはできない。他者だから。人間としての生を忘れているから」「違う」孝はただ否定したかった。もはや普段頭の中でこねくり回している理屈などというものはどうでもよくなっていた。この相手を、理不尽でも拒絶しなければ、自分は消えてなくなる気がした。だが、今までよりももっと近くでその声は聞こえた。物理的な距離など存在しないはずなのに。確かに、今までより近くでその声は響いた。「違わないよ。いいことを教えてあげよう。君は自分が少し代わった人間だと認識している。君が感じる孤独もそれに起因していると理解している。だけどね。みんな同じなのだよ。愛し合っている夫婦。仲の良いカップル。長年の親友。絆の深い家族。本当に分かり合っていると思うかい。みんな振りをしているのだよ。全力でね。そしてかなり深層のレベルで思い込みを真実に置き換えている。だから本人たちも普段は疑わない。だけどみんな感じるときがある。絶対的な孤独を。愛されていないという絶望感を。君は自ら悲劇的に演じようとしているだけに過ぎない。今の人間に共通していえることは絶対にお互いを分かり合うことができない。ただそれだけだよ。それをどう受け取るかはそれぞれだけどね。個の生しか全うしてないのだから分かり合えるはずはないのだよ」

 公園のベンチ。いつもの昼時。「もどって来たのか」だがすぐに明らかな異変に気づく。何かが流れ込んで来るような感覚。目の前のOLはレイプされたことがある。それが分かる。しかも犯されているときの感覚。嫌悪感。罪悪感。絶望感。土の臭い。覆いかぶさる男の息づかい。他者からの情報としてではなく。自分の感覚としての記憶。過去の彼女を犯している男のも知っている。かつて母親に愛されていた時の記憶。その母の感情すら。それも自分の記憶として。抱き合っているカップルのお互いの満足感と、不安も。裏切り。疑い。信頼。絶望。感動。それらの感情。周りにいる人間の現在、過去。全ての感情。経験が、自分の感覚、感情、記憶として流れ込んでくる。いや、流れ込んでくるのではない。元々「持っているもの、なのか」吐き気がしてきた。とても、耐えられない。

 「何故人は愛を求めるか。それは他者が確実でないから。自分ですら確実でないから。では何を求めるか。肉体の結合。心の結合。そう、合体。一つになる欲求。性的なものであろうが、プラトニックラブであろうが、愛そのものが目指すのは他者との融合。一体感。ではなぜ様々な面で人間は一つになりたがるのか。君にはもう分かっているだろう」孝はまだ激しくむかついている胸をなでおろしながらもその答えをつぶやく。「種としての生、人間として一つであった頃に戻りたいという、心理」うれしそうな声がする。「そのとおり、君はやっとたどり着いたようだね。人間の根源に。見込んだだけはあったよ。いや、本当にすばらしい。もうじき皆も気づくだろう。そうして僕らは一つになる。種としての人間に戻るのだよ。本来の姿に。加害者も被害者もない世界。正しい世界。満ち足りた世界に。さぁ、僕を愛しておくれ。私を愛してくれ。君を愛そう。本当の意味で。唯一絶対の真理の愛で。さぁ、僕を

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